初稿置き場

#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 33


 昼間は落ち着いている気持ちも、夜になればざわめきだす。
 耳元で聞こえる母の声は、一層大きく。
 ただ無為に時間が流れるままになっている罪悪感もまた、セレンを苛む。
 眠れない。明け方近くに気絶するようにほんの少し眠る生活が続いている。
 その日も同じように、ただ目を瞑って、夜の闇に耐えていた。
 カタン、と小さな物音がした。静かな闇の中では、その音がやけに大きく聞こえる。
 空気の動く気配がして、窓が開いたのだと分かった。
 それでも、セレンは目を開けようとせず、ただじっとしていた。
 ギシッとベッドの軋む音がして、誰かが体重をかけたのが分かった。
 微かに息遣いが聞こえる。すぐそばに体温も。
 そして、首元に冷たい金属が触れた。
「――抵抗しないんですか」
 こちらが起きていることを、疑いもしない問いだった。
 セレンはゆっくりと目を明けて、そこに想像通りの人物がいるのを確認する。
「アレイスト……」
 真夜中に、闇の中に沈むように佇む男を見上げた。
 非常識な訪問だと責める気にも、勘違いされると窘める気にもならなかった。
 こんな夜が来ることを、どこかで知っていたような気さえした。
 首筋に当てられた刃にも、恐怖を感じない。
 だって、これはセレンが望んでいたことだったから。
「『抵抗』? なぜ、しなければならないの? やっと、解放されるのに」
 アレイストの瞳が揺れた気がした。
 押し当てられた刃が、更に強く押し当てられて、薄く皮が裂ける。チリッと痛みが走るとともに、微かな血の匂いがした。
「――ッ、貴女は!」
 アレイストは奥歯をギリッと噛み締めた。
「貴女は、いつだって私のほしかったものを持っているのに! 何故、いつも……、いつも! 私から奪うんだっ!!」
 思いがけない言葉に、セレンは目を瞬かせた。
「欲しかったものを持っているのは、あなただわ、アレイスト……」
「そんなことない! 父の関心も、心から貴女を案じてくれる人も、自由も! 貴女は持っていたじゃないか……」
 そんな風に見えていたのか、とセレンは驚きながら聞いていた。でも、そんなもの、本当にわたしにあっただろうかと空虚に響く。
「父は……、愛する女の影を追っていただけ。心から案じてくれる人なんていない。母が毎夜『王になれ』と囁く日々に、『自由』なんてあるはずないじゃないの。わたしは……、父から期待されるあなたが、ずっと羨ましかった。それに、あなたは母親から一身に愛されてるのに」
 視界があっという間に滲んで、目尻から涙が零れていった。
 わたしは、愛されたかった。
 優しく抱きしめてほしかった。
 それだけだったのに。
 声もなくぽろぽろと涙を零していると、アレイストは視線を逸らして唇を噛んだ。
 そして、首元に添えていた刃をスッと離した。
「アレイスト……」
「……私は、貴女を苦しめたくて来たんです。でも、貴女は死にたいらしい。なら、この行為に意味はない」
 そう言って、セレンの元から離れていこうとした。
 はじめ、セレンはアレイストの言葉の意味が分からなかった。
 だが、その声で、横顔で、彼が敵意を失ったと悟る。
 それに気付いたセレンは、跳ね起きてその腕を掴んだ。
「……嫌」
 驚いたように、アレイストが振り返る。
「嫌、いやよ! わたしはもう、こんな世界で生きていられない」
 掴んだ服をぎゅうときつく握りしめる。目からは大粒の涙が頬を滑り落ちて、シーツをぼたぼたと濡らしていた。
「わたしは、あなたが、終わらせてくれると思えたから耐えられた! そうでなければ……、もう、むり、なの。いかないで……。おねがい。わたしを、殺して! 殺してよぉ……!!」
 セレンは耐えきれずに声を上げて泣いた。
 もう抗うのが辛かった。
 毎日毎秒、出来損ないと罵る母の声に耐えるのも。この屋敷に流れるあまりに優しい日々に、それを享受して幼少期を過ごしたであろうアレイストに、羨望で胸を掻き毟りたくなるのも。結局、ひとりぼっちなのだと痛感する夜を越えるのも。
 もう、耐えられないのだ。
 わんわん泣きじゃくるセレンに、アレイストはしばらく何も言わなかった。
 だが、セレンの泣く声が少し落ち着いた時、ぽつと消えてしまいそうな声で言った。
「……なら、」
 アレイストの手が、涙で濡れたセレンの頬をすべった。顔を上げさせられて、視線が交錯する。
「一緒に、死にましょうか」
「え……」
 どこか慈愛さえ感じる微笑みを、アレイストが向けていた。
 こんなに間近で彼の顔を見たのは、はじめてかもしれない。そんなことをぼんやり思った。
 その近かった距離が更に近付いていく。
 吐息を唇に感じた。
 そして、あとほんの少しで触れてしまいそうなほど近付いた時――、
「――セレン!!」
 突然響いたロウェルの声で、ハッと我に返った。
 腕を半ば強引に引かれ、アレイストと距離を取らされる。
 背後からセレンを抱きしめるロウェルは、厳しい眼差しでアレイストを見ていた。
 だが、彼らの間に言葉が交わされることはない。ただ黙って、お互いを見ていた。
 その均衡を破ったのは、アレイストの名を呼ぶ細い女の声だ。
「アレイスト」
 廊下から姿を表したリーティエは、酷く悲しげな表情で息子を見ている。
 冷たささえ感じたアレイストの表情が歪んだ。
「おいで、アレイスト」
 その一言で、金縛りが解けたように、アレイストはふらと歩き出した。杖がないためか覚束ない足取りをリーティエが支える。それから彼女は、セレンに申し訳なさげに微笑むと、息子と二人でその場を後にした。
 母に支えられ慈しまれるその姿が――、羨ましくて、仕方がなかった。
 その姿が見えなくなった後、ロウェルがハッとしたようにセレンの顔を覗き込む。
「セレン……、大丈夫――なわけないよな。少し座ろう」
 ベッドの縁に並んで腰掛けて、背中を優しく撫でられる。
「いつから聞いてたの」
 ロウェルは答えなかったが、その表情から察するに粗方聞こえていたのだろうと思う。
 セレンはされるがままになったまま、ぽつりと言った。
「あなたの望み通りになったのね」
 ロウェルの手がぴたりと止まる。
「俺の、望み?」
「アレイストに『姉殺し』をさせないこと。……違う?」
 単なる勘ではあるが、もうアレイストがセレンを殺しに来ることはきっとないだろう。
 それはセレンの地獄がまだ続くことを意味している。
「あなたは、アレイストが『姉を殺す』ことを阻止しようとして、わたしを助けたのでしょう? 思い出したの。あなたの『贖罪』すべき相手は、きっとアレイストなんじゃない?」
 彼と出会って間もない頃、月夜の晩に酒で忘れたいことを「贖罪と過去の罪」だと、この男は言った。そして、山小屋でもアレイストのことを「友人『だった』」と言っていた。
 予想に過ぎないが、ロウェルから何の反応もないことが、肯定にも等しく思えた。
 セレンは諦念と共に目を閉じる。
 わたしは、いつも何かの代替品。
 母にとっては、自身の正当性を顕示するための駒。
 父にとっては、愛した女の面影を追う道具。
 ロウェルにとっては――、
 その答えが出る前に、ロウェルの両手がセレンの頬を包んだ。驚いて目を開くと、額にキスが落ちる。
「……そういう側面がなかった、とは言わない。でも」
 ロウェルはセレンの額に、こつんと自分のそれをぶつけて続けた。
「でも、今はそれだけじゃないよ、セレン。君のことがとても大事なんだ。……生きてて、ほしいよ」
「……そんなの」
 つい口をついて出た反論の言葉に、ロウェルは頷く。
「わかってる。こんな言葉だけじゃ、信じてもらえないことなんて。でも、本心なんだ。だから……、それを確かめるまで傍で見ててくれ」
「……もし、嘘だったら?」
「君が『信じられない』と判断したなら――、俺が君を殺す」
 その言葉に、セレンはハッと息を飲んだ。
「俺のために地獄に留まってもらうんだ。責任は果たすさ。だから、俺以外の誰にも殺されないでくれ。君自分にも、……アレイストにも」
「――っ、ふふ」
 セレンは真剣な誓いに笑ってしまった。
 こんな馬鹿げたことを言ってくれるのは、きっと世界でもこの男だけだろう。
 これで、自殺を試みることすらできなくなってしまった。どうしてくれるのか。
 セレンはくすくすと笑いながら、その目からまた涙が零れていることに気付く。
「――その言葉、忘れないで」
 その誓いが履行されている限り、ロウェルは決して傍を離れない。
 ならば、もう少しだけ生きてみるのもいいかもしれない。
「ねぇ、ロウェル」
 彼に対するこの気持ちは、一体何と形容すればいいのだろう。
 好きも、愛してるも、違う気がした。
 ただ、セレンの中でこの男は唯一替えの効かない「特別」になってしまったことだけは間違いない。
 そんな男に裏切られたとすれば、自分はどれほどの絶望を感じるだろう。
 それでも、この命が尽きるその時まで、きっと彼は傍にいる。
「やっぱり……、なんでもないわ」
 なら、それは幸福なことなのかもしれない。
 そんなことを思った。

2025/08/22 00:00:22

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