『嘘吐きな君と愛の口付けを』(仮題)初稿
01
――これから、誠心誠意お仕えさせていただきます、旦那様。
そう言って、はにかむように彼が笑った時から、いつかこんな夜が来ることは分かっていた。
「んぁ……っ!」
細い肢体を組み敷いたエルシスは、少年期を脱したばかりの華奢な青年の腕を掴み、半ば無理やり、己の欲望を彼の中に捻じ込んだ。
「やっ、まって……そんな――、ああんっ!!」
嬌声を上げる口を掴み、背後にいる自分の方を向かせる。
彼は、目に涙をいっぱいに浮かべて、焦点の定まらないままこちらを見た。
「初心な振りが随分と上手いな」
「振りじゃ……、ひあっ!」
首筋を舐めれば、一際高い声を上げて中が締まる。
「嘘をつくな。こういったことも仕込まれているんじゃないのか?」
「っぅ……」
顎を掴んでいた手を離せば、彼はベッドシーツに顔を擦り付けて、肩を震わせる。拳も握り締められて、快感に耐えているというよりも、本当に嫌なのを我慢しているように見えるのが不思議だった。
だが、それはあり得ない……はずだ。
エルシスは青年の中を穿ちながら、チラリと床に転がったままのナイフに視線を飛ばす。
「……ごしゅじんさま」
嬌声の合間に聞こえた涙混じりの呟きに、エルシスはハッとする。
一体、誰のことを呼んでいるのだか。
スッと目を細めたエルシスは、出来た補佐官であったはずの――このどこか詰めの甘いこの暗殺者に、苛立ち交じりの肉欲をぶつけたのだった。
02
夏風邪を拗らせた父が、領主の仕事を大幅に押し付けてきた。
エルシスが「彼」と出逢った契機は、そんなある日の出来事だ。
大国ユーグレイス。その公爵家嫡男として生を受けたエルシスは、美姫と名高い母の容姿を色濃く受け継いで、白銀の長い髪に紫がかった青の瞳を持つ美貌の貴公子に育った。
冷静沈着、頭脳明晰、武具の扱いや体術にも優れ、王太子とも親交深く側近候補にも名を連ねている。
まさに死角のない完璧な男――。そんな風に周囲からは思われている。
事実、エルシスに出来ないことは殆どない。
とはいえ、父から託されたローエンシア公爵家の広大な領地を、一人でどうにかできると思えるほど思い上がっているわけでもなかった。
自身の手となり足となる補佐官がほしい。
そうして伝手を辿り見つけ出したのが彼――ミアトだった。
「はじめまして、ミアトと申します」
そう言って照れたようにはにかんだのが、彼との初対面のこと。
東方の血を引くとかで、黒髪黒目というこの国では些か珍しい色を持つミアトは、小作りで整った若々しい容姿のせいか、随分と年少に見えた。実際は今年二十五歳となるエルシスより四つばかり年下なだけだったのだが、本当に大丈夫なのかと不安を感じたのは間違いない。
だが――。
「これから、誠心誠意お仕えさせていただきます、旦那様」
そんな風に「誠実」を絵に描いたように頭を下げるのを見て、興味を惹かれたエルシスは、ひとまず彼を雇ってみることにしたのだった。
03
そして、実際のところ――。
「ミアト」
「はい。こちら、昨年の税収帳簿になります」
「ああ……。それと」
「治水工事の計画案ですが、僕の方で少々修正させていただきました」
ミアトは差し出してきた書類を並べ、修正したというところを説明する。
「では――」
「水害の見舞金に関しては、こちらから捻出すればよろしいかと」
「……わかった。ではそのように」
「はい!」
ニコニコと笑って頭を下げた彼は、今交わした話を差配すべく、部屋を出ていった。
エルシスはその背中を見つめ、感嘆の溜息をつく。
実際、ミアトは文句の付けようもないほど優秀だった。
はじめの一週間ほどこそ、エルシスについてくるので精一杯な様子に見えた。しかし日を追うごとに、彼はローエンシア家での振る舞いを覚え、知識を吸収し、凄まじい速さで仕事を覚えてしまった。
正直、エルシスの負担は激減した、と言っていい。
ミアトは期待した以上の働きをしてくれている。彼のお陰で円滑な領地運営をできている。その結果として、父も国王の側近としての職務に集中でき、国を二分する対抗派閥の公爵家との折衝も滞りなく進んでいた。
全てが順調で上手くいっていた。少し、出来過ぎなほど。
エルシスは、ふと笑みを漏らす。
「だが、そろそろだろうな……」
その時、丁度執務室へと戻ってきたミアトに視線を向けると、彼は不思議そうに首を傾げた。
エルシスはなんでも、と首を振って仕事に戻った。
04
更に一ヶ月が過ぎた頃には、ミアトはエルシスの従僕のような仕事もこなすようになっていた。
仕事中の軽食や茶の用意、果ては朝の着替えにも彼は顔を出す。
流石に一人へ負担が偏りすぎてはいないか、と訊ねてみたこともあるエルシスだが、ミアトからは「好きでやってるので」との返答があり、結局は彼の思う通りにさせていた。
「おはようございます」
そう言って現れたミアトはカーテンを開ける。眩しい朝日に目を細め、それが照らす彼の影を目で辿った。
そんな風に暫しぼんやりと視線を向けるエルシスに、ミアトは笑みを返して、またぱたぱたと動き回る。
光に照らされた彼の姿が消えて、ふっと現実に引き戻されるような。不思議な感覚を覚えながら、差し出された水盆で顔を洗ってからベッドを降りた。鏡の前に移動すると、ミアトがエルシスの髪を梳いて整える。丁寧に丁寧に櫛を通す、少し顔を伏せた彼の顔を鏡越しに見つめた。
お互いに言葉はない。
それでも、どこか奇妙にすら感じるほど、互いの動きが手に取るように分かる。沈黙も心地良く、開けられた窓から入ってくる風の音だけが聞こえていた。
だが今日は、ふと彼の手がほんの少し震えているのに気付いて、じっとその様子を窺う。
「……、」
声をかけようか迷い、エルシスは結局何も言わないまま口を噤んだ。
身繕いが終わったのを察して立ち上がると、いつものようにミアトの手が夜着を脱がせていく。
紐をほどく衣擦れの音。肩から衣服が落とされ、その時触れた手の平が、普段より熱いことに目を眇めるが、ミアトはそんなエルシスに気付いていないのか、坦々と作業を進めていた。
新しいシャツを着せ、首元に結ぶクラバットを手に取る。
それをかけられたところで、エルシスは溜息と共に彼の名を呼んだ。
「ミアト」
「はい……、なんですか?」
普段よりも緩慢な動きでミアトが顔を上げる。うっすらと赤らんだ頬。目も少々潤んでいるようだ。
「今日は休め。体調が悪いように見える」
「え、ですが……」
逡巡するようにタイの端を掴んで離さないミアトの手を握る。
「一日くらいお前が抜けたところで、何も問題はない」
「あ……」
ミアトの手から力が抜けて、彼が悲しげに俯く。
「……はい、もちろん。旦那様がいらっしゃれば、それで十分ですよね」
顔を上げて寂しさを堪えるように笑ったミアトに、エルシスは眉根を寄せる。
「勘違いをするな、ミアト」
「はい……?」
「私はお前がいなければ困る。ならばこそ、早く休養を取り、早く復帰してくれ」
お前が必要だ、と言葉にして告げると、ハッとしたようにミアトは目を丸くして、今度は嬉しそうに顔を輝かせた。
「はい、旦那様」
これだけは、と譲らないミアトにクラバットを結ばせてから、彼が「失礼します」と丁寧に頭を下げて去っていくのを見送る。エルシスは最後に残された上着を手に取った。
その首元に針子が忘れでもしたのか針が刺さっていることに気付いて、それを引き抜く。
エルシスはそれをまじまじと眺めたあと、小さく嘆息すると、それをハンカチで包んでから、ゴミ箱へと捨てた。
05
「あの、旦那様。先日はお休みを頂きありがとうございました」
休養を命じた翌日には、すっかり元気になったらしいミアトは、早々に仕事へ復帰した。
その日からも数日が経ち、あらたまって告げられた礼に、エルシスはしばし瞠目してから、一つ頷きを返す。
「構わない。ただ、今後同じことがあれば、自己申告するように」
「はい」
嬉しそうに笑ったミアトは、それでと話を続ける。
「そのお礼……、と言うわけではないのですが。今日は少し珍しいお茶を入手しまして」
休憩用の茶菓子を持ってきていたミアトは、エルシスにローテーブルの方へ移動するよう促す。
もうそんな時間だったか、と思いながらそれに従ってソファに腰を下ろす。
ミアトが茶器を並べるのを見つめ、カップに注がれる薄緑色の液体にほうと息をついた。
「あまり見ない色だな」
「はい。母の……故郷の茶だそうで。こちらでは殆ど流通していません。僕も昔に数えるほどしか飲んだことがなかったのですが――、その、旦那様にも味わっていただきたくて」
「そうか」
眼前に差し出されたカップを持ち上げ、香りを嗅ぐ。
若草を思わせるような慣れない香りではあるが、嫌悪は感じなかった。
「少し、苦いかもしれませんが……」
ミアトのそんな言葉を聞きながら、エルシスは一口その茶を啜った。舌先に覚えた感触に暫し瞑目してから、ゆっくりと目を開く。
「たしかに、少し独特の風味ではあるな。だが、悪くはない」
そうしてもう一口飲んでみせると、ミアトは息を飲んだ。
「お……お口にあったようなら、良かったです」
彼は落ち着かなげに自身の髪をいじると、少々わざとらしいほど唐突に、「あ」と声を上げた。
「その、すみません! 図書室に忘れ物をしてしまったようで……。取りに、行ってきますね!」
ぱたぱたと慌ただしく去っていく後ろ姿を見つめ、エルシスは肩を竦める。
この程度で動揺するとは可愛らしいところもあるな、と頭の隅で思いながら、エルシスは茶をテーブルに戻し、何食わぬ顔で仕事に戻る。
――そんな風に日々が過ぎ、ミアトとの出会いから半年。
それはある夜のことだった。
深夜になり、エルシスはテーブルランプの明かりを頼りに読んでいた本を閉じる。その時、背後から小さな叩扉の音がして顔を上げた。
「誰だ」
「……あの、旦那様。僕です……、ミアト、です」
弱々しい声が扉越しに聞こえて、エルシスは眉を上げた。
朝の支度は担当している彼だが、夜――それもこんな深夜になって訪ねてくるのは初めてのことだったからだ。
「……なんだ。入ってこい」
「は、はい……」
おそるおそる、といった様子で入室してきたのは、薄い夜着一枚のミアトだ。
「その、起こしてしまいましたか……?」
「いや。今眠ろうとしていたところだ」
「そうでしたか……。こんな夜分遅くに、申し訳ありません……」
胸の前で手を握り合わせてもじもじとする彼は、恥じらう乙女のような風情だ。
膝下丈の貫頭衣はその下から覗く、細い脚の白さを際立たせて見える。
エルシスは本題を述べようとしないミアトに、目を眇めた。
「何かあったか。夜に訪ねてくるなど珍しい。それも、そんな薄着で」
「……ご迷惑、でしたか?」
上目遣いでこちらを窺うミアトは、目を潤ませて問いかけてくる。
「用件による。何をしに来た?」
ミアトの肩が震える。
エルシスは嘆息して立ち上がると、椅子の背にかけていた上掛けを手に取って、彼の方へ向かった。
「それほど言いづらい用か」
上掛けをその肩にかけてやると、ミアトが顔を上げた。
上気した頬に、潤んだ瞳――。
エルシスは、ミアトの表情に目を細めた。
「……身の程知らずなのは、分かっているんです。でも……」
ミアトは耐えかねたように、エルシスの身体に身を寄せる。その反動で、上掛けがふわりと床に広がった。
「旦那様……。お慕い、申し上げております」
ミアトの指が、服越しにエルシスの胸を辿る。
「どうか、僕を一夜だけでも……、愛してはくださいませんか……?」
エルシスは、微かに震えるミアトの肩をやわく掴み、小さく溜息をつく。
「一夜だけ? 明日以降はどうするつもりだ?」
「……それは、……一晩の思い出を胸に、これからも誠心誠意お仕えいたします」
彼の回答に、エルシスはふっと吹き出してしまった。
ミアトが不安げに顔を上げる。
「だ、旦那様……。その、やはり男の僕なんて――」
「いや。お前にも存外可愛らしい所があると思っただけだ」
エルシスは、そう言うが早いか、ミアトを抱き上げて、ベッドの上に落とした。
「あっ……」
困惑した様子のミアトの腕を掴み、彼が一歩後退しようとするのを留める。
「『私に愛されたい』のだろう。どこへ行く?」
「それは、その……」
緊張しているのか、身体をガチガチにするミアトを腕の中に閉じ込め、エルシスはその耳元に囁いた。
「それとも――、その太腿に隠したナイフで一突きすれば、私は用済みか?」
「っ!?」
ミアトがピタリと動きを止めた。
「な、なんの……」
「とぼけなくていい」
エルシスはミアトの身体を抱き締め――いや、拘束したまま、片手を彼の太腿に滑り込ませる。
「あっ!」
パチンと留め金の外れる軽い音と共に、ナイフとそれを腿に結わえていたベルトがエルシスの手の中に落ちる。
エルシスはそれを一瞥して、床に放り投げた。
そして、青い顔で固まるミアトを見下ろす。
「さて。どうする?」
エルシスの問いに、ミアトが引き攣った笑顔で顔を上げた。
「ち、違うんです、旦那様……。あれは、そんなつもりではなく……」
「ほう?」
狼狽しながらも、どうにか言い訳を考えているらしいミアトの姿に、少々興が乗ってきたエルシスは、彼の顎をやわく掴んで、親指で頬をなぞる。
「では、このまま抱かれていいんだな」
「え……?」
目を見開いて固まるミアトをそのまま押し倒し、太腿を割る。
エルシスは彼が夜着の下に何も身に着けていないことに気付いて、肩を竦めた。
「なるほど? ナイフの件は私の勘違いだったのかもしれないな」
心にもないことを嘯きながら、ミアトの陰茎を指で辿る。
「あっ、だ、旦那様……!?」
「どうした。これを望んで来たんだろう? それとも、やはりあのナイフを私に使うつもりだったか?」
「そ、れは……、っ!」
後孔の縁を辿ると、ミアトの身体が跳ねる。
明らかに、後ろが初めての反応ではなかった。
「ん、まって……っ」
穴の周囲と浅い所をいじる。その腕を止めようとしてか、ミアトが手を伸ばしてくるが、その指先は震えていて碌に力が入っていない。
「感じやすいな。ここは好きか?」
「そんなんじゃ……、――ああっ!」
ぐぷりと指を埋めると、中が絡みつくように収縮した。
ちゅぷちゅぷと指を抜き差ししながら、エルシスは身体を震わせるミアトの様子を窺う。
やだ、まって、と頻りに口にしている割には、身体はあっという間に弛緩して、足もこちらに見せつけるかのように開いていく。
言葉尻を捉えれば、あまりにも初心な反応に思えるが、身体の反応はそれとは裏腹に、あっという間にぐずぐずになっている。
正直なところ、ここまでするつもりはなかったのだが――。
しかしエルシスは、衝動を抑えきれずにミアトの夜着をたくし上げて、胸の尖りに舌を這わせていた。
「や、あぁんっ……」
胸を吸う度、歯を立てる度に、ミアトの陰茎からは蜜が零れている。それは尻の間まで垂れてきていて、中に抜き差しする指の動きを一層なめらかにしていた。
「だ、め……、やめてください、旦那様……!」
喘ぎ交じりの制止に、エルシスは指の動きを止めた。
「ぁ……」
ほっとしたように吐息を漏らすミアトの中に指を埋めたまま、彼の耳元に口を寄せる。
「そんなに止めてほしいか?」
「っ、だって、こんな……。んっ……」
赤い顔で視線を逸らすミアトは、己がより男の欲を昂らせていると気付いているのだろうか。
エルシスはゆるりと指の動きを再開しながら、続ける。
「なら、お前の雇い主を言ってみろ」
「!?」
ミアトの身体が、一瞬で硬くなった。
身体の反応は素直だな、と呆れ混じりに思いながら、ミアトの中にある膨らんだ場所を指で擦った。
「雇い主なんて、いな――ひ、あっ!?」
「……あくまで白を切るなら、このまま抱くぞ」
そう言いながら、中を弄っていた指を抜き、彼の痴態で昂る己の分身を取り出すと、ミアトが引き攣ったように息を飲んだ。
「そ、んなの、入らな……っ」
「嘘をつくな」
エルシスは、どうにか逃れようとしてか、身動ぎするミアトを片手で押さえ込んだまま、ベッドサイドにある引き出しから潤滑剤を取り出して、ミアトの下肢に振りかける。
「つめたっ……」
「すぐに馴染む」
ミアトの肌をすべる潤滑油を指で掬い取り、後孔に塗り込める。
「あっ、んんぅ……」
抵抗が緩んできたところで、彼の身体を反転させ、腰を掴む。そして、屹立の先端をぴとりと添える。
「っや、やだ……」
「ならば、雇い主の名を言うか?」
「っ――」
ミアトは唇を噛み、シーツに顔を伏せた。
エルシスは、「いない」とはもう言わないんだな、と思いながら、ミアトの背筋を指でなぞる。
「あっ……」
軽いその刺激で、強張りが緩んだ隙をついて、添えていたものを埋めてゆく。
そこから先はなし崩しで、彼の中に欲望を吐き出すまで、情交は続いた。
06
「っ、う……ひっく……」
中で熱い飛沫を受け止めると、力を失った陰茎がずるりと抜け出ていく。
ミアトは別の男に抱かれてしまった悲しさと、良いようにされた悔しさとで、涙が止まらないまま拳を握り締めた。
何故だか知らないが、エルシスはミアトが誰かの命で暗殺をしに来たと信じて疑っていないらしい。
ならば、あと出来ることは一つだ。
押さえつけられていた腕の力が緩む。
ミアトはその隙をついてエルシスの腕の中から飛び出すと、床を転がって放り捨てられたナイフを拾い上げた。
鞘を抜き払い、構える。
もちろん――、それを突きつける先は最前まで己を抱いていた男だ。
エルシスは床の上でいつでも飛びかかれるように構えるミアトを冷たい目で一瞥すると、やれやれと言うように肩を竦めた。
「やめておけ。力で私に勝てないのは分かっただろう」
「――っ、うるさい! そんなのやってみないと分からないだろ!」
ミアトは「従順な補佐官」の仮面をかなぐり捨てて叫ぶ。
もうバレているのなら、せめて一太刀でも浴びせなければ気が済まなかった。
――ミアトはエルシスの見立て通り、彼を殺すために送り込まれた暗殺者だ。
どこで勘付かれたのか。ボロは出していないはずなのに、と内心歯噛みするが、今更だ。
彼が今すぐにでも人を呼べば、自分は捕まって、あっという間に首を落とされるだろう。
たとえそうなったとしても――、決して「あの方」の名を口に出す気はないが。
エルシスはミアトの反論に、くっと笑いを漏らす。
「やってみなければ? 分かるだろう。力で敵うならば、何故大人しく抱かれた?」
「そ、れは……っ」
その時、尻の間から男の残滓が流れてきて、ビクッと震えてしまう。
太腿を流れる白いものにエルシスも気付いたのか、彼は更にくすくすと笑った。
ミアトはきゅっと唇を噛んで、押し黙る。
本当は分かっている。自分ではこの男を殺せない。今だって、彼の間合いに踏み込めずにいるのだ。
でも。
ミアトはナイフを握る手に力を込める。
その時ふと、エルシスが笑いを引っ込めて、息をついた。
「――とはいえ、そうだな……。このままお前を見逃しても、衛兵に突き出しても、優秀な補佐官がいなくなってしまうのか……」
「は……?」
エルシスの独り言に、ミアトはぽかんと口を開けた。
そんなミアトに構わず、エルシスはブツブツと続ける。
「それは困るな。こいつほど私の意を汲んで動いてくれる者に、今まで会ったことがないのに」
何言ってるんだ、この男は。と、ミアトは半ば本気で心配になってしまう。
「あんた……」
「……ああ、そうだな。――ミアト」
一人納得した、らしいエルシスに名を呼ばれ、ミアトはたじろぎながらも応える。
「な、なんだよ……」
「お前、今後も私の補佐官を続けろ」
「……はぁ!?」
嫌に決まってんだろ、と反射的に返しかけたが、エルシスの言葉はまだ続いていた。
「その代わり、いつでも私の命を狙ってくれて構わない」
「…………、はぁ?」
「ああ、もちろん。他の者にはバレないように、という条件は付くが」
「なんで……」
全くもって意味が分からず、呆気に取られたまま呟くように問い返す。
「その方が私にとって、利点が大きいからだ」
言い草に、ミアトはカチンと来てエルシスを睨む。
「何それ。俺なんかには絶対に殺されないって、言いたいわけ?」
確かに現状、全く歯が立っていないというのも相まって腹立たしいが、何故かミアトの言葉にエルシスは目を丸くした。
「……そうか。そう聞こえるのか」
「は?」
それ以外の何だというのか。
だがエルシスは、ミアトの指摘が本当に予想外だったとでも言うような顔をして続ける。
「私の死の可能性は、難点になるのか……」
「…………は?」
だが結局、エルシスはミアトに関して人に告げることはなかった。そしてそのままミアトは、表向き彼の補佐官を続けることとなったのだった。
07
とはいえ。
あの夜以降、表向きの関係は変わらないままではあるが、何もかもがこれまで通り、というわけにはいかない。
「旦那様、お茶が入りました」
エルシスが顔を上げると、口調は慇懃ながら、いかにも作り笑いと分かる笑みを顔に貼り付けたミアトがそこにいた。
「ふむ……」
手元に置かれた茶の香りを嗅ぎ、エルシスは肩を竦める。
「同じ手を使うのは感心しないな」
「は?」
「毒は効かないと、もう分かっているだろう」
しれっと言ってやると、ミアトは一瞬ぽかんとして、ハッとしたように叫んだ。
「あ…んた! まさか、あの時も気付いてたのかよ!!」
ミアトの言う「あの時」とは、いつだったかに彼が「故郷のものだ」と言って薄緑色の茶を出した時のことだ。
「当たり前だ。でなければ、
絶句するミアトに呆れ混じりの溜息をつく。
あの茶には毒が混入していた。幸い、跡取り教育の一環で身体に慣らしていたものだったため、エルシスはそのまま何食わぬ顔で飲んで見せたのだ。
だがエルシスから言わせれば、同じ茶に同じ毒を入れたものを二度も出すなと、こちらが絶句したい気分だった。
「ていうか、あんた本当にいつから俺のこと……」
項垂れるミアトにやれやれと思いながら、エルシスは答える。
「初めて会った時から」
「はあ!?」
「お前は上手く隠していたつもりのようだが、殺気を感じてな」
「…………うそだろ……」
頭を抱えるミアトを横目に、当時のことを思い出す。
端から見れば、従順で優しげで少し気弱に見える少年だっただろう。
実際エルシス以外からは、そう映っていたはずだ。
また、基本的にはそんな印象のままの人物像でミアトは過ごしていた。あの夜までは。
彼がエルシスの補佐官になってから三ヶ月が経つまでは、エルシスの前でも一貫してその態度だったし、それ以降も時折、毒やら毒蛇やら毒針やらを仕込まれる以外は変わらなかった。
「……え、ちょっと待て?」
はた、とミアトが顔を上げる。
「あんた、全部分かってたなら、なんで俺のこと雇ったんだよ」
「ああ、それは……」
大した理由はない。あの頃は切実に補佐官がほしいと思っていたし、仕事をこなしてくれるなら誰でも良かった。
それでも、暗殺者を懐に入れたのは――、
「その方が面白いだろう」
「……あんた、変だぞ」
「かもな」
変人を見る目でエルシスを見ながら、ミアトは毒入りの茶を片付ける。
そして今度は、きちんと飲める茶を注いだ。
それを見ながら、エルシスはくすくすと笑う。
「お前のそういう所を、私は案外気に入っている」
「……はぁ。そーですか」
毒の入っていない薄緑色の茶は、その茶独特のほのかな苦みが美味しいと感じた。
08
「――ちょっとあんた! 夜の支度も担当にするなんて、聞いてないんだけど!?」
ミアトは同僚の女性に渡された、髪を梳かすブラシや香油、布などを抱えながら、エルシスの部屋に入った途端叫び声を上げた。
「何か問題が? お前にとって、私との接触機会が増えるのは良いことだろう」
「っ、それは……っ」
暗に、殺しの機会が増えると言われて、ミアトは反論の言葉が出ずに、口をぱくぱくとさせる。
だが、すぐに手元に視線が落ちて、顔を赤らめながら頭を上げる。
「そういうことじゃない、って分かってて聞いてんだろ! 寝る前の支度なんて……」
エルシスをちらりと見るが、どこに櫛を通す必要があるのか、と言うほど整えられた髪を見て、内心「やっぱり!」と叫ぶ。
「こんなの……、俺、あんたの――」
同僚の浮かべていた意味深な微笑みを思い出す。それを見た時から嫌な予感はしていたが、エルシスの呆れ顔を見て確信した。
「お前が私の愛人のように扱われている件か? そんなもの、とっくに屋敷中が噂をして……」
「嘘だろ……!?」
いつから、と青褪めつつ抱えたままの香油に目を落とす。つまりこれは、やはり髪に使う油などではなく――。
「翌日に、ベッドメイクをしたのが誰か考えたら分かるだろう」
「…………」
自分はへろへろだったのと任務を遂行できなかったショックとで、そのまま部屋を出たし、この男も……掃除や洗濯などしそうにない。そもそも隠したいとすら思っていなさそうだ。
となると、残るは担当者――要するに屋敷に勤める誰か、ということになり……。
ミアトは正論すぎて何も言えなくなり、押し黙った。
「その状況でお前を放置している方が問題では?」
「それは……、まあ……」
エルシスが使用人をつまみ食いするような主人ならばともかく。これまで一度もそういったことがなかった人間が夜間に人を招き入れたとなれば――、まあ、そういうことだ。
実際に「愛人」かは別として、特別に目をかけていることは間違いない。
「では、はじめるか」
「は」
満足に反応すらさせてもらえず、ミアトはひょいとエルシスに持ち上げられて、ベッドに落とされる。
「ちょ、はじめるって……!?」
前回もそうだが、軽々と抱えられて悔しいやらなんやらだ。
押し倒されたことに狼狽しながら訊ねれば、エルシスはきょとんとした様子で目を瞬かせた。
「情交の跡がなければ怪しいだろう」
「じょ……っ!?」
ミアトが言葉を失っていると、エルシスが慣れた手つきでシャツを脱がしにかかる。
「や、ちょっ、挿れるのはヤダからな……!!」
「あんなに悦がってたくせに……」
「なってないっ! あ、あれはっ、え、っ、えええ、えんぎっ! 演技だから!!」
「ほう……?」
声に愉快そうな気配を感じて、彼の表情を窺うと、にやと楽しそうに笑っている。
「ならば、さぞ手慣れているんだな」
明らかにミアトの言の信じていない物言いにムッとして、ミアトは唇を尖らせた。
たしかに「手慣れている」わけではないけれど――。
ミアトは手を伸ばして、エルシスの股に触れた。
「口でやってやるよ。それで文句ないだろ!」
苛立ちに任せてそう言い放つと、エルシスはぽかんとしたあと、耐えきれなかったかのように吹き出した。
「ちょっと! 本気なんだけど!?」
「なら手並みを拝見しようか」
エルシスはミアトを押さえ込むのを止めると、ベッドに大股を開いて座る。
それを挑発と受け取ったミアトは、起き上がって四つん這いになり彼の方へ近付く。
夜着のローブを羽織っただけの彼は、すでに衣服は乱れてはだけた胸に長い髪が色っぽくかかっている。ミアトはそんな上半身には目を留めず、既に存在を主張しつつある下肢に顔を近付ける。
夜着の隙間に手を滑り込ませ、熱い陰茎に触れる。それと同時に、布地を軽く噛んで引いた。
「っ……」
まだ半勃ち――といったところのようなのに、比べようもないほど……大きい。
これ、口に収まるのか……?
と少々不安になりながらも、ミアトはその先端に口をつけた。
手と口とで男の性感を高めていく。
風呂上がりだからだろうか。想像していたような嫌悪感が湧くこともなく、普段澄ましているエルシスが、自分に翻弄されているような気さえして、悪くない気分だった。
「っ、は……」
勃ち上がった陰茎から、一度口を離す。ミアトの唾液に蝋燭の光が反射して、妙に艶めかしかった。
「もう終わりか?」
「……まさか」
ミアトは一度覚悟を決めて、気合を入れなおすと亀頭を口に含んだ。
少し驚いたのか、エルシスの身体が微かに震えた。
「……ミアト、噛もうなどとは考えていないな」
一瞬、その手があったかとは思ったが、それを実行する前にエルシスが続けた。
「それで私が死に損なった場合、お前はどう言い訳するつもりだ?」
「…………、」
言われてみればその通りだ。
噛み切った後、そのままにしておけば出血多量で死ぬだろうが、その前にこの男が助けを呼べば終わりだ。きちんとした医者がいれば、陰部を切ったくらいで人が死ぬのかといえば――、確証はない。
仕方なくミアトは歯を立ててみるのを中止して、まるで「心外な」とでも言うように、エルシスを睨んでおいた。
鼻で嗤われたので、ミアトの考えは見透かされていそうだが。
ミアトはそれを無視して、口元に意識を戻す。
舌と頬、口に入り切らない部分は手で刺激を続けながら待つ。
「……っ?」
だが、いつまで経っても、エルシスはじっとこちらに視線を向けるばかりで、動こうとしない。
ちらりと上目遣いで見上げると、うっすらと頬を上気させたエルシスと目が合った。
「どうした?」
やわらかな、それでいて欲の混じる低い声に、後ろがきゅんと収縮した気がした。
だが、彼がこちらに手を伸ばしてくるのが見えて、ミアトは一転して身体を強張らせてぎゅっと目を閉じた。
苦しいのは好きじゃない。喉奥へ無理やり欲望を突き立てられるのは、いつも本当は嫌だった。
けれど我慢しなければ。ご主人様がそう望まれるのだから――。
だが、伸ばされた指がさらりと髪をすり抜けて、額に触れたのを感じて、ミアトは思わず目を開いた。
その手は後頭部を掴むことなく優しく頭を撫でて、首筋を、項を擽る。
「っ、ふ……ぅ」
気持ちいい。
ミアトは自然と目を閉じて、口淫を再開する。
指の動きに合わせて微かに引っ張られる髪すらも、疼きに変わる。窪みに舌を這わせれば、エルシスの身体がびくりと反応して、それがなぜだかとてもうれしい。
「んっ、ふ、んんっ……」
唾液と先走りの混ざった水音が耳を犯す。
「――ミアト、もういい」
微かにそんな声が聞こえた気がしたが、ミアトはそれを無視して続けた。
そして――口の中に欲が吐き出された。
「っ……」
ミアトはエルシスの陰茎から口を離し、少し迷ってからそれを飲み下した。
エルシスが驚いたような気配を感じて顔を上げた。
「そこまでせずとも、よかったんだぞ」
「……だって」
何故だか吐き出してしまうのが、もったいないような気がして。
だが、それを言葉にするのは憚られて、ミアトは口を噤んだ。自分でも、どうしてそんな風に思ったのか分からなかったからだ。
けれど今はそんなことより。
ミアトは自身の下腹に視線を落とす。
そこにはすっかり勃ち上がっている陰茎がある。
男のものを咥えているだけで感じていたのか、と恥ずかしい気もしたが、それより戸惑うのは身体の奥が疼いて仕方ないことだ。
ミアトはすりと指でエルシスの陰茎を刺激する。
これは、「あの方」のものではないのに……。
「……ミアト」
腕を広げたエルシスに視線を向ける。
「っ……」
ミアトはふいと視線を逸らし、だが身体は彼の胸へと縋り付いていた。
エルシスの指が後孔を探る。
ミアトはそれに抵抗することなく、彼の身体にしっかりと腕を絡めたのだった。
09
「は、っあ……、ああぁ…………」
ミアトがエルシスの「夜の支度」も担当するようになってから、幾度目かの夜。
ミアトは仰け臥したエルシスの腰に跨り、涙目でエルシスを見下ろす。後孔には彼の屹立が埋められていて、動く度にいいところが擦れて、意図せず嬌声が漏れる。
「っぅ……、もう…むり……っ」
押し広げられた窄まりがじんじんと熱い。自重で深く中まで潜り込んだものが、内臓を圧迫して苦しい。
けれど、奥を突かれる感触が、堪らなく気持ちがよくてミアトは背筋を弓なりに逸らした。
「もう降参か?」
くすくすといじわるに笑うエルシスが、ミアトの腰をやわく掴む。
「あっ! も、さわらないでっ……」
「それはできない相談だな」
軽い刺激にもかかわらず、達きそうになってしまう。
彼の手をぎゅうっと強く掴み、それ以上動かなようにしようとするが、この男には敵わない。
エルシスは腰をぐっと掴むと、そのままミアトを少し浮かせる。
「っ、ちょ……」
何をしようとしているのか察して、抵抗しようとするが、そんなものを意に介した様子もなく――、そのまま少々強引に腰を落とした。
「っ――!!」
強い刺激に目の前がチカチカと明滅する。前からは白濁が散って、達したのだと分かったが、エルシスの手は止まらない。
「あっ、あぁん! んあ、っ、ひ……っ、ああぁ!!」
苦しいほどに中を穿たれて、気持ちがよいのかも分からないほどめちゃくちゃに乱される。
この男の抱き方はいつも少々強引で、強制的に快楽を引きずり出されるような感覚がする。
――どうして、自分は大人しく彼に身を委ねているのだろう。
この男は自分にとって、ただの暗殺対象だ。「ご主人様」が苦々しく思っている相手で、嫌悪こそすれ抱かれ続ける理由などないのに。
けれど何故か、手を差し伸べられれば拒むことができない。嫌がるのが口だけになりつつあることを、ミアトも気付きはじめている。
けれど、俺は――。
「――ああっ!」
まるで別のことを考えていたことを咎めるように、激しく腰がぶつかった。
「あっ、あぁ……、あ、ん……っ――」
喉を逸らし、深い絶頂をやり過ごす。
「は…ぁ……」
中に注がれる熱い飛沫に、きゅんと後ろが収縮して、ミアトは目を閉じる。
無機質な張形との違いを、この瞬間にいつも思い知らされる。
いや、「この瞬間」だけではないな、と余韻でふわふわとする頭でぼんやりと考える。
熱い人肌に触れる時も、髪を指が梳く時も、薬が引き上げる感覚とはどこか違う疼きに支配されている気がしていた。
「――ミアト」
名前を呼ばれて、ハッとする。
行為は終わったのに、いまだ男の上に乗っていたことが急に恥ずかしくなり、ミアトは内心大慌てで腰を上げた。
「すみません、今退きます」
どうして俺が謝ってるんだ……? と、思いながらも尻に刺さっている陰茎を抜き、エルシスの隣に移動する。
だが彼は、どうやら退いてほしくて声をかけたわけではなかったらしく、一瞬不思議そうな顔をした後、改めて続けた。
「言い忘れていたんだが」
「はい?」
「昨日、父が王宮で倒れてな。暫くあちらに滞在するらしい。故に、私も定期的に顔を出さねばならなくなった。お前にも補佐官としてついてきてほしいんだが……、――ミアト?」
ミアトはエルシスの発言にぽかんとした後、額に青筋を浮かべながら、にっこりと微笑んだ。
「かしこまりました。帯同させていただきます、旦那様」
そういう重要事項は、もっと早く言え――!
ミアトはぷりぷりと憤慨しながら、手早く身体を拭うと明日以降の段取りを頭の中で考えつつ、急いで自室に戻るのだった。
10
「失礼いたします」
エルシスは父ルートヴィヒに宛てがわれた居室に足を踏み入れる。
白髪混じりの金髪に
「お加減は如何ですか」
「ああ、大事ない。陛下が大袈裟になさっただけだ」
そうみたいだな、とベッドの上にいる父の顔色を見ながらエルシスも頷き返す。
「それで。わざわざ呼び出したご要件は」
単刀直入に本題へ入ると、ルートヴィヒは呆れたように肩を竦めた。
「お前はな……。倒れた父を少しは労るとか……」
「大事ないと仰ったのはそちらでしょう」
何を言っても無駄だと思ったのか、彼は小さく溜息をついてから、父親ではなく公爵の顔になった。
「エルシス。お前には近々、私の代わりに領地へ行ってもらいたい」
「……視察、ということで?」
もちろん領主が領地に顔を出すことはある。だが、改めてそんなことを言うあたり、「ただの視察」ではなさそうだと感じ、エルシスは目を眇めてルートヴィヒの様子を探る。
彼はこくりと頷いて続けた。
「公式的には、少し前に発生した水害の慰問だ」
「実際のところは?」
わざわざ「公式的には」という言葉を使ったのだ。本当にしてほしいことは別にあるはずだ。ルートヴィヒは部屋に二人きりであるにもかかわらず、それでもなお声をひそめてエルシスに囁くように告げた。
「現在国内にて流行り病の兆候がある。それを探ってきてほしい」
彼の言葉にさすがのエルシスも瞠目して、声量を落とす。
「たしかに、例年より子供の死者率が増えているように思いましたが……。災禍による衛生環境の悪化では?」
「他家の領でも似たようなことが発生している」
「つまり、年少者が重症化しやすい病が各地で発生していると」
「まだ可能性、だがな」
しかし、「流行り病」というものは、そのように点在して起こるものなのだろうか。各地を渡り歩く商人や渡り鳥が媒介してしまっている場合もなくはないだろうが――。
「それと、視察ついでにモルグ公爵領へ向かってくれ」
「……なんですって?」
エルシスは思わず眉をひそめた。
モルグ公爵家。我がローエンシア公爵家と勢力を二分する、政敵と言える存在である。
貴族議会の革新派の筆頭として君臨しており、ルートヴィヒが最も頭を悩ませているのが、そこの現当主グウェインであった。
野心が強く、愚物であるわりに悪知恵だけは回り、己の快楽に忠実な男。
それがエルシスのグウェインに対する評価だ。
「今、最も『流行り病』の被害者数が出ているのが、モルグ公爵領なのだ。加えて、薬に使用される草木の産地でもあり創薬の知見も深い。既に開発もはじまっているとも聞く。様子を見てくるんだ。……これは秘密裏ではあるが、王命でもある。お前が到着する頃には話も通っているだろう」
「……そうですか」
王命というならば、そもそも断るという選択肢は存在しない。
権力争いをしている場合ではない、ということだろう。このまま病が広まってしまえば、国家存亡の危機にもなりかねない。少なくとも、王はその可能性を危惧しているようだ。
「承りました、とお伝えください。――それから、此度の件、ミアトには伝えても構いませんか」
「……あぁ。お前が雇った補佐官だったな。いいだろう。調査に必要な範囲には開示を許可する」
そういえば一度か二度しか会わせたことがなかったなと、一瞬怪訝な顔をしたルートヴィヒを見て思い出す。
「外で待たせていますが、挨拶させましょうか」
念のため聞いてみたものの、案の定彼は首を横に振った。
「いや。お前が信頼に足ると判断したなら構わんよ」
信頼、という言葉にエルシスはほんの少し目を見開いた。
いつ寝首を掻かれるか分からない関係だ、と言ったなら父は一体どんな反応をするだろうか。
もちろん馬鹿正直に伝えれば、ミアトが解雇に――下手をすれば首と胴まで離れてしまうことになるので、エルシスから伝えることはない。
「では、準備が整い次第出立いたします。父上もご養生ください」
エルシスはそう言って頭を下げると、部屋を出ていった。
11
父ルートヴィヒの元を後にしたエルシスは、暫し一人で廊下を歩いた後、その先に立っている人物に気付いて、ほんの少し目を瞠った。
「……王太子殿下」
呟いた声が聞こえたのか、明るい金の髪に深い緑色をした双眸を持つ美丈夫は、何やら含みのある笑みを見せる。
「そう他人行儀に呼ばずともよいんだぞ? 昔のように『ジェイド様』と――」
「お戯れを」
ピシャリと彼――ジェイドの言葉を遮ったエルシスは、無感情に男を見据えた。
「ご用件は」
「つれないな。お前が来ていると聞いて、久方振りに顔を見に来てやった友に対して」
「友、ね……」
たしかにこの男とは学友であるし、幼少期から親交もある。十代後半の時期に貴族の子弟が入学を義務付けられている全寮制の学園で同室でもあった。
端から見ればたしかに自分たちは「友」だろう。「親友」とすら評されるかもしれない。
だが、互いに相手のことをどう思っているかは、また別問題だ。
エルシスは肩を竦めて、早く本題に入れと視線を投げる。
ジェイドはやれやれとでも言いたげに、両手を上げて溜息をついた。
「わかったわかった、そう睨むな。――お前、モルグ公爵領へ向かうのだろう?」
声をひそめて囁かれた問いに、エルシスは頷いた。
「それが?」
「公爵の姪を探ってこい」
一瞬、誰だったかと思考を巡らせて、当主グウェインの弟に一人娘がいることを思い出す。
「……アンジェリーナ嬢、でしたか。何故」
特に何の特徴もない凡庸な令嬢だった記憶しかない。
「それがな。どうも公爵が彼女を私の婚約者候補に捩じ込もうとしているようで」
「は……?」
さすがに驚いてしまい、モルグ公爵家の家系図を思い起こす。だがやはり、記憶に相違ないことを確かめて呟く。
「公爵家の後継は彼女だと思っていたのですが」
「ああ、私もだ」
グウェインには現状、子がいない。そのため、次に公爵家を継ぐのは彼の弟である。その弟にもアンジェリーナ以外の子がいないため、いずれは彼女に爵位が回ってくるはず――。それを王太子の妻に、など通常であれば考え難い。
「それに貴方、もう婚約者ならいるでしょう」
「ああ。だが、伯爵家の令嬢だからな。権力で潰せると踏んでいるんだろう」
たしかに、伯爵家というのは王太子妃の生家としては、些か家格が低い。だが、国内情勢を鑑みた上での慎重に慎重を期した人選だ。そう簡単に覆るものではなかった。
「……公爵の独断でしょうか」
「それを見極めてきてくれ」
簡単に言ってくれるな、と内心で溜息をつく。父といい、ジェイドといい、何故今日はこうも面倒事を言いつけられるのか。
そんなことを思いながらも、エルシスは胸に手を当てて頭を下げる。
「御意のままに」
この男に抱く個人的な感情はどうあれ、彼が生涯唯一の主君であることには変わりない。
「――ところで」
ふっと空気が緩んで、ジェイドが何か思い出したように口を開いた。
「ここに来る途中にそのモルグ公爵を見たが、あまり見たことのない人間といたな。珍しい黒髪の――」
「すみません、急用ができました」
「え? あ、おい」
エルシスはおざなりにジェイドへ礼をすると、さっさとその場から歩き出した。
黒髪の、ジェイドがあまり見たことがないと言う人物。
間違いなく、ミアトのことだった。
12
そもそも、ミアトは父の居室の前で待たせていたはずだった。
しかし部屋を出てみればその姿がなく、彼を探していた途中に王太子に捕まってしまったのだ。
エルシスはジェイドが来たと思われる方向へ足早に歩を進める。
そして、建物を外へ出たところで、グウェインと立ち話をするミアトの姿を見つけた。
「――公爵」
声をかけると、少々腹の出た壮年の男がこちらを見て、嫌らしく笑んだ。
「これは、ローエンシアの御子息ではないですか」
エルシスはミアトの肘を掴み、手元に引き寄せる。
「だ、旦那様……」
彼は戸惑ったような顔をしたあと、グウェインに頭を下げてから後ろに下がった。
「うちの補佐官が何か」
「はは、大したことでは。道に迷っておられたようなので、案内をしただけですよ」
「……、そうでしたか」
しゃあしゃあと嘘を言うものだと、エルシスは目を細める。
ジェイドは「ここに来る途中」と言っていたはずだ。彼が二人を見たと思われる時間から、それなりに経っている。本当に「案内をしただけ」だと言うなら、何故まだ二人は共にいたのか。
だがエルシスは疑問をひとまず飲み込んで、グウェインの言葉に頷く。
「それは我が家の者がご迷惑を。助かりました、公爵」
「いえいえ。では、私はこれで」
彼が去っていく後ろ姿を黙って見送り、それが見えなくなったところでエルシスはちらりと傍らを見た。
その視線を受けて、その肩がビクリと跳ねる。
「――……ミアト」
出かけた言葉を胸中に留め、彼の名を呼んだ。
「あ、あの……。勝手に出歩いてしまい、申し訳ありません」
俯いたままぼそぼそと発せられる謝罪に、エルシスは小さく溜息をついた。
「公爵の言葉は事実か」
「…………はい」
こくりと頷くミアトに、エルシスは目を眇める。
そして今度は大きく溜息をついた。
「以後気を付けるように。では、帰るぞ」
「あっ」
歩きはじめたエルシスの後を、ミアトが小走りでついてくる。
背中にじっと視線を感じるので、「どうして何も言わないのか」と思っているに違いなかった。
だが、そういう「怪しい」部分も含めて、彼を手元に置くと決めたのはエルシスだ。
ミアトは立場を弁えているし、頭も良い。エルシス以外を巻き込むような、滅多なことはしないだろう。
これを「信頼」と称するのなら、そうかもしれないなと思う。
「ミアト」
名を呼ぶと、ハッとしたように息を飲む気配がした。
「お前ならば言わずとも分かると思うが。……かばいきれないような事はするな」
「……なにそれ」
ミアトは自嘲するように笑みを漏らす。
「俺が絶対失敗する、って決めつけないでよ……」
「……。そうだな」
目を伏せて苦く微笑むその表情に、何故か彼を腕の中に閉じ込めたくなった。
だが、実際にミアトを引き寄せることはせず、エルシスは歩を進める。
幾度夜を共にしようと、気安く触れ合える関係ではないと再認識させられたようで――、心に負った古傷が微かに痛む。そんな気がした。
13
「へぇ、ここが商都ゾエ……」
ミアトは馬車のカーテンから見える市街にぽつりと呟いた。
対面に座るエルシスがその父ルートヴィヒの見舞いへ行った日から暫く経ち、二人はローエンシア公爵領にいた。
商都ゾエはローエンシア公爵領第一の都市である。ミアトの目には王都よりも栄えているようにさえ見えた。街並みは美しく整備され、少なくとも見える範囲には浮浪者の類もいない。ローエンシア公爵家の力の強さが垣間見えるようだった。
「お前は、この街は初めてか」
「はい。これほど栄えているとは思いませんでした」
ミアトがエルシスの元に来てからというものの、彼が領地に戻ったのは初めてだ。当然、彼個人の補佐官であるミアトがこの地を踏むのも初である。
ミアトはもう一度外を見て、目を眇めた。
「ですが、『病が流行っている』ようには見えませんね」
人々の表情は明るく、死の危険が間近に迫っているようなそれではない。
「そうだな。だが、流行の地点はゾエの中でも郊外だ。繁華街にその兆候がないことは喜ぶべきだろう」
「ええ……。人口の多い場所まで蔓延すれば、被害はより拡大しますからね」
ミアトは頷いてカーテンを持ち上げていた手を戻し、エルシスの方を向いた。
「だが私はそもそも『流行病』という情報に懐疑的だ」
「そうなんですか?」
エルシスは考えを巡らせるような顔で腕を組んだ。
「『病が流行している』という意味では、たしかに流行病だろう。だが、それが『人同士の感染で起こっている』のかといえば――」
「つまり、別に原因があると?」
「さてな……。私は医者ではないし、その医者も罹患していると報告がある。詳しく事態を把握できねばなんとも言えんよ」
「ふうん……」
エルシスが一つ息をついて、顔を上げた。
「さて、ひとまず領主邸で最新情報を把握する」
止まった馬車にミアトが腰を上げると、エルシスがにやりと口角を上げた。
「くれぐれも……、だが期待しているぞ、補佐官殿?」
「――わかってるよっ」
暗殺者だとバレるような真似はするな。だが、面白いことをしてくれると期待している。
そんな挑発とも取れる発言に、ミアトはむっと口を尖らせて、小声でそう叫んだ。
14
夜になり、自室にて細い蝋燭の光の下で報告書に再度目を通していたエルシスは、小さな叩扉の音で顔を上げた。
「――旦那様、ミアトです」
扉の外から聞こえた声に、まるでいつかの再演だな、なんて思う。
「どうした、入ってこい」
もっとも、あの日より彼の態度は随分とふてぶてしいのではあるが――、それもエルシスは愉快に感じている。
「どうした、って……――、あ」
入室してきたミアトは、はたと足を止めて口をぱくぱくと動かしている。
エルシスはそんな彼の姿に目を細めながら立ち上がる。
大方いつもの癖で訪ねてきてしまい、今になってここが王都の屋敷ではなかったことを思い出したのだろう。
「――すみません、失礼しました、なんでもないです」
早口でそう言って踵を返そうとするミアトの手首を掴んで引き留める。
「そう逸るな。ついでだ、寝酒だけでも付き合え」
「…………わかりました」
嫌そうな顔をしながらも、彼はちゃんと後についてくる。エルシスは戸棚からワインとグラスを二脚取り、窓辺のソファに腰掛けた。対面に座れとミアトに目で促せば、彼は少し迷うように視線を彷徨わせた後、落ち着かなげにちょこんと座った。
二人の間にある小さなテーブルにグラスを置き、それにワインを注いでやる。
「そういえばお前、酒は飲むのか?」
「弱いわけではないけど、自分じゃあんまり……」
といいつつも、勧められた以上はということなのか、彼はちびとワインを啜った。
「……何してたの?」
「ああ、報告書を読み直していた」
ミアトは先程までエルシスが座っていた書き物机に視線を飛ばし、肩を竦めた。
「あんた、いっつも仕事してない?」
「それ以外やることもないからな」
ミアトはエルシスの返答に呆れ顔をする。
「俺が言えた義理じゃないけど、趣味とかないわけ?」
「無いな」
「即答することじゃないでしょ」
エルシスはほんの少しだけ過去に思いを巡らせながら、ミアトに問いかける。
「そういうお前は?」
「え……」
ミアトは面白いほどに動揺して、目を泳がせた後、観念したように肩を落とした。
「ない……」
「本当に、『お前が言えた義理じゃない』な」
くすくすと笑いながらそう言うと、ミアトはむっと頬を膨らませる。
「仕方ないだろ、そんな暇なかったし!」
そんな暇、ね……。と、エルシスは目を眇める。
「生まれた時からそんな生活だったのか?」
「……いや、昔は……普通に――。でも……」
急に口の重くなったミアトを、エルシスは慎重に観察する。
「『昔は普通に』? 人攫いにでも遭ったのか?」
「……違う。俺は、捨てられて……拾ってもらった」
エルシスは内心「なるほど」と納得する。
拾ってもらった恩義があるのならば、「ご主人様」とやらを心酔するのも無理はない話だった。もっとも、その拾った子供を暗殺者に仕立て上げるなど、まともな相手とは思えなかったが。
「それはいつ頃のことなんだ。ここ数年ではあるまい?」
軽い興味で何気なくそう聞いた。
「はっきり覚えてるわけじゃないけど……」
ミアトはしばし考えた後、唐突にぽんと手を叩いた。
「そうだ。今回の流行病で亡くなった子供たち。丁度あれくらいかも」
つまり十歳に満たない幼子ということだ。
やはり碌でもなかった。
小さな子供は考えが柔軟ゆえに、洗脳にもかかりやすい。それは大人になってからも残り続け、本人が気付くという方法以外で解くのは不可能に近い。
それはミアトの「ご主人様」への盲目的な忠誠心を揺らがせるのが、非常に難しいことを意味している。
エルシスは手を伸ばして、ミアトの指に自分のそれを絡めた。
「な、何……」
彼が驚いて引き抜こうとする手を、きゅっと挟んで引き留め、指の股をすりと撫でた。
「いや、お前があまりに敏感で――、腹立たしいな、と」
「は……、はあぁっ!?」
真っ赤な顔で叫びながらも、エルシスの指の動きに合わせてミアトの肩が跳ねる。
「そんなの……っ、あっ、あんたが、触るからだろっ!?」
ミアトの言葉にエルシスの動きがぴたりと止まった。
「ていうか、『寝酒だけ』じゃなかったのかよ!」
「……気が変わった」
低く呟いて、残っていた酒を煽る。
それから絡めていた指を引いて立ち上がらせると、エルシスは彼の軽い身体を抱き上げた。
「そもそも、お前も抱かれるつもりで来たくせに」
「っ――!!」
羞恥からか振り回される拳を難なく避けつつ、エルシスはミアトをベッドに落としたのだった。
15
「は――、んっ……」
やわらかいベッドの上に組み敷かれたミアトは、裸の胸に落ちた汗に喉を反らした。
エルシスの屹立を既に受け入れている下肢は、もう触れる布の感触にも痺れて言うことを聞いてくれない。
ゆるやかに律動を繰り返すエルシスの腕をきつく掴む。
今日はいやに動きが入念で、じっくりと解されて――、丁寧に味わう下処理をされているような。そんな気分になる。
「ん、ぁう……、っふ――」
漏れる喘ぎを殺そうと唇を噛む。
いつもはもっと激しいくせに――。
じわじわと引き上げられていく性感が、堪らなく気持ちいいけれど、同時に物足りなさも感じる。
「あっ……」
ぐちゅりと卑猥な音を立てて奥を突かれて、軽く達してしまう。腹の上に白濁が散ったのが、何故だか今日は妙に恥ずかしくて、落ち着かなかった。
じっと見られている。
まるで、改めてミアトの「いいところ」を探っているかのようだ。
体内に収められたエルシスのものは、いつ限界を迎えてもおかしくないほど張り詰めているのに、その表情はどこか余裕めいて見える。
「――そんなにいいか?」
耳元に落とされた囁きに体温が上がった。
なんてこと聞くんだ、この男は。
そんなのは身体の反応を見れば分かるだろうに、わざわざ訊ねてくるなんて。
ミアトはきゅっと唇を噛み、笑みさえ浮かべるエルシスを赤い顔で睨んだ。
いつもいつも自分ばかりが翻弄させられている。
出会ってからずっとだ。
ただの補佐官として従順に仕えていた間も、初めて彼に刃を向けた日も、こうして抱かれるようになった今も。
必ず寝首をかいてやる――。そんな風に思って忍ばせていたはずの武器を、閨まで持参しなくなったのはいつだったか。
ともすれば、何も考えずこの男の手に溺れてしまいたくなる。
どうしてこんな風に感じるのか分からない。
ただこの人は時折――、酷く淋しげな目をするから。
愛し合う行為ではないはずなのに、その手がミアトの心に触れようとするから。
ミアトはエルシスの首筋をするりと撫でる。
しなやかな筋肉がついた、男らしい身体だと思った。あの人のような肉感のあるそれとはまるで違う。
なのに――、今日の自分はおかしい。
ミアトはエルシスの頭を引き寄せる。何故かもっと触れたくて仕方なかった。
だが唇が重なる直前、彼はふいと顔を背けてミアトの頬にキスをする。
――わざと避けられた。
ミアトが瞠目していると、エルシスはそれに気付いていないかのように何度か頬や目尻に口付けを落としながら、耳朶を食んだ。
「…………なんで」
「……。何がだ?」
まるで「キスならしているだろう」とでも言うように、彼はミアトの首筋に跡を残す。
エルシスは問いの意味を分かっていて、とぼけてみせたのだと分かる。
やっぱり気のせいじゃなかったのか。
ミアトは「なんでもない」と返しながら、エルシスの首に腕を回して、表情を見られぬように彼の肩に頭を伏せた。
エルシスはミアトと一度も唇を重ねたことがない。きっと、これからもそのつもりなのだ。
そしてミアトは、その事実に傷付く己の心に少なくない衝撃を受けていた。
16
夜も更けた頃、行為の後珍しくそのまま寝入ってしまったミアトの顔を見つめながら、エルシスはぼんやりとベッドの縁に腰掛けていた。
珍しい、というより初めてかもしれない。
いつもなら、そそくさと自室に戻ってしまうので、無防備とすら言えるその寝顔を不思議に思う。
「お前は、私を殺してくれるんじゃないのか……?」
苦笑混じりに、隙だらけの暗殺者を見下ろす。
今ならこちらが彼を簡単に殺せそうだった。
エルシスは寝息をたてるミアトの唇に目を留め、目を眇めた。
初めて、といえば――、彼に口付けをねだられたのも初めてだった。
エルシスにとって、それをしないことに大きな意味があったわけではない。
ただ、自身の肉体を初めて明け渡した男に、「手近な遊び相手」へキスまでくれてやる趣味がなかっただけだ。
それが習慣になったまま、欲の解消相手にエルシスから口付けるという発想がなかった。
それだけ、だった。
エルシスはミアトの薄く開いた唇に、指を伸ばす。
ちらりと赤い舌が覗いて、舌先がぴちゃりと触れた。
「っ、ん……?」
ミアトの目蓋が震えて、淡く覚醒した彼の視線がこちらへ向いた。
「寝ていていいぞ」
「……やだ、かえる」
舌っ足らずにそんなことを言うが、今にも再び閉じそうなほどしか目が開いていない。
「まだ眠いんだろう?」
「や……。だって……、うわさ、なったら…はずかし…………」
言葉が途切れたと思えば、案の定彼はもう夢の世界へ旅立っていた。
「……『恥ずかしい』ね」
初日は泣きじゃくるほど嫌がっていたはずなのに、行為自体にはすっかり慣れてしまったようだ。
「そんなことでどうするんだ、暗殺者殿?」
エルシスはミアトの黒髪を指でくるくると弄ぶ。
ずっと成り行きだった。
彼を抱いたのも、それを続けたのも、キスをしなかったのも。
だが――。
エルシスはミアトの顔に己のそれを近付け、やはり触れる直前で身を引いた。
初日に聞いた「ご主人様」という言葉を思い出す。
彼の心には、別の誰かが住んでいる。
そう思うと何故か、どうしても、その唇に触れることができなかったのだ。
17
ローエンシア公爵領では満足な情報を得られぬまま、商都ゾエを出立し五日。
建前上の目的であった水害被災地への慰問を挟み、一行はモルグ公爵領を目前としていた。
エルシスは相変わらずミアトと二人きりの馬車の中で、車窓から覗く景色を見て「そろそろ領境だな」と思考する。だが、そのすぐ後には対面に座るミアトに意識を戻し、どこかむくれた顔をするミアトの頬をつついた。
「ミアト、いつまで臍を曲げている気だ?」
揶揄い交じりに片頬を上げながら訊ねると、彼はじろりとこちらを睨む。
「あんたのせいだろ」
外では常に「完璧な補佐官」としてエルシスに付き従っているのだが、ここ五日、二人になると彼はいつもこんな調子だった。
理由は分かっている。
商都ゾエでの夜、ミアトが完全に眠ってしまったあと、エルシスは彼の身体を抱き竦めて眠ったのだ。そしてそのまま、普段なら早くに目を覚ますはずのミアトすら途中で起きることなく――朝を迎えた。また間の悪いことに、起こしに来た若いメイドが派手に騒ぎ……、「二人の仲」は皆に知れ渡ることとなった。
王都邸では、全員察してはいるものの暗黙の了解、といった雰囲気であったため、どうやら相当恥ずかしかったようなのだ。
領主邸を去り数日が経っているが、ミアトはその件で未だにご機嫌斜めだった。
「俺あの時、部屋に帰りたいって言ったじゃん。起こしてくれたらよかったのに」
何度目かの文句にエルシスは肩を竦める。
「そうだったか?」
すっとぼけると、ミアトの機嫌はますます降下した。
「……ほんと、むかつく」
「それはそれは」
「そういう余裕ぶった所がむかつく、って言ってんの!」
頬を膨らませるミアトにエルシスが肩を竦めると、彼も文句を言っても埒が明かないと思ったのか、声は不機嫌そうなままながらも話題を変えた。
「――それで、これからどうするんですか」
「そうだな……。被害状況の共有と、特効薬の開発がどの程度進んでいるのかも把握したい」
「あと、アンジェリーナ令嬢の様子見……でしたか」
エルシスは面倒な気持ち全開の表情で頷いた。
だが、アンジェリーナの件も場合によっては放置できない問題だ。ジェイドの婚約者である伯爵令嬢の警護も増えたと聞いているくらいだ。少なくともグウェインは、そういった――物理的に首をすげ替えるような手を取りかねない男であるという意味だった。
「流行病についての対処が優先だがな」
「そうですね……」
ミアトの表情が憂いを帯びる。
慰問に訪れたゾエ郊外に位置する水害被災地は、書面での報告以上に状況が悪かったのだ。
子供以外の死者こそ少なかったが、その町は病に罹患したものも多く、実際エルシスたちが対面した者たちも、病こそ得てはいなかったが表情が一様に暗かった。それぞれの近しい人間が、亡くなっていたり、診療所で隔離されていたりするのだ。当然と言えば当然のことだった。
これと同じことが、ゾエ以外の各地で発生しているのだと、現実を思い知らされたような心地だった。
「……旦那様、あの――」
ミアトが口を開いた時、急に馬車が動きを止めた。
彼は驚いて口を噤み、「こんなところに止まるような場所はあったか?」と、視線で問いかけてくる。
エルシスが首を横に振ると、ミアトは心得たように頷いて、御者台に通じる小窓を開けた。
「何がありました」
「いえ、それが……モルグ公爵家の紋章を掲げた馬車が停まっていると……」
聞こえた返答に、さすがのエルシスも驚いて目を見開く。
そして程なく、グウェインとアンジェリーナが、エルシスたちを迎えに来たのだと知らせが入った。
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