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「『約束は白き森の果て 下』初稿」を読む
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01

 それは、身を切るような冷たい雪の日のことだった。

 一面の銀世界を震えながら歩く少年は、景色に似つかわしくないほど薄着で、既に足の感覚は消えている。

「……さむい」

 必死に身体を縮こまらせ、両の腕で自身を抱きしめるが、そんなものは何の足しにもならない。吹きすさぶ風が少年の体力をどんどんと奪っていた。

「さむい……、かあさん……」

 ほろりと零れた涙も凍りつき、ついに少年は雪の上に倒れ込んだ。

 次第に視界が暗くなっていく。

 ああ、これが「死」なのか。

 少年はうっすらと、そんなことを思った。

 どうしてこんなことになったんだっけ。

 遠い日のあたたかく、穏やかだった日々を思い浮かべながら、少年は目を閉じた。

02

 小国フィアスリートは、少々変わった場所にある都市国家だ。

 三方を森に囲まれ、残った一方も立ち入り制限のされた急峻な霊峰だ。他国とも交流は多くなく、それでいて自給自足の成り立った国のため、然程困ることもない。目立った観光地もなく、他所からの旅人もあまりいない。

 そんなフィアスリートだが、その国名だけはそれなりに知られている。

 もっとも、「精霊の(みやこ)」という別名の方で、ではあるが。

 世界を構成する魔素(マナ)

 才ある者が扱えばそれは魔法となり、彼らは魔導師と呼ばれる。

 また、その魔素(マナ)が動植物に影響を及ぼし変異したもの、それを「精霊」と呼ぶ。

 彼らは世界のどこでも発生するが、その確率は極めて低い。

 だが、フィアスリートだけは例外だ。

 フィアスリート――特に霊峰に近付くほどに、数多くの精霊たちが暮らしている。その数は数百とも、数千とも言われている。

 そのため、フィアスリートは精霊に魅せられた者たちが辿り着く場所、などとも言われるほど、精霊や魔法に関係する者たちが沢山住んでいた。

「レイ! 悪いんだけど、魔道具のテスト付き合ってくれない?」

 女性の――先輩研究員の声に振り返ったレイ・アグリスもその一人だ。

 レイは濃い青の瞳を瞬かせ、垂れてきた黒髪を耳にかけながら問い返す。

「どの魔道具ですか、ルリナさん?」

「ほらぁ、あれよ! 精霊と喋ろう、ってやつ」

「ああ……」

 レイの所属する王立研究室は、主に魔道具――魔導師でなくとも魔法を使えるようにするための道具の総称――を研究している。

 精霊は極稀に人語を話すものもいるが、殆どが知能はあれど言葉で喋ってはくれない。そんな精霊たちとも意思疎通を図ろうという研究の一端だった。

「良いですけど、意味あるんですか?」

「もう! なんてこというの。どんな精霊とでも喋れた方が良いじゃない!」

「いや、そうじゃなくて。……これからするテストって、対動物ですよね。精霊じゃなくて、普通の」

「…………そうだけど」

 ルリナが文句あるのかとでも言いたげに、口を尖らせる。

「仕方ないじゃないの! 森に調査なんて、なかなか許可がおりないんだもの!」

 そう。いかにフィアスリートが「精霊の都」と呼ばれていても、街中に精霊がうろついているわけではない。

 彼らに会おうと思えば、せめて街の外縁部、三方いずれかの森に入る必要がある。

 しかしここ数年、特にレイが研究室入りした五年より少し前から、森への立ち入りがかなり制限されるようになった。

 というのも――

 その時、カンカンカーンという甲高い鐘の音が響いた。

「はぁ、テストはまた今度ね……」

 その鐘の音にルリナは溜息をつくと、くるりと踵を返した。

「レイ、何やってるの。早く行きましょ」

「あ、はい……」

 緊急招集を知らせる鐘の音は、いつもレイを不安にさせる。

 森への立ち入りを制限する原因でもある、この緊急招集はきっと今回も同じ内容だろう。

 レイは不安に見て見ぬふりをして、ルリナの後を追った。

03

 部屋には既に他の研究員たちが揃っていた。

 王立研究室は、「王立」と名のつく研究機関の中でも特に規模が小さい組織のため、室長含め十人ほどしか在籍していない。

 そのため、この部屋には一番奥に室長の机があり、他の研究員の席も並べられている。まだ室長の席は空席で、どこか緩んだ空気のままだ。

 レイはルリナの後を追って部屋に入ると、自身の席についた。すると間もなく、部屋の扉が開いた。

「――全員、揃っているな」

 部屋を見渡した室長のブルーノが、深刻な顔をしたまま部屋の奥へと進む。そして席に身を沈めると、溜息を一つ。

 その疲れ切った様子に、どうやらいつもの招集とは何かが違うらしいと察せられた。空気がぴりと張り詰めた頃、ブルーノは静かに口を開いた。

「緊急招集の鐘の音は皆も聞いたと思う。理由はいつもと同じ――、精霊が魔物化している兆候が見られた」

 精霊の魔物化。

 これが現在、フィアスリートを囲む森への立ち入りが制限されている理由だった。

 精霊は動植物が魔素(マナ)の影響を受け変化したものたちのことだが、彼らは時折更に変化を遂げてしまうことがある。それが「魔物化」と呼ばれる変化だ。

 精霊となった彼らは高い知能と長い寿命、それから人間で言う魔法と同等かそれ以上に不可思議な力を手に入れる。だが、魔物化した精霊――単に「魔物」と呼ばれるような存在になってしまった彼らは、再び知能を失い、破壊の限りを尽くす獣になってしまう。それも、ただ動植物の頃に戻るだけではなく、精霊として持っていた魔法の力を有したまま、だ。

 特に魔物の使う魔法は、殆どの場合で人に害を成したり、長期間に渡って苦しみを与えたりする「呪い」に分類されるようなものとなる。

 そのため、魔物化した精霊は討伐対象となる。だが、高名な魔導師や腕の立つ兵士たちでも、甚大な被害を受けてきたのだ。

 また、魔物化の原因は不明。更に、十年ほど前から徐々に魔物化する精霊の数が増えているのだ。そのため、緊急招集の鐘の音は定期的に聞くこととなり、異常は日常となりつつある。

 ブルーノが「緊急招集は魔物によるもの」と告げたことで、少し部屋の空気が緩む。

 だが依然としてブルーノの表情は暗く、やはり「いつもの」招集とは何か違うのではないかと思わせる何かがある。

 そのことを尋ねようとレイが口を開きかけたところで、ブルーノが言葉を続けた。

「今回、魔物化の兆候を見せた精霊が……――」

 彼はふぅと長く息をついてから、言葉を続けた。

「『深淵なる森の賢者』、だ」

 レイは思わず息を飲んだ。しかし、衝撃を受けたのはレイだけではなく、一瞬の沈黙の後、ざわざわと動揺が広がる。

 精霊の一部には二つ名がつけられている。

 今回の「深淵なる森の賢者」もそのうちの一つで、白い牡鹿のような姿をした、美しい精霊だ。

 二つ名は、たとえばとても長く生きていたり、人語を喋り人々との交流があったり、人の生活に影響するような強い力を持っていたり――、といったような特徴のある精霊につけられるものだ。

 「深淵なる森の賢者」、単に「賢者」とも呼ばれる彼も、長く生きる精霊で、あまり人前には出て来ないが、穏やかで優しく、街の人々の中でも親しまれている精霊だった。

 それに何より――

「名付きが、魔物化……」

 呟いたのは誰だったのか。だが、ここにいる皆が同じことを思っていたことだろう。

 これまで魔物化を確認してきた精霊の中に、二つ名を持つ精霊はいなかった。にもかかわらず、これまでの魔物討伐において、数十を超える死傷者を出しているのだ。

 名付きの精霊ともなれば、持ちうる力はそれ以上に強い。ならどれほどの被害が出てしまうか――。

 そのことに思い至ったのか、何人かの顔が青褪めている。

 レイも内心の動揺を必死に隠して、ぎゅっと拳を握りしめる。

 その時ふと、ブルーノの言葉を思い出した。

「――待って下さい、室長。先程あなたは『魔物化している兆候』、と仰りませんでしたか……?」

 レイの言葉に研究員たちが一斉にこちらを向いた。その視線に少し怯みつつも、レイは一縷の望みに縋るようにブルーノの様子を窺う。

 彼は渋い顔をまま、だが確かに、首を縦に振った。

「……ああ、たしかに言った。『賢者』は、魔物化していない。まだ……今は」

「じゃあ……!」

 しかしブルーノは、今度は首を横に振った。

「魔物化の兆候を見せた後……、それを防いだ例はない」

 レイはぐっと言葉に詰まって、唇を噛んだ。

 それはレイ自身も知っていることだった。だからこそ、いつかこんな日が来るんじゃないかと怖れ、来ないでくれと願っていた。

 願いを聞き届ける神はやはりいなかったが。

 それでも、ここで手をこまねいて魔物化を見過ごすなんて出来ない。

 どうにかならないのか。そんな気持ちばかりで、けれどどうすれば良いのかなど浮かばず……。レイは己の不甲斐なさに、言いしれぬ苛立ちを感じていた。

 その時。

「室長」

 控えめに手を上げたのはルリナだった。

「なら、『あれ』を使ってみてはどうですか?」

「……『あれ』?」

「はい。作ったは良いけど、サンプルもなくて試用が出来なかった、倉庫で埃かぶりかけてる『あれ』ですよ」

 ブルーノはルリナの言う「あれ」にピンときたのか、目を見開くと、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

「すぐ同行許可を取り付けてくる。ルリナそれからレイ。お前たちは開発責任者だったな? 動作確認を済ましておいてくれ。他メンバーは後で選定する」

 早口でそれだけ言うと、彼はあっという間に部屋を飛び出していった。

「あの、ルリナさん。『あれ』って……?」

 皆がぽかんとする中、同じく部屋を出て行こうするルリナを呼び止めて、レイは問いかけた。

 彼女は不思議そうに目を瞬かせた後、いたずらっぽく笑って答えた。

「やだ、忘れちゃった? あなたが入ったばかりの頃に作った、魔物から悪い魔素(マナ)を取り除く魔道具よ」

「あっ……!」

 それは、この研究室に入ったばかりの頃のレイが、どうにか完成させようと躍起になっていた魔道具だった。

04

「それじゃ、明日の用意忘れないように。あと早く寝るのよ〜」

 そう言って女子寮の方向へ消えていったルリナを見送ったレイは、彼女とは反対方向に足を向けた。

 既に時刻は夜も更けた頃で、倉庫の奥に眠っていた魔道具を掘り出して調整するのに、今までかかってしまっていた。

 件の魔道具は、何年も放置されていた割に、意外にも状態が良かった。そうでなければ、明日の早朝には出発するという遠征部隊に同行しながら調整を続ける羽目になっていただろう。

 もっとも、あの魔道具が本当に効果があるのかは――、確証がないのだが。

 精霊の魔物化は、その精霊の体内を巡る魔素(マナ)が突然変異的に澱み、それが蓄積されることで起こる……というのが、現在の通説になっている。

 その説を元に開発されたのが、今回運用が試されることとなった魔道具だ。「澱んだ魔素(マナ)」を吸収して、精霊から魔物化の原因を取り除くことを目的としている。

 開発当時の試用で、通常の精霊から少量の「普通とは違う魔素(マナ)」の吸収には成功している。だが、既に魔物となってしまった個体には上手く作用しなかったり、魔道具自体が壊れてしまったり、といったことが続き研究は頓挫した。

 そもそも魔道具が吸収した魔素(マナ)は、「澱んだ魔素(マナ)」と同等のものなのか分からない。その上、当時は今ほど魔物化の緊急招集が日常ではなかった。

 そういった種々の理由で、魔道具は倉庫の片隅に追いやられることとなったのだった。

 不安がないと言えば、それは大きな嘘だ。

 レイは、どうにも寝られる気がせず、寮への道を遠回りして戻る。

 ルリナの言った通り、早く寝た方が良いのは分かっていても、その足取りは重かった。

 正直なところ、魔道具がきちんと作用して、魔物化を抑制できるのかは五分――いや、可能性はかなり低いと思っておいた方が賢明だろう。

 助けられるんじゃないかと思いたいだけ。

 可能性があると、思いたいだけ。

 絶望……したくない、ただそれだけだ。

 レイはあまりに分の悪い賭けに目眩がしそうだった。思わず足を止め、立ち竦む。

「……俺は、なんのために」

 顔を覆い、呟いた声はくぐもって、あまりに頼りなく聞こえた。

 その時ふと、カツンと床を打つ音が聞こえて顔を上げた。廊下の先に人影が見える。どうやら先程の音は、その人物の足音だったらしい。人影は一瞬足を止めたようだが、すぐに一定の足音を響かせこちらへ歩いてきているようだ。

 ランプも持たずに歩き回る物好きが自分以外にもいたのかと、レイはぼんやりその姿を見た。

「そこで何してる?」

 聞こえた男の声に、話しかけられると思っていなかったレイは驚きでビクリと震えた。だが、何もやましいことはない。近付いてきたことで相手が帯剣していると分かり、見回りの兵か何かだろうと当たりをつけ、レイは控えめに答えた。

「王立研究室所属のレイ・アグリスです。明日の遠征同行の準備から寮へ戻る途中です」

「……そう。呼び止めて悪かったね。行っていいよ」

 レイはぺこりと会釈すると、足早に彼の横をすり抜けようとした。しかし、丁度真横を通った時、不意に手首を掴まれる。

「あ、待って。これ使いな」

 そう言いながら押し付けられたのは、何故かハンカチ。

「え、あの……」

「じゃあね。ここで会ったことは誰にも言わないから。それも返さなくていいよ」

 早口でそう告げた彼は、レイの手首を解放してあっという間に去っていく。

 呆然とその姿を見送ったレイは、彼が消えた廊下とハンカチとを見返して、どうやら泣いていたと思われたのではないか、と当たりをつけた。

「…………まぁ……」

 泣きたい気持ちではあったが。

 誰とも知れぬ不意の邂逅に、それまでの絶望的な気分は霧散した。これならどうにか眠れそうだ。

 その礼と共に、押し付けられたハンカチを返したいところなのだが――

「……けど、あいつ誰だよ……」

 暗がりで、しかも一瞬しか顔が見えなかった。これでは次に会っても気付くかどうか。

 レイはやれやれと肩を竦めて、とりあえず今日はもう寝てしまおうと、今度はちゃんと寮の方向へ足を向けた。

05

 まだ薄暗い夜明け前。

 城門の前に集合したレイは、眠たい目をこすりながらふあと欠伸をする。

 目の前では兵士たちが慌ただしく、遠征の最終チェックをしているようだ。人数が多いと大変だなぁと、半ば他人事でそれを見るともなしに見ていた。

「あら、おはよう。早いのね」

 その声に顔をめぐらせると、手を振りながらやってくるルリナの姿を目に止める。

「おはようございます。今着いたとこですよ」

「用意は?」

「今他の人が。俺は見張り兼魔道具の最終確認を」

 レイは隣に積まれた木箱を指差しながら答える。今回必要な魔道具は、大きさとしてはそれほどでもない。両手で抱えられるくらいのものだ。それを試作段階のものも含めて計三つ。それと調整用の道具やらなんやらを入れたものとを持参することになっていた。

 野営の道具などといったものは、軍のものを借りることになったらしく、あと必要なものといえば個人の防寒具などといったものくらい。つまり用意するものもかなりすくないので、こうして兵が慌ただしくするのをぼんやり見ていられる、というわけだ。

「調整はもう済んでるので、あとは積み込むだけです」

「そう。室長は?」

「ついさっき、ちょっと顔を見せてすぐ帰りましたよ。今回はヘンデルさんが責任者だからって」

 今回の遠征に同行するのは計五人となった。室長のブルーノは来ないことになったので、その代わりを務めるのが副室長のヘンデルだ。

「そうなの。じゃあやることないね」

 ルリナは肩を竦めると、レイの隣に同じように立った。他の仕事や今回の遠征について、ぽつぽつと喋りながら出発時刻を待っていると、それまで走り回っていた人々が集まりだす。すると今度は城の方から、階級の高そうな数名を引き連れた人物がやってきた。

「傾注!」

 その一言で、まだ作業をしていた者も手を止めて敬礼した。

「……あれ誰ですか?」

 服装から見るに軍部の人間のようだとは思ったが、そのあたりに明るくないレイは、彼らの邪魔をしないように小声でルリナに問いかけた。

「ああ……、たぶん軍務長官よ。周りにいるのは第二師団か第三師団の、隊長とか副隊長クラスの人だと思うわ」

 フィアスリートの軍は大きく五つの師団に分かれている。第一師団は王族の警護。第四師団は街の治安維持を担当している。そして件の第二師団と第三師団は、それぞれ近接戦闘のスペシャリストと魔導師たちが所属している部隊だった。

 それらを思い出し、ルリナの返答に納得する。第五師団は噂ばかりが先行する実態不明の師団なのでともかく。これらか起こると予測される、「魔物の討伐」という点では、彼らをおいて適任はいないだろう。

 だが――、レイは少し眉根を寄せ首を傾げる。

「ということは、アレも……?」

 つい「アレ」という失礼な呼称をしてしまうくらいには、視線の先にいる男はその場に不釣り合いに見えた。

 今は兵たちを鼓舞するべく演説をしている軍務長官と一人を挟んで隣に立つその男は、長い金髪を肩口に垂らし、軍服はとても着崩れていて首元が大きく空いている。誰も何も言わないのが、レイの目には異様に見えた。

 怪訝な顔で男を見ているレイに、ルリナは苦笑交じりに笑う。

「まあ、見えないよねぇ。でも、あの人――名前はたしか……、そう、フェデリオ・ルミノールって言ったと思うけど……。あれでも第二師団の第一部隊副隊長なのよ」

「第一小隊って……、たしか剣術に最も優れた隊じゃ……」

 第二師団では武器種ごとに小隊が組まれているらしい。中でも最も人数の多い剣術は、数個の小隊に腕前で分かれて所属していると聞く。

 増加する魔物の脅威に立ち向かうため、訓練の効率化を図るため何年か前に再編成されたとかなんとか、聞いたことがあるが、今重要なのはそこではない。

 第二師団第一部隊というのが、その剣術部隊の中で最も優れた剣士の集まりだということだ。

「あ、あんな軽薄そうなのが……!?」

「らしいわ。あんまり真面目じゃなくて、上層部も手を焼いてるけど、それでもあの地位におかなきゃ駄目なくらい優秀――って、有名よ」

「へ、へぇ……」

 俄にはとても信じ難い。

「――レイ、ヘンデルさんが呼んでるわ」

「あ、はい。今行きます」

 レイは彼に背を向けかけ、最後に一瞬だけ振り返る。

 どうして、あの男はあんなにも……、全てがつまらなさそうな目をしているのだろう。

 新緑の若葉を思わせる明るい緑の瞳は、その色に似つかわしくないほど淀んで見えた。

 レイはその姿から目を背けるようにして背を向ける。

 何故だか、心が酷くざわざわした。

06

 ガタゴトと荷馬車が揺れる。

 外には田畑が広がり空も良い天気で、ピクニックにでも出たかのような錯覚を覚える。

 時刻は既に昼をまわり、現場である東の森までかなり近い場所まできていた。夕刻には到着するだろうとのことだ。

「さて……、これが東の森周辺の地図なんだが――」

 レイをはじめとした王立研究室の面々は、ヘンデルが置いた一枚の紙を覗き込んだ。

「このバツ印が『深淵なる森の賢者』のいる所ですか?」

 ルリナの問いにヘンデルが頷いた。

「先遣隊が陣を築いているのがここで……、『賢者』から少し離れた所で様子を窺ってるらしい」

 森を少し入った所にある丸印を指して、バツ印を囲むように書かれた線をなぞった。

「三時間前の時点では、まだ精霊の姿を保ったままだったそうだ」

 魔物化した精霊は、体内にある魔素(マナ)の構成が変わるためか、体色が大きく変わる。個体差はあるが、多くが黒などの濁った色に変わる。「深淵なる森の賢者」は元々の色が美しい白色のため、変化が見られれば遠目でもすぐに分かるだろう。

 魔物化が進んでいないというヘンデルの言葉に、レイも少しほっとする。

「それで……、俺たちは到着したらどうすれば良いですか?」

 レイが尋ねると、ヘンデルがもう一度地図のバツ印を囲む円をなぞりながら口を開いた。

「この線までが安全に近付ける範囲なんだそうだ。だが、魔道具の有効射程はそれよりも短い……」

「つまり、誰かに警護してもらわなければ近付けないということですね」

「ああ、そうだ。レイ、魔道具の起動から魔物化の沈静まで、どのくらいかかる?」

「これまでのデータから計算上――、最低一分。最大……十五分です。ただ、どの程度の魔素(マナ)を浄化する必要があるか分からないので……、正直、もっとかかるかもしれません」

 なにせ最新型でさえ試作機なのだ。そもそも有効なのかどうかさえ曖昧だ。

 この魔道具は、いずれ完成させようと思っていた。完全に魔物化した精霊すらも戻すのが最終目標だ。それは今もレイの中では変わっていない。

 ただそこに至るためには、もっと学ばねばならないこと、もっと解明せねばならないことがあり、普段の業務に忙殺され、いつしか忘れてしまっていた。

 いや、あまりにも進まない開発に情けなくなり、見ないフリをしていただけだ。

 レイは何故、少しずつでも試作を続けなかったのかと、今更ながら後悔を感じていた。

 何故、いつまでも時間があると思っていたのか、と。

「すみません。曖昧な答えしかできず……」

「いや。開発を中断させたのは、室長はじめ私たちだ。気に病むことはないよ」

 たしかに、成果が出せず悩んでいた当時のレイに、別のものに目を向けるよう言ったのは、室長のブルーノや目の前にいるヘンデルだ。

 しかし、レイは首をふるりと振った。

 完全に止めてしまったのは、やはり自分だから。

「それに……、こんな曖昧なものに突き合わせる兵士たちにも申し訳が――」

「あぁ、そんなの気にしなくていいよ〜」

「いや気にしない訳には……、――は?」

 突然割って入った聞き慣れぬ声に、レイはパッと顔を上げた。

「やあ」

 レイの丁度真正面に、あたかも最初からそこにいたかのように軍服の男が座っていた。

「あ、あんた……」

 絶妙に着崩れた服、金髪のゆるいカーブを描く長髪に整った顔――。出発前に、酷く退屈そうにしていたフェデリオなる男が、何故かここにいた。

 他の研究室の面々も、彼の登場に驚いているようで、ぽかんとしている。

 フェデリオはそれを気にするでもなく、話を続けた。

「なんか面白そーな話してるなぁと思って。魔物化を止める魔道具? そんなのあるんだね」

「まだ……試作段階、だけど……」

「いやいや、十分すごいでしょ。それで……、『賢者』に近付かなきゃなんだっけ?」

「……まあ、そう…だけど」

「なるほど。じゃあ、急いだほうがいいね。――さっき伝令が来たんだけど、少し魔物化が進行してるらしいし」

 さらりと告げられた言葉に、ピリリと緊張が走った。

 顔を強張らせるレイに、フェデリオは意図の読めない微笑を浮かべる。

「さっきも言ったけど、こっちのことは気にしないで。それより、あと数時間で着くから、着いたらすぐに動けるように準備しといて」

「あ……」

 フェデリオはサッと立ち上がると、荷馬車の端の方へと歩いていく。

「それじゃあね、レイ」

 彼は手を振ると、近くに並走させていた馬にひらりと飛び乗って、あっという間に前方へ向かって姿が見えなくなる。

「…………何だったんだ……?」

 ぽつりと零れた疑問に、答えてくれる者は誰もいなかった。

07

「ですから、早ければ早い方が良いと……」

 夕刻に差し掛かり、東の森に張られた軍の天幕に辿り着いた。

 フェデリオの言葉に従って、魔道具の準備をしていたところ、先遣隊の長として既に現場にいた第二師団長に呼ばれて今に至る。

 第二師団長に対し、困ったように言葉を返したのはヘンデルだ。レイはその後ろで、他の研究室の面々と共に、彼らの様子を見守っていた。

 いわく、間もなく日が沈むため「賢者」の下へ向かうのは許可できない、とのことだ。

 レイたちも、その言い分を理解できないではなかった。しかし、魔道具が未完成な以上、魔物化が進行すればするほど元に戻せる確率が下がっていく。そのため、まだ日のある今のうちに、試しておきたいというのが本音だった。

「部下を危険に晒す訳にはいかない」

「ですが、まだ今なら日のある内に戻ってこれるはずです……!」

 先程からずっと、第二師団長とヘンデルの問答が続いている。

 レイは落ち着かない気持ちの中、天幕の隙間から空を見た。こうしている間にも、夜は近付いている。

 早くしなければ。今ならまだ間に合うかもしれないのに。

 そんな焦燥がレイの胸を満たす。

「理由は述べた通りだ。理解されよ」

 にべもない第二師団長に、レイの苛立ちは限界を超えた。

「――だからって、『森の賢者』を見殺しにするんですか!?」

 しまった、と思った時には既に言葉が飛び出した後だった。第二師団長の冷たい眼差しがレイを射抜く。

「確証もない物を当てにして、兵たちを危険に晒せと? それで誰かが傷付けば? 死んでしまったなら? 君は責任が取れるのかね」

「……っ、それは」

 第二師団長の言うことは分かる。自分の我儘で誰かが傷付いたとして、責任など取りきれるはずもない。

 だがそれでも、どうしても引けない。だって、ここで引いてしまえば自分は――

「――師団長ってば、おかしなこと言うんですね」

 不意に脳天気な声が割って入る。驚いて天幕の入口を見れば、そこにはフェデリオがいた。

 レイと目が合った彼は、パチンと片目を瞑る。

「君たちがどこにもいないから探しちゃったよ。それじゃ、時間ないんで彼らを連れて行きますね、師団長」

「待て、どこへ行く気だ」

 話を向けられた第二師団長は、頭痛でも感じたかのように眉間を抑え、唸るように言った。

「どこって……。『賢者』の所しかないでしょ」

「私は許可していない」

「はあ……、ほんと頭固くて嫌になるな」

「フェデリオ!!」

 やれやれと溜息をついたフェデリオに、第二師団長は激高するが、怒鳴られた当人はどこ吹く風のまま続ける。

「さっきの『責任がどうの』って話でしょ? 師団長こそ責任取れるんですか?」

「……なんだと?」

「たった数人の犠牲を惜しんだがために、『賢者』が魔物になったせいで死ぬ大勢の人を生んでしまっても」

 第二師団長が言葉を詰まらせる。

「可能性で言うなら、そっちもありますよね。――……じゃあ、連れて行くんで」

 フェデリオがレイの二の腕を掴んで天幕の外へと引っ張っていく。

「…………許可する」

 ぽつりと聞こえた第二師団長の声は、深い溜息の混じったような声だった。

08

「――ちょ、いいのか!?」

 されるがままに腕を引かれていたレイは、前を行くフェデリオに言った。

「ん? 何が」

「何がって……」

「ああ、『数人の犠牲』って言ったこと? あれは言葉のあやだから。失敗しても全員無事に返すよ。約束する」

「そうじゃなくて。いや、それもだけど……」

 フェデリオが不思議そうな顔で振り返る。

「あんたのことだよ。上官だろ? あんな風に言って良かったのか?」

「ああ……」

 あんなにも不遜なことを言って罰せられないのか。協力はありがたいが、もし何か厳しい処罰が下されるなら寝覚めが悪い。

 だがやはり、フェデリオはケロリとした様子のまま、何でもない風に肩を竦めた。

「いいのいいの。どうせいつものことだから、って諦めてるだろうし。精々始末書か何か書かされる程度だよ」

「……なら、いいけど。………… 『いつものこと』……?」

 なんというか、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がしたレイは、ぷるぷると頭を振って今聞いたことを忘れることにした。

09

 フェデリオの隊数人と合流したレイ達は、魔道具と共に森へと分け入った。

「先に言っておくけど、撤退の指示には従ってね」

 まだ「賢者」のいる場所まで距離があるため、多少緩んだ空気のまま一行は歩を進める。

 そんな中、口を開いたフェデリオにレイは「まともなことも言うんだな」と些か失礼なことを思いつつ、素直に頷く。

 これからレイたちが行おうとしている作戦――、というほどでもない行動指針はこうだ。

 魔道具を持った三人と各人についた護衛とで、魔道具の射程範囲ギリギリまで近付く。「賢者」が動かなければ、そのまま動きに警戒しつつも魔道具を起動するだけだ。ただ、「賢者」に動きがあった場合は、フェデリオたちが「賢者」を引き付けて時間を稼ぐことになる。

 相手の攻撃性によっては、非常に危険が伴う。

 だがフェデリオは、軽い調子のまま緊張する素振りすら見せていない。彼の部下たちは、森を進むごとに緊張感を高まらせているのに、だ。余程、腕に自信があるのか、それとも――。

 フェデリオは、森に潜んでいた「賢者」の動向を観察する一人のもとへと駆け寄り、何言か言葉を交わして戻って来る。

「今のところ目立った異常はなし。だから、作戦は続行する。全員、今まで以上に気を引き締めて」

 その言葉に全員が頷き返すと、一行はまた森を進む。

 すると、すぐにレイにも分かるほど空気が変わった。

「――っ」

 息を飲む。

 威圧感を覚えるそれに、どうにか気圧されてしまわないように、レイはぎゅっと拳を握り締めた。

 足取りが自然と慎重になる。

「……あ」

 そして視線の先に、「深淵なる森の賢者」の姿が見えた。

 身体を丸めて眠っているようにも見えるその白い牡鹿は、前情報と違わぬ姿だ。だが――

「……黒い」

 姿形は何も変わっていない。だが、あの時の清廉ささえ感じた白い輝きは鳴りを潜め、代わりに黒い靄のようなものがかかって見えた。

 レイはぎゅっと胸が潰されるような気持ちがした。

 何よりも、彼が苦しんでいるのが分かる。その中でも、じっと動かず耐えるのは、どれほどの精神力がいるか。

 駆け出したい衝動を、どうにか抑え込む。

 だがその時、「賢者」の目が突然開いた。

 目が合った――、そう感じた次の瞬間には、「賢者」はこれまでの微睡みが嘘のように、すくっと立ち上がっていた。

「――っ! 総員、退避!!」

 フェデリオの鋭い声が飛ぶ。だが、それに対処出来るはずもなく、次の瞬間には強い光で目の前が真っ白になっていた。

 まごついていると、腰を引かれ、そのままぐんっと移動するような感覚があった。

「怪我は」

 ハッと気付くと、レイはフェデリオに抱えられていた。

「あ……、いや、ない。大丈夫……」

 地面に下ろしてもらいながら辺りを見れば、フェデリオの背後にある地面が線状に焼けていた。草がチリチリと焦げてしまっている。

 それを認識した瞬間、ゾッと背中が粟立った。

「これ、『賢者』、が……?」

「みたいだね。思ってたよりずっと厄介だ」

 フェデリオがいなければ、あれをもろに食らっていたのだろう。そうなっていれば、どうなったかなど――考えるのも恐ろしい。

 他の皆はと首を巡らせれば、レイと同じようにそれぞれ無事だった。そのことにほっとしつつ、抱えていた魔道具に視線を落とす。

 これを使う暇など、あるのだろうか。

 あんな攻撃、かすっただけでも無事では済まないだろう。報告書の数字で見ていた、魔物との戦闘による死傷者数。それが、実感を伴って恐怖に変わる。

 でも……。

「レイ、どうしたい?」

「え……?」

 フェデリオの問いかけに顔を上げる。

「このまま戻るのが一番安全だね。正直、想像以上の相手だから、討伐じゃなくて護衛と牽制となると、僕以外には荷が勝ちすぎてると思う」

 やはりそうなのか、と納得しかけ――彼の言葉に引っかかりを覚えた。

「『僕以外には』?」

 フェデリオはニヤリと笑って、頷いた。

「そう。だから、一番出来の良い魔道具を持った、一番この魔道具を上手く扱える人間一人。それくらいなら、僕なら守れる」

 フェデリオの条件に合致するのは、どう考えてもレイ自身だ。今レイが持っているものが、試作品の中でも一番最新で、開発者なので一番上手く扱える。

「もうかなり魔物化が進んでるみたいだし……、今を逃せばチャンスはないだろうね」

 フェデリオが「賢者」の方を指差す。

「――!」

 そこには、深い闇のような黒色をした、大型の狼のようなものがいた。

 いや、その身体はうっすら透けていて、狼の身体に包まれるようにして「賢者」の姿が見える。

 牡鹿が狼に完全に飲まれた時、「賢者」が完全な魔物になってしまう。そう、察せられた。

 どうする。

 レイの答えを待つように、フェデリオはじっとこちらを見つめてくる。

 何故、彼の目はこんなにも凪いでいるのだろう。自分だって、無傷でいられるかなど分からないのに。

 けれど――。

 レイは迷いを振り切るように、ぎゅっと目を閉じ、ゆっくりと開いた。

「――――やる」

 今やらなければ後悔するから。きっと、一生ずっと。

10

 魔道具は大きな丸底のガラス瓶を中心に、魔素(マナ)のより分けと吸収をする機構を組んだものだ。

 レイはそれを設置し、対象範囲を決め、魔道具を起動し――調整まで行わなければならない。

「君の安全を考えると、五分が限界だ。それを超えたら撤退するからね」

 フェデリオの忠告に頷き、「賢者」の元へと駆けだした彼の背中を追う。

 この五分間、レイは身動きが取れなくなる。フェデリオはその間、激高する「賢者」の注意を引き、魔道具から距離を取らせなければならない。

 双方、危険が伴う作戦だった。

「レイ!」

 先に「賢者」の元へと辿りついたフェデリオが、事前に部下の一人に借りていた短剣を抜いて森の少しばかり開けた場所へと誘導する。

 レイはそれを確認しつつ、その端にしゃがみ込み、魔道具を地面に置いた。

「――起動」

 ふぅと大きく息を吐いて、呟いた言葉に呼応して魔道具が淡い光を放つ。

 レイはすぐに対象範囲を決め、魔素(マナ)の浄化に取りかかった。魔道具が正常な魔素(マナ)とそれ以外とをより分けて、それ以外の魔素(マナ)を圧縮しガラス瓶の中に溜めていく。

 ぽたりぽたりと落ちるそれは、黒く濁った液体の姿で瓶に溜まる。

「……っ」

 理論上は、五分あれば少なくとも小康状態に戻すことが出来る。

 暴れなくさえなれば、あとは時間をかければ良いだけだ。

 レイは魔素(マナ)の吸収量と効果範囲を、「賢者」の動きを見ながら細かく調整する。効果範囲は狭い方が吸収効率が上がるが、相手は生き物な以上その場に留まり続けてはくれない。また、吸収量は上げ過ぎると精霊にとって苦痛を伴うらしく、暴れることが多い。そのため、こちらも状況を見ながら調整する必要があった。

 フェデリオは「賢者」になるべく傷を負わせないように、と腰に帯びている長剣ではなく、回避を優先して武器を短剣にしたのだという。

 だがそれは、当然間合いが狭くなり、フェデリオにとっては危険が高くなる。

 右へ左へ後ろへ、と彼は器用に飛び回りながら、狼の姿となりつつある「賢者」の牙や爪を避ける。攻撃を受けるために短剣を使っている以外は、防戦一方に徹しているようだ。

 下手に手負いにしてしまっては、むしろ危ないからだと言っていたが――、このままで五分も凌げるのだろうか。

 魔道具には吸収した液体状の魔素(マナ)がどんどん溜まっているが、「賢者」の見た目にも攻撃性にも変化を見て取ることはできない。

 一体、どのくらいの時間が経った?

 撤退はフェデリオのタイミングに任せることになっていた。

 彼はまだ戦っている。

 つまりまだ、定刻はきていない。

 だがレイには、まるでこのたった数分が何時間にも及んでいるような錯覚すら感じられた。

「あっ……」

 フェデリオの頬を爪が掠る。ピッと真っすぐに入った傷は、じわりと血を滲ませる。

 レイは血の赤にゾッとした。

 あの爪がもっと深く入っていたら、一体どうなっていただろう。

 それだけ危険なことに、他人を巻き込んだのだという実感が、強くレイの中に湧いた。

 焦燥が募る。

 早くしなければ。「賢者」を落ち着かせられれば、それだけ危険度は下がる――。

 その焦りが、レイの手元をほんの少し狂わせた。

「ギャウッ!」

 狼の巨体がビクンと跳ねて、フェデリオへの攻撃が止む。

 一瞬、奇妙なくらいに場が静かになった。

 しまった――。そう思った時には。「賢者」がこちらを向いていた。

 魔素(マナ)の吸収量を誤ったのだ。

 攻撃対象がレイに移った。フェデリオにも察しがついたのだろう。これまで防戦一方だった彼が、短剣の持ち方を変える。そして「賢者」の方へ、それを振り下ろし――

「傷つけないでくれ!!」

 レイの叫びに、フェデリオの手が宙で止まった。その隙をついて、「賢者」がレイの方へと駆けだした。

 ああ、これは死ぬな。

 レイは自分でも不思議なほどに、穏やかにそう思った。

 ならば、とレイは魔道具に視線を落とし、効果範囲を可能な限り広げた。

 自分が倒れた後であっても、どうか「賢者」を戻してほしいと願いを込めて。

 その調整を終えると、魔道具が壊されないように、けれど「賢者」が範囲から出てしまわないように、横へと走る。

「――レイ!」

 フェデリオの声が聞こえた気がしたが、構わず走る。

 これでいいんだ。これで。

 そもそもが「賢者」に救われた命だ。

 ならば、少しくらい報いることが出来たのではないか。

 狼の巨体が迫る。

 息遣いさえ感じられるほど近くに感じて、レイは懐かしさに目を閉じた。

 叶うならばもう一度――、あの輝く白い牡鹿の姿が見たかったな、と思いながら、その時を待った。

 しかし――

 すぐにでもやってくると思われた痛みは、いくら待ってもやってこない。

 レイはそろりと目を開ける。

 そこには、フェデリオの背中があった。

「――っ!」

 思わず息を飲む。

 フェデリオは背にレイをかばった状態で、左腕に狼の牙を受け止めていた。

「あんた、腕……!」

「あ、はは……。ちょっと格好つけすぎたかな……」

 腕に食い込んだ牙から血が溢れている。

「言った…ろ? 『全員無事に返すよ』って……」

 そう言って笑うが、その笑みは痛みに引きつっている。

 狼はフェデリオの腕を噛むことを止めぬまま、苛立たしげに目を細めた。そして、ぐんっと首を振って、フェデリオを遠くへ投げ飛ばす。

「うわっ」

 フェデリオはどうにか受け身を取れたらしく、すぐに起き上がろうとしていた。だが、それでもかなり遠くへ飛ばされた彼が戻ってくるまでには時間がかかる。それまでに、レイの命運は尽きるだろう。

 レイは自分のせいで怪我をさせたフェデリオに、心の中で詫びつつ彼から視線を逸らした。

「……なあ、」

 レイは「賢者」に呼びかける。

 狼ではなく、その中にうっすらとまだ見える牡鹿の目を見つめながら。

「俺、おまえに食われるなら、それでもいいかなって思ってるんだ。けど――」

 レイは手を伸ばして、牡鹿の身体に触れた。

「おまえを元の姿に戻せないことだけが、心残りなんだ」

 牡鹿の首に腕を回す。

「な、頼むよ。戻ってよ」

 レイはそのまま牡鹿の首に、頬を擦りつけるようにして抱きしめた。

「あの時……、俺を助けてくれた、あの日の姿に」

 ピクンと「賢者」の身体が震えた。

 そして、カッとその身体が白く光る。

 レイはあまりの眩しさに、ぎゅっと固く目を閉じて、牡鹿の首をさらに強く抱いた。

「っ……」

 何か、身体から何かが抜け出ていく気がした。

 立っていられなくなって、レイは膝をつく。だが、「賢者」から離れはすまいと、その身体を必死に掴んだ。

 そして、強い光が収まった時――、レイの頬にあたたかい感触が触れた。

「あ……」

 うっすらと目を開く。

 そこには、白く輝く――依然と寸分違わぬ姿をした牡鹿の姿があった。

 清廉な姿に戻った「賢者」は、レイを心配するように頬をすり寄せる。

「……うん、そう。あの日、あの雪の日に、おまえが助けてくれた……」

 レイはべしゃりと地面に倒れ込んだ。

 何故だか酷く眠い。

「これで、少しは恩返し、できたかな……」

 もう少し、彼の姿を見ていたい。

 けれど、襲い来る睡魔に抗えずにレイは目を閉じた。

 なにやら周囲が騒がしくなったように感じたが、レイは牡鹿のぬくもりの中で意識を手放した。

11

「……失礼します」

 レイは医務室の近くにある個室の扉を開けた。

 中に入れば、部屋の中央にあるベッドに一人の男が眠っている。フェデリオである。目を瞑り、黙っていればどこか幼い印象を受けるその顔を見下ろし、レイは小さく溜息をついた。

 既にあの森での一件から早三日が経っている。

 魔物化の脅威から突如解放された「深淵なる森の賢者」は、レイが気を失った後、すぐに森の奥へと消えたらしい。レイ自身も帰りの荷車の中で目を覚ました。

 だが、この男だけがいまだに目を覚まさずに眠っている。

 外傷は、頬と左腕の傷、それから数ヶ所の軽い打ち身だけ。頭をぶつけたようでもなく、そもそも「賢者」に投げ飛ばされてすぐは、意識があったのをレイも確認している。

 一体いつ彼が意識をなくしたのか。それが何故なのか。

 何も分からないまま、時間だけが過ぎていた。

 レイも自分がこの件と無関係とは思えず、日に一度はこうして様子を見に来ていた。

 窓から吹き込んだ風が、カーテンを揺らす。

 不思議だな、とレイは思った。

 あの遠征に出るまで、この男と面識どころか、存在すら知らなかったというのに。「知人」とすら言えないような関係性でしかない男の顔を、こうして毎日欠かさず見に来ているのが、とても不思議だった。

「あんたは……、一体いつ目を覚ますんだろうな」

 整った顔に貼られたガーゼだけが不似合いで、なんとなく痕が残らなければいいなと思う。

 きっとこの一件が片付けば、もう二度とこうして近寄る機会はないだろうけれど。

「今、『賢者』が何故戻ったのかについて、議論されてるよ。起きたら多分あんたも質問攻めだろうな」

 短い付き合いだが、のらりくらりと躱す姿が想像できて、レイはふっと笑いをもらした。

「――じゃ、帰るよ。あんたも、あんまり他人にいられると落ち着かないだろ」

 レイはくるりと身を翻して、部屋を出ようと足を一歩踏み出した。

 いつもなら、そのまま静かに部屋を出て研究室に戻る。

 だが、今日はレイの手首を誰かが掴んで、引き留めた。

「え」

 思わぬ方向に引かれたレイは、そのままぽすんとベッドの上に腰かける格好となった。

「お……」

 レイの背後には当然一人しかいない。

 起きたのか? 言おうとしたレイの言葉は、手首を掴んだ張本人によって遮られた。

「やあ、おはよう。美しい人。目覚めと共に君の姿が見られて光栄だよ」

 これまでの倍以上の軽さで発せられた言葉に、レイは何とも言えぬほどに顔をしかめて言った。

「…………目でも、腐り落ちたのか?」

 もしくは、脳が焼き切れたか。

 何故だが一向に手首を放そうとしないフェデリオの目覚めを、周囲に知らせられたのはしばらくあとのことだった。

12

「やだやだやだ! レイと一緒にいるー!」

「うるさい、ガキか! あんたも仕事あるだろうが!!」

「そんなのなーいー!」

「嘘つくな! さっさと行け!!」

 レイは追いすがるフェデリオを、廊下へと蹴り出して扉を閉める。

 まだ扉越しにわめく声が聞こえるが、しばらくすると諦めたのか静かになる。

「…………、おはようございます」

 レイは小さく息をついて振り返ってそう言った。

「ああ、うん……。おはよう」

 苦笑いを浮かべながら返答する研究室の面々に、申し訳なくなりながらレイは自分の席についた。

 ここ数日ですっかりおなじみになってしまった、朝の光景だった。


 事の発端は、当然あの頭のおかしな発言をはじめたフェデリオにある。何の因果か、彼はあの日を境にこうしてレイを追いかけまわすようになっていた。

 もちろんそんなフェデリオは、医師の精密検査を受けることになり――、異常なしと診断された。

 ただ――

「まだ何の呪いか分からないんですか……?」

 ぐったりとしたまま、レイは室長のブルーノに問いかける。

「……残念ながら」

 彼の返答に大きく溜息をつく。

 そう、フェデリオは呪われた。

 ほとんど魔物と化していた「深淵なる森の賢者」によって。

 今のフェデリオに身体的な問題は、怪我を除けば存在しない。だが、その怪我――特に左腕に負った傷が問題だった。

 その患部には、物理的な外傷とは別に、黒い痣が刻まれていたのだ。

 魔物化した精霊と対峙した時、時折こうして人間に悪影響を与える「何か」を刻まれることがある。

 それを総じて「呪い」と呼んでいた。

 専門的には魔法の一分野として、特に人に害をなすものをそう分類している。そのため人の作りだしたものには、解呪法が存在する。だが、今回のフェデリオのように、精霊が絡んでいたり、それ以外にも原因不明であったり、そうしたものについては殆ど何も解明されていないのが現状だった。

 左腕に刻まれた痣から、何やら呪いにかかっているのではないか、今の奇行はそのせいではないか、と推測しているに過ぎないのだ。

「まあ、そう簡単にわかったら苦労しないわよねぇ」

 肩を竦めながらそう言うのはルリナだ。

 呪いについては、本当に分かっていることが少ない。症例も少なければ、その時の状態も多岐に渡り、前例があてにならないことが多い。

「そもそも呪いについては、うちの国が一番研究進んでるはずだし……」

「そうなんですか?」

 ルリナはこくりと頷く。

「精霊と近い国、っていうのもあるかもだけど、一番の理由は王女様でしょ」

「王女様……?」

 フィアスリート国王には現在三人の子供がいる。王太子に、国外へ遊学中の第二王子。それから、病弱であまり表に出てこない末の王女だ。

 レイの鈍い反応に、ルリナが目を瞬かせる。

「あら、知らない? 王女殿下のご病気は呪いによるものだって」

 彼女が「そうですよね」とブルーノを見れば、彼もそれに頷いて返す。

「生まれついてのものだそうだがな。――そうだ、レイ」

「はい?」

「その王女殿下が、お前に会いたいそうだ」

「…………はい?」

13

「レイ〜! 朝ぶりだね!」

「な、あ……!?」

 うららかな昼下がり。

 王女からの呼び出しを受けたレイは、彼女の暮らす宮のテラスへと向かった。そして、そこで待ち受けていたフェデリオに「あんた、なんでここに」と言いかけ――、慌てて口を閉じた。

 彼の後ろに、それ以上の存在感を放つ二人がいたからだ。

「お、王太子殿下……?」

 呟いてから、ハッとして最上位の礼をする。

 フェデリオの後ろには二人――車椅子に座って楚々と微笑む王女セラフィアナ。そして何故ここにいるのか、王太子エゼルフィードが立っていた。

「お初お目にかかります。王立研究室所属、レイ・アグリスです」

「ああ、楽にしていいよ。今日の主役はあくまで君と、我が妹だから。そうだね、セラフィアナ」

 そう言いながらエゼルフィードが一歩下がると、セラフィアナは付き人の男――服装からして、護衛の魔導士だろう――に、車椅子を押されて少し前へと進み出た。

「そうですわ、お兄様。だから今日はご一緒したくなかったのに。お兄様がいると、お相手の方は委縮なさってしまわれますのよ?」

 セラフィアナは可愛らしく頬を膨らませて兄を睨み、続いてレイに同意を求めるかのようにこちらを向いて小首を傾げた。こちらとしては、「はい」とも「いいえ」とも答えづらく、曖昧に笑って流した。

「仕方ないだろう? 愛しい妹が男に興味を示しているとなれば、兄として――」

「もうっ。そのような『興味』ではないと、ご存じでしょうに」

 軽快に続く兄妹のやりとりを半ば茫然と見ていると、そろりと近寄ってきたフェデリオがレイの耳元で囁いた。

「……この二人、いつもこんな感じだから、あまり気にしなくていいよ」

 と言われても、とは思ったが――。

 レイは少し肩の力が抜ける。

「わかった。……ありがとう」

 小さな声で礼を言うと、フェデリオがピシリと固まった。不思議に思って彼を仰ぎ見ると、なんとも真面目な顔で口を開く。

「抱きしめていい?」

「しばくぞ」

 腰に回されつつある手を抓りあげていると、セラフィアナがハッとしたようにこちらを向いた。

「あら、わたくしったらお客様をお待たせして……。さあこちらへ。座ってお話をしましょう、レイ様」

「あ、はい」

 彼女の後をついていくと、そこには丸テーブルとその上にはお茶やお菓子の用意がされていた。四つある席のどれに座ればよいのか迷っていると、さりげなくセラフィアナに誘導される。その椅子に慎重に座ると、フェデリオが当然のように隣に座る。対面にはセラフィアナが、護衛の男にお姫様だっこで席を移してもらい、彼女の隣にはエゼルフィードが座った。

 テーブルマナーも何も分からないため、「気にしなくていい」というセラフィアナたちの言葉に甘えさせてもらい、勧められるまま茶を一口飲む。

「それにしても、フェデリオ様のお変わりようには、わたくしも驚きましたわ」

 レイは呪いを受ける以前のフェデリオをほとんど知らない。

「……そんなにも変わったのですか?」

「ええ、それはもう。別人だと言われても信じてしまいそうなほど」

 解呪の手掛かりになればと問うと、セラフィアナは花が綻ぶように微笑みながら頷く。もう少し詳しく聞いてみようか、とレイは口を開こうとする。だが、それを察知したようにフェデリオが口を挟んだ。

「ちょっとちょっと、前の話はいいでしょ、殿下〜。レイに知られるのは恥ずかしいよ」

「あら……」

 意外そうに目を丸くしたセラフィアナは、フェデリオとレイを交互に見やったあと、やわらかく目を細めた。

「仕方ありませんね。今のフェデリオ様に免じて……。では、こんなお話はどうですか――」

 セラフィアナは茶会のホストとして優秀らしい。和やかな会話が続くとともに、レイも次第に彼らの輪の中へ自然と溶け込めるようになっていったのだった。

14

「レイ様、少し二人でお話しいたしませんか?」

 しばし四人で談笑した頃、セラフィアナが向こうに見える花壇の方を指差しながらそう言った。

「はい、もちろん」

 やっと本題か。

 そう思いながら、レイは立ち上がる。「会ってみたい」と請われてこの場にやってきたが、これまでの会話はいわゆる世間話のようなものばかりだった。だが、わざわざ呼び立ててそんな話ばかりとは思えない。何か確認したいことなり、聞きたいことなりがあるのだろうと、予想していた。

 レイの返答にセラフィアナも頷き返して、車椅子に移動する。庭を歩きながら少し話を、ということだろう。

 だが、一歩足を踏み出したところで、後ろから服の裾を掴まれる。

「……おい」

 当然、レイの動きを止めたのはフェデリオだ。

「殿下、僕は行っちゃダメですか?」

「んー……。少し、遠慮をしてほしい…な、と思いますわ、フェデリオ様」

「……どうしても?」

 フェデリオはそう言いながらも、レイの服を掴む手を離す気配は一向にない。セラフィアナが困った顔をしているのを見て、レイは無理やりにでも引き剥がすかと思いはじめる。だが、それを実行に移す前に、セラフィアナが動いた。

「フェデリオ様、少しお耳を……」

「? はい……」

 セラフィアナの傍に歩み寄って膝をついたフェデリオに、彼女は口を寄せ何事かを囁く。そして、ぱっと離れるとにっこりと微笑んだ。

「これではいけませんか?」

「んむぅ……」

 フェデリオは口をへの字に曲げて唸ったあと、不承不承の様子ながら頷いた。

「――分かりました。あ、ただし十分間だけですよ! 十分!」

 話をするのはこちらなのに、勝手に条件をつけるフェデリオに、セラフィアナが楽しそうに笑う。

「はい、承りましたわ。十分間でお返しいたします」

 行きましょうと先導するセラフィアナについていく――、その前にフェデリオの方を向く。

「わがまま言うなよ、まったく……」

「えー、やっぱり行っちゃダメ! って言おうかな……」

 レイは呆れ混じりに溜息をついて、彼の頭をべしりと叩いてからセラフィアナの背を追った。

15

「それで、お前は我が妹に何と言って下がらせられたんだ?」

 フェデリオはレイの後ろ姿を少し見つめた後、ニヤニヤと笑うエゼルフィードの対面に戻った。

「別に」

 揶揄いの種をやる気にはならず、フェデリオは肩を竦めるに留める。

「は、彼がいなくなった途端、素気のないことで」

 フェデリオはエゼルフィードの言葉を無視して、頬杖をついた。当然視線はレイの方に向けられている。

「で、実際どうなんだ。身体の方は」

「何ともありませんよ。怪我も治ったし……、むしろ元気なくらいです」

 そもそも森で負った傷は大したことないものだった。頬の傷も掠っただけだし、一番酷かった腕ですら牙の跡がついただけで、抉れたわけでも、もげたわけでもない。

 今思えば、姿は殆ど変貌してしまっていた「賢者」だが、意識の全てを飲み込まれていたわけではなかったのだろう。それくらい怪我自体は軽かったのだ。

「じゃあ、呪いの方は」

「……解呪に関して進展がないのは、貴方の方がご存じでは」

 フェデリオはこれでも「高官」と言われる地位にいる。このままいけば十中八九、目の前のこの男が王となった時、その近くで支えることになるだろう。

 心底、面倒だと思っていても。

 その立場上、フェデリオがかかった呪いの解析は、それなりに国を挙げての一大事となっているのだ。その進捗を「王太子」が知らぬはずがない。

 そういう意味を込めて、エゼルフィードをじろりと見ると、彼は呆れたように首を振った。

「……そうじゃなく。お前自身の所感を聞いてるんだ」

「所感、ねぇ……」

 それはレイについてどう感じているのか。その変化をもたらした呪いについてどう思っているか。そういったことが聞きたいのだろうと察しがついた。

 だが――、そんなことをこの男に言うつもりはない。

「まあ……、医者に話した程度ですよ。彼が世界の中心に見える。目が覚めたらそうなってた。……それ以上、言いようがありません」

 が、まあ。彼も彼で、どうやらこちらを心配して聞いてくれているようなので、少し付け足してやる。

「ただ――。レイが近くにいるほど、理性の箍が外れやすいような、そんな感覚はありますよ」

「……それは、呪いのせいなのか?」

「さあ?」

 なにせ生まれてこの方、ここまで何かに執着したのは初めてなのだ。それが生来の気質なのか、呪いゆえなのかなど、分かるはずもない。

 もっと彼に負担のない関わり出来ればいいのに。

 そう冷静に思う時はあれど、彼を目の前にすれば全てが吹き飛んでしまう。怒られることすら、嬉しいのだ。

 とはいえ。

「――むかつくなぁ」

「は?」

「あれ」

 フェデリオはレイの方を指す。

 一体何を話しているのか、セラフィアナと楽しげに話す姿が見える。彼は笑顔を浮かべている。

 フェデリオにはいまだ向けられたことのない表情だ。

「ほんと、どうかしてる」

 今すぐ二人の間に割って入りたいのを、どうにか堪える。

 胸に渦巻く焦燥は、本当に呪いのせいなのか。

 フェデリオは目を背けることすらできず、ただ彼の姿を見つめ続けていた。

16

「綺麗ですね」

 レイはセラフィアナの隣をゆっくり歩きながら、庭に視線を巡らせる。美しく整えられたそれは、色とりどりの花を咲かせていた。

「ええ……。わたくしがこの宮からあまり出られませんので、趣向を凝らしてくれているのです」

 そうですかと相槌を打ち――、足を止める。それに気付いたセラフィアナも進みを止めさせて、振り返った。

「ご要件を、お伺いしても?」

 単刀直入に聞くと、セラフィアナはふと微笑む。

「言葉のままですわ。一度お会いしてみたかったのでございます」

「……何故?」

「何か他の方と違うのかしら、と思いまして」

 どういう意味か要領を得ず首を傾げる。彼女はこくりと一つ頷いて、説明を続けた。

「フェデリオ様は貴方をお選びになりましたでしょう? 出所は違いますが、わたくしは同じように呪いを宿す身。何か違って見えるということもあるかもしれないと思ったのです」

 レイはなるほどと思った。

「俺が呪いを持つ人間にとって、何か特別な相手なのかもしれない――。そう思われたのですね」

 セラフィアナは首肯する。

「では……、実際は如何でしたか」

 レイの問いに、セラフィアナは困ったように笑って、首を横に振った。

「わたくしには、他の方と変わっては見えませんでした」

「ということはやはり医者の見立て通り、雛の刷り込みのようなもの……というのが、有力ですね」

 フェデリオが何故レイに執着するのか。

 それも、謎とされているものの一つだ。以前に何らかの心理的繋がりがあったのなら理解もできるが、そんなものは――少なくともレイには思い当たらなかった。呪われる前の関係性は、「関係」などと言うのもおかしく思えるほど、他人だったのだから。

 ならば何が違うのか。今のところ最も有力視されているのが、呪われた後に目覚めて初めて目にした人間がレイだったから――、という説だった。

 ならそれは、「誰でも良かった」ということだ。

「――ねえ、レイ様」

 思考の海に沈みかけていたレイは、セラフィアナの声で我に返った。

「もし……もしもよ? もしも、呪いが解けた後もフェデリオ様のお気持ちが変わらなければ――。どうなさるの?」

「……それは」

 解呪後も気持ちが変わらない? そんなの――

「ありえませんよ」

「……どうして、そう思われるの?」

「………………その時、俺がそこにいるのか分からないから」

 セラフィアナは目を丸くする。レイはそんな彼女に小さく笑みを向けて続けた。

「呪いについて調べる中で、今回と似た事例は数件見つかりました」

「ああ。それでしたら、わたくしも知っています」

「そうなのですか?」

「ええ、わたくしも自分の呪いを解きたいのです。ねえ、ケネス」

 セラフィアナは後ろに黙って控えていた魔導師の方へ呼びかける。

「はい、姫様。レイ様が言っておられるのは、百年前と五百年前の事例でお間違いありませんか?」

「は……はい。その通りです」

 少々、面を食らいながらもレイは魔導師――ケネスの問いに同意する。

 何故、王女の付き人を魔導師がと少し思っていたが、呪いについての情報を集めるためだったのだと合点がいった。

 だが、基礎知識があるなら話が早い。

「俺の調べた範囲では、曖昧な伝聞という形ですらその二件しか見つけられませんでした」

「そうですね。我々もそれ以外は存じあげません」

 ケネスの言葉にセラフィアナも頷いている。

「なら……、おわかりかと思います。どちらの場合も被呪者とその相手が数年以内に消息不明になっていること」

 セラフィアナは何度か口を開閉させた後、黙り込んだ。

 おそらくはレイと同じ結論に達したのだろう。

 そのどちらもが、その時点で生きてはいなかったのではないかと。

「……レイ様は、解呪が不可能とお考えでいらっしゃる?」

 セラフィアナがぽつりと零した問いに、レイは首を横に振った。

「いいえ、彼の呪いは解きます。でも――」

「でも?」

「呪いが解けたとして、俺まで無事かどうかは分からないじゃないですか」

 呪い――特に精霊によるものも含めた自然発生的なものは、人間の理解を超えていることが多い。

 その呪いがフェデリオだけで収まっているのか。レイには影響がないのか。もし影響があったとするなら、フェデリオの解呪後レイの方はどうなるのか。

 何も分からないのだ。

「あいつの呪いは解きます。あいつはこの国に必要……、そうでしょう? でも俺は――」

「レイ様! そのようなことを仰っては……」

「いいんです。俺は、もう……やりたかったことやり切ったから」

 目の前で真っ白な姿を取り戻した「賢者」の姿が脳裏に浮かぶ。

「今はあいつを元に戻すために生きてる。でもそれが終われば……」

 レイはちらりと視界の端にフェデリオを収め、ほんの少しだけ笑った。

「執着しているのは、案外俺の方……なのかもな」

 この気持ちは愛じゃない。恋でもない。情ですらないかもしれない。

 それでも、自分たちはお互いにその存在だけを拠り所に生きている。

 酷く歪な関係。

 きっと、長くは続かないだろう。

 レイは胸の中に忍び寄る寂寥に、瞼を伏せた。

17

 セラフィアナたちに暇を告げ、レイは研究室への帰途を辿っていた。

「――どこまで付いて来る気だよ」

 当然、その後ろにはフェデリオの姿がある。

「ん? どこまでも?」

 阿呆な回答に溜息をつき、レイは仕方なく彼の存在を無視して歩き続ける。

 既に王立研究室に割り当てられた棟の中だ。建物の前までで遠慮したいところだが、その押し問答は既に毎朝やっているので今更感が否めない。

 が。

 レイは横目でじとりと己の右手首を見る。

 何故かレイの右手は、フェデリオによってがっしりと掴まれていた。

 何度かさりげなく振り払おうとしているが、方や軍人、方や研究者である。力比べになれば負けるに決まっていた。

 だがそろそろ目的地も近い――、というか、着いてしまった。

 レイは扉の前で立ち止まると、もう一度溜息をついて手首を取り戻そうとした。

「なあ、いい加減離せ」

「やだよ、離したら君は行っちゃうだろ」

「当たり前だろ。俺も別に暇じゃないんだ。てか、それはあんたもだろ」

「レイ以上に優先するものなんてないよ!」

 何を阿呆なことを、と呆れ返る。レイは付き合ってられなくなり、扉に手をかけた。

「わかったわかった。なら今すぐ仕事に戻ってくれ。俺のために」

 そのまま扉を開ける。部屋に入ってしまえば追っては来ないだろう。朝はいつもそうだから――、と油断していた。

「なんでそう冷たいのさ! ――だから、心配になるんだ。悪い虫がつかないか」

「は……?」

 低い声で呟かれた言葉を問い返す前に、フェデリオの指がレイの顎を掴んだ。そのまま上を向かされ、唇に何かが触れる。

「んっ……!?」

 一瞬、目を丸くしたを顔馴染みたちが視界に映り、フェデリオが扉を閉めた。

「何を、っ」

「キス」

 短い問答の後、再び唇を塞がれる。扉を背に、フェデリオの腕に閉じ込められるような形で口付けを受ける。抗おうにも顎を掴まれていて、逃げ出すことは出来なかった。

 まごついている間に、彼の舌が侵入してくる。未知の感覚に身体が震えた。

「んぅ……」

 舌が絡められる。そして彼の空いた手が、明らかに何かを誘うように腰のラインをなぞった。

「あっ……ん…………、っ」

 膝が崩れそうになって、彼の服をぎゅっと掴む。頭が熱に霞んでいく。口内を蹂躙する感覚に全て委ねそうになった時、ちゅっと音を立ててフェデリオが顔を離した。

 糸を引く唾液が重力に従って落ちていくと同時に、レイの頭は冴えてくる。

 今、自分は一体何をした。

「お…まえ……」

 羞恥と怒りと、諸々の気持ちがないまぜになって、ギリリと拳を握った。

「レ、レイ……?」

 何の悪気もなさそうなフェデリオを、キッと睨みあげて手を振りかぶった。

「――時と場所を考えろっ!!」

 平手打ちの高い音が、盛大に鳴り響いたのだった。

18

 レイは王宮にある図書館の隅にいた。

「これと……あとこれかな」

 本と書類を机に並べ、ぶつぶつと呟きながら中身を精査していく。しばらくそれを続けたレイは、ふぅと息をついて大きく伸びをしたあと、選んだ数冊の貸出手続きとそれ以外の片付けを終わらせた。

「よっと」

 本と紙類を縦に積み上げて、少々ふらつきながら持ち上げる。もう少し厳選すべきだったかも、と思いつつもレイはそのまま図書館を後にした。

 向かう先は管理室――ではない。

 レイはこの度、フェデリオの解呪を行う魔道具開発を優先的に行うようブルーノに命じられ、王立研究室の棟内にいくつもある開発室、もとい空き部屋の一つを使うことになった。その流れで、よく使いそうな資料をその開発室に運び込もうとしているところだった。

 部下も補佐も手伝いも何もついていないので、全部一人でやらねばならない。普通なら何人かチームでやっても良さそうなものだが、王立研究室は人がいないのだ。

 入りたての頃は補佐的に先輩が傍についていたが、五年も経てばそれもない。また、はじめは外部――王立研究室よりも大きな魔道具開発機関や、精霊の研究施設、呪いに詳しい魔道士など――と連携して、という話も出ていたらしい。だが、利権問題やら何やらで交渉決裂し、それぞれの機関で別に動かざるを得なくなったのだそうだ。

 そのせいもあり、フェデリオが呪いを受けて数ヶ月経った今になって、開発がはじめられる状況になったというわけだ。

 よたよたと廊下を歩いていたレイは、ふと聞こえたひそひそ声に足を止めた。

「聞いた? 王立研究室の『お姫様』が、精霊の魔物化を解いたって話」

「ああ……、なんか噂になってるのは知ってるけど」

 声の主は廊下を曲がった先で話し込んでいるらしい。ちらりと服装を見るに、国で一番大きな精霊研究機関の関係者のようだった。噂話に花を咲かせる二人の女は、「お姫様」――フェデリオに追い掛け回される姿からついたレイを揶揄する言葉――本人がいることにも気付かず、会話に夢中だ。

「なんでも、その噂本当らしいのよ!」

「えぇ? まさか。精霊に干渉できる人間なんて、滅多にいないじゃない」

「でもでも! 私の友達の彼氏が軍の下っ端やってるんだけど……」

「下っ端って」

「あはは。私がこう言ったこと内緒ね。――で、その下っ端彼氏がたまたま、軍の上の人がそんな話をしてた……って」

「聞いたの?」

「ううん。聞いたらしい、って先輩が話してるのを聞いたって」

「へぇ……。って、又聞きじゃん!」

「そうなのよ。信憑性ないなー、って私も思ったんだけど、同じような話を別でも聞いてね……」

「いやそれ、同じようにその先輩が話してるの聞いただけなんじゃないの」

「あはは! かもね!」

「大体無理あるわよ。もし噂が真実なら、『お姫様』って本当に私たちと同じ人間なわけ?」

「そうなんだよね。彼らって、もうほとんどいないらしいし」

「まったくよ。もしいたとしてもこの国じゃ――」

 レイはふいと顔を背けて、来た道を引き返そうと踵を返した。だが、それは背後にいた何かにぶつかって失敗する。

「っ……!」

 あわや本をばら撒く羽目になるかと思ったが、それは伸びてきた腕によって阻止された。

「大丈夫、レイ?」

 そっと落とされた声に顔をあげると、何故かそこにフェデリオがいた。

「おまえがそんなところに立ってるからだろ。……けど、まあ、助かった」

「ねえ」

 フェデリオはレイが背を向けた方向へ、顎をしゃくる。噂話をしていた二人を放っておいていいのか、と言いたいらしい。

 だが、レイはゆっくりと首を横に振った。

「……いい。それに、慌てて否定したら本当みたいじゃないか」

「そうだね……。レイがいいなら、僕は我慢するよ」

 レイの背に回っていた彼の手が、そのまま慰めるようにやわく背を撫でた。その手に思わず目を閉じ――そうになって、ハッと我に返る。

「おい。どさくさに紛れて抱きしめようとするな」

「あちゃー、バレちゃった」

「バレちゃったじゃない。まったく……」

 ふと気付くと、噂話の声が止んでいる。レイたちの存在に気付いて、どこかへ行ってしまったようだ。ならば、引き返す必要などない。

 レイは再びフェデリオに背を向けると、彼に構わず歩き出した。

「あ、まってまって。ていうか、持つよそれ」

 後ろをついてくるフェデリオに溜息をついて、少し迷ったあと腕を痺れさせはじめていた本を半分渡す。だが、あっという間に全部を取られてしまうのだった。

19

 やたらと上機嫌なフェデリオを連れ、レイは自身に割り当てられた部屋へと向かう。

「ん……?」

 あとは廊下を真っ直ぐ進めばよいだけの場所まで来ると、どうやら部屋の前に誰かが立っているらしいのが分かった。

「あれ、殿下だ」

「は……!?」

 フェデリオの言葉にレイは目を剥いて、早足で人影の方へ向かう。近付けば、確かに王太子エゼルフィードその人だった。

 足音でこちらの接近に気付いたのか、振り返ったエゼルフィードが気楽な様子で片手を上げる。

「ああ、レイ。会えてよかった」

「!? 俺に用事ですか!?」

 約束は……してなかったはずだ。だが王子を待たせてしまったらしいことを悟り、冷や汗をかく。

「まぁ…ちょっとね。近くに寄ったついでだ。そう畏まらなくていい」

 そんなことを言われても、である。

「少し話をしたいんだが……」

 エゼルフィードは少々困った顔で、レイの背後を見た。

 どうやらフェデリオ抜きで話したいらしい。セラフィアナといい、何故ただの一研究員と二人きりで話したいのか。レイは頭痛を覚えながらも、フェデリオに手を差し出した。

「本。助かった。じゃあな」

 言葉が端的すぎたのか、フェデリオがぽかんとしている内にレイは彼が持っていた本と書類を回収する。

「では、殿下。汚いかもしれませんが、この部屋でよろしいで――」

「いやいやいや、待ってよ! はいそうですか、って帰らないからね!?」

「ちっ」

「舌打ちしてる!」

 さっさとエゼルフィードを部屋の中に入れて、内鍵を締めてしまう作戦は失敗し、仕方なくフェデリオに向き直る。

「セラフィアナ殿下の時は許して、今は駄目な理由は?」

「密室だからだよ!!」

 密室だから何だというのか。

 レイは心底怪訝な顔をするが、フェデリオはこちらを引き留めようと必死な様子だ。

「それにセラフィアナ殿下は、僕に――その、内容は言わない方がいいかな、と思うけど、秘密を教えてくれたから……」

 レイは、セラフィアナがフェデリオに何やら耳打ちをしていたことを思い出した。

 なるほど。彼女は何かしらの打ち明け話によって、フェデリオを不安を軽減させたようだ。同じ手を――と言いたいが、内容が分からない以上どうしようもない。

 そうレイは思ったのだが、エゼルフィードはポンと手を打った。

「ああ、それなら私も大丈夫だな。あの子は『好きな殿方がいる』と言ったんじゃないか? ならば、私もこう言えば許してくれるだろう? 『私には愛する婦人がいる』」

 レイは、あっさり妹の秘密をバラしていいのか、という気持ちが半分。そう言ってまで自分と話したいのか、という気持ちが半分で、なんとも言えない気持ちになった。

 エゼルフィードは王太子という地位にありながら、婚約者はおろか恋人すらいないと聞いている。「愛する」と言い切れるような相手がいて、独り身でいるとは思えなかったからだ。

 だか、フェデリオの反応は違った。

 今までのどこかふざけたような空気は消えて、その瞳は剣呑な色に光っている。

「あの噂、本当だったんですか」

「……どの噂かな?」

「王太子には秘された愛人がいて、彼女は王宮のどこかで囲われている――。この話は、上層部の方でしか聞きませんが」

 上層部でしか聞かない、ということは下には噂が出回らないようにされているということだ。下町で下世話に語られる噂話とは違う。妙な信憑性を帯びた話に、レイは居心地の悪いものを感じた。

 だがエゼルフィードは、何も変わらぬ様子で肩を竦めた。

「随分人聞きが悪いな。――囲ってるつもりはないんだが」

 フェデリオが目を見開く。レイ自身も、きっと同じ顔をしているだろう。

 エゼルフィードの言葉は、その噂話を肯定したも同然だからだ。

「今は時期を見てる。他言無用で頼むね」

「それはつまり……」

 エゼルフィードはフェデリオに向かって、人差し指を立てて黙らせる。

「詳しい話はいずれ。今は――、条件はクリアした、ということでいいだろう?」

 レイは自分と話をするかしないか、という話だったとなんとか思い出し、フェデリオの様子を伺う。

 彼は――ぐにゅっと顔を歪めて、なんとも不服そうながらも、前例を出されては許可せざるを得ないと思ったのか、嫌々な雰囲気満載で頷いた。

「仕方ありません。じゅっ――」

「十分間だけ、だな。セラフィアナと同じで」

 勝手に決まっていく諸々の条件に呆れつつ、レイは話は纏まったなと部屋に入った。

 まだ机と椅子しかない。本を机に置いたあと、仕方なく、椅子の方を二脚中央へと引っ張り出して、エゼルフィードを迎えた。

 彼が中に入ったあと、レイは顔だけ外に出して、フェデリオに言う。

「いいか? この扉は魔道具になってる。扉を閉めて鍵をかけたら効果が出る。対衝撃とか対魔法とか――」

 細かい説明に入りそうになって、レイは首を振る。今重要なのはそこじゃなかった。

 レイはフェデリオの目を、じっと見て続けた。

「もう一度言うぞ。この扉は魔道具だ。鍵のかかったこれを、無理に破ったら当然壊れる。だから、ぶち破るなよ?」

「さすがにしないよー、…………何もなければ」

 ぼそっと付け足された言葉に胡乱な目を向けながらも、再度注意をする。

「何かあるわけないだろ。だから、開けるまで待て。いいな? もし壊したら弁償してもらうからな」

 いいな? ともう一度だけ念押しして、レイは扉を閉める。

 そして、鍵をかけて、防音の効果を発動させた。

20

「すまないね、押しかけて」

 エゼルフィードの声に振り返ると、彼は椅子へ優雅に腰かけていた。何の変哲もない丸椅子のはずなのに、妙に芸術的に見えるから不思議だ。

「いえ。それより、お茶もお出しできない場所で申し訳ないです」

 設備的には十分に可能なのだが、何分移動してきたばかりで、茶葉どころかコップの一つもない。今後は不意の来客用に一揃え必要だな、と頭にメモをしながら、レイはエゼルフィードの対面に座った。

「それで、本日はどういったご用向きでしょうか」

「んー……、ああ、まず。セラフィアナが君を随分気にかけていた。変わりないか?」

「はい。特に何も」

 そういえば、彼女の雰囲気に飲まれて、言わなくても良いことまで言った気がする。そのあたりの発言で、心配をかけたのだろう。

 良くも悪くも事態に変化はないので、そう答えるとエゼルフィードは深く頷く。

「そうか。ならいいんだ。ただ、『何かお困りことがございましたら、すぐにご一報くださいまし』だそうだ」

「はあ……、分かりました」

「随分と気のない返事だな」

「ああ、いえ……。一度お会いしただけの俺を、そこまで気にかけてくださるのが不思議で」

 至極真っ当な疑問を口にしただけのはずなのに、何故かエセルフィードは「しまった」とでも言いたげな顔で、言葉を詰まらせる。

「まあ……その、なんだ。君を気に入ったのだろう」

 どことなく様子のおかしいエゼルフィードに首を傾げつつ、まあそんなものかなと一応納得した。

「ああ、妹のことはいいんだ。それより――」

 セラフィアナのことを伝えたことで、やっと本題に入るのかなと、レイは姿勢を正す。エゼルフィードは、なんとも言いづらそうに何度か視線を彷徨わせている。余程、重大な事なのかと身構えたレイに、彼が言ったのはこんな言葉だった。

「――君、ご家族は?」

 は? と言いかけて、どうにか口を噤む。

 何かきっと、「本題」に関係があるのだ、と理解して答える。

「俺は孤児院育ちなので、『家族』と呼べる人はいません」

 共に育った同世代の人間は何人かいるが、あまり孤児院に馴染めていなかったレイは、誰ともあまり仲良くない。

「そう、か……。親の記憶はあるか?」

「…………、母のことなら少し」

 何の関係がある質問なのだろう。

 正直なところ、「答える必要はあるのか」と言いたい質問だった。その気持ちを飲み込んで、言葉少なに答える。

 だが、その後に続いた質問も、「母親はどんな人だった」「生まれ故郷について覚えているか」「精霊に興味を持ったのはいつか」といった、個人的な質問ばかりで、果ては――、

「では、好きな食べ物は?」

「…………あの、これ、どういった意図の質問ですか」

 ついに耐えられなくなり、レイは質問を返した。

 さすがにもういいだろう。

 彼の来た目的が何かは知らないが、その「本題」が何であれ、「好きな食べ物」が関係があるとはとても思えない。

 レイの質問に、エゼルフィードはハッとしたような顔をした。

「すまない。半分ぐらいは個人的な興味だった」

「個人的な……」

 レイが呆れていると、エゼルフィードは照れたように笑う。

「いやなに。私も君に――フェデリオを『人間』にした人物に興味が湧いてしまったんだよ」

「『人間』に……?」

不思議な言葉に問い返すと、エゼルフィードは少し寂しさの混じる笑みを浮かべた。

「君は以前のあれを知らないから、無理もないな。以前のフェデリオは本当に、人生詰まらないとでも言いたげに生きてたから」

 レイは遠征に出る日の朝、遠目に見たフェデリオの目を思い出す。

「これでも心配していたんだよ。大事な友人だから。……まあ、あっちはどう思ってるか知らないけどね」

「殿下……」

 なんと返してよいやら分からず、言葉に詰まる。

 が、その時――扉に何かぶつかる音が聞こえた。

 防音の魔道具は、中の音を外に漏らさないものだ。当然外からの音は聞こえる。

「あ、まさかあいつ……!」

 レイが音の正体に勘付いて、慌てて鍵を開けようと立ち上がる。

 だが、一歩遅かった。

「レイ! 何もされてない!?」

 メキメキガシャン、という聞きたくもない音と共に、フェデリオが姿を現す。

 なんとなく予想はしてた。してたが――

「壊すな、って言っただろ!!」

 フェデリオを怒鳴りながらも、破砕された扉の傍に膝をつく。回路やなんやらが、めちゃめちゃだ。簡単な修理では直りそうもない。

「だって、中の音何も聞こえないし、不安だったんだもん! これでも、きっかり十分間は待ったよ!?」

「『待ったよ!?』――じゃないわ!!」

 怒鳴り返しつつも、そういえば防音機能の説明をしていなかったかも、とは思う。

 まあ、だからといって許す選択肢はないが。

 弁償しろよ。それより無事? と噛みあわない言い争いをしていると、後ろでエゼルフィードがくすくすと笑う。

「まあまあ。でも丁度いいや。はい、これ」

 エゼルフィードが懐から取り出した手紙をレイに渡す。

「ああ、まだ開けないで。紹介状だから」

「紹介状……?」

 レイは受け取った宛名も何もない手紙検分しつつ、問い返した。

「そう。二人で行ってくるといいよ。この国で――、もしかしたら世界で一番精霊に詳しいかもしれない人物のところへ」

 エゼルフィードはニヤリと笑って続けた。

「北の霊峰、その麓に彼女はいるよ」

21

 フィアスリートの北にある霊峰アルバランテ。

 そこは、神話の時代にも名前が登場する、由緒正しき場所である。また、頂上は神の国に通じているなどとも言われ、禁足地となっている。

 もっとも、麓の方は時折近くの住民が獣を狩りに入ったりもするらしいが、彼らも深い場所までは立ち入らないとか。非常に深い森であり、少し道を迷えば、二度と生きては出られないとも言われている。

「――霊峰に人が住んでたなんて」

 そんな普段は人が立ち入らないような場所に、件の人物は居を構えているらしい。

 手紙とは別にもらった、その人物が住む場所までの地図を片手に、レイは呟いた。

「まあ……、精霊学者だって話だから、研究しやすいんじゃない?」

 背後にいるフェデリオがそう予想をしているが、レイとしては首を傾げるばかりだ。

「いくら研究対象に近いとはいえ、暮らしづらくないか?」

 今二人は馬に二人乗りをして、森を進んでいた。

 フェデリオと二人で、というのに渋い顔にはなったレイではあったが、自分は馬に乗れない以上仕方がない。

 だが、予想に反して彼は至って紳士的だった。普段の奇行が嘘のように。

 あまりに不思議なので聞いてみたところ、「やだ〜、馬上は危ないよ!」と、頬を染めて恥ずかしそうに彼は言った。至極真っ当な物言い――のはずなのだが、レイはなんとなくイラっとした。

 まあ、それはさておき。

 王宮はフィアスリート国内の中でも、比較的霊峰に近い側にある。また、馬一頭という機動性から、朝に出発して昼過ぎには既に麓近くまで辿り着いていた。

 もう少し進むと、慣れた人々でもあまり近寄らないという、森の深い場所になるらしい。地図に添えられた説明書きにそう記されている。

 もっとも、そんな説明などなくとも、ただの森とはどこか違うのは肌で既に感じているのだが。

「なんか見られてる気がする……」

 馬を操りつつ、フェデリオはその視線の主を探すように、辺りをきょろきょろと見る。だが何もいない、と不思議そうな彼に、レイは肩を竦めた。

「おまえがそう思うのなら、見られてるんだと思うぞ。精霊たちに」

「え、いるの?」

 フェデリオに頷き返したレイは、右に見える木――その根元にある花を指差す。

「よく見てみろよ。光ってるだろ」

「……あ、ほんとだ」

 昼間のため見づらいが、その花は淡く発光していた。

 普通の草花は当然、光ったりなどしない。それが「ただの花」ではないのは、一目瞭然だった。

「他にもいるぞ。あそことあそこと――」

 雑草のように見えた草も、よく見ればどこか光っていたり、風向きとは違う方向に揺れていたりしている。

 おそらくレイにも見分けられていない精霊が紛れているだろう。

「すごいね、こんなに……」

「そうだな……」

 霊峰に近い場所は、とても多くの精霊がいる。レイも書物などでその事実を知ってはいたが、実際自分の目で見ると驚くほどに多い。

 噂によると、霊峰の頂上に近付けば近付くほど精霊になった動植物は増え、生きとし生けるもの全てが精霊である――、などとも言われているのだ。

 何か霊峰を取り巻く魔素(マナ)が特殊なのだろうと言われているが、詳細は不明だ。基本的に麓より上は禁足地のため、調査があまり進んでいないからだ。

 その時、ふとレイの目の前を淡い桃色に光った蝶が横切った。

「なあ、この蝶――」

 ひらひらと舞うその蝶は、ふわふわとレイの周りを飛んだあと、馬の頭に止まった。

 ぱたりぱたりと何度か羽をはためかせ、その蝶はまた飛んでいく。

 レイたちの向かう道の向こうへと。

 なんとなく吸い寄せられるように蝶を目で追って――、馬が止まった。

 おそらくフェデリオも同じようにして、それを見つけたのだろう。

「本当にあった……」

 レイの視線の先には、一軒の小さな家がある。

 森の中という場所に不思議と溶け込んだ、二階建ての家だ。

 レイは思わずフェデリオの方を振り返った。目が合って、お互いに頷き合う。

「行こう」

 レイが懐に入れた手紙に、服の上から手を置いてそう言うと、馬は再びゆっくりとした速度で歩き出した。

22

 馬から降りたレイは、見つけた家の様子を伺う。

「気配しないんだけど、誰かいそう?」

「いや……」

 馬を木の側に置いてきたフェデリオの問いに、レイも首を傾げた。話声で気付かれるかと思ったが、住人らしき人影は見当たらない。

「とりあえず、行ってみよう」

 レイは家の玄関へと行き、扉を叩こうとした。

「――どなた」

 突然聞こえた若い女の声に驚いてその手を止める。誰何の声は後ろから聞こえた。どうやら出かけていたらしい。

 レイは振り返って用向きを伝えようとして、息を飲んだ。

 女は平民が着ているような簡素なワンピースに、木の実の乗った籠を抱えている。それだけなら、大して驚きもなかっただろう。

 特筆すべきは、彼女の髪だ。

 膝裏のあたりまで伸びた長い髪は、薄桃色に光っていた。

 そう、まるで――精霊たちと同じように。

「……口のきけない方なのかしら?」

 呆けていると、些か辛辣な言葉を投げかけられ、ハッとする。

「失礼しました。我々は貴女の精霊に関する知識をお聞きするために来ました。ユスティフィニア様……、ですよね?」

 怪訝な顔をする彼女は、こちらを警戒しているようだった。レイは慌てて紹介状だという手紙を取り出して、それを渡した。

「これ、お読みいただけますか」

 彼女は持っていた籠を地面に置くと、その手紙を受け取って封を切る。そして、中の便箋に目を通しはじめると、何か驚いたように目を見開いた。

 それから無言のまま何度か視線を往復させると、手紙を仕舞って深い溜息をついた。

「要件はわかったわ。仕方がないから協力してあげる。――ねえ、これ誰からもらったの?」

「あ、と……、王太子殿下に」

「そう……。これね、私の古い友人からだったわ。くれぐれもよろしくって。……彼女生きてたのね」

 彼女は安堵したように微笑むと、地面に置いた籠を抱え直し、レイの隣を通って家の扉を開けた。

「さあ、ぼやぼやしてないで入りなさい。当事者から話も聞きたいし」

「あ、はい!」

 慌てて後ろをついて行こうとすると、彼女はくるりと振り返って言った。

「わたしのことは『ユティ』と呼んで。あと、堅苦しいのは嫌いだから敬語もいらないわ」

 ユティはそういうと、ふわりと笑って家の中へ入っていった。

「あ、ありがとう、ユティ!」

 レイはフェデリオに手招きをして、彼と共にユティの後を追った。

23

 家の中へ入ったレイたちは、居間へと通された。

「そこに座ってて」

 部屋の中央にはローテーブルとソファがあり、ユティの指示通りそのソファに腰を下ろす。フェデリオもレイの隣に座った。

 部屋の中は綺麗に片付いており、雑然としたところは一つもない。学者と聞いていたため、もう少し書き物やら実験器具やらが置かれているのを想像していたが、意外なほどにこざっぱりしている。窓辺には一輪挿しが置かれていたり、彼女のマメな性格が窺えた。

「ねぇ、レイ」

 隣から聞こえた囁き声に、フェデリオの方へ向いた。

「彼女は人間? それとも……」

 人の髪が光るなど聞いたことがない。場所柄、もしや精霊なのではと思いたくなるが、人型の精霊もまた、聞いたことのない存在だった。

「――一応、人間よ」

 答えたのは茶器を盆に載せたユティ本人だった。

「まあ、色々あって……。ちょっと混ざってるけど」

「混ざって……?」

 レイは問い返したが、彼女は答える気はないのか笑顔を浮かべるだけで話題を変えた。茶――ハーブティなのだろう、爽やかな黄緑色で満たされたカップを並べながら言う。

「それより、状態が知りたいわ。そっちの――フェデリオ? 手を出して」

 フェデリオの出した右手を、ユティは両手で包む。そして目を閉じた。すると彼女の髪が風もないのにふわりと揺れた。

 だがそれはすぐに収まって、ユティはフェデリオの手を離した。

「なるほど、ねぇ……。因果かしら」

 彼女は暫し黙考したあと、今度はレイの方へ目を向ける。

「なら、相手はあなたなのね、レイ」

「そうです」

「……わたしは、この呪いについて、よく……本当によく知ってるわ」

 ユティはどこか遠くを見つめるような目をしてから、唐突に言った。

「二人とも。しばらくここに泊まっていきなさい。部屋なら二階がいくらでも空いてるから。そうと決まれば……、フェデリオ、貴方は町まで戻って夕食の材料を買ってきなさい」

「え」

「いいから、早く。日が落ちるまでに戻ってこれないわよ」

 そう言って、フェデリオを部屋から追い出してしまう。彼が仕方なさげに馬で出発すると、ユティは少しほっとした様子で、レイの方を向いた。

「レイ、貴方はこっちよ。話しておきたいことがあるの。彼がいない間にね」

 そう言って、ユティは台所とは反対にある扉の方へ歩いていった。

24

 通された部屋は、まさに研究室という雰囲気だった。

「少し散らかってるけど、気にしないでね」

 事前に予想していたような雑然とした様相をしているが、「散らかっている」という印象はあまりない。本やメモの類は机の上にきちんと並べられていて、掃除も行き届いているようだ。

「フェデリオの呪いについて、どの程度の情報を得てるの?」

「……正直なところ、よく分かってない」

 いくらかの前例があるが、解呪にはいたっていないこと程度しか、この呪い特有のものは分かっていないと伝える。

「よく調べた方だと思うわ」

 ユティはうんと一つ頷いて、一冊の冊子を手渡してきた。

「これは?」

「わたしが独自に調べたものを、纏めたものよ」

 レイはその冊子にぱらりと目を通して驚いた。

 フェデリオのものに似た事例が数十例。しかも、五年前というごく最近のものまであった。

「こんなにどうやって……」

「自分の足で地道に、ね。噂を聞いたら自分の目で見に行くの。だから貴方たち運がいいわ。長期間、家を空けてることもあるから」

 冊子には、発見時の状態からその後の経過まで、詳細に記されている。当事者の傍で観察しなければ、取れないような記録だ。長期間に渡って家を空けることもある、というのも納得の話だった。

「ユティは『精霊学者』だと聞いてたんだけど……」

「それも間違いではないわ。ただそれよりも優先して、この呪いについて調べているとうだけよ」

 何故、と聞くのは踏み込み過ぎだろうか。

 そう思ったレイは、話を進めることにした。

「じゃあ、解呪の方はどうなってるんだ? ざっと見た限り――」

「最後が『死亡』か『行方不明』ばかりだ、って言いたいのよね。…………その通りよ。今のところ解呪は成功していない」

 レイは息を飲んだ。

 つまりそれは、フェデリオも――。そういうことになってしまう。

 言葉をなくすレイに、ユティは首を横に振った。

「待って。まだ諦めるのは早いの。わたしは――、この呪いから解放された人間を一人知ってる」

 ユティは言葉に迷うような顔で、暫く思案したあと話を続けた。

「ただ、それには特別な力が必要だった。――レイ、あなたは『精霊に干渉できる一族』について知っているかしら」

「…………、噂だけなら」

 精霊と近しい存在として生き、精霊に近い力を持っていた一族。神話や物語の隅に登場する彼らは、おとぎ話ではなく実在する、らしい。

 精霊を研究対象にしている以上、当然レイもその存在について知識を得ていた。

「呪いから解放された少女は、彼らの一人に助けられたの。彼ら――『ラティアの一族』に」

「……でも、ラティアの一族はもう殆ど生存してない、だろ?」

 彼らは、不思議な力――多くは、精霊と意思疎通ができお願いを聞いてもらえる、という程度の細やかな力しか持っていない。だが、それに目を付けられ、大陸中にいくつかあった一族の暮らす集落が襲われたのだ。そして、彼らのほとんどが奴隷に落とされ、果てには命も落とした。

 奴隷売買が禁止されて久しいフィアスリートでは、忌むべき歴史として、そう伝えられている。

 ユティはレイの指摘に頷く。

「そうね。数少ない生き残りも徹底的に身を隠して生きてる。少女が彼女を見つけられたのは運が良かったからよ」

 彼女はレイを――その先にいる誰かを見つめるように、何故か目を細めて笑んだ。

「一族の中でも特に力の秀でた彼女に、少女は救われたの。彼女は、陰を陽に――魔を聖に転ずる力があった。そうまるで……、貴方が『深淵なる森の賢者』を救ったように」

「! あれは、俺の力じゃ……」

「……魔道具を作ったのは、貴方だと聞いているけれど?」

 それは事実なので口を噤む。

「ともかく。わたしが言いたいのは――、あなたならこの呪いを解く魔道具を完成させられるんじゃないか、ということよ。そのためには、わたしの知識を全部持っていってもらう必要がある」

「ああ、だから泊まれなんて」

「そうよ。急なのは悪かったわ」

 ユティは悪いなんて思っていなさそうに、ニヤリと笑った。

「貴方がいれば、わたしの長年の夢が叶いそうだったんだもの」

「……呪いを解く方法を見つけること?」

「そう。ラティアの一族を見つけられた幸運な人間だけが助かる、なんて不公平だもの。それに――」

 ユティは急に寂しそうな目をして、言葉を切った。だが、それ以上は言葉を続けずに、首をふるりと振って、話題を変えた。

「それより、急に泊まりになったこと連絡しなくても大丈夫?」

「あー、上司には休みの連絡取りたいな。……そうだ、ユティ」

「ん?」

「もし魔道具が完成すれば、これは他の呪いにも転用可能だと思うか?」

 ユティは暫し「うーん」と考え込んだ後、頷いた。

「調整は必要かもしれないけれど、試してみる価値はありそうね」

「なら、セラフィアナ殿下にも一報を入れておくか。貴女の名前を出してもいいか?」

「セラフィアナ……、ああ王女殿下ね。そうね、彼女も呪いに苦しんでいる一人だものね。構わないわ」

 レイはユティから封筒と便箋を受け取りながら、文面を考える。それを横目にユティが呆れたように溜息をついて言った。

「もう少し聞きたいことがあったんだけど、時間切れみたいね。フェデリオが戻ってきたわ」

 まったく、早すぎだわ。とユティは文句を言いつつ、二人は居間へと戻った。

25

 ユティの家に滞在をはじめ、早三日。

 フェデリオは、ソファで本を読みふけるレイの隣に陣取って、彼の髪に指を絡めて暇つぶしをしていた。

「ねえ、レイ〜」

「…………何」

「いつ読み終わるの?」

「………………もう少し」

 もう少し、などと言っているが、分厚いその本はまだ半分ほどしか読み進められていない。まだまだ時間がかかるであろうことは明白で、要するに彼はこちらの話をほとんど聞いていない。

 フェデリオは小さく溜息をついて、レイの肩に頭を預けて目を閉じる。

 ぱらり、ぱらりと聞こえる本をめくる音。台所からは、ユティが炊事をしているのか水の音がして、窓越しには木々が揺れる音が聞こえた。

 ひどく穏やかな時間だな、と思う。

 レイも、はじめは近付いただけでも、猫が毛を逆立てるように声を荒らげていた。だが、いつからかこうして、隣で大人しくしている分には、何も言わなくなった。

 慣れたのか、諦めたのか。

 どちらにせよ、自分の存在を彼に許されたような気がして、嬉しい。

「……、」

 フェデリオは、うっすらと目を開けた。首を少し傾けて、本に視線を落とすレイの横顔を見つめる。

 そう、「嬉しい」はずなのだ。嬉しい、はず。

 けれど、どこか心の隅に――、もやりとしたものがあることにも気付いてた。

 どこか冷めた目で現状を見つめる自分が言うのだ。

 これは、本当に……僕が望んだものなのか、と。

 レイの腰に腕を回す。

 どこか近いはずなのに、どうしようもなく遠くて――。ならば、邪魔をするなと本の角を頭に落とされる方がマシなのではないか。

 フェデリオはレイの手を取ろうとした、その時。

「フェデリオ! 暇なら少し手伝ってちょうだい!」

 台所の方からユティの呼ぶ声が聞こえて、手を止めた。まるでこちらの思考を読まれていたかのようなタイミングだった。

「……仕方ないなぁ」

 居候の身なので、拒否権はない。

 フェデリオは立ち上がり、そちらに向かおうとして足を止める。

 そして、レイの額に掠めるようなキスを落としてから、足早にユティのいる方へと向かった。後ろから非難めいた視線を感じたが、何故か気分が良かった。

「何すればいい?」

 台所の方へ顔を覗かせると、籠に山と積まれたじゃがいもがある。

「皮むき。よろしくね」

 ユティの方は今朝フェデリオが市場で買ってきた鶏を捌いていた。

 随分な量だなぁ、と思いつつも、置いてあるナイフを手に取りしょりしょりと剥いていく。ユティは作業を進めつつ、ちらりとこちらを見て、何故か呆れたように肩を竦めた。

「ほんと、上手ねぇ……。初日に『剥き方わかんない』とか言ってた人と同一人物とは、とても……」

 フェデリオはこれでも、いわゆる良いところの子息だ。三男坊で跡取りの兄はうっとうしいくらいに元気なため家督云々は関係ないが、身の回りの世話を他人に任せられる程度の身分ではある。

 その上、従軍後も士官候補からはじまり、あっという間に出世。一般兵の宿舎とは別に部屋をもらっており、その気になれば侍女やら何やらも置くことが出来る。まあ、フェデリオはそういったものは煩わしいと、人を入れていないが。

 というわけで、簡単な身繕いは自身で出来るが、食事は宿舎に併設された食堂を使っているので、今まで包丁など握ったことがなかったのだ。

 それが三日前のこと。

 半ば強引だったとはいえ、住まわしてもらっているのだから手伝いをすることに否やもなく。人生初の「料理」に挑戦することとなった。

 ユティに教わり、その通りにして――、上手なのに何故呆れられるのか。

「一度見たら、だいたい出来るでしょ」

「あら〜、嫌味?」

 ユティは「もうわたしより、数段上手いくせに」とくすくすと笑う。

「でも、その余裕感のおかげなのかしらね」

「何が?」

「貴方、わたしが見てきた被呪者の中で、一番落ち着いてるから」

 鶏を捌き終わったユティは、今度はスパイスを炒めはじめる。

「正直、こうやってお手伝いしてくれたり、レイのこと邪魔しなかったり、って予想外なのよ」

「……僕のためにやってくれてるんだから。そのくらい、分かってるよ」

 時折、我慢が利かなくなる時はあるけれど。

 だがユティは、首を横に振った。

「それが出来なくなるのよ。だいたいの場合はね。やっぱり、少し特殊なのかしら……」

「特殊?」

「そうよ。今までは、恋人か……それに類する関係の男女、というパターンしか見たことがなかったから。貴方たち、殆ど初対面だったんでしょ?」

 フェデリオが頷くと、ユティはそうよねと言いながら話を続けた。

「わたしは魔物にかけられる呪いについて、かけられた側の人間によって種類が決定すると仮説を立ててたの」

 ユティは炒められたスパイスの実を器に移して、すりこぎで潰しはじめた。

「この呪いの場合は……、被呪者が男性体であること。被呪者に『執着心を持つ異性』がいること。――だと思っていたんだけれどね。呪いの特性から考えても」

「……『特性』?」

「あ、と……。それは――」

 ユティはすりこ木を動かしながら目を泳がせ――、突然ピタリとその手を止めた。

「待って」

 それだけ言うと、彼女はパッと身を翻して、勝手口から外へと飛び出した。その表情は強張っていた。フェデリオは何かあったのか、とその後を追う。

 だが、彼女は外に出てすぐのところで立ち止まって、空を見上げていた。

 そして、するりと手を空に差し伸べるように上げると、そこに一羽の鳥が止まった。その鳥も、よく見れば淡い光を放っている。精霊のようだった。

 ユティはその鳥を顔の近くまで下ろすと、何かその鳥から聞いているように見えた。暫くして、ユティが頷くと、その鳥はまたどこかへ飛んでいく。

「何かあった?」

 振り返ったユティは、先程よりも深刻な顔をしている。

「えぇ……。――貴方、第二師団の所属だったわよね」

「そうだけど?」

「魔物の討伐経験は?」

「……あるよ」

「頼んで、いいかしら」

 つまりまた、どこかに魔物が出現してしまった、ということだ。

 フェデリオは少し悩む。城を通さずに勝手をして良いものか、判断がつかなかったからだ。

「――城に連絡を取って、では遅い?」

「おそらく」

 頷くユティの表情に、想像よりもまずいことが起こっているのかもしれないと悟った。

「行って様子を見てから。それでいいなら」

「わかったわ」

 ユティと一度家の中へ戻ろうとして、レイのことを思い出す。彼に安全な場所に居てもらわなければ、気になってどうしようもなくなってしまう。

 フェデリオはユティに、レイと共に家に残るように伝えようと口を開いた。

「あとレイには――」

「俺がなんだって?」

 だが、勝手口の所に背を預けて立つレイの姿がそこにはあった。

「あぁ……、聞いてた?」

「おまえとユティが、バタバタ外に出て行ったあたりから」

 つまり最初からじゃないか、とフェデリオは頭を抱えた。

「ねぇレイ。提案なんだけど……」

「断る」

「ちょっとくらい聞いてくれたって――」

「どうせ、『来るな』だろ」

 その通りなので、フェデリオは口を噤むほかない。

「ついてくからな」

 ユティがフェデリオの肩にぽんと手を置いて、首をゆるゆると横に振った。

 嫌だ、が通る雰囲気ではなかった。

26

 魔物が現れたのは、ユティの家から少し町の方へ戻った場所らしい。

 レイは先行するフェデリオの背をユティと共に追う。暫し走ったところで、フェデリオが足を止めた。

「レイはこの辺りでユティと待ってて」

「いや――」

「駄目」

 ついて行くって言っただろ、と反論しようとしたが、フェデリオは今回ばかりはと頑として譲らない。

「数が多い。これ以上近付かれると、僕の気が散る」

 いわく、レイが安全なのか気になりすぎて、十分に動けないとのことだ。大真面目な顔をして、アホなことをいうフェデリオにレイは半眼になる。だが、それよりも――

「『数』だって……?」

「うん。殺気がいくつかある。間違いないよ」

 俄かには信じがたい。

 そもそも精霊が魔物化すること自体、本来なら稀な話なのだ。数ヶ月に一度という頻度でさえ異常だというのに、同じ場所に何体もなどあり得るのだろうか。

 フェデリオの言を疑うわけではないが、とても信じられずユティの方を振り返る。だが、彼女もまた神妙な顔で頷いた。

「わたしが精霊に聞いた話と一致するわ。本当に、信じがたいことだけれど……」

「……どうにもならない?」

「残念だけれど。変化しきってしまったら、もう」

 ゆるりと首を振るユティに、『賢者』が本当に特殊だったのだと再認識させられる。

 重い空気が立ち込める中、フェデリオがレイの髪を撫でた。

「ここにいて」

「……わかったよ」

 魔物が――精霊が死にゆく姿を見せたくないという気遣いに、今度はレイも頷かざるを得なかった。

 ここで待つことを承諾すると、フェデリオはユティに目配せをして身を翻す。そうして、あっという間に彼の姿は見えなくなった。

「――ユティ」

「なあに?」

「魔物化は、魔素(マナ)が澱み、凝って、体内の循環が止まって起こる――。だよな?」

「そうね」

 精霊の体内を巡る魔素(マナ)が、なにがしかの理由で固まり「核」のようになる。それが出来上がってしまうと、精霊たちは理性を失い――、獣に成り下がってしまう。

「その『核』をどうにかすることは出来ないのか?」

 ユティはレイの顔をじっと見つめ、すっと視線を逸らす。

「出来ると思うわ。理論的にはね。核を……溶かすとでも言えばいいのかしら。異常のない魔素(マナ)に戻す。それかせめて、その異常を起こした魔素(マナ)だけ除去する。そういことが出来れば可能性はある」

「『理論的には』か……」

 方法論はあれど、その方法がまだ確立されていないのだろう。ユティは頷いて続ける。

「前者はやり方が分からないから、すぐには難しそうね。後者は……、核ができる場所の問題だわ」

「あぁ……」

 ユティの言わんとしていることが分かり、レイは肩を落とした。

 魔物の核は、人間でいうところの心臓のような場所に作られるのだ。たとえ精霊であったときに、木や花といった物理的な「心臓」の無い植物などであっても、それは同じだ。

 核を破壊すれば魔物は――精霊は死ぬ。

 だからこそ、暴れる魔物に人が太刀打ちできるとも言えるのだが、凝った魔素(マナ)だけを消し去ることも難しくしていた。

「さて、レイ。そろそろ終わりそうよ、行きましょう。……考え事は、いつだって出来るわ」

 終わる――。何が、と聞く必要もない。

 レイはユティの後を追って、森を進みはじめた。

27

 時は少し遡り。

 レイたちと別れたフェデリオは、単身で殺気の感じる方へと走っていた。

 肌がピリピリとするような嫌な感覚が強くなり、やはりレイを置いてきて正解だったなと思う。

「うわぁ……」

 すぐに到着した現場に、思わず声をもらす。

 樹が三体、草やら花が点々と十数本。「賢者」の時とは違う、はっきりとした黒い靄のようなものが見え、フェデリオの目にも異様な光景に映った。

 魔物が出たから、と討伐に行ったのは、既に片手では収まらない数になっているフェデリオだが、一度にこれほどの数を見たのは初めて――というか、二体以上を同時に見たこと自体が初めてだった。

 何かがおかしいのではないか。

 そう、素人目にも感じてしまう。今後のことを思えば、このまま様子を見つつ城に知らせを送るべきなのだろう。ただ、想像以上に町に近い。

 相手は植物ではあるが、精霊となった植物は移動することもままあるし、それはもちろん魔物にも適用される。

「仕方ないな」

 下手に放置して人的被害が出ても困る。何より、この近くまでレイが来ているのだ。彼に万が一のことがあれば、自分がどうなってしまうのか。

 フェデリオは腰の剣をすらりと抜いて、構える。

「ただこれ、鎌とかの方がやりやすいよねぇ」

 少々ぼやきつつ、まずは草花を一掃する。途中反撃にあいつつも、花芯にや根にある核を砕いていく。

「――おっと」

 その時、何かを感じて前へと飛びのけば、その後ろを先端が鋭く尖った枝が鞭のように伸びてきていた。

 どうやら、樹の方はその場から動かない代わりに、枝が伸びるらしい。感心していると、別の方からは葉っぱが飛んできて地面に刺さる。

「うわ……」

 深々と地面にめり込んでいる葉っぱに、少々引きつつ――。フェデリオは残りの草を斬った。

「さて――、どうしようかな」

 あらゆる方向から飛んでくる攻撃を避けつつ、樹の攻略法を考える。

 所詮、植物なので有効なのは火だろうが、他に飛び火する危険は冒せない。

「……まあ、真っ当に行くしかないか」

 フェデリオは指先に魔力を込めて、剣の腹をすっと撫でる。本職の魔導師ほどではないが、多少魔法には心得があるのだ。あまり使うことはないが、今回は的が大きいのでやむを得ない。

「これくらいかな」

 切れ味の強化を済ませた剣を構え、フェデリオは地面を蹴った。

 そして、流れるような動作で、三体の樹を順々に上から両断した。

「――よし、どうかな?」

 樹木系統の魔物は、大概が幹に核を持っている。上から真っ二つにすれば、大抵は終わりなのだが――、

「おわっ!?」

 後ろに跳んで、飛来した何かを避ける。

 心臓をバクバクさせながら確認すると、それまで立っていた場所は、地面がぼこぼこになっていた。そしてそのへこみの中には、果物らしき赤く丸い物体がいくつもある。まるで、鉄球でも撃ち込まれたかのような有様だ。

 フェデリオは、ザッと周囲を確認する。

 三体の内、二体は斬られた状態のまま変化はない。

 そしてあと一体は――、斬られたという事実などまるで存在しなかったかのように、そこに立っていた。

「あちゃ〜……。幹じゃなかったか……」

 だが、それなら核は一体どこに。

 フェデリオは攻撃を跳んで避けながら、その樹を観察するが。だが、弱点らしき場所など見ただけで分かるはずもない。相手が動物系統の魔物なら、とりあえず首でも落としてみるところだ。しかし、植物には明確な「首」など存在しないのだから、どこを斬るべきか見当もつかない。

 どうしたものか。

 手をこまねいていた、その時――

「実だ! 葉の中に隠されてる!」

 その声にハッとして、よくよく葉の茂った部分を見れば、ちらりと赤い色が視界に映った。

「あれか」

 フェデリオは、跳躍してその赤色に迫り――、それを斬り裂いた。

 魔物は、一度びくんと身体を跳ねさせて、ふっと静かになる。

 地面に降りたフェデリオは、振り返って目を瞠る。

「レイ……」

 なんで来た、と言いそうになる。だが、先程の言葉がなければかなり苦戦を強いられていたはずだと思い直して、苦言を引っ込める。

「――ありがとう、助かったよ」

 代わりにそう言った。

 だって、彼がどこか――、泣きそうな顔をしていたから。

28

 深夜をまわった夜。

 レイは、ベッドからむくりと起き上がり、溜息をついた。

「寝れない……」

 多数の魔物が出現するという異常事態に遭遇し、全てが終わったころには日が沈みかける時間だった。

『彼らを憐れに思うなら、祈ってあげて。安らかに、って』

 そうユティに請われ、レイは膝をつき彼らに祈った。

 それしか、出来なかった。

 その後はこの家に戻り、夕食を食べ、風呂に入って寝支度をして――。与えられら個室のベッドで横になったはいいが、寝返りを打つばかりで全く眠れなかった。

 レイはもう一度溜息をついて、立ち上がった。

 一階に降りて水でも飲もう。

 そう思い、部屋を出ようと扉を開けて――、そこにいた人影に叫び声をあげそうになった。

「うわっ……、むぐぐ」

「ちょっと、レイ。ユティが起きちゃうよ!」

 手で塞がれた口はすぐに解放されるが、レイは声を潜めるフェデリオを睨んだ。

「おまえが、そんなところにいるからだろ!」

 小声で怒鳴ると、フェデリオはバツが悪そうに視線を逸らした。

「だって……、起きる気配がしたんだもん。寝れないのかなー、と思って」

「……まあ」

 レイは小さく返答し、ユティの部屋の方向を見る。

 今のところ起きた様子はなさそうだが、ここで喋っていては本当に眠りを邪魔してしまうだろう。

「水でも飲もうかと思ったんだよ」

 レイはフェデリオに背を向けて、階段を下る。

「あ、まってまって」

 当然のように彼も後ろをついてきた。

 まあ、文句を言ってもどうにもならないのは、そろそろ分かっていたので好きにさせる。

「夜だとさすがに冷えるね」

 誰もいない暗い居間は、ひどく沈んで見える。

 フェデリオは燭台に火を灯して、テーブルに置く。それから、レイの肩を掴んでソファに座らせた。

「まあ、待っててよ」

 一度座ってしまうと立ち上がるのも億劫で、レイは小さく頷いてフェデリオの言葉に従った。ちらちらと揺れる炎を、ただぼんやりと見つめる。

「レイって、お酒弱い?」

「……人並み」

「じゃあ、香りづけなら大丈夫だね」

 何故急に酒の話だろう、と思っていると、フェデリオがマグカップ一つを持って、台所から戻ってきた。

「これ……」

「よく眠れるように」

 にっこり笑って差し出されたのは、ホットミルクのようだ。ふんわりとブランデーの香りがする。

 一口飲んで、ほっと息をつく。人肌より少しあたたかいそれは、身体の芯から温めてくれるようだった。

「おまえ、器用だな」

 火を使った様子はなかった。となれば、おそらく魔法で軽く温めたのだろうと推察してそう言うと、フェデリオをぱちりと目を瞬かせた。

「見ただけで分かるんだ」

「まあ。俺は魔法使えないから、ちょっと羨ましいよ」

「コツを掴めばすぐだよ」

「おまえが言うと、ほんと簡単そうに聞こえるな」

 存外器用なこの男が、「簡単」と言っていても鵜呑みに出来ないのは、もう分かっている。だが、少し勉強してみるのも悪くないな、と思った。

 ちびちびミルクを飲んでいると、隣に座ったフェデリオが肩を引き寄せてくる。彼にもたれるような形になるが、今日は何故か抵抗する気にはならなかった。

「ねえ、レイ。今日のこと……、気にしてる?」

 カップの中身が半分ほどになった頃、不意にフェデリオが口を開いた。

「…………そうだな」

 ブランデーか、ミルクの甘さか、それとも肩に触れるぬくもりか――。

 レイはほろりと本音を零す。

「最後の。俺の言葉で死んだんだよな、って」

「……あれがなければ、危なかったのは僕だよ」

 やわらかい慰めの言葉に、小さく頷く。

「ああ。後悔はしてないよ。けど……」

 最後の魔物が、「最も大事に守っていた場所」――。それを壊した。

 その罪悪感とも言えない何かが、レイの胸に残り続けている。

「レイ。手を下したのは僕だ。だから」

 フェデリオの手が、レイの頬を撫でる。その手の感触に目蓋を伏せ、でも首を横に振る。

「それは関係ない。これは俺が、俺たちが背負うもの……だろ?」

 フェデリオの指がぴたりと止まった。

 レイが彼を振り仰ぐと、視線が絡んだ。

 次の展開に察しがついて、レイは目を閉じる。

 そう、きっとこれは酒のせいだ。

「ん……」

 唇が触れて、啄むようなキスをする。

 前回とは違い、ゆっくり――存在を確かめ合うような触れ方だった。

「あっ」

 ちゅうと吸われ、舌が唇のあわいをなぞる。軽く口を開けると、おずおずと――というような表現が似合うほどゆっくりと、こちらの舌に触れた。

「んぅ……、あ――」

 舌を絡めあい、ちゅ、ちゅっと聞こえる水音に、背筋が震えた。

 持っていたマグカップは、いつのまにか彼に取り上げられて、テーブルに置かれるコトという音が遠くに聞こえた。

 項を指がなぞり、後頭部を支えるその感触にぞくぞくと背徳感が降りてくる。

「は、あ…っ……」

 何度も角度を変えて続く口付けに、理性が焼き切れそうになった。

 その時、くんとシャツのボタンを開けようとする感覚に、レイはハッとしてフェデリオの身体を押し返した。

「っ、お、やすみの…キスなら、これで十分だろ」

 レイは、シャツの胸元をきゅっと掴み、ふらつきながら立ち上がる。

「レ――」

「おやすみ」

 呆然としていたフェデリオが我に返ったのか、引き留めようとする手を避けて、居間を出る。階段を上がって部屋に戻り――、閉めた扉の前でずるずると座り込んだ。

「……馬鹿。忘れてただろ」

 身体の内側に残る熱を抱きしめたまま、レイは立ち上がることも出来ずに夜明けを待つしかなかった。

29

 夜が明け、朝が来る。

 レイはユティたちが活動しはじめた頃合いを見計らって、さも今起きたかのように階下へと降りた。

「あら、おはよう」

「おはよう」

 廊下ですれ違ったユティに挨拶を返し、居間の方へ向かう。

 いつもは何も思わずに歩く道のりが、異様に重く感じた。

 緊張をしながら――、けれどそう気取られはしないように平静を装って、部屋へと足を踏み入れる。

「あ……」

 ソファに座っていたフェデリオと目が合った。

 それだけで、昨夜の一幕を思い出し、その目を逸らしそうになった。だがレイは昨夜のことを、「気にしていない」ということにした。だから、ここで目を逸らすのは不自然。

 レイは意を決して、だがいつも通りであるように努めて口を開いた。

「……おはよう」

 声をかければ、フェデリオの表情がパッと明るくなった。

「おはよう、レイ!」

 元気よく挨拶を返して、ほっとしたような表情を見せる。その顔に、レイは胸が締め付けられるような思いがした。

 何故、おまえがそんな顔をするんだ。

 そんなことを言いたくなる。

「レイ……」

 立ち上がったフェデリオは、ゆっくりとこちらに近付いて、そっとレイの手に触れ――握った。

「よかった……」

 ぽそりと零れ落ちた呟きに、泣きそうになったのを隠して、「怪訝な表情」を浮かべた。

「何が?」

 そんなレイの表情にどう思ったのか、嬉しそうに頬を緩めて、ぷるぷると首を振った。

「ううん。ただ、僕だけ一度城に戻るから、こうして話せてよかったな、と思って」

「……城に?」

 意外な言葉に驚くと、フェデリオは頷いて説明する。

「ほら、昨日の魔物の件。あれは報告しておかなくちゃ、でしょ? なら、どうせ見た当人から説明しろって召喚されるだろうし、ちゃちゃっと行って、さっさと戻ってこようかなー、って」

 朝食を済ませたら出発して、今日の夕方には戻るつもりだという。

 そもそも、フェデリオは戻ってくる必要があるのか? とは思ったが、野暮なことを聞くのはやめておく。

「わかった。気を付けろよ」

「もっちろん!」

 帰ってきたら、いっぱい褒めて〜! といつもの調子に戻ったフェデリオに、レイ自身も存外ほっとしていることに気付く。

 これからも、今の平穏が続けばいいのに。

 だが、そんな願いはとても儚いものなのだと、レイは分かっていた――。

30

 フェデリオが出発してしまうと、家の中がとても静かになった気がした。

 レイは居間のテーブルに本とノートを広げ、書籍の内容を書き取ったり、思いついたことをメモしたりしていたが、そのペンが帳面を掻く音が妙に大きく聞こえる。

 そういえば、こんなに静かなのは随分久しぶりだ。

 はじめは鬱陶しいばかりだったあの騒がしさが、すっかり日常と化していたことに改めて気付かされる。

「なんだか、とても静かね」

「ユティもそう思う?」

 彼女が淹れてくれた茶をありがたく受け取りながら、レイは苦笑する。

 ユティもレイの対面に座り、カップに口をつけ、同じように笑った。

 テーブルに置かれたカップの数が一つ少ないことに、少々寂しさを覚える。たった数日の共同生活のはずなのに、想像以上にレイの心の中に彼らの存在は食い込んでいたらしい。

「ねえ、レイ。……少し、昔話を聞いてくれる?」

「――いいよ」

 レイは本を閉じてテーブルの隅に置くと、ソファに座り直した。

「初日に話した『少女』の話……、覚えてる?」

「もちろん」

 フェデリオと同じ呪いから解放された、唯一の人物の話だ。ラティアの一族に運よく出会って、救われた。そんな話だった。

「あれね……、本当に呪いを受けたのは、少女の恋人だったの」

 ユティは遠い過去のことを思い出すような目をして、ぽつりとそう言った。

 ある程度、想像していたことなので、レイに驚きはない。過去の例から見ても、その可能性は高いと思っていたからだ。

 だから、うんと頷いて続きを促す。

「少女は今の貴方と同じ立場だった。でも、彼との関係は強い執着を受けても……、貴方ほどは不思議な立場ではなかったから、はじめは受け入れようと思った。でも……」

「――あの呪いが進行性のものであるのと、関係ある?」

 ずばり言うと、ユティは一瞬驚いて、次の瞬間には困ったように笑った。

「なんだ、気付いてたの」

「呪いの痣が、少しづつ広がってるのに気付いた。それに、過去の記録でも殆どが三年以内に死んでる。おそらくだが、あの痣が一定程度広がると死ぬ――。違うか?」

 ユティは、ぷるぷると首を振った。

「いいえ、違わない。痣が……被呪者の心臓に達すると――、よ。……もっとも、あの時はそんなこと分からなくて、でも痣が広がっていくことに不安を覚えて、解呪法を探しはじめたのだけれど」

「…………、」

 今の言い方で、疑いが確信に変わった。

 話の「少女」は、おそらくユティ本人だ。だが、レイはそれに気付かなかったことにして、続きを聞く。

「解呪法を探して、でも見つからなくて……。ラティアの一族が暮らす集落に辿り着いた時には、もう……少女の恋人は手遅れだったの。そのまま亡くなったわ」

 さらりと告げられた結末に、レイは言葉をなくす。まるで本当に他人事であるかのように淡々と話す様が、逆に痛々しく思えた。

「――やだ、レイ。そんな顔しないの。もう昔のことよ。それに、この話をしたのはここからの事が重要だからなの」

「ここから?」

 ユティは深く頷く。

「そう。少女のその後よ」

「その後……」

 たしかに、今聞いた話と今のユティとは、繋がっているようには思えない。

 レイは落ち着くために、ぬるくなった茶を一口飲んでから姿勢を正す。ユティは指を組んで神妙な顔をして、口を開いた。

「『その後』を話す前に、……その、聞いて……おきたいことがあるのだけれど」

 随分言葉に迷うな、と思いつつレイは頷いて続きを促した。

「何?」

「その……、身体の関係はある? 貴方たち……」

「…………え、は?」

 目を点にして問い返すと、ユティは頬を少し赤らめて視線を逸らす。

「誤解しないで。興味本位じゃないの。重要なことなの」

 レイは少々疑いの目を向けつつも、わざわざフェデリオがいない時に聞いてきたのは正解だな、とは思った。奴がいれば、今頃きっと大騒ぎだろう。

「…………、その」

 とはいえ、どう答えたものか。

 レイは口元を押さえ、テーブルに視線を落とす。

 が、それ以上何か言う前に、ユティが手をバタバタと振った。

「あー、いいわ。もういい、答えなくて。微妙な時期なのね。無いならいいのよ、無いなら」

「いや、そんなんじゃ……」

 微妙な時期、という言い回しに反発を覚え口を挟むが、ユティは「それ以上言ってくれるな」とでも言うように首を振った。

「わたしは進展を聞いてるんじゃないのよ。興味なくはないけど。身体の関係がないなら、ぜひそのままでいてちょうだい。せめて、呪いを解くまでは」

 呪いを解くまでは。

 その言葉に、ようやく質問の意図を掴む。

「つまり、性交渉と呪いに関係が?」

「まあそういうこと。あの呪いは、身体の交わりを通して相手にも伝染するの」

 それでようやく合点がいった。

「ああ、だから被呪者の相手も同時期に……」

 過去の記録では、被呪者とその相手がほぼ同時期に亡くなっている。その理由にやっと納得がいった。

 ユティも頷く。

「一応ね、接触した人には忠告してるんだけれど……。フェデリオの振る舞いが、かなり理性的に見える――、って言えば分かるかしら……?」

「あぁ……なるほど…………」

 要するに、あの呪いの前ではユティの忠告など、意味を成さなかったということだろう。

 特に男女の筋力差を考えれば、暴走した男を女の身で対処するのは、どう考えても難しい。また恋仲やそれに近い関係ばかりなようだったので、相手側も本気で抵抗する理由が薄いのも理由かもしれない。

 ……筋力差という点では、自分たちも過去の例と然程変わらないという事実に少しゾッとする。

 ユティも、研究者と軍人の二人だということを思い出したのか微妙な顔をした。

「まあ……、一度や二度で即死ぬわけじゃないし」

 慰めになってない、と思いつつも、レイは話を進めることにする。

「それで、『少女』はその後?」

「ああそうだったわね。『少女』は、ね……。恋人が呪いと戦った期間が長くて、少女も当然その影響が濃かった。だから、ラティアの一族に救われたけど――、体内に呪いが……、いや、既に浄化されたものだから魔素(マナ)と呼ぶ方が正しいわね……。ともかく、少女固有のものとは違う力が、身体に残ってしまったの」

「……それで」

「その力は……、少女の、人間の身体を変えていってしまってね――」

 ユティは、淡く光る自身の髪を一房持ち上げた。

「そうして、人間でも精霊でもない……、今のわたしになったの」

 ユティはほんの少し寂しそうに笑って、髪から手を離した。

「身体はあの時で時間が止まって、ただの人間として生きていくのも難しくなって――。それを受け入れるのに時間がかかったわ。貴方には……、そうなってほしくないから。これだけは話しておかなくちゃ、って思ったの」

「……なんで」

 何故、俺にそこまで話してくれるのか。ただ、呪いの影響を受けるから身体を許すなと、そう言えば良かっただけだろうに。

 小さな問いの言葉だったが、ユティは正確にレイの疑問を読み取ってくれた。

「最初にもらったお手紙、あったでしょ?」

 エゼルフィードから預かった「紹介状」のことだ。

 レイは頷き返す。

「あれね、わたしの恩人からだったの」

「ラティアの一族の、『彼女』……?」

 ユティは嬉しそうに目を細めた。

「そうなの。わたしが集落を後にして、少し経った頃……。その集落は襲われて――、恩人も、彼女の小さな息子も、誰もが行方知れずになったのよ」

 ユティもその恩人を随分と探したらしい。

 だが、手掛かりすら掴めず数年が経った頃には、きっともう生きてはいないだろうと半ば諦めたらしい。それが十年ほど前の話だという。

「それがね、生きててくれたのよ。どんなに嬉しかったか……」

 ユティはレイを見て、やわらかく目を和ませる。

「だからね、恩返しなの」

 ユティは手を伸ばして、レイの頭を撫でた。

「手紙にはこう書いてたわ。……ラティアの一族では、母親の力を子が受け継ぐことが多いのですって。それでね、息子もきっと強い力を持っているはずだ、って」

「……それを、なんで俺に」

 撫でられる手をそのままに問い返す。ユティはその手を止めることなく、少し目を伏せた。

「……なんとなく、よ。あの赤ちゃんは今頃貴方くらいの年かしら、ってね」

「…………そう」

 ふわふわと髪を撫でる感触は、そう悪くなかった。

31

 一方、城へと戻ってきていたフェデリオは、足早に廊下を進んでいた。

 既に先触れと、それから国王への謁見申請はしており、呼び出しを受けた場所へと向かっている最中だった。

「おかえり、フェデリオ」

「殿下」

 廊下の先にいたエゼルフィードに、礼を取ってからまた歩き出す。国王のところへ向かっているのは分かっているからだろう。彼はフェデリオの態度を咎めることもせず、隣をついてきた。

「大変だったみたいだな」

「異常事態としか言えませんね」

 なんでも、魔物が一度に多数発生したことは、あまりにおかしな事態のため緘口令が敷かれているらしい。もう、調査団は組まれ、現地入りしている魔導師や研究者もいるそうだ。しかし、エゼルフィードの表情を見るに結果は芳しくないのだろう。

「正直、死体が残っていなければ信じられたかどうか」

 肩を竦める彼の言は、フェデリオにも頷けるものだった。精霊や魔物の身体は通常の動物のものとは違うのだという。野生生物がその死肉を漁ることはなく、時間と共に風化して土へと還っていくのを待つばかり。それが彼らの遺体だ。

 今回はそれが功を奏した形で、魔物の大量発生を裏付ける証拠となったようだ。

「陛下は何と?」

「頭を悩ませておいでだよ」

「まあ……、見たままお話しするしかないですね」

 フェデリオの見たものがどこまで役に立つのかは知らないが、その情報をどうするのも国王次第だ。フェデリオの関知するところではない。

「そうだな。――ところで」

 ふとエゼルフィードが、話題を変える。

「紹介した『精霊学者』殿は、どのような方だ?」

「どう、って……」

 正確に伝えても、こちらはこちらで現実味がない。フェデリオは悩んだ末に無難な回答をする。

「森の中に一人暮らし――、という前情報から想像していたほど、気難しくはないですね。むしろ気さくで明るい人間かな、と。……何故、急に?」

 エゼルフィードは「そうか」と一言低く呟いて、眉根を寄せる。

「……どこからか、彼女に関する情報が洩れてな。魔物の異常発生は、彼女が関係しているのではないか――、という噂が蔓延している」

「まさか」

 ユティの人となりは、この数日で分かったつもりだ。レイと仲良さげに話しているのをみると、どうしても悋気が湧いてしまうものの、彼女自身に悪感情はない。

 あり得ないと伝えると、エゼルフィードも難しい顔のまま頷く。

「ああ。私も聞いている限りでは、そう思うよ。ただ、噂のまわりが異様に早い。何か作為的なものを感じてな……」

 そんな話をしていると、国王に呼び出された客室の前についていた。

「フェデリオ、気を付けるように伝えておいてくれ」

「……わかりました」

 フェデリオはエゼルフィードと頷き合うと、扉を叩いてその中に入った。

32

 国王との謁見を済ませ、フェデリオは帰途につく。

 念のためと軍部にも顔を出したためか、ユティの家に着く頃には、日も落ちて久しい時間になっていた。

 もう二人とも寝ている時間だろうな、と予想しつつ馬を走らせる。

 だが、家の前まで到着した所で、玄関先に見えた人影に目を瞬かせた。

「レイ……?」

「……ああ、帰ったのか」

 フェデリオの声に鈍い反応で顔をあげた彼は、置かれた木箱に足を組んで座っていた。

「どうしたの、外で」

「ん……、月見酒?」

 よく見れば、手にはワインらしきものが入ったグラスに、足元には中身が半分ほどしかない瓶が置いてある。

 フェデリオは馬を降りて手綱を木に結わえると、レイの傍まで行って膝をついた。

「酔ってる?」

「……ちょっと」

 受け答えは割合はっきりしているので、眠たいのかもしれない。

 それにしても、急に酒とはどうしたのだろう。

「何かあったの?」

「…………、」

 レイは、何か言いかけた言葉を飲み込むようにして、グラスのワインを呷った。瓶に手を伸ばすのを見て、フェデリオはその手を掴まえる。

「待った。そのくらいにして、もう寝なよ」

「もうすこし……」

「だーめ。もう、目が開いてないでしょ」

 レイは抵抗を諦めたのか手の力を抜いて、頭をぽすんとフェデリオの胸に預ける。そのままじっとして何も言わない彼は、やはりどこか様子がおかしい。

「ねえ、やっぱり何かあったんだね」

 だが、レイはゆるく首を横に振った。

「……何も。ほんとに何もないんだ。ただ、」

 フェデリオは言葉の続きを待つが、やはりレイは何か言いたげながらも言葉を飲み込んでしまう。

 沈黙が続いて、聞こえるのは互いの吐息と木々が風にざわめく音だけだ。フェデリオはそっとレイの背中に手をまわして、やわくその背を撫でる。

「――なあ、」

 長い沈黙が過ぎて、レイがようやく口を開いた。

「ん……?」

「明日……は急だな。明後日、ここを発とう」

「……明日、でもいいよ?」

「…………ん…、じゃあ……」

「『明日』?」

 レイは頷いた。

 いいとは言ったが、急なのは事実。フェデリオは一つだけ確認しておく。

「ユティと何かあった?」

「違う。これは……、俺の問題だから」

「……そっか」

 フェデリオはそれ以上には何も聞かず、黙ってレイを抱き上げる。

「なら、明日は早起きだね。もう寝よう」

 レイは微かに頷いたが、次の瞬間には寝息を立てていた。意識を失った彼を、一度ぎゅっと強く抱きしめて、フェデリオは家の中へと入っていった。

33

 早朝、レイは朝を告げる鳥の鳴き声で目を覚ました。

 昨夜は一人で晩酌していたはず。いつの間にベッドへと戻ったのだったか。うっすらと帰ってきたフェデリオを迎え、会話したような記憶を思い出し――、「明日ここを発つ」と言ったことも思い出して、大慌てでフェデリオの元へ確認しに行ったのだった。

「本当に急ねぇ」

 玄関先で荷物を馬に結わえるフェデリオを見つつ、ユティが言った。

「それ、『泊まれ』って急に言った、ユティにだけは言われたくない」

「あはは、それもそうね」

 とはいえ、礼を失している自覚はあったので、謝った方が良いかなとも考える。だが、彼女は本当に気にしていなさそうだったので、代わりにきちんと感謝を伝えておくことにする。

「ユティ、ありがとう」

 彼女はぱちぱちと目を瞬かせ、ふっと笑った。

「言ったでしょう。恩返しだ、って。それに、貴方がちゃんと完成させてくれれば、私の望みも叶うの」

「……うん。それでも、ありがとう」

 ユティはふふと笑って、レイの頭を撫でた。そして、こそりと耳元で囁く。

「またいつでも来なさい。あなたの部屋はおいておくわ」

「……それ」

 ユティはパッとレイから身を離すと、片目を瞑る。

「もちろん、二人で来てくれても構わないから。フェデリオは睨むのやめてちょうだい」

 どうやら支度が終わったらしい。レイは後ろから肩を掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。

「おまえなぁ……」

「だってぇ」

 への字に口を曲げる彼の手をぺしりと叩いて抗議する。ユティは楽しそうに笑った。

「はいはい。謝るのは呪いが解けてからでいいわ。それより、準備が済んだならもう行きなさいな。あんまり遅いと夜までに城へ着けないわよ」

 彼女の言うことはもっともだ。頷いたレイは、馬の方へ行こうとする。だが、フェデリオが何故かついてこない。不思議に思って振り返ると、嫌に真剣な顔をしたフェデリオがユティに呼びかけていた。

「ユティ、城で良くない噂が流れてる」

「……どんな?」

「一連の魔物に起こる異常が貴女のせいだ、と」

 レイはあり得ない話に言葉を失った。また、流石のユティも顔をしかめている。

「それ、どのくらい信じられてるの」

「少なくとも王太子は信じていない……けど、噂の回りに作為的なものを感じると言ってる。気を付けてくれ」

「……わかったわ」

「ユティ……」

 思わず足を戻しかけたレイに、彼女は首を振った。

「行って。わたしは大丈夫よ。家の周囲に、許可した者以外が立ち入れない結界を張っておくわ。だから、ね」

「レイ、行こう。ここにいても出来ることは少ない。なら」

「ああ。戻って状況を確かめる」

 レイはフェデリオと頷き合うと、馬へと跨った。

「また、ユティ」

「ええ」

 フェデリオは馬を出発させる。手を振る彼女の姿が次第に小さくなって、見えなくなった。

34

「なんとか日のあるうちに着けたな」

 夕日が西の森にかかりはじめた頃、レイたちはようやく城の門を潜った。

 入場手続きを済ませ、フェデリオは馬を預けた後、今後の予定を歩きながら話す。

「報告は明日以降で良いって」

「わかった」

 間もなく夜になるので、特段不思議なことはない。帰還の旨は既に手紙で伝えているので、ブルーノたちへの報告も明日で構わないだろうと判断する。

 明日からは本格的に、魔道具の開発に入ることになる。そのため、あらかじめ必要そうな材料を買い揃えたりしていたために、遅くなってしまった。しかし、今日は報告やら何やらより、寝てしまいたい気分だったので、結果としては良かったのかもしれない。

「それより、明日以降のことなんだが。午後の予定を空けておいてくれ」

「いいけど……、なんで?」

「おまえの状態を見ながら調整したい。まあ、まだ試作段階でもないから急がな――」

「全部、空けとくね!!」

 ぱあっと顔を明るくして、食い気味で返答したフェデリオに肩を竦める。

「まあ、今のおまえならそう言うとは思ったけど」

「あたりまえじゃないか! レイとずっと一緒にいられるってことでしょ」

 嬉しそうに言った「ずっと一緒」という言葉に、レイはスッと血の気が引いたような気がした。

 魔道具の完成に目途がつけられそうな今、その言葉は酷く空虚に聞こえる。

「『ずっと』、ね……」

 嘲笑に口を歪める。

 空気が変わったことに気付いたのか、フェデリオは困惑した顔をする。

「ほんの暫くの間だけ、だろ?」

「レイ……?」

「おまえの呪いが解ければ、俺たちは他人同士に戻る。そうだろ」

「な、なんでそんなこと急に……」

 レイはピタリと足を止めた。

 あたりには誰もおらず、宿舎への廊下を風が通り抜ける音だけがする。

「急に? 違うね。俺たちの関係は呪いだけが繋いでる。それが無くなれば、関係も消えてなくなる。当たり前のことだ」

「――違う! 僕は君との繋がりを断つ気はない!」

「そんなこと、今だから言えるだけだ」

 フェデリオが興奮すればするほどに、レイの頭は冷えていく。

 そう、こんな関係に意味などない。これ以上、深入りする前に戻らなくては。だって、これ以上近付いてしまったなら――

 その時、突然フェデリオがレイの手首を掴んだ。

「いっ……」

 痛みを感じるほど、強く握りしめられる。

「――僕は、君が目の前に現れて、初めて世界が色付いて見えたんだ」

 ぽつりとそう言うと、フェデリオはレイの手を掴んだまま、どこかへと歩き出す。

「もうあんな、灰色の世界に戻りたくない。そのためなら、僕は何だってする」

「ちょ……、おい、痛い! 放せ――」

 レイは必死に抵抗するが、この男に敵うはずもない。

「たとえ、君を逃げられなくさせてでも」

 一瞬だけ振り返った彼の瞳は、怒り、そしてどす黒い独占欲を感じさせた。

35

 レイは、自身の寮への道と反対方向へ曲がった時、この男がどこへ向かおうとしているのか察しがついた。

 こちらのことなどお構いなしに歩くフェデリオは、レイが小走りで半ば引きずられるようについていっていることにさえ、きっと気付いてはいないだろう。

 放せ、と抵抗したのは最初の内だけで、逃げられないと悟ってからは、大人しく後をついていっている。

 今の彼に何を言っても無駄だ。

 レイは俯いて、唇を噛む。

 呪いの影響を甘く見ていた。今言うべきことではなかった。

 そんな後悔は浮かぶが、浮かんだところでもうどうしようもなかった。

 フェデリオは、上品に整えられた廊下を大股で進み、ある扉の前で止まった。その扉を当然のように開けて、中へレイを抱きすくめるように引っ張り込むと、そのまま鍵を閉めた。

 ああ、やはり。と、されるがままに抱きしめられながら、思う。

 ここはおそらく、フェデリオの私室。

 自分は今からこの男に、――抱かれるのだ。

「……レイ」

 くぐもった声は、どこか泣きそうなほど切実で、思わず慰めてやりたくなる。だがレイは、せめてもの抵抗として、自分から動かないように決めていた。

 でも――。

 そんな風に名前を呼ばないでほしいかった。

 自分がただ一つ奪われなかった、その名を――懇願するような、そんな声で。

「レイ……」

 壁に押さえつけられて、膝を割られる。降ってきたキスはあまりにも、寄る辺の無い子供が縋りつくように悲しくて、胸が苦しくなる。

「ん――」

 割り入ってきた舌に、自分のそれを絡める。

 たったそれだけで、フェデリオの身体からほんの少し力が抜けた。

「っん、ぁ……んぅ、んんっ……」

 全てを余すところなく味わおうとでもするような口付けに、どんどんと足に力が入らなくなっていく。フェデリオに支えられていなければ、とっくに床に座り込んでいただろう。

 レイはフェデリオのシャツをぎゅっと掴む。どちらが縋っているのか、分からないほど。

 長い口付けに息も絶え絶えになった頃、ようやく顔が離される。だが、ほっとする間もなく首筋をちゅっと吸われて、身体が跳ねた。

 首に、頬に、額に――とキスをしながら、フェデリオの手は下腹へと向かう。カチャカチャという金属がこすれる音で、ズボンのベルトが外されているのだと気付く。

 フェデリオはあっという間にベルトを抜き去ると、服越しに軽く膨れたレイのそこをすっとなぞった。

「っ……!」

 その感触で完全に立っていられなくなり、フェデリオに縋りつく格好となる。

 彼はふっと息を漏らして、レイの背と膝裏に手を滑り込ませた。そのままレイの身体を持ち上げて、部屋の中を歩く。

 そして、ぽすんとベッドに横たえられた。

「あ……」

 覆いかぶさるように己を組み敷いたフェデリオは、その目を欲にぎらつかせていた。

 身が竦む。

 彼にかかった呪いについて知れば知るほど、こんな日が来ることを予期はしていた。だからといって、覚悟などまるで出来ていなかったのだと気付く。

 怖かった。自分はどうなってしまうのかと。

 でももう――、きっと後戻りはできない。

 フェデリオは再びレイに口付けをしながら、鮮やかな手付きでズボンを引き抜いた。腿に外気が触れ、これが夢ではないのだと知らせてくる。

 そのまま下着も剥ぎ取られるのかと思っていたが、フェデリオはそれをそのままにして、内腿を撫でた。

「っ」

 熱い手の平が、情欲を煽るように動く。

 自分のものが勃ち上がるのを感じ、早く熱の中心に触ってほしいと、知れず腰が動いた。

 フェデリオはそれに小さく笑みをもらすと、下着越しに勃ち上がった先端に触れた。

「あっ」

 くちゅ、という小さな水音がして、既に先走りが零れているのを知らせる。それを擦りこむように手の平が動く。

 布の擦れる感触、手の平の温度、それらが全て快楽となってレイの背筋を上る。

「ん、んん、んんぅ」

 堪えきれない声が、口を押えようとあてた指の間をすり抜けていく。

 フェデリオがその手を掴んで、指の間にキスを落とすと、それさえも過ぎた快感に思えた。

「ああっ!」

 軽く達したのか、声が出て頭がぼんやりとする。

 フェデリオは額にキスをして、少し悲し気にげに微笑むと、今度こそ下着を取り去った。そして、何も身に着けていない下半身の方へ顔を寄せると、太腿にもキスをする。

 手でゆるゆるとレイのそれを扱きながら、ちゅっちゅと内腿に口付ける。

 あんなにもギラギラした目をしていたくせに、その手付きは異様なほどに優しかった。

 触れられるたびに、身体震えた。

「ん、ふ……、ん――」

 鼻にかかったような嬌声が漏れだした頃、フェデリオはレイの足を持ち上げて、レイの目にも自身のそこがどうなっているのか見えた。

 内腿が口付けの跡で塗れている。

 それに異常な執着を感じ――、どうしようもなく背筋が震えた。

「レイ……」

 呼びかけに彼の方へ視線を向けると、ようやく目が合った――そんな気がした。

 どこか怖れるような目をしたフェデリオに、呆れてしまう。

 ここまでしておいて、何を今更。

 そんな気持ちが伝わったのか、フェデリオは少し視線を逸らして、だが覚悟したような顔で、レイのきゅっと窄まった入り口に触れた。

「っ!」

 快楽とは違う何かで、身体が跳ねた。

 怖い。

 でも、もう後戻りは出来ないと覚悟は決めたはずだ。

 レイはゆっくり息を吐いて、出来る限り身体に力が入らないようにする。

 フェデリオはゆっくりとそこに指を侵入させていく。

「ぐっ……」

 異物感が強い。指一本しか入っていないのが信じられないほどだ。

 ゆっくりと抜き差しさせながら、もう片方の手で竿を扱かれる。

 前と後ろの感覚があまりにも違って、頭がおかしくなりそうだった。だが――

「っ!」

 後ろの指がある一点を擦った時、大きく身体が跳ねた。

 その場所が分かってからは早かったように思う。

「――ああっ、んぐっ、ちょ……ま……、――っ!!」

 執拗にそこを擦り、身体をとろけさせていく。何度も身体が痙攣して、それでもフェデリオの手は止まらない。中に入れられた指も、いつの間にやら三本になっているが、いつ入れたのか全く記憶になかった。

 その上、達しそうな直前で手を緩めるので、もう爆発しそうなくらいに身体が熱い。

 もう挿れてほしい――。

 そんなことを恥も外聞もなく思いはじめた頃、ちゅぽっとフェデリオが指を抜いた。

 そして、カチャカチャというベルトを外す音が聞こえ、ちらりとそちらを見て――、見なければよかったと後悔した。

 いくら慣らしたとはいえ、入るのだろうか……。

 再び忍び寄ってきた恐怖を見ないように、ぎゅっと目を閉じると、フェデリオの手が腰を掴んだ。

「――レイ、ごめんね」

 耳元に落ちた言葉にハッとして目を開いた時には、腰は高く持ち上げられ――

「――――っ!!」

 次の瞬間には一気に最奥を貫かれていた。

 目の前がチカチカする。息ができない。痛い――。

 だがそれを上回るほどに、身体は喜びで震えていた。

「あっ、ああ、ああんっ、ふ、あっ……」

 すぐにはじまった抽挿は、まるで内臓を食い破ろうとでもするかのように、重く激しい。足先まで痺れて、生理的な涙が頬を伝う。

 痛い、苦しい。でも、この瞬間が堪らなく嬉しいと感じている。

 長くは続かない。この瞬間は永遠ではない。

 それは分かっているのに。だから、何もないまま終わりにしたかったのに。

「あっ、んんっ……」

 手を伸ばせば、フェデリオは痛いほどにレイを抱きしめた。

 お互い着たままの服がもどかしいと思えるほど。

 その感触が、あまりに悲しくて涙が零れる。でもきっとフェデリオには気付かれはしないであろうことに安堵した。

 この関係は不毛だ。

 呪いが消えるとともに消えてしまうほどに、儚いものなのだから。

 でも――

「――っく」

「ぁああ――っ!」

 フェデリオは激しく腰を打ち付け、レイもその衝撃に声を上げた。

 レイは無意識に足をフェデリオの腰に絡めていた。

 今だけは、今だけは――、このぬくもりに浸っていてもいいでしょうか。

 レイは薄れゆく意識の中で、自身の中で吐精するフェデリオを感じながら目を閉じた。

36

「あっ、ああ……っ、もう――」

 レイはソファに座るフェデリオの上に正面から跨り、大きく身体を痙攣させて吐精する。

 彼の逞しい腹に白濁が散るのを、ぼんやり見下ろしながら、ぐったりと身体の力を抜く。

「レイ……」

 耳元で落とされる低い囁きに身体を跳ねさせながら、ちらりと視線をやると、フェデリオは困ったような顔で眉根を寄せている。

「もうちょっと、いい?」

 後ろに収まったままの彼の怒張は、いまだ硬く大きく膨れたままなのは当然気付いていたので、小さく頷く。

「……好きにしろ」

「ん……」

 フェデリオはちゅっと音をたてて目蓋にキスをすると、下から腰を突き上げた。

「ああっ!!」

 一番弱い場所を的確に突かれ、あられもなく声を上げる。次第に余裕をなくしていくかのように乱暴な抽挿になるが、内臓を圧迫される苦しさ以外に苦痛はない。

 思えば、あの夜もそうだった。

 初めて男を受け入れたことによる痛みはあったが、それよりもずっとずっと快楽の方が強かった。

 彼にも余裕などなかったはずなのに。

 フェデリオは優しい。悲しくなるほどに。

「レイ……、レイ……!」

 しきりに名を呼ぶ声に背筋が痺れる。

「あんっ! あっ、ふ……んんっ――!」

 喰らいつくようなキスで中がぎゅっと収縮し、目の前に火花が散った。それとほぼ同時に、フェデリオもくぐもった声と共に、精を放ったようだった。

「はっ……、はあ…………」

 荒い息をつきながら、お互いに視線を絡ませる。

「っあ…………」

 そして、どちらからともなく相手の唇を求めて顔を寄せた。

「……服、汚れちゃった」

 フェデリオの視線を追うと、レイのシャツが自身のもので汚れている。彼の腹にかかったまま身体を密着させたのだから、当たり前だった。

 レイはじっとそれを見たあと、ふいと視線を逸らした。

「いい。後で着替える」

「……そっか。じゃあ汚れついでにもう一回――」

 レイは顔をしかめてフェデリオをぺしりと叩いたが、本気で逃げる気があるわけではなく、キスをしながら彼の首に腕を回した。


 あの初めての夜から、関係は酷く爛れたものになってしまった。

 お互いの熱を知ってしまったのだ。

 ならばもう、知らなかった頃に戻れるはずもない。

 魔道具の開発に集中する――、という名目で午後は密室で二人きり。扉も修理は終わっていて、防音機能まである。泊まり込みを想定されているのか、簡単なキッチンに仮眠室、シャワーまであって……。健全なままでいる方が難しかった。

 不意の来客のためにと入れたはずのソファは、もっぱら二人分の体重を受け止めて、悲鳴を上げていた。

 再びはじまった情事にレイは声を上げながら、ぼんやりと頭の隅で思う。

 彼は、どこまで気付いているのだろう、と。

 フェデリオは行為の際、レイの身体中あちこちに触れる。頬、額、唇はもちろん、首筋、手に指、頭、髪、耳。今の体勢では難しいが、下腹部から足先まで、あます所なく愛撫する。

 だがそれ以外には――、シャツのボタンにすら触れたことがなかった。今も。

 また、シャワー中や着替え中に乱入してくることもなく、非常に行儀が良い。

 まるで、レイがそこに触れてほしくないのを察しているかのように。

 下半身は何も身に着けず、色々な液体でべちゃべちゃだ。なのに、上半身は首元までシャツのボタンが止まっている。

 どこまで気付いているのか、聞きたい衝動に駆られることは何度もあった。だがいつも、その質問が口をついて出る直前で引っ込めてしまう。

 聞いたとして、どうなる?

 レイは腰を振りながら、フェデリオの首にぎゅっと抱きつく。

 聞いたとして、知っていたとして、それを確認したからどうだというのだろう。

「ああっ、ああぁっ……!」

 この瞬間は、危ない均衡の上に成り立っている。

 今はただ、それが崩れ去ってしまわないように――。

 レイは一際大きな声を上げて、フェデリオの腕の中で何度目かの絶頂を迎えた。

37

「今日はどうしても仕事が断れなくて……」

 朝、出勤前に当然のごとく迎えにくるようになったフェデリオがそう言ったのは、初めて身体を繋げた日から二週間ばかり経った日のことだった。

「ふうん」

 王立研究室への道を二人で辿りつつ、レイは気のない返事をする。

 その反応に少々ムッとしたのか、フェデリオはレイの手に指を絡めて、その指を、指の間をなぞる。

「っ……」

 うっかりそれに声を漏らしてしまい、口を押さえた時にはもう遅い。

 フェデリオは嬉しそうに笑って、レイを物陰へと引っ張り込む。

「ちょ、おい……――」

 顎をくすぐられて上を向かされれば、途端に彼の唇が降ってくる。

「ん、ぅっ……」

 唇を舐められれば、抵抗する間もなくその舌を受け入れてしまうのだから、自分でもどうしようもないなと思う。レイはフェデリオの服をぎゅっと掴んで、もっと、と言いたくなる気持ちをやりすごす。

「は……」

 唇が離れて、息をつく。

 続きへの期待で後ろがひくついているのには気付かない振りをして、レイはどうにか理性を掻き集め、フェデリオの胸を押し返した。

「……こんなこと、してる場合じゃないだろ」

 押さえつけられる前に、とレイはフェデリオの隣をすり抜けようとする。

 だが彼に背を向けた途端、後ろから抱きすくめられ右手の甲に唇が押し当てられる。

「もうちょっとだけ……。今日はもう会えないと思うから」

「…………はぁ」

 小さく嘆息して、抵抗をやめる。

 腰に巻き付く腕はぎゅうぎゅうと締め付けてくるし、先程のキスの名残か、尻には何か硬いものが当たっていう気がするし――。だが、「もうちょっと」という言葉通りに、しばし無言でレイを抱き締めたあと、フェデリオはその拘束を解いた。

「仕方ないね、行こう」

「……ああ」

 そのあっさり具合に、少々物足りなさを覚えるのは贅沢というものだろう。

 その後は実に紳士的に王立研究室の管理室前までレイを送り届けたあと、頬に軽いキスを落として彼は去っていった。

 見られる、という羞恥はもう――なんというか、どこかへ飛んでいったらしい。

 レイは彼が触れた場所を無意識に押さえつつ、部屋の中へと入った。

「あら、おはよう。今日も過保護ね」

「……、おはようございます」

 揶揄いまじりのルリナに、なんと答えたらよいものかと微妙な顔をした後、朝の挨拶だけを返す。すると、彼女は面白そうにくすくすと笑った。

「なんです?」

「いや……、随分と慣れたんだなぁと思って」

「……まあ、慣れもする…でしょ」

 ともすれば赤くなりそうな頬を隠すように、彼女から視線を逸らす。

 既に身体の関係があることは、誰も知らないはずだ。以前より距離が近いとは、思われているかもしれないが。

 だからきっと、ルリナの言葉は「状況に慣れた」とかそういったもので、深い意味はないはず。無意味に深読みしそうになる思考を、どうにか止める。

「そうね。まだ秋のはじめだったものね」

 レイは頷き返す。フェデリオが呪われたのは、彼女の言う通り初秋の頃。今はもうかなり気温も冷え込むようになって、そうしない内に初雪も降るだろう時期だ。

「あちらの嫉妬心もかなり収まったみたいだし、何かしたの?」

 ルリナの疑問にレイは首を傾げた。

「嫉妬心が? そう思います?」

 おそらく身体の繋がりがある故の安心感が、少なからずあるのだろうと思う。だが、他者から見ても悋気が鳴りを潜めて見えるのかと不思議に思った。

「ああ、だって――」

 ルリナはふふと思い出し笑いをする。

「あの……あなたが彼に平手打ちした日、あったでしょ」

「…………ありましたね」

 初めてフェデリオにキスをされた日のことだ。

「あの時、扉が閉まるその瞬間まで、彼……ここにいた全員を射殺しそうな目で睨んでたんだから……!」

 ルリナはそう言いながら笑いはじめ、もう耐えられないとでも言うように大笑いしはじめる。

 一方のレイは、改めて聞かされる話に忘れかけていた羞恥で顔を覆った。

「……その、すみません。ただそれも、呪いのせいなので……」

 何故、俺が謝っているのか。

 レイは少々釈然としないながらも、なかなか笑いを収められそうにないルリナが元に戻るまで、レイはいたたまれなさで顔を上げることも出来ないのだった。

38

 午後になり、レイは城の中でも普段は立ち入り許可すら下りないような、王族の居住区画へと足を踏み入れていた。

 案内の侍女が静かに進む後ろを、出来る限り姿勢を正して進む。

「こちらでお待ちください」

 通されたのはこじんまりした客室だった。もっとも、王族が使うには――という注釈付きだが。

 中のソファに座り、一息つく。出されたお茶は、おそらく上等なものなのだが、さっぱり味が分からない。前回は、あれでフェデリオの存在に助けられていたのだな、と気付くが、今更どうしようもない。

 ガチガチに緊張したまま何度か茶を口に運び、慣れない場所に対しての緊張が少しばかり緩んできた頃――、扉を叩く音にレイは飛び上がるように立ち上がった。

「お待たせして申し訳ございませんわ、レイ様」

 そう言ってにっこり笑って現れたのは、セラフィアナ王女殿下であった。

「よくお越しくださいました」

 レイはセラフィアナに座るように促され、再度ソファに身を沈める。

 セラフィアナの方はというと、今回彼女の車椅子を押すのが侍女であるためか、車椅子に座ったまま、レイから斜めの位置についた。

「いいえ、こちらこそ急な訪問に対応してくださり、ありがとうございます」

 今日、セラフィアナの元を訪れようと決めたのは、今朝――それもフェデリオが一日不在なのを知ってからだった。

 以前ユティの元から手紙を出した際の返信で、「何かありましたら、いつでもお越しください」と書かれていたのを真に受ける形で、今日会えないかと連絡を取ったのだった。

 とはいえ、病弱であまり公務をこなしていないとは聞く彼女も、れっきとした王族の一人。会いたいと言ったからといって、本当にすぐに会えるかは怪しいと踏んでいた。

 そもそも、「いつでも」というのもただの社交辞令かもしれないし。

 だが、普段は傍を張りついて離れないフェデリオが、いない好機であるのも事実。今を逃せば、次ゆっくりと話せるのなどいつになるか。

 そう思ったレイは、無礼を承知で今日中に会えないかと無理を言ったのだった。

 幸い、気分を害した風でもなく、快く応じてもらえてありがたい限りだった。

 セラフィアナはころころと笑った。

「あら。『いつでもお越しくださいませ』と言ったのは、わたくしでございますのに。それよりも、精霊学者さまとのお話はいかがでしたか? 有意義なものとなりまして?」

「ええ、とても」

 レイはユティの元で学んだことを、掻い摘んで話す。もちろん、ユティの個人的な事情は省いたが。

「――では、フェデリオ様の件は、進みそうなのですね」

「はい。近いうちにはどうにかなるかと」

 セラフィアナは自身の呪いを解きたいと願っているだけあり、レイの話した内容にも真摯に耳を傾けていた。その上、多少専門的な内容にも難なくついてきているあたり、彼女自身も相当熱心に勉強していることが窺えた。

「今の話、ケネスにも聞いてほしかったわ……」

 ちょっぴり残念そうに、同席していない護衛の名をセラフィアナが呟いたのを聞いて、レイはもう一つの用事を思い出す。

「そういえば、今日はおられないのですね」

「ええ、そうなんですの。つい最近の魔物騒ぎ……、フェデリオ様が解決なさったというあれの、現場に行っていますの」

 そうなんですね、と返しながら少し逡巡する。だが、レイは今話しておいた方がいいと結論付けて、ズボンのポケットから布張りの小箱を出した。

 それをテーブルの上に置くと、セラフィアナは首をこてんと傾げた。

「こちらは……?」

「殿下の症状軽減に役立てば、と思い持参した物です」

 今日、彼女の元を訪れた理由。一つがユティとの話を報告しておくため。もう一つが、この小箱を渡すためだった。

 レイはテーブルに置いた小箱をもう一度取り上げて、その蓋を開けた。

「まあ……」

 セラフィアナが嘆息をもらす。

 小箱の中には、ブラックオパールのような石が収められている。彼女がまじまじとそれを観察し、顔を上げたタイミングでその蓋を再度閉じた。

「お気付きかとは思いますが、宝石ではありません」

「ええ、微かに魔方陣が見えましたわ。魔道具かしら?」

 レイはその問いに頷いて肯定し、説明をする。

「ユティ――ユスティフィニア殿は、生まれつきの呪いについて、土地の魔素(マナ)と肉体とが合わないために起こるのではないか、と見解を示しています」

 ユティは精霊や魔物由来の呪いについて、その魔物たちが保有する魔素(マナ)と人間の肉体や精神の組み合わせで決まると考えていた。そこから導き出すに、土地の魔素(マナ)と合わない人間もいるのではないか、という話だ。

 レイは、小箱を指差して続けた。

「この魔道具は、この石を中心に半径約二メートルの球状の空間に作用します。その範囲内の魔素(マナ)を吸収、それを動力にして、吸収した魔素(マナ)の構成を変換し放出――。範囲内の魔素(マナ)濃度を一定に保つ効果があります」

 セラフィアナは指先を顎に添え、神妙な顔で頷いた。

「この魔道具の範囲内にわたくしが入り――、身体症状が軽減されれば、仮説は証明される……。そういうことですのね」

「はい。少なくとも土地の魔素(マナ)が原因である可能性が高まります」

 レイは「ただし」と言って、言葉を続ける。

「使用する前に、ケネス殿に安全確認をしていただくこと。それが、今ここで殿下にこれをお渡しする条件です」

「それはもちろん……」

 当然、レイ自身で使用してみて安全なのは確認済みだ。しかし健康体の自分とは違って、彼女には何かが起こるかもしれない。念には念を、だ。

「この小箱は周囲の魔素(マナ)を遮断する素材で作られています。なので、お使いにならない時は、決してここから出さないようにお願いいたします」

「心得ましたわ」

 まかせろ、と言わんばかりに胸を張るセラフィアナに、笑いを噛み殺しながら小箱を渡す。

「……ところで、レイ様」

「はい?」

 小箱を受け取ったセラフィアナは、じぃっとレイの顔を見て、優しく目を細めた。

「誰か、好いたお方でも出来ました?」

「――は!?」

 もしお茶を飲んでいたら、噴き出していたところだった。

「あ、す、すみません……」

 王女相手に「は!?」はないだろ、と思い至り、慌てて謝る。だが、セラフィアナはそんなレイの行動も楽しむように笑った。

「以前にお会いした時と雰囲気が違いますもの。わたくしも恋をしておりますから、分かりますわ」

「こ、恋……」

 女性は何故こうも恋愛の話が好きなのだろうと、内心で首を傾げつつも、思い当たる節がないでもないから困る。

 決して、彼女の言うような「恋」などという甘いものではないけれど。

「――殿下から見て、その変化は……好ましいものでしょうか」

「…………、そう、映りますわ。少なくとも、わたくしの目には」

「そう、ですか」

 彼女の返答を嬉しいと思えばいいのか、それとも虚しいと思えばいいのか。

 レイはふと窓の外に視線を向けた。

 それから、フェデリオの解呪用魔道具の副産物である小箱に目を落とす。

 漠然とした不安が胸に渦巻き、彼の腕が恋しくなる。

 そして、そのことに気付いて、一層――空虚だった。

39

 一方、レイの元を渋々離れたフェデリオは、不機嫌も露わなまま森の中にいた。

「二週間も経ったんじゃ、もう意味ないと思いますけど」

 苛立ちをぶつける相手は、隣にいるエゼルフィード――レイを置いて来ざるを得なくした元凶だ。

「仕方ないだろう、お前たちがいなければ許可が下りなかったのだから」

 じゃあ諦めれば良いだろ、という顔で睨んでみるが、彼はどこ吹く風だ。非常に腹立たしい。

 今フェデリオたちがいるのは、件の魔物たちが発生した場所だ。そこだけ時間が止まっているかのように、今も目の前にはあの時斬り倒した魔物の身体が横たわっている。

 あらかた調査も終わり、とりあえずの安全も確保され――、この王太子殿下の野郎が自分も見に行きたいと我儘を言った。

 その我儘の被害にあったのは主に二人。一人は当然フェデリオ自身。もう一人は、今魔物の側に膝をついて何やら観察をしている、セラフィアナの護衛ケネスだった。

 もっとも彼はセラフィアナの呪いについて調べていることもあり、魔物にも少なくない興味を抱いているようではあったが。

 あとはエゼルフィードの護衛が五人――いや、身を隠しているのも含めれば十人はいそうだと、気配から察し内心で訂正する。たかだか森の視察にえらく大所帯だなとさすがに思うが、この男の身分が気楽に動くのを許さないのだろう。今回の出来事で森、特に霊峰付近の危険度が引き上げられた。仕方のないことだ。仕方のないこと……。

 ――とはいえ、腹が立つものは腹が立つ。それとこれとは別の話なのだ。

「殿下」

 フェデリオがエゼルフィードの隣で腕を組み苛々していると、あちこちを観察していたケネスが戻ってきていた。

「ああ、ケネス。色々見ていたみたいだが、どうだ?」

 気さくな様子で応えたエゼルフィードに、ケネスはちらりとフェデリオの方を見た。

「そうですね。フェデリオ様の太刀筋が実に見事でした。全ての核が正中で真っ二つにされていて、芸術的と言えるほど」

「……どうも」

 突然挟まった世辞に、フェデリオは面倒くささを感じつつ、おざなりな返答をする。

 だが、ケネスはただ世辞を言いたいだけではないようだった。フェデリオに探るような視線が向けられたのを感じ、怪訝に思いながらようやく彼の方を向く。

「ですが、疑問が一つ。果実が核だと、どうして分かったのでしょうか」

「あれは、レイが……」

 ケネスが言うのは最後に倒した魔物のことだろう。レイに「実だ」と叫ばれなければ、見抜けたかどうか定かではない。

「へぇ、レイ様が」

「そ、そうだけど……」

 何かまずいことを言っただろうか。

 ケネスの目が眇められるのに、何となく居心地の悪いものを感じた。

 だが、レイの指摘は別にそれほどおかしなものではないとフェデリオは思っている。あの魔物になっていた実は、攻撃の直前を除けば核であったあれだけで、それも葉に隠されていた。冷静に、時間をかければ、きっと見分けられただろう。ただ、渦中のフェデリオにはその余裕がなかったというだけで。

 しかし、ケネスはそれ以上フェデリオには何も言わず、エゼルフィードの方を向いた。

「殿下、此度の騒動は人為的なものを感じます」

「……なんだって?」

 フェデリオとケネスのやり取りを黙って聞いていたエゼルフィードだったが、はっきりとした報告に眉を顰めた。

「丁度、その辺りを中心に――」

 ケネスがエゼルフィードの前方を指差す。

「半径五メートル程の範囲に入っていたのか、入っていなかったのか……。それが、魔物化の分岐点に私の目には映ります」

 フェデリオはハッとしてエゼルフィードと顔を見合わせた。言われた通り現場を見てみると、彼の言った範囲外には、そよそよと揺れる発光した花がある。

「だが、人間が魔物化を引き起こすなど……」

 信じ難いとエゼルフィードは唸る。フェデリオも同じ気持ちだった。

 だが――。

「レイ様が、魔物化を食い止めましたよね。ならば、その逆ができると考える者が現れても……不思議はないかと」

 フェデリオはその言い方に顔を顰めた。

「レイが悪いと言いたいの?」

「いいえ。あくまで仮定の話です」

 フェデリオは、胸の奥にざわざわとする悪い予感のようなものを感じた。

 相変わらず城内では、ユティを知らぬ者による彼女の悪い噂が流れ続けている。今回のケネスが立てた仮説は、それと結びついてより悪い方向へ行くのではないか。

 そんな風に思えて仕方がなかった。

40

 セラフィアナの元を辞したレイは、自身の実験室へと戻ってきていた。

 フェデリオのいない静かな空間で、ぼんやりと机に向かっている。頬杖をついて、右手にはペンを握っていたが、ほとんど上の空だ。

「……少し、外の空気でも吸ってくるか」

 もう時刻は夕方だ。帰ってしまってもいいのだが、なんとなくそんな気になれずにいる。

 レイはうんと背伸びをして、立ち上がった。そして、部屋の扉を開けて――固まった。

「……なんでそんなところに」

 目の前には同じように固まる、フェデリオの姿があった。

「や……、扉を開けようとしたら、中から開いてびっくりしてた」

 レイはふと笑って肩の力を抜いた。

「ちょっと外の空気でも吸おうかと思ってた。……来るか?」

「! うん!」

 フェデリオはぱっと表情を明るくして、レイの手に自身のそれを絡ませる。

 今日は何故か、振り解く気にならなかった。


 部屋を一歩外に出れば、冬の空気が満ちていた。

 レイは手のぬくもりだけをよすがにするように、人気(ひとけ)のない場所を縫うように歩く。

「……今日はどこへ?」

 黙ったまま歩くのに飽いた頃、レイはぽつりと問いかけた。

「森の……」

 言葉に迷うような素振りを見せたフェデリオに、レイは首を振ってそれ以上言わせるのを止めた。その言葉だけでも、察しはつく。

「なら、ケネス殿と一緒だったのか」

「うん。エゼルフィード殿下のおもりで……、ってなんで知ってるの」

「……セラフィアナ殿下にお聞きした」

 言ったら面倒なことになるやもとは思ったが、いずれ話すことだ。出来る限りさらっと聞こえるように言う。

「そっか」

 フェデリオの返答は至極簡単なもので不思議に思ったが、顔を見ればしかめっ面をしている。なんでもない振りをしているらしい。

 レイはその反応に安堵のようなものを感じ――、自嘲をもらす。

「ねえ、レイ」

「ん?」

「あの魔物たちは、人によって魔物化させられたかもしれない、って言ったら信じる?」

 レイは押し黙った。

 本当のことを言うなら、その可能性はずっと考えていた。

 同時に、複数、それも同じ場所で――。そうなってくると、自然発生的なものと考える方が不自然に思える。

 もっとも、ユティの元で精霊や呪いについて学ぶ前ならば、あり得ないと断じていただろうけれど。

「……そうじゃないことを、祈るよ」

 その時、視線の先にちらりと明かりが見えて、足を止める。

 当てもなく歩いている間に、普段は立ち入らないような場所まで来ていたらしい。こんな城内の中でも隅の方に建物があるなど知らなかった。

「戻るか」

「……うん」

 だがフェデリオは歩き出そうとはせずに、繋がれたレイの手を引いた。そして、近くに生えていた庭木の一本にレイの背を押し付けると、そのまま唇を塞ぐ。

「――っ」

 ゆっくりとした濃厚なキスだった。

 上唇を食み、下唇を吸って……。いつものような深い口付けではない。だが、丁寧に愛撫するような触れ方に、足から力が抜ける。

「んっ……」

 フェデリオの身体と背後の木に挟まれ、膝を割った彼の足に萎えかけた足を支えられる。

「――っ、んで、こんな急に……」

 わずかに口を離した隙間で抗議すると、フェデリオは視線だけで先程見た明かりの方を示した。

 熱に湧いていた頭が、すっと冷える。

 レイはしばし逡巡した後、フェデリオの首にぎゅっと抱き着いて、甘えるような声を出した。

「やっぱり、外はやだ……。僕の部屋に来て。朝までいっぱいして……」

 股の間でフェデリオの股間が固くなったのを感じ、思わず睨みつけそうになったが、なんとか耐える。

「お望み通りに」

 フェデリオは恭しくレイを地面に立たせて、手を引いた。

 そしてしばらく足早に歩いた後、立ち止まってようやくほっと息をつく。

「なんなんだ、あれ」

「分かんないよ。ただなんか、護衛っぽいのがうじゃうじゃしてて、殺気飛ばされてたから……」

 先程の目配せは、そういうことだったのかと、ひとまずは納得する。最初のキスも「逢引き場所を探すカップル」に見せたかったのだろう。なんとなくそこだけは察して、乗ってみたが……、自分はとんでもないことを言った気がする。

「ところで」

「……なんだよ」

 耳元に落とされた低い囁きに、再び身体が発熱しそうになるのを無視しながら、じろりとフェデリオを睨む。

「『朝までいっぱい』……、って、有効かな?」

「――〜〜っ!!」

 羞恥に顔を赤らめ、彼を張り飛ばそうとするが難なく受け止められる。掴まれた手は、そのまま持ち上げられて、その指の間にキスを落とされる。

「ダメ?」

 駄目だ、と言ってしまえれば早いのに、指の間をくすぐる舌と唇が、先程のキスを身体に思い起こさせる。

「……一回だけ、なら」

 その返答に、フェデリオはレイをぎゅっと抱き寄せた。その腕の感触にはぁと荒い息を吐く。

 この先、この腕のぬくもりなしで、生きていけるのだろうか。

 そんなことをぼんやり思いながら、先導するフェデリオの後をついていった。


 そのあと、「一回だけ」という約束を守りながらも、朝まで啼かされ続けたのは言うまでもない。





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41

 セラフィアナに魔道具を送った翌日、レイの元にケネスが訪ねてきた。

「突然申し訳ないです」

「いいえ、魔道具の件でしょう?」

 時刻は午前であったため、管理室の近くにある客間へと彼を通した。

「はい。言伝通り、安全確認は昨日に私の方で。お忙しいでしょうに、ありがとうございます」

 言い方から察するに、使用に値する物と判断されたらしい。どれほど効果があるかは未知数だが、ひとまずほっとする。

「どうということは。片手間で作ったようなものを、殿下に贈るのは少し気が引けたくらいで」

 ケネスはゆるやかに首を振る。

「姫様はお喜びですので」

「なら良かった」

 ケネスは優雅な所作で、レイの出した茶を飲んだ。元の身分は知らないが、王女付きともなれば、こういったところも厳しく教育されたいるのだろうな、と思う。

 彼は音もたてずにカップを戻すと、少し気づかわしげな顔で口を開いた。

「今日は魔道具の件で、少しお願いがあって来たのですが……、日を改めた方がよろしいでしょうか」

「え? いや、伺いますが……、何故?」

「顔色が優れないように見えたので。あと、声の調子も」

 風邪ですか? と何の他意もなく聞いてくるケネスに、レイは必死に冷静を装う。

「…………、いえ、単なる寝不足なので、ご心配なく」

 寝不足――、間違いではないが、それだけが原因なのでもない。

 本当を言うと、腰は痛いし、後ろはいまだに違和感があるし、内腿は昨夜の跡でいっぱいだし、気絶するように数時間浅い眠りに入っただけのため寝ていたいのが実情だ。

 とはいえ、そんなことを人様に言えるはずもない。

 あいつ後で絶対に殴る。

 そんな呪いの念を飛ばしつつ、レイは内心をおくびにも出さず、ケネスに向き直った。

「要件は何でしょう?」

「実は……、あの魔道具を研究用にもう一つ作っていただけないかと。もちろん謝礼はお支払いします」

 意を決したように告げられた内容に、レイは目を丸くした。拍子抜けで。

「構いませんが……。それほど難しい機構ではなかったと思うのですが」

 どちらかというと、あの魔道具の肝は石の中に封じた魔方陣にある。動力は周囲の魔素(マナ)で、動作も魔素(マナ)に干渉するもののため、大掛かりな器具も必要ない。むしろ石の形にしたのは、持ち運びの利便性を考えてのことだ。

 ケネスもそれは分かっているのか、頷き返してくる。

「ただ、実物を姫様に持っていただく以上、そちらをいじるのはどうかと思いまして」

「ああ……、まあ、たしかにそうですね」

「それに、部屋の中や居住空間のみ――というような、空間固定型に改良もできたらな、と」

 そう言われて合点がいった。たしかに、魔道具を大幅に改良していくなら、実物は手元にあった方がいいのかもしれない。

「わかりました。なら……そうですね、魔方陣をあの小ささに刻むのが少し神経を使うので、三日後に。三日後までに用意しておきます」

「ありがとうございます」

 レイはケネスとぎゅっと握手をして、彼が揚々とセラフィアナの元に戻っていくのを見送った。

42

「……よし」

 レイは凝り固まった肩を回しながら、作業を終えたばかりの魔道具を持って、椅子から立ち上がる。

「終わった?」

 背後でフェデリオもソファから立ち上がる気配がした。

「ああ、まだ調整は必要だけどな」

 レイは魔道具を持ったまま、フェデリオの隣へ腰を下ろす。彼もまた同じ場所に座り直した。

「これだ。つけてみてくれ」

 レイがそう言って魔道具を差し出すが、フェデリオは手を伸ばすのを躊躇っている。

「……これ、手枷か何か?」

 フェデリオの言う通り、レイの手には武骨な金属の塊――まさに手枷のような形をしたそれが乗っている。

 試作段階の解呪用魔道具だった。

 ただの手枷と一つ違うのは、留め金と反対の部分に、丸い石のようなものがついていることくらいだろう。この石だけが、どうにかそれが手枷ではなく魔道具であることを示していた。

 突発的なケネスからの依頼などをこなし、ようやく完成したものだ。

 見た目があまりにも――、というフェデリオの視線をレイは黙殺する。言いたいことは分かるが、ただの試作品で見た目にこだわってなどいられないのだ。

「…………いいから、つけろ」

「わかったよ……」

 仕方がなさげに彼が魔道具を受け取る。早速つけようとするのを見て、レイはそれを制止した。

「あっと、待て。その前に左腕を見せてくれ」

 呪いを受けた場所を見ながらでなければ、変化が分からない。フェデリオは首肯して、左袖口にあるボタンを外して、肘の上まで捲り上げた。

「……広がってるな」

 レイは目を眇め、黒くなった肌に指で触れる。噛み跡の周辺だけだったそれは、既に肘にまで触手を伸ばしている。

 幸い、痛みや動きに支障もないらしく、ただ色が変わっているに過ぎない。それでも、刻限が迫っているのを嫌でも感じさせられた。

「つけるね」

 フェデリオが魔道具を左手首に通した。そして、留め金がカチリと音を立てて嵌った。

 どちらもが自然と黙って、痣の変化を見守る。

 だが、これといった変化は見られない。

「…………手を」

 レイはフェデリオの左手を握り、目を閉じてその先に流れる魔素(マナ)の流れに集中した。これも、ユティの元で学んだことの一つだった。

 しばらくそうしている内に、徐々に――肉眼では確認できないほど本当に徐々に、ではあるが、呪いが少しずつ薄まっているのを感じた。

 レイはほっとして手を離す。

「もう取ってくれていい。とりあえず、成功だ」

「……そっか」

 フェデリオは安堵するような、それでいて寂しさに耐えるような顔を一瞬だけ浮かべた。それに気付いてしまったレイは、すっと視線を逸らしながら、フェデリオから魔道具を受け取る。

「今日はこれで終わりにしよう。おまえも疲れてるはずだ」

 この魔道具は装着者の肉体を経由した魔素(マナ)を使って作動する。嵌めるだけで魔法を使っているような状態になる代物だ。もちろんそれほど消費量は高くないはずだが、倒れられても困る。

 レイはフェデリオと目を合わせないまま、彼に背を向けて作業机の前に戻る。

 魔道具から石の部分を外し、メモに改良案を書き止める。

「レイ」

「もう、帰っていい」

「……本当に?」

 後ろから抱きすくめられるように腕が回って、腹をすっと撫でられる。ハッとして振り返ろうとすれば、たちまち唇を奪われた。

「あっ……」

 ちゅっという音に、服越しに触れる指に、どうしても反応してしまう。キスをしながら正面を向かされ、彼の足と机に挟まれて身動きが取れなくなる。

「んっ、ふ……」

 繰り返す口付けで思考が纏まらなくなってゆく。

「帰ってほしい?」

 耳元に落ちる問いかけに、なんてずるい問いだろうかと思う。

 レイは、フェデリオの左腕をぎゅっと掴んで、開いた手を首に回した。

「――抱いて」

 返答の代わりにキスが降ってくる。

 それに身を委ねながら、自分は酷く変わってしまったなとも思う。

 でも今はただ、この男のぬくもりを――彼が今、傍で生きているのだということを、感じていたかった。

43

「あああぁぁ……!」

 レイは机に押さえつけられた格好で、高い嬌声を上げた。

 後ろから挿入される太く熱い杭は、理性も何もかもを甘く溶かしてゆく。ずくずくに溶かされた下半身は既に力は抜けきっていて、フェデリオにされるがままだ。

「気持ちいい?」

「っ……」

 一欠片残る羞恥心で唇を噛み、まろび出そうになる言葉を押し止めるが、身体は正直だ。落とされた低い声と耳に当たる吐息ですら、甘い痺れとなって後孔をきゅっと収縮させる。

「ん、いいよ言わなくても。分かるから……」

 ふっと笑んだ気配が遠ざかり、視線を後ろに滑らせる。目が合った彼は、ニヤリと意地悪げに口端を上げた。

「はは、『もっと』だよね……!」

「っ、は、あっ――!?」

 フェデリオは自身のそれを抜け出そうなほどに腰を引き――、一気に突き入れた。

 一番奥を激しく重く貫かれ、足が痙攣する。めまいがするほどの快感が脳髄を駆け抜けて、軽く達したらしい。

「あっ、うぁ……」

 フェデリオがレイの前に手を伸ばしやわく握ると、ぐちゅりと淫靡な音がした。

「んっ、ああっ、は――」

 先端を握りこまれ、敏感な鈴口を親指がこねるように動く。机に上体を預けたまま、口は半開きでどうしようもなく喘いだ。尻を突き出したままの格好が恥ずかしい――、そんな気持ちも彼方へと消えていく。

 前をひとしきり苛めたフェデリオは、唐突にその手を離して、レイの尻を掴む。

「――動くよ」

「あっ!」

 言うが早いか、ゆっくりとした律動がはじまる。じわじわと中を抉る動きに、レイの腰も揺れる。

 もどかしい。もっと――。

 そんな気持ちが伝わったのか、次第に抽挿は激しさを増してゆく。

「ん、ああっ……! ああぁ、んん――」

 レイの身体が乗った机はガタガタと揺れ、足は床につかなくなるほどの激しさで、中を擦り上げられる。レイの腰を掴むフェデリオの手は、痛いほどに力が籠っていて、彼も絶頂が近いのだと悟る。

 獣のような交わりだと思った。

 顔が見えない。抱きしめる腕がない。ただ一点で繋がって、快楽に喘ぐ。

 でも今は、それの方が都合が良かった。

 快楽だけに集中するように目を閉じて、嬌声を上げる。

 だがその時、机に投げ出してた指先に、ころんと何か硬いものが当たった。うっすらと目を開ければ、それは魔道具の石だった。

 今、この手を払えばその石は床に落ちて壊れてしまうだろう。

 もし壊れれば――、この男はずっと自分のものになってくれるだろうか。

「レイ」

 ハッとして首だけで振り返る。

「……好きだよ」

「――っあ」

 何の前触れもなく告げられた言葉に、抑えようもないほど身体が反応した。

 レイは、石を壁の方へ――決して壊れてしまわない場所へ弾いた。そして、彼の方へ手を伸ばす。

 フェデリオは心得たように、体勢を変えてレイを正面に向けさせると、ぎゅっと力強く抱きしめながら、レイの中を一際大きく貫いた。

「あああっ!!」

 レイはフェデリオの身体にしがみつきながら、身体を震わせる。中に注がれる感覚に言い知れぬ多幸感すら覚えた。

「…………っ」

 俺も、と返せれば良かったのだろうか。

 レイはフェデリオの肩に顔を押し付けながら思う。

 でもその言葉を口にすることは、きっとないだろう。

 この男を決して死なせはしない。

 そう改めて心に決めた今、別れの時が来るのは決まってしまったから。

44

 魔道具の試作が出来た日から一月(ひとつき)余り。

 フェデリオは医務室にあるベッドの上にいた。

 奇しくも、呪いを受けた後に寝ていた部屋と同じ場所。違うのはあの日、目を覚ました時にはレイしかいなかった部屋に、他に幾人もいることだろう。

 医者、レイの上司、それからエゼルフィードが寄越した遣い男――。

 今日は完成した魔道具でついに呪いを解く日だった。

 ベッド脇に屈んだレイが、更に痣の広がった腕を見ている。上腕の半分ほどまで届くその黒い痣に、彼は何を思っているのか目を眇め、でも何も言わなかった。

「昨日も説明したが――」

 顔を上げたレイが、完成した魔道具を差し出しながら口を開いた。

「今からこれを付けて寝てもらう。丸一晩かけて呪いを解除して……、次におまえが目を覚ました時には、この痣も消えてるはずだ」

 魔道具の完成から今日に至るまで、フェデリオは何度も、もう少しだけこうしていたいと懇願した。だがレイの意志は固く、あっという間に医師の協力と上司や関係者の許可をもぎ取って、この日に漕ぎつけた。

 フェデリオは、レイの差し出す魔道具を震えそうになる手で掴む。

 試作の時のような、手枷じみたものとはまるで違う。華奢な鎖に丸い石のついたブレスレットのようなものだ。

 チャリと音を立てて、それはフェデリオの手の中に収まった。

 次に目を覚ませば、呪いは消えてしまう。

 フェデリオはその魔道具に腕を通し――、だが、留め金を留める前に、レイの顔を見た。

 何かを覚悟するような、そんな笑みを浮かべていた。

「レイ……」

 フェデリオは衝動的に彼の腕を引いて、その唇を奪う。

「ん……」

 人前だと嫌がられるかと思ったが、予想に反してレイはうっとりと目を閉じて、その口付けを受け入れた。

 舌を滑り込ませそうになる寸前で、どうにか唇を離す。だが、どうにも離れがたくて、レイの腕を放せない。

「目を覚ました時には、傍にいてくれるんだよね……?」

「…………当たり前だろ」

 彼の笑みに宿る淋しさが、どうしても拭えない。

 しかし、これ以上駄々をこねるわけにもいかず、レイの腕を解放した。

 そして、魔道具の留め金を嵌める。ベッドに横たわれば、急速に眠気がやってくる。これも魔道具の作用らしく、解呪が終わるまで目覚めることはないという。

 霞んでゆく視界の中で、レイの姿を見つめる。

 どうか、目覚めた後も――、世界に「色」がありますように。

 フェデリオは額を撫でるレイの指に誘われるように、夢の世界へと落ちていった。


 次に目が覚めた時、空は澄んだ青をしていた。

 フェデリオはぽつりと零す。

「うそつきだな……」

 その声は一人きりの病室に解け、誰にも聞かれることなく消えていった。

45

 左腕の痣は消え去り、日々は穏やかに過ぎていく。

 冬の長いフィアスリートにおいて、見飽きるほどその目に映してきた真っ白な雪をフェデリオは踏みしめる。

 結局、とこの景色を見ることはなかったけれど。

 だからといって、何か差し障りがあるわけでもない。

 ほんの数ヶ月、時間を過ごした――過ごさせてしまった彼は、フェデリオが呪いにかかっていた最後の日を境に、その姿を消した。

 それから既に一ヶ月ほどが経過している。

 予後は順調で、医者と魔導師からの診察を経て、フェデリオはすぐに軍へと復帰していた。

 呪いにかかる前の日常に、ただ戻ったのだ。

 日々の業務をこなし、坦々と日々を送る。味気なくも変わらぬ日常。数ヶ月に及んだ彩のある生活は、呪いによるものだったのだろうと、フェデリオは結論付けていた。

 剣を振り、前よりも真面目に訓練へ参加するようになったこと。

 以前の日々と比べて、変化といえばそれくらいだ。

「フェデリオ、少し…休んでこい」

 上官の言葉に、振っていた剣を止めた。

 おかしなことを言う、とフェデリオはおどけたように肩を竦めた。

「前は、真面目にやれってうるさかったのに」

 上官は口を噤み、それから小さく首を振って、フェデリオの言葉には答えず要件を告げた。

「――……王太子殿下がお呼びだ」

「わかりました」

 剣を収めて彼に一礼すると、フェデリオはその場を後にする。

 その後ろ姿を、上官が物言いたげに見ているのには気付いていたが、振り返ろうとはしなかった。

46

 身なりを整えたフェデリオは、エゼルフィードに呼び出された、彼の私室へと向かう。

 余程、内密にしたい話があるらしい。

 部屋に辿り着いて扉を叩くと、中から軽い調子て応答があり、そのまま中へ入る。

「調子はどうだ?」

「……特には」

 促されて彼の座るソファの対面に腰を下ろす。侍女が茶の用意をして出て行くと、エゼルフィードは早速というように口を開いた。

「今日はお前に頼みがあって呼んだ」

「頼み?」

 言い方が妙だと少し警戒する。

 彼は人に命令することに慣れた人間だ。やってほしいことがあるというだけなら、こんな切り出し方をするのは、どうにも引っかかる。

 胡乱な目で見られていることには気付いているだろうに、エゼルフィードはにっこりと笑って続けた。

「ああ、私の伴侶からの願いでね」

「はあ。……『伴侶』?」

 エゼルフィードはいまだ婚約者もいない清い身のはずだ。あっさりと告げられた、不釣り合いな言葉にフェデリオは目を細めた。

「いつかにこう言っただろう。『私には愛する婦人がいる』とね」

 フェデリオもその時の会話を思い出す。まさか、とは思っていたが、本当に実在するとは、というのが本音だ。

 問いただした気持ちが無いではなかったが、それよりも今は話を進める方が先だ。

「その方が、僕に何のお願いを?」

「とある人物を、彼女の前に連れてきてほしい」

 わざわざ呼び出して頼むようなことか? と顔に出ていたのだろう。エゼルフィードはふっと笑って、言葉を続けた。

「実はずっと探していた人物がいてね。『十六年前に生き別れた息子の行方を探し出すこと』。これが、彼女の提示した私との結婚を承諾するための条件だった」

「……つまり、居場所が分かったと?」

 今そんなことを頼むということは、そういうことなのだろうと問いかける。だが、エゼルフィードは困ったように笑って肩を竦めた。

「ずっと近くにいたのに、気付けなかったのは私のせいかな」

「は……?」

 彼の笑みに、何か嫌な予感のようなものを感じた。

「レイ・アグリスを連れてき――」

「嫌です」

 ハッとしたのは、反射的に口を突いて出た言葉に、エゼルフィードが目を丸くした時だ。

「フェデリオ」

「嫌です」

 もう一度、きっぱりと言い切って、フェデリオは腰を上げる。

「どうしても、というなら他の人間にご下命ください」

 それ以上は問答すらしたくないと思い、エゼルフィードに背を向ける。

「おい、待っ――」

 呼び止めようとしたのか、エゼルフィードも立ち上がろうとする。だが、その時――

 カンカンカンッ、とけたたましい鐘の音が聞こえて、二人とも動きを止めた。

「魔物か? こんな時に……」

 ぼやくエゼルフィードを無視して、フェデリオは部屋を出ようとする。どちらにしろ、招集がかかるだろうから、というのもあった。

 だが、扉に手をかける直前に、ドンドンドンとその扉が叩かれる。エゼルフィードに確認をしてから、その扉を空けてやる。すると、伝令らしき青年が、転びそうになりながら部屋へと転がり込んできた。

「も、申し上げます! 魔物が発生いたしました、城内に――!」

 フェデリオもエゼルフィードも、信じがたい報告に息を飲む。

 だが、呆けてもいられない。

 フェデリオは、エゼルフィードの「行け」という頷きを確認して、廊下を走りだした。

47

 騒ぎの中心は、王族の居住区画から最も離れた場所だった。

 王立研究室のある場所より更に端、いつだったかに彼と見つけた護衛のつけられた建物の程近くらしい。

 フェデリオは手近な場所で窓から身を乗り出すと、そのまま飛び降りて難なく着地する。そのまま庭をすり抜けるように、そちらへ走る。

 その時、ふと木々の隙間にフードを目深にかぶった人物が視界に入って、思わず足を止める。

「…………ユティ?」

 薄桃色の髪が、一瞬だけ見えた。思い当たった人物の名を呟いてみるが、自分でもまさかと思う。

 だが、あれほど特徴的なものを見間違うだろうか。

 フェデリオはほんの暫し逡巡するが、踵を返してまた走り出す。

 ユティ――らしき、人物を追うためだった。

 どうせ今から魔物騒ぎの現場に行ったところで、出遅れ感は否めない。なら、ここにいるはずのない人物を確かめる方が先決だと判断を下した。

 前を小走りで駆けるフードの人物は、フェデリオの追跡には気付いていないのか、こちらを気にする様子はない。ただ、人目を忍んでいるのは明らかで、時折警戒心を露わにあたりを見回していた。

 その人物が建物の壁に沿って角を曲がったところで、フェデリオは一気に距離を詰めた。

「待て」

「っ!?」

 逃げられないように肩を掴んで引き寄せ、こちらを向かせる。はらりとフードが落ちて顔が明らかになる。

「あ、あら……。フェデリオじゃないの、驚かせないで……」

 やはり見間違いでもなんでもなく、そこにいたのはユティだった。

「どうして、こんなところに」

「魔物騒ぎを聞きつけて、ね。確かめたいことがあったから」

「魔物騒ぎが貴女のせいだと噂されてる、って、僕は忠告したはずだけど?」

 今はまさに「魔物騒ぎ」の真っ只中だ。そんな時に、悪い噂の立つ彼女が身を隠すような格好でここにいれば、人はどう思うか――。そんなものは火を見るより明らかだ。

 むっとして指摘すると、彼女は少しバツの悪そうな顔で視線を逸らした。

「それは……覚えてるけれど。自分の目で確かめたかったのよ」

「確かめる、って何を」

「えっと、それは……」

 ユティはじいっとフェデリオを見て、相好を緩めた。

「呪いは完全に解けたみたいね。おめでとう」

「……おかげさまで。――じゃなくて、質問に答えてよ」

 ユティはふふと笑って、一転表情を引き締めて言った。

「一連の騒ぎは、やはり人為的なものだってことを確かめにきたの」

「……ユティも気付いてたんだね」

「当然よ。今回の子もそうだけど、魔素(マナ)の濁り方に同じものを感じるの。魔法なのか魔道具なのかは分からないけれど、何か同じものを使っているのは確かよ。今日はっきりしたわ」

 確信をもって言うユティに、フェデリオは少し頭を巡らせる。

「それ、証明できる? できるなら、王太子に伝えとくよ」

 すぐには無理でも、ユティの潔白を明らかにする一歩にはなるだろう。

「ありがとう。なんとかしてみるわ」

 フェデリオは頷いて、エゼルフィードに間違いなく伝えることを約束する。

「それじゃあ、早くここを出た方がいいよ。外まで送ろうか?」

 今、人目についてはまずい。早く帰るよう促すが、ユティは首を横に振った。

「ありがたいけれど、もう一つ確かめたいことがあって。だから、遠慮しておくわ。ほら、それじゃあ貴方は早く行きなさい」

「でも」

「いいから」

 ユティはフェデリオの背をぐいぐい押して、騒ぎの方へ向かうように言う。

「大丈夫よ。見つからずに入ったんだから、同じように出ればいいの。でしょ?」

 頑として譲らないユティに、フェデリオはしばらく抵抗してみるが、聞き入れてはもらえそうにない。仕方なく彼女の言う通りにすることにした。

「わかったよ。くれぐれも見つからないようにね。気を付けて」

「貴方もね」

 笑顔で手を振るユティに背を向けて走る。

 彼女の言う「もう一つの確かめたいこと」とやらに付き合ってでも、外まで送ればよかった――。そう後悔するのは、もう少し後のことだった。

48

 騒動の現場に着いた時、そこはフェデリオの想像以上に混乱していた。

「鳥……」

 大鷲のような魔物は、地面に散らばる人間たちを睥睨し、時折獲物を狩るように急降下してきては、その相手に深手を負わせていた。治癒の使える魔導師がいなければ、おそらくもっと凄惨な現場になっていたことだろう。

 剣を抜き構える。

「――っ」

 大鷲はフェデリオが戦闘態勢に入った途端、突然こちらをギロリと睨みつけた気がした。

 まるで、倒すべき相手が来た――、とでも言うように。

 来る。

 そう分かってはいたが、大鷲の予想外に早い降下速度に、フェデリオは反撃を一度諦め後ろへ跳んだ。

 大鷲の通常ではあり得ないほど大きな爪が地面を抉った。その深さに思わず冷や汗が流れる。

 あんなもの、当たったらひとたまりもない。

 周囲に死屍累々と倒れる同僚たちは、誰も死んでいないあたり、遊ばれていただけらしいと悟った。

 何故自分にだけ、これほどの敵意を向けるのかはさっぱりだが、本気でやらねばこちらが殺されると理解するには十分だった。

 魔法で身体強化をしておく。速度と物理耐性を上げるべく筋肉強化をしたが、どれほど役に立つか。

 ふぅと大きく息をつき、剣を構えなおす。上空を旋回した大鷲は、フェデリオの方へ狙いを定めて急降下をはじめる。

 相手は飛んでいる。降りてきた隙をついて、できる限りこちらの攻撃を入れるしかない。

 まずは、足を落とす。それから羽。そして核。

 この順でするしかないだろう。痛みを長引かせるのは本意ではないが、どうしようもない。

 大鷲の爪が眼前に迫る。

 フェデリオはそれを交わして足を両断するべく、身を捻ろうとした。その時。

「――傷付けないで!」

 一瞬、時が戻ったのかと思った。

 聞き馴染んだ声じゃない。女の声だった。

 それを分かっていても、フェデリオはその言葉に抗えず、剣の構えを変えた。

 迫る爪を受け流すように、刀身を大鷲と自分の間に滑り込ませる。

「っ!」

 だが、急な構えの変化は、爪を受け流すには少し遅かったらしい。変な方向から力を加えられることとなった刀身は、爪の当たった場所からヒビが入り、折れる。

 フェデリオは、大鷲の爪をなんとか上体を反らして回避しようとするが、頬に一筋赤い血が散る。そして、風圧に押されて、ゴロゴロと後方へふっ飛ばされた。

「いっ、つ……」

 頬の傷がそれほど深いものではなかったことに安堵しながら起き上がる。

 そしてそこには、大鷲と対峙する一人の女がいた。

 流れる長い黒髪に、簡素ながらも上質な布で作られたと分かる真っ白なワンピースを来た女だった。

 彼女がフェデリオの方を振り返る。

 その顔を見た瞬間、胸がどくりと音を立てた。

「あ……」

 女は「もう心配いらない」とでも言うように、フェデリオに微笑みかけると、大鷲の方へ向き直った。そして、大鷲の方へと手を伸ばす。

「おいで。もう、苦しまなくていいのよ」

 彼女がそう言った瞬間、大鷲はぱあっと白く輝きだす。

 そう、いつかの光景と同じだった。

 が「賢者」を癒した時と、全く同じ。

 白い輝きが収まると、小さな何かが大鷲のいた場所から降ってくる。女はそれを受け止め、胸元に抱いた。

 それは小さな小さな小鳥の姿をした、精霊だった。

「――……『ラティアの一族』……」

 誰かの呟きに少し納得がいった。精霊に精通し、こうして癒しを与えられるなど、彼らしかいない。

「――レリア!!」

 その時、どこから現れたのかエゼルフィードが女に駆け寄って、彼女を抱きしめる。

「怪我は」

「わたしはなんとも。それより……」

 彼女――レリアはこちらを向いた。エゼルフィードが地面に手をついたままのフェデリオを見て、呆れたような顔をした。

「男前が台無しだな」

 頬の傷を揶揄しているのは理解できたが、今のフェデリオにはそれに反応する余裕もない。

「……その、人」

 いや、誰だと問うまでもない。エゼルフィードの対応、それから彼女の容貌。それらを見れば、導き出される答えなど、一つに決まっていた。

「…………レイ」

 彼がいなくなって、初めてその名を口にした。

 そうなればもう――、駄目だった。

 視界が滲んで、涙がぼろぼろと零れだす。

 レリアはレイと驚くほどよく似た顔をしていた。血の繋がりを疑うべくもないほどに。

 レリアは抱えていた精霊を、ぎょっとしているエゼルフィードに渡すとフェデリオの傍まで来て膝をついた。

「貴方がそうなのね」

 慰めるように頭を撫ではじめた彼女の指は、最後の日にレイがしたそれを思い出させる。

 会いたい。

 ずっとずっと、胸の奥に封じ込めてきた思いが堰を切って溢れ出す。

 会いたい、会いたい、会いたい――!

 自分には彼を追いかける権利などないと思った。だって、彼は自分の意思でここを去ったのだから。

 だから、なんでもない振りをした。呪いが解けたから、もう興味がなくなった。そういう風に見えるように。

 そうしていなければ、この無彩色に戻った世界で生きていけそうになかったから。

 本当はずっと、追いかけたかった。

 その思いを認めれば、もう無視することなどできない。

 レリアはそっと手を離して、微笑んだ。

「行ってあげて。あの子、本当はとても寂しがりやなの。きっと今も、それは変わってないわ」

 フェデリオはこくりと頷いて立ち上がる。そして、もう振り返ることなく走り出した。

 レイに会うんだ。

 彼がどんな反応をするかなんて分からない。責められ、詰られるかもしれない。

 彼の身体を強引に暴いて辱めた。

 自分はそれだけのことをした。

 それでも、ただ一目その姿を見たい。

 それだけを胸に、フェデリオは馬に飛び乗り城を後にした。

49

 酷く静かな日常が過ぎていく。

 レイはユティの家にある居間の窓辺から、ぼんやりと闇に沈む雪景色を見つつ思った。

 今、フェデリオはどうしているだろうか。

 最後に見た安らかな寝顔が脳裏に浮かぶ。

 呪いは――解けたはず。

 レイは無意識に、彼の精を幾度となく受け止めた腹部を撫でた。繋がりが消えたようなもの寂しさを感じて、確かに自分たちは呪いによって繋がっていたのだと理解させられた。

 なにより、あれほどレイに執着していた男が追ってこない。それこそが、解呪に成功したことを示す何よりの証左だろう。

 城を出て、行く当てのなかったレイは、少し悩んでから結局ユティの元へ身を寄せた。

 目的地のない旅をするには、これから迫る冬が危険だと思ったから。

「…………は」

 レイは自嘲をもらす。

 もちろん、それは嘘ではない。嘘ではないけれど。

 心のどこかで、あの男が呪いを解いた後も、追いかけてきてくれるのではないか――。そんな風に期待していた。

 だが、それも潮時だろうと思う。

 彼を最後に見てから一月(ひとつき)が経ち、忙しいのだろうと自分を誤魔化すのも限界だった。

 フィアスリートの冬は長い。これ以上先延ばしにすれば、雪解けの時までここに閉じ込められる。

 逆に言えば、今ならまだ凍死せずに国境を越えられるだろう。

「……ユティが戻ったら」

 相談してみようか。

 城の魔物騒ぎを察知し、様子を見てくると言って出かけた彼女は、深夜近い時間になった今も帰ってこない。

 知り合いを探す、とも言っていたから、今日は戻ってこないのかもしれない。

 そう思いはしても、久し振りの一人きりでの夕食後、レイは何をするでもなく彼女の帰りを待っていた。

「……?」

 レイはふと顔を上げた。

 暗い森の中に明かりが見えた気がしたのだ。

 ようやくユティが戻ってきたのかと思い立ち上がる。薄い上掛けを肩にかけて、玄関を開けた。

「ユティか?」

 光が見えた方向に声をかけると、息を飲む気配がした。光――魔法で作ったらしい光球が、ふっと立ち消える。

 レイは眉根を寄せて、そろりとそちらに近寄った。ユティにしては妙だ。一体――

 その時、分厚い雲が一陣の風と共に晴れた。月光が差し込んで、森を照らした。

「…………あ」

 馬に乗ったその人物を見上げ、レイは唇を震わせる。

「フェデリオ……」

 レイは気が付くと走り出していた。それに気付いたフェデリオが慌てて馬を降りようとして落馬する。

 膝をついて身を起こそうとする彼の眼前まで行き――、足を止めた。

 不意に怖くなったのだ。彼が何の目的で来たのか分からないことに気付いて。いなくなったレイを、ただ義務感で探していただけかもしれない。

 だが、足を竦ませるレイに、フェデリオは困ったように笑って腕を広げた。

「来てくれないの?」

「っ!」

 レイはきゅっと唇を噛み、次の瞬間にはその腕の中に飛び込んでいた。

 その存在を確かめるように、彼の頭をきつく抱き締める。フェデリオはレイの胸に?を擦り寄せ、同じようにレイの背に腕を回した。

「ねぇ、レイ。もっと僕の名前を呼んでよ。君がいなければ……、僕の世界は欠けたままなんだ」

 レイは少しだけ身を離して、彼の頬に両手を滑らせた。そして、額に――自分から初めてキスをする。

「ああ。フェデリオ……」

 会いたかった、もう離さないで。

 その想いを唇に乗せる。

「好きだよ、レイ。……やっと言えた」

 フェデリオの手がレイの項を捕える。やわらかく引き寄せられて、唇を重ねた。

 初めて彼と、本当に口付けを交わした気がした。

50

 もつれ合うようにキスをしながら、レイはフェデリオと共に自室へと向かった。

「……随分、酷い格好だな」

 彼の姿をよくよく見れば、服は泥だらけ、頬には傷があり、身体は外気で冷え切っている。

「嫌?」

「そんなことない」

 レイはフェデリオの頭を引き寄せて、傷のところにキスを落とす。そうすると、見る間にその傷が塞がって、うっすらと赤い筋を残すだけとなった。

「魔法? いつの間に……」

「ユティに教えてもらった」

 これから生きていくのに便利でしょ、と魔素(マナ)の扱いを教えてくれたのだ。傷の消えた綺麗な肌を撫でなから、学んでいて良かったなと心から思った。

「そっか……」

 フェデリオはどこか複雑な顔をして、レイをぐいっと引き寄せ抱き締める。

「一ヶ月も僕以外と二人暮らしだったなんて、妬けちゃう……」

 レイは呆れに肩を竦めつつ、フェデリオの背をぽんぽんと叩く。

「今から埋め合わせ、してくれるんだろ」

「……いいの?」

「今更だろ」

 自分も望んでいるのだということを示すように、フェデリオの唇にキスをする。それでも、探るような視線をやめない彼に焦れて、今度はキスだけではなく、その唇をぺろりと舐めた。

 フェデリオが目を見開いてほんの少し身を引くが、レイはそれを追いかけて下唇を食み、開いた隙間に舌を入れた。

「あっ……」

 はじめは戸惑いが大きかったようだが、レイが舌を絡めればすぐに反応が返ってくる。

「ん……」

 吐息をもらせば、さすがに観念したのかフェデリオの舌が積極的に動きはじめた。歯列をなぞり、上顎を突く。唾液を流し込まれ、その味に陶然とする。

 身体をぴったりと重ね合わせるほどに抱き締められ、フェデリオの膨らんだ雄を感じて、身体の中心が疼いた。

「あ……っ…………」

 絡まった舌が離れ、その間を引く銀糸を見つめる。口の端から溢れた唾液を舐め取られ、その感触にすら背筋が震えた。

 もっと、もっと触れてほしい――。

 もう全てを曝け出してしまいたくなった。

「フェデリオ……」

 そっと彼の名を呼びながら、彼の上着を肩から落とした。シャツのボタンを外してやりながら、首筋に唇を寄せる。

「っ、レイ……」

 ズボンを押し上げるフェデリオの前を、すっと撫でる。苦しげに息をつく彼の袖を引き、ベッドに腰掛けさせた。

 レイも、その隣に座る。

 フェデリオの指に、自分のそれを絡める。

 冷え切っていた指にぬくもりが戻っていることにほっとしながら、レイは意を決してその手をぎゅっと掴む。

 そして、自身の首筋――シャツのボタンへと誘った。

「……脱がせて」

 フェデリオの手がぴくりと震えた。

「いいの?」

 気遣うような気配を感じて、ああやはり知っていたのかと思う。

 それでも、彼は何も聞かず、気付かぬ振りをしてくれていた。レイは胸に込み上げる思いに突き動かされるように、彼の手に?を寄せた。

「いいよ、……おまえになら」

 フェデリオはレイの頬に親指を滑らせて上を向かせると、優しいキスを落とす。

 そして、ゆっくりとシャツのボタンを外しはじめた。

 一つ外れ、二つ外れ……、細く肌を覗かせたまま、全てのボタンが外された。

 フェデリオはもう一度レイにキスをして、肩からシャツを落とした。

「…………」

 フェデリオの視線は、レイの左肩にある。胸の上部、肩口の付近にそれはあった。

 禍々しさのある魔法陣。肌に魔法で刻まれたそれは、レイが生涯決して誰にも告げることはないと思っていたものだった。

「……俺は、逃亡奴隷だ」

 そっと告げると、フェデリオはレイの背にぎゅっと腕を回した。あたたかい抱擁に、ずっと我慢していた涙がほろりと零れる。

 そして、ぽつぽつと――誰にも話したことがない生い立ちを語った。

 生まれ故郷の里が襲われ、母と共に奴隷に落とされたこと。母と引き離され、遠い地へ運ばれそうになっていたこと。そこで事故に遭い、荷馬車を投げ出されたこと――。

「寒い日だった。俺は雪の森を歩いて――、力尽きた。あのままだったら、きっと俺はそのまま死んでたはずだ。……それを救ってくれたのが『賢者』だった」

 フェデリオがレイの髪に指を通す。

「そうか、それで……」

 フェデリオと出会ったきっかけ、「賢者」を救おうと必死だった理由がそれだ。自分が救われたように、あの優しい精霊を救いたかった。

 レイの命を掬い上げた「賢者」は、レイを雪の当たらない洞窟でしばらく介抱したあと、孤児院まで送って去っていった。

 たった数日の邂逅だったが、今もレイの記憶に輝かしい姿が色濃く残っている。

 フェデリオは、静かにレイの独白を聞き終えると、レイの額に口付けを落とした。

「……話してくれて、ありがとう」

 レイはふるりと首を振る。

「おまえは気付いてたんだろ。いつから?」

「…………初めて君を抱いた日、に、その……」

 口籠るフェデリオの様子でピンとくる。あの日、上を脱がされた記憶は無いが、レイが気絶したあと、彼はレイの身を清めてくれたはずだ。目が覚めた時、情事の後の気怠さと彼を受け入れた痛み以外、まるで何事もなかったかのように整えられていたから。

 その際に見てしまっていても、何ら不思議はない。

「その……、ごめん……」

 居心地悪げに謝るフェデリオに、思わず笑いがもれる。

 彼だけが悪いわけでもないだろうに。

 レイはフェデリオの唇に、ちょんとキスをする。

「いい。昔話はもう終わりだ。だから……」

 レイがフェデリオの太腿に手を這わせると、ビクリと彼の身体が震えた。

「んっ。レ、レイ……」

「言っただろ、『脱がせて』って。もう終わりか?」

 レイのシャツは手首に残り、下半身に至っては手つかずだ。それを揶揄ってやると、フェデリオは?を少し朱に染めてレイを軽く睨んだ。

「なんか、レイ……。意地悪になった?」

「さあ。おまえのが移ったんだろ」

 しれっとそう言っておく。意地悪げに微笑んで見るが、目が合うとお互いに笑みが浮かんだ。

「ふぅん。じゃあ覚悟してね」

 嫣然と微笑むフェデリオの色気に反応しそうになる身体を誤魔化しつつ、唇を寄せた。

 啄むようなキスは、あっという間に深くなって、喘ぎが漏れる。

「っ、ん……、ふ……ぁ……」

 キスだけで、とんでもなく気持ちがいい。

 呪いのせいじゃない。フェデリオの意思で自分に触れてくれている。それが、堪らない――。

 シャツが床に落とされ、彼の手がズボンにかかる。

「おまえも、脱げよ……」

 俺だけ裸にする気かと睨むと、フェデリオはニヤリと笑って、レイの手を握った。手の平にちぅっと音を立てて口付け、それから彼自身の胸元にその手を持っていく。

 君がやってよ。

 そう、目が言っていた。

「っ……」

 レイは震えそうになる手で、彼のシャツに手をかけた。ボタンを一つずつ外して、鍛えられた胸元が露わになっていく。

「…………は……」

 フェデリオの首筋に唇を寄せる。

 何度も見ているはずなのに、今日は一層――艶めかしかった。

 手を胸、腰に滑らせて、その滑らかな肌をなぞる。

「んっ……」

 フェデリオが吐息を漏らしたのに気を良くして、彼のズボンに手を滑り込ませる。だが、その手をフェデリオが止めた。

「まって……。あんまりされると、歯止めが……」

 何を今更、と思い――、レイはふっと笑って大人しく力を抜いた。開いた手でフェデリオの頭を引き寄せると、その耳元に囁く。

「歯止めが効かないようにしてる。……わからないか?」

「っ〜〜、もう!」

 フェデリオは、レイをベッドに押さえつけると、その身体の上に馬乗りになって、前をはだけただけだったシャツを脱ぎ捨てた。

 そして、レイの顎を掬い上げると、深くキスをする。

「……優しくしたいのに」

 レイはきょとんと目を見開いた。そして、枝垂れてきたフェデリオの髪を指に絡めて、毛先に口付ける。

「おまえは……いつだって優しいよ」

 出逢った時から、いつも。

「だから早くしてくれ。待ち切れないのは、……おまえだけじゃない」

 レイの言葉が意味することを察したのか、恥ずかしげに頬を染める。

 呪いの解けたフェデリオは、随分と初心な様子を見せる。それをかわいらしい、なんて思いながら、レイはフェデリオの首に腕を回した。

 再び貪るようなキスをして、今度こそレイのズボンをフェデリオが下着ごと引きずり下ろす。

 すっかり勃ち上がったそこを見て、フェデリオがごくりと喉を鳴らした。

 だが、性急にことを進めることはなく、フェデリオは指でそれを扱きながら、レイの首筋に口付ける。

「んっ……、ぁ……」

 その口付けは少しずつ降りていき――、二つある尖りの片方に辿り着く。

「んあっ!」

 それをちゅっと口に含まれると、ビリビリとした快感が背筋を駆け抜けた。

 幾度となく身体を重ねてきた。

 だが、その蕾への刺激は初めてのこと。熱い口腔に含まれ、吸い上げられると、下への刺激も相まって腰が揺らめいた。

「んっ、ふ……」

 声をもらすと、フェデリオが安堵したように微笑む。その微かな吐息で、また背筋が震えた。

 そして今度は、放置されていたもう一つの尖りを、指で摘まれる。

「あっ……!」

 両の胸からもたらされる刺激に、自身の分身を包む熱が相まって頭がぼうっとしてくる。

「あっ、あぅ……、ああっ!」

 身体をビクンと痙攣させ、フェデリオの手の平に精を放つ。彼は満足そうに、その手についた白濁をぺろりと舐めた。

 そしてフェデリオはレイの脚に触れると、レイの方を見る。

「……いい?」

 何が、と聞くまでもない。レイはこくりと頷いて、期待にひくついた後孔を自ら開いた。

「あっ……」

 膝を抱え上げられて、更にそこが露わになる。フェデリオは窄まりに口付けると、ゆっくりと指を中に沈めた。

「あっ、あ…ん……っ」

 実に一ヶ月振りの中への刺激に、指を入れられたというだけで感じてしまう。食らいつこうとするかのように、その指をぎゅっと締め付ける。

「んん、あ……」

 動きづらそうにしながらも彼の指は、中を切り開いていく。そして――

「――あっ!」

 一番感じるところを擦られ、レイは身体を跳ねさせた。

「あっ、あ、――っ!」

 突き抜けた快感に、喉を反らす。軽く達ってしまったらしい。前からはじわじわと蜜が溢れ、フェデリオが指を動かす度にビクビクと身体が跳ねた。

 フェデリオはやわく微笑むと、指は入れたままレイにキスをする。

「ふ、っん……、んんっ!」

 その隙を突くように指の本数が増える。

「――ん、あっ、あ……は、んんぅ……」

 バラバラに動く指に身体を震わせ身悶える。

 そうして、レイの身体からすっかり力が抜けた頃、ようやくフェデリオが指を抜いた。

「は……、あ…………」

 一瞬、体温が離れ、去来した寂しさに下方を向けば、フェデリオは手早くズボンを脱ぎ捨てて、すぐに戻ってきた。

 レイの額にキスをする。

「挿れるね」

「ん……」

 足を割り、その間にフェデリオの体温を感じる。彼の太い剛直が添えられたのを感じ――、次の瞬間には一気に貫かれていた。

「あああっ!!」

 目の前がチカチカする。最奥に重く響いた衝撃で、それだけで絶頂する。

 だが、それをお構いなしに、フェデリオの突き上げがレイの身体を襲う。

「ん! あっ、ああっ! ああんっ!!」

 以前だったら、「待って」だとか「もう少しゆっくり」だとか、そういったことを言っていただろう。過ぎた快楽は苦痛に思うほどで、身体がバラバラになりそうだった。

 でも、それでもいいと思った。

 たとえこれで本当に身体が壊れたとしても、フェデリオを受け止めたいと。

「あ! フェ…フェデリオ……っ、だ、だきしめて……んあっ!」

 腕を伸ばせば、彼は願いを叶えてくれる。ぎゅうっと、潰れるほどに抱き締められて、息が苦しく、――嬉しかった。

 肌と肌が触れ合う初めての感触。熱い彼の身体に直接触れられる嬉しさ。

 それが、何よりも強烈な快感となってレイの身体を駆け抜ける。

「あっ! あ、ああっ!! あっ――!!」

 身体の内側に精を叩きつけられる感触にレイも達し、腕と足とをフェデリオの身体に絡めた。決して離れてしまわないように。

 上気した顔を見合わせて、舌を絡めるキスをする。

「ん、んぅ…っ……」

 互いに互いを離すことが出来なかった。

 会えなかった日々を埋めるように、夜は更けていく――。

51

 目が覚めたのは朝も遅い――、最早昼近い時間だった。

「ん……」

 後ろから抱き締められた腕が心地よく、むき出しの腕に?を擦り寄せる。滑らかな感触にもう一度目を閉じかけるが、さすがに起きなければと思い直す。

「おい、そろそろ……」

「ううん……」

 ベッドから身を起こそうとするが、強く抱き寄せられて失敗する。

 それどころか、フェデリオの手が寝ぼけたまま身体をまさぐろうとするのを察し、レイは思いっきり顔をしかめ、彼の?を抓りあげた。

「いったたた……!」

「馬鹿、起きろって言ってんの」

 こちらだって、まだこの腕の中に収まっていたいのを我慢しているのだ。ここでこれ以上触られたりなんかすれば、確実に欲求に負ける。

 何も憂いがない状態なら、それも悪くない……が、今は先に確かめておきたいことがあった。

「ユティが帰ってきてない」

 レイがそういうと、さすがのフェデリオもピタリと手を止めて起き上がった。

「嘘でしょ?」

「いや……、おまえ気配を感じたか?」

 フェデリオはぷるぷると首を振った。

「もう帰って寝てるものかと……」

 レイが声を抑えていなかったのは、この部屋にも何か仕掛けがされているのだろうと思った、とフェデリオは言った。

 そして、ふと考え込み、サッと顔を青褪めさせて言った。

「まさか、捕まった……?」

「……どういうことだ」

「昨日、城でユティに会った。外まで送ろうか、って言ったんだけど断られて……」

「衛兵に捕まった、って?」

「わからないよ。でも……」

「……可能性はある、か」

 立ち上がったレイは手早く着替えながら、同じく側で着替えるフェデリオに詳細を聞く。

 レイが城を出て一ヶ月余り。いまだにユティの悪い噂は消えていないと知り、フェデリオの予想に信憑性が増したように感じる。

 支度が終わると、念のため家の中を二人がかりで探してみたが、やはり一度も帰った様子がなかった。

「どうする? 僕が様子を探ってきてもいいけど……」

 レイは渋面を作り、しばらく考え込む。ちらりとフェデリオを見て――、今更だなと判断して立ち上がった。

「その前に、ユティの身に本当に何かあったのか、それとも単に帰宅が遅れているだけなのか知りたい」

「どうやって?」

 レイはすたすたと玄関の方へ歩いていく。フェデリオが慌ててその後を追ってきた。外へと繋がる扉に手をかけ、レイは後ろにいるフェデリオを振り返った。

「――精霊たちに聞く」

 レイは扉を押して、外へと出た。

「レイ、それって……」

「もう隠しても意味ないからな」

 レイは親指で、自身の肩にある奴隷印を指す。

「つましく暮らす隠れ里がわざわざ襲われて、住民がほぼ全員奴隷に落とされるなんて、普通じゃ考えられないだろ」

「知ってたの。自分が……ラティアの一族だって」

「まあな。もっとも、力の使い方はユティに習ったんだけど」

 一族で住んでいた頃の記憶は、レイの中に殆ど残っていない。まだ物心つくかつかないかの頃のことだ。そう不思議なことではなかった。

 だが、一族の人間として知っておかねばならない教えだけは、母から何度も伝えられたため、残っている。

 我々ラティアの一族に産まれたものは、精霊の力を決して復讐のために使ってはならない。

 そういった、倫理観を啓蒙するような内容ばかりだが、魔物――ひいては精霊の持つ強大な力を知った今となっては、その教えが何よりも重要なのは腑に落ちていた。

「少し離れててくれ」

 フェデリオが頷いて一歩下がるのを見届けると、レイはその場に膝をついて手の平を地面にあてた。目を閉じて、近くにいる精霊たちに呼びかける。

 昨日以降のユティの行方を知るものはいないか――、と。

 その時、がさりと繁みが動いて、レイは弾かれるように顔を上げた。

「あ」

 そこにいたのは、真っ白な牡鹿――「深淵なる森の賢者」だった。その頭には桃色をした蝶も乗っていて、たしかあの蝶はユティによく懐いてたと思い出す。

「お前たちが知ってるのか?」

 レイが問いかけると、とことこと近付いてきた「賢者」は、鼻をレイの頬に摺り寄せる。その顔を撫でてやると、ふっと昨日のユティに起こった事象が流れ込んできた。

「…………、そうか」

 一瞬で流れ込んできた情報に、少々眩暈を覚えながらも、レイはもう一度「賢者」を撫でて立ち上がった。

「やはり、城で捕まったみたいだ」

「なら僕が釈放の交渉を……」

 フェデリオが城に戻ろうとして足を踏み出すのを、レイは首を振って止めた。

「いや……、捕まったというよりは、『拉致』といった方が正しいかもしれない」

「ら、拉致……?」

 つまり、衛兵などに不審者として捕まったわけではないことを、言外に伝える。

「ローブを着ていたから、魔導師か……俺たちみたいな研究員か。けどあれは――」

 蝶か鳥の視点で見た光景が、レイの中に伝わってきたものだ。そのため、遠すぎて相手の顔はよく分からなかった。

 ただ、どうにも見覚えがあるように思った。

 けれど確信を持っているわけではなかったので、レイはそれ以上は口を噤む。

「それより、国が関与していない可能性が高い方が問題だ」

「そうだね……。ただの不審者として捕まったのなら、殿下がどうにかするだろうけど」

 フィアスリートは王政ではあるが、罪人を独断で裁くほど強権的な国ではない。仮にエゼルフィードが動かなかったところで、裁判も何もなくいきなり殺されることはないだろうから、まだ安心だったのだ。

 だが、個人的な拉致となると――、話は変わってくる。

「ともかく急いで戻った方がいいね」

「ああ……。俺も行きたい、んだけど……」

 レイは尻すぼみに言葉を切った。

 フェデリオの元を去る際に、ブルーノに辞表を出して来ている。つまり今の自分は城においそれと入れる権利を持っていない。

 フェデリオの連れとしてなら、どうにかなるだろうか。だが、それでもし入れたとして、中で自由に動き回ることはできないだろう。

 どうしたものか、と悩んでいると、フェデリオが口を開いた。

「あー……、それ多分、大丈夫だと思う」

 身分証の類も無くしたで通る、などと言うので、レイは怪訝な顔をした。

「どういう……?」

「まあ、それは行ってみればわかるよ。それよりどうするの? 行く? 行かない?」

「――行くに決まってる」

 フェデリオの差し出した手を握り返す。

 その時、ふわりと桃色の蝶がレイの周りを飛んで、肩にとまった。

「お前も行くか?」

 そう問いかけてみると、肯定するように一度ぱたりと羽をひらめかせる。

「なら、一緒に行こうか」

 レイは「賢者」に留守を頼むとお願いして、フェデリオと共に馬へと飛び乗った。

52

「……本当に入れた」

 何事もなく通り過ぎた城門を振り返り、レイは呆れ顔をした。

 時刻は夕刻。フェデリオがかなり馬を飛ばしたため、身体への負担はなかなかだったが、日のあるうちに辿り着けたことにほっとする。

「言ったでしょ、大丈夫だって」

「おまえ……、何したんだよ」

 胡乱げに隣のフェデリオを見るが、彼は肩を竦め首を振る。

「僕は何もしてない」

「僕『は』、ね……」

 嘘を言ってる風でもないので、ならば心当たりはあと一つだ。ならば先にそちらを解決しておこうと思い、レイはフェデリオに言った。

「俺は王立研究室に行ってから、ユティを追うことにする。おまえは?」

「うーん……、なら、僕は殿下に報告してくるよ。終わったら合流しよう」

 レイはフェデリオと頷き合って、それぞれ別の方へ足を向けた。

 一ヶ月振りに足を踏み入れた城は、雪景色の中にあり様相が変わっている。時の流れを感じながらも、それ以外にはこれといって変わったところは見られない。

「今の時間なら……」

 そろそろ同僚たちは帰りはじめている頃だろう。だが、目当ての人物はおそらくはまだ残っているはず。

 足早に慣れた道を歩く。幸い、これといって人に会うこともなく、王立研究室の前に辿り着いた。

 管理室の扉を叩き、開ける。

「……室長」

 声をかければ、書類仕事をしていたブルーノが顔を上げた。彼の他に人はいない。レイは扉を閉めて、ツカツカと彼の前まで行くと、机に手をついた。

「なぜ、俺の籍がまだ残ってるんですか」

 そう。入城手続きの際にレイが知ることとなったのは、自分がまだ王立研究室の一員のままだという事実だった。

 きょとん、としていたブルーノに、レイは詰め寄る。

「辞表、渡しましたよね? 後で見てください、って」

「ああ……、これのことか?」

 彼は机をごそごそと探り手紙を取り出して、レイの目の前に置いた。それは確かにあの日に渡したものなのだが……、封すら切られていない。

「室長……」

 どういうことだ、と睨むと、彼は悪びれもせずこう言った。

「私も読むつもりはあったぞ。だが、『後で』というのが具体的にいつのことなのか。それを言わなかったお前が悪い」

「そんな屁理屈……」

 要するに、中が辞表の類いだと察して、あえて読まなかったらしい。

 だが、何故?

 レイの疑問に気付いたのか、ブルーノはちょっぴり申し訳なさげな顔で苦笑する。

「ほとぼりが冷めれば、いずれお前はここに戻るだろうと思っていただけだ。精霊研究と魔道具開発。その両方を満足にできる環境は、今のところこの国をおいて他にはないからな」

 それは確かに、ブルーノの言う通りだった。他国で暮らしていこうとすれば、これまでの人生で培ったもの全てを封じて生きていかねばならない可能性も大いにあったのだ。

 ブルーノは黙り込むレイに、軽快に笑った。

「その時になって、優秀なお前を余所に掻っ攫われるのは悔しいじゃないか」

 レイは呆れたように溜息をついて笑った。

「仕方ないですね。それにまあ……、今回は助かりました」

 問題なく入城できたのは、間違いなく彼のおかげだ。

「そういえば、急にここまで来るなんてどうした? 昨日の騒ぎに関係しているのか?」

「はい……、少し気になることがあって」

 詳細をぼかして、訪ねてきた理由を伝える。ユティを拉致したかもしれない相手は、ローブを着ていた。レイもブルーノが――、などと思っているわけではなかったが、念の為だ。

 ついでに、昨日の城内で不審人物が捕らえられたという話もなさそうなのを確認し、やはり「拉致」されたのだという線が濃厚になった。

「あ……。来たついでになんですが、室長には別のお願いがあって――」

 一旦話が途切れたタイミングで、レイはそう切り出す。

 だが詳細を話す前に、俄に外が騒がしくなった。そして、部屋の扉が開け放たれ――、そこにはフェデリオがいた。

「――レイ! まだ無事!?」

「は?」

 意味が分からず目を点にしていると、ここまで走ってきたのか息が荒いフェデリオが、ズカズカと部屋に入ってきて、レイの手を掴んだ。

「逃げるよ」

「え、ちょ……、どういうことだ?」

 まだブルーノとの話は済んでいない。何より「逃げる」とは、一体何なのか。

 フェデリオは説明する時間も惜しいとばかりに、レイを引きずって歩き出す。

 だが、フェデリオがレイを外へ連れ出すより早く、その出入り口を衛兵が囲んだ。

 何やらただ事ではないらしい。レイの手首を掴むフェデリオの手に力が籠もった。

「ルミノール卿、邪魔をすれば貴方もただではすみませんよ。これは王太子殿下のご命令です」

「だから、僕は何かの間違いだと言っている!」

 衛兵に噛みつくフェデリオの服をレイは引っ張る。

「おい、一体何が……」

 その問いに答えたのは、じろりとこちらを見た衛兵の一人だった。

「レイ・アグリス殿。貴殿には昨日の魔物騒ぎに関与している疑いが持たれている。大人しく我々に従えば危害は加えない」

「なっ……」

 意味が分からない連行理由に開いた口が塞がらない。そんなわけないだろと叫びたくなるが、衝動をぐっと堪える。彼らは王太子の命令だと言っていた。下手に逆らえば、フェデリオにも咎が及んでしまうかもしれない。

 レイはフェデリオに掴まれたままの腕を強く引いた。

「フェデリオ、もういい。下がってくれ」

「でも……!」

「逃げても事態は良くならないって、分かるだろ」

 フェデリオは悔しそうな顔で押し黙り、ゆるゆると掴んだ手を離した。

 彼が大人しくしてくれたことにほっとして、今度は衛兵の方を見る。

「貴方がたについていきます……が、まだ室長との話が終わってないので待ってください。すぐ済みます」

 レイは彼らの返事を待たずに、ブルーノの方へ向き直る。

「室長、紙とペンをください」

「あ、ああ……」

 レイは受け取ったそれに、必要なことをさらさらと書き込み、彼に渡す。

 ブルーノはそれに目を通して、軽く目を瞠った。

「それ、お願いできますか」

「……任せなさい。王立研究室の威信にかけよう」

 彼が請け負ってくれた以上、もう心配はない。レイは連行を受け入れるため、ブルーノに背を向ける。

 フェデリオのすぐ横を、彼の顔を見ないようにして擦り抜ける。だが――、その腰をフェデリオに引き寄せられた。

「……必ず助けるから」

「…………ん」

 耳元に囁やきを落とされ、項に触れるだけのキスを感じた。レイが頷けば、その手が離れていく。

 熱が消えていくのがあまりに心許なくて、行きたくないと縋りそうになった。

 だからあえて振り返りはしなかった。

「さあどうぞ。連れて行ってください」

 毅然とした態度で衛兵の元へに向かう。

 フェデリオの視線を痛いほど背中に感じながら、レイは衛兵に囲まれその場を後にした。

53

 檻の中へ入れられたレイは、溜息をついて簡素なベッドに腰を下ろした。

 罪人が収監される地下牢は、空気が澱んでいて黴臭い。だが意外にも掃除は定期的に行われているようで、この国の平和さを表しているようだと思った。

 ベッドに腰かけたまま、レイは壁にもたれてぼんやりと虚空を見つめる。

 窓のないこの場所では、外の状況を知ることもできないが、今日は一晩ここで明かすことになりそうだ。

 レイは鉄格子の中にもう一度入る羽目になることを怖れていた。

 けれど心は穏やかだった。奴隷売買のためのものではない、という点もあるだろう。けれど――

「……フェデリオ」

 あの男が、必ず助けると言ってくれた。

 その言葉がレイに、とても大きな安心感を与えてくれている。

 きっと彼はその約束を違えたりしない。

 ならば、自身もここでぼんやりしているだけではいられない。

 レイはぎゅっと目を閉じて、自分の頬をぱしんと両手で叩いた。それから、姿勢を正して今度は周囲を探るべく目を閉じた。

 そもそもここへは、ユティの行方を探して来たのだ。彼女の周囲を流れる魔素(マナ)の流れは独特だ。彼女にこの一か月間で叩き込まれたことを駆使すれば、痕跡くらいなら見つけられるはず。

 レイは集中を高め――、ハッと目を開けた。

 彼女は城のどこか、それも地下にいる。

 その時、檻の格子をぱたぱたとすり抜けた蝶がレイの目の前を舞った。

「お前、今までどこに……」

 城内に入ってからというものの、姿が見えなくなっていた蝶の精霊だった。レイが指を差し出してやると、精霊はその指先に止まる。そして、伝わった内容に目を瞬かせた。

 この精霊は、ずっとユティの居場所を探していたのだ。そして、ついに見つけたとレイに知らせに来た。

 だが――、レイは固い鉄格子の見る。

 この蝶のように、自分はあの間をすり抜けることなどできない。

 脱走を試みることも考えたが、自分にかかった嫌疑を考えれば、少なくとも今は動くべきではないだろう。

「なあお前、その場所をフェデリオに教えてやることはできるか?」

 精霊から躊躇するような気配を感じる。フェデリオはレイのように、精霊の言葉をはっきりと分かるわけではない。だから迷うのも無理はない。それに、精霊たちはどうやらこれまで魔物を狩ってきた彼に、少々怒りを感じているようなのだ。賢い彼らは、仕方のないことというのも分かってはいるようだが。

「頼むよ。俺は今動けないから」

 再度お願いすると、蝶は不承不承といった様子ながら、レイの指を離れた。嫌そうではあったが、レイからの願いであることとユティを助ける手段であることを考え、どうにか伝えてみる気にはなってくれたようだった。

「……はぁ」

 精霊が放つ光の残滓が消え、レイはぐったりと身体の力を抜いた。上体をごろりとベッドに横たえて天井を見つめる。

 一人きりになり、今ここで出来ることも終わった。緊張の糸が切れたのだろう。疲労感が急に襲ってきた。それと同時に睡魔もやってきて、レイは抗いきれずに目を閉じる。

 あとはフェデリオが上手くやってくれることを祈るしかない。

 身体が次第に重くなって、もう目蓋を押し上げることもできなくなる。

 レイは深い闇に引きずり込まれるように、意識を手放した。

54

「どういうつもりですか!!」

 レイが連行されるのをなす術なく見送ったフェデリオは、エゼルフィードの元に文字通り怒鳴り込んだ。

 時刻は深夜を回り、彼と会えるまで随分待たされた苛立ちと不眠とが重なって、どうしても穏便に――ということが出来なかった。

 エゼルフィードはいきり立つフェデリオを、冷めた目で見てから溜息をついた。

「少しは頭が冷えているかと思ったんだが」

「わざと待たせたとでも?」

 フェデリオがギッと睨むと、彼は疲れた顔で首を横に振った。

「いや、忙しかったのは本当だ。それに、感謝してもらっても良いくらいだと思うんだがな」

「感謝?」

 はあ? と言いたくなるのを抑え問い返すと、エゼルフィードは目頭を揉む。

「彼をすぐさま尋問にかける、と言って聞かない奴らを抑えて何とか引き伸ばさせたのは私だぞ」

「あ……」

 だからこんなに時間がかかってしまった、とぼやくエゼルフィードに、フェデリオは一気に頭が冷えた。

 王族の住まう場所での魔物騒ぎ。レイはそれとの関係を疑われているのだから、もっと強硬に連れて行かれ酷い扱いをされることもある。だが、彼を連れ去った衛兵たちは、今思えば不自然なほど理性的だった。

「その……」

 いきなり怒鳴りつけて悪かったな、と罪悪感が込み上げて、フェデリオは口籠った。

 すっかり意気消沈したフェデリオに、エゼルフィードが苦笑する。

「いや、構わない。私だってレリアが同じ目に遭えば、同じように思う。――それより、これを見てくれ」

 エゼルフィードはそう言って、懐から白い布に包まれた何かを取り出した。彼が包みを開くと、その中からは粉々に割れた石のようなものが現れた。

「これは……?」

 偏光のかかった黒い石だ。何かの宝石だろうかとフェデリオは首を捻る。一見ブラックオパールにも見えるが、何か違和感を覚える。

「これは、魔物のいた所で発見された。どうやら、周囲の魔素(マナ)に干渉する魔道具らしい」

「魔道具? これが……?」

 石はバラバラになって原型を留めていないが、それを勘案してもただの石にしか見えない。

「中に組み込まれていた魔法陣もバラバラだからな。どういった効果のものなのかは、まだ調査中だ。だが……、これの製作者としてレイ――、彼が疑われている」

「……まさか」

 エゼルフィードの言いたいことを理解し、フェデリオはあり得ないと首を振る。

 つまりは、このバラバラになった魔道具こそが魔物を生み出した元凶。そしてそれを企んだのがレイ――。

 そんな疑いをかけられている。そういうことだ。

「全て状況証拠でしかないでしょう。決定的なものは何も……」

 フェデリオは言葉を途切れさせ、頭を抱えた。

 レイが関わっているなど、微塵も思っていない。だが、彼の無実を自分だけが信じていても、同じように思う人間ばかりではない。悪いように考えれば、いくらだって、彼がことを起こす理由を邪推される。

 もし、レイが精霊に命を救われた過去を持つと知らせれば、そんな邪推も消えるかもしれない。だが、言うわけにはいかなかった。彼の秘密を洩らすわけにはいかない。

 フィアスリートは奴隷が廃止され久しい国だ。とはいえ、彼らの保護を掲げているわけでもなく、ましてや彼は逃亡奴隷だ。これが明るみに出た時、一体どうなるか想像もつかなかった。

「殿下、僕は……」

 その時、扉を叩く音が聞こえ、フェデリオは顔を跳ね上げた。

 エゼルフィードの応答と共に侍従らしき青年が入ってきて、彼に何事かを耳打ちする。

 報告を聞いたエゼルフィードは、見る間に顔色を無くしていった。

「殿下、何が」

 エゼルフィードは侍従を退室させ、深い溜息をつく。

「脱走だ」

「…………は?」

 エゼルフィードは真剣な顔で、もう一度――言い含めるように言った。

「レイ・アグリスが、牢から姿を消した」

55

 エゼルフィードと共に地下牢へ向かったフェデリオは鉄格子を掴み、目眩で倒れそうになる身体を支えた。

「レイ……」

 こんな日も当たらない場所に彼を閉じ込めたことも、もちろん許せることではないが――、今は空の牢屋に絶望しそうになる。

 何故、と虚空に問う。

 何故、自分が助け出すのを待ってくれなかったのか。

 何故、牢を出たのなら姿を見せてくれないのか。

 そんなことを思い、ふと違う考えがよぎる。

 何故、わざわざ大人しく捕まってから、脱獄なんて真似をした――?

「……殿下」

「フェデリオ。悪いが彼が見つかれば、私でも流石に……」

「レイではありません」

「何?」

 フェデリオの言葉に、エゼルフィードは怪訝な顔をした。

 鍵の開いた牢は彼がどうにかして錠前を開け、地下から抜け出したように見える。

 だが、フェデリオの知るレイは、そんな愚かな真似をする人物ではない。処刑が決まったならいざ知らず、まだ脱走を決意する段階にない。何より――

「レイが捕まった時、傍には僕がいました。逃亡するなら、その時の方が明らかに確率が高い」

 違いますか、と問うとエゼルフィードも難しい顔をする。

「それは、そうだが……」

「それにレイは――、僕が彼のためならば、たとえ顔見知りであっても斬り捨てることを躊躇わないと、知っているはずです」

 そして、包囲網が敷かれる前に国外へ脱出する。

 そのくらいのことを、フェデリオはできるだけの実力があった。

 レイも承知しているだろう。

 そして、フェデリオもまた知っているのだ。彼が決して、そのような破滅への道に足を踏み入れはしないことを。自身が行けば、フェデリオが道連れになってしまうから。

 だから彼は、大人しく捕まることを選んだ。「必ず助ける」という言葉に頷いてくれたのは、嘘ではなかったはずだ。

「僕は、レイが何者かに連れ去られたと考えています」

 仮に本当に脱走を試みていたとしても、彼は決行日としてこの夜を選ぶことはないはずだ。体力の回復を待ち、監視の目が緩んだタイミングを狙うだろう。

 考えれば考えるほど、レイの脱走は腑に落ちないのだ。

 その時、鉄格子を掴む手に、一匹の蝶がとまった。

「……お前」

 桃色をした蝶――、ユティの家からついてきた精霊だ。

 蝶はどことなく不満げな様子で、羽をぱたぱた動かすと、再びふわりと飛びはじめる。

 なぜだか、睨まれた気がした。

 そして、飛んでいく蝶を呆然と見つめていると、フェデリオが追ってくるのを待つように、その場で旋回する。

「……ついていけば良いんだね?」

 フェデリオは蝶の後を追って地面を蹴る。

 慌てたように引き止めるエゼルフィードの声は、もう聞こえなかった。

 この先にレイがいる。

 それを不思議と確信できたから。

56

「っ……」

 妙に頭が重怠い。

 レイはまた意識を飛ばしそうになるのを何とか我慢して、うっすらと目を開いた。

「…………?」

 地下独特の薄暗さは変わらない。だが、床の感触、それから周囲の景色が一変していた。

 剥き出しの岩が組み上げられていた地下牢ではない。人が活動することを想定された、整えられたタイル地の床に、鉄格子がなくなっている。また、遠くにはユティの家や王立研究室でも度々目にするような実験器具の類が揃った机が並んでいる。高い天井には、魔法によるランプが灯っていた。

「っ!?」

 慌てて身体を起こそうとするが、手がつけずに失敗する。後ろ手に回された自身のそれを引けば、ガシャンと音がして、手首が金属に擦れる。何故か、手枷が柱に括り付けられており、身動きが取れなかった。

「あら、おはよう。目が覚めたのね、レイ」

 背後から聞こえた声に目を剥いて振り返る。

「ユティ……!?」

 そこには、同じような格好で縛られたユティがいた。

「なんでここに……」

「それはこっちのセリフよ。わたしは……ちょっと、ドジしちゃって捕まったんだけど」

「俺は――地下牢にいて……、それから……?」

 やはりどう思い出しても、それ以上は記憶にない。

「なら、貴方も攫われたのかしら?」

「……そうかも」

 身体の怠さが限界に来て、立ち上がりかけていた腰を下ろす。頭も妙にぼんやりするあたり、薬か何かを使われたのかもしれない。

「外、どうなってるか分かったりする?」

 ユティはぷるぷると頭を振った。

「残念ながら。精霊の誰かと繋がらないかな、って思ってたんだけど、どうにも何かが阻害されてる感じで」

「そう……」

 ならば今頃、脱走だなんだと大騒ぎになっているかもしれない。だが、完全に身動きを封じられていて、どうしようもなかった。

「それにしても、一体……」

 ユティもいることを考えれば、彼女を攫った人物とレイをここまで連れてきた人物は同じと見ていいだろう。

 一体何の目的で、誰が。

 考えても手掛かりすらない。

 ここで座っていることしかできないのか。

 そう思った時、部屋の唯一の扉が開いた。

「あ……」

 そこに現れた人物を見て、レイはたじろいだ。いや、思えばユティを連れ去った人物の陰を見た時の直感は正しかったということだ。

「……ケネス殿」

 そこには、冷たい目でこちらを見る、ケネスの姿があった。

57

「お待ち下さい、ルミノール卿!」

 追い縋る衛兵を躱して、フェデリオは蝶を追って走る。

「ここが王女宮だと、わかった上での狼藉ですか!?」

 フェデリオを必死で止めようとしているのは、セラフィアナ付きの護衛たちだ。許可もなく押し入り、剣を片手に走っているのだから、彼らとしては当たり前の反応だ。

 しかし、フェデリオには悠長に説明している余力はない。碌な説明もせず走り、ある一点で蝶が止まった。

「壁……?」

 壁面に止まった蝶は、フェデリオがその場所に手を触れさせると、周囲をくるりと飛ぶ。

「……なるほど、この先か」

 それまで鞘に収めていた剣を抜く。その様子に周囲の護衛たちが気色ばんだ。

「ルミノール卿!」

 彼らも剣を抜き、フェデリオに対して構える。フェデリオは彼らを冷え切った目で見据えた。

「邪魔をするなら、斬る」

 護衛たちはたじろいだ様子を見せるが、引かなかった。

「……お覚悟を」

 ぼそりとフェデリオに敵対する意思を示した。フェデリオもそれに応戦しようと剣を構えなおした。その時。

「お待ちなさい」

 凛とした声が聞こえて、全員の視線がそちらに向く。

「……セラフィアナ殿下」

 フェデリオの背後から現れたのは、杖をついて歩くセラフィアナだった。

「これは何事ですか」

 いつもの愛らしい雰囲気は鳴りを潜め、王女としての発せられた問いにフェデリオは仕方なく答えた。

「この先に行かねばなりません」

「この、先……?」

 壁を叩いて言うフェデリオに、セラフィアナは怪訝な顔をした。

「はい。レイが捕らえられています。僕は彼を助けに行きます」

 意味が分からない、という空気が落ちる。だが、セラフィアナだけは、何か気付いたような顔をして、じっとその壁を見た。

「……フェデリオ様。そのお言葉、責任を持てますか?」

 フェデリオが頷くと、セラフィアナは噛みしめるように瞑目して、強い目でフェデリオを見つめ返した。

「ならば、フィアスリート王国第一王女セラフィアナの名において命じます。この先に隠された秘密を暴いてください。一つ残らず」

 フェデリオはセラフィアナの覚悟を決めた顔に、剣を鞘に納めて自然と膝を折った。

「拝命いたします」

 セラフィアナが頷くのを確認して、フェデリオは再び立ち上がって剣を抜いた。

「下がっていてください」

 全員が自身より後ろに下がったことを確認して、フェデリオは深く息をつく。そして、剣に魔法をかけ――、目の前の壁を数度両断した。

 切れ目の入った壁が、ガラガラと音を立てて崩れていく。そして、その先には――

「階段……?」

 セラフィアナが呆然と呟いた。

 フェデリオの目の前には、地下へと続く真っ暗な階段が口を開けていた。

 フェデリオが瓦礫を跨いで階段を降りようとする。それを後ろからセラフィアナが制止した。

「――待ってくださいませ」

 フェデリオは階段の一段目に足をかけたまま振り返る。

「わたくしも……、わたくしも参ります」

 断っても引きそうにない。フェデリオは仕方なく、手を差し出した。

「階段を降りるまでは、お支えします」

「……ありがとう」

 ほっとした表情に似つかわしくない悲壮な覚悟を乗せて、セラフィアナが踏み出す一歩をフェデリオは見守った。

58

「ケネス殿……」

 呟いたレイの言葉に、彼は答えない。

 黙ったままレイとユティに近付いて、こちらを見下ろす。そして、長い沈黙のあとぽつりと言った。

「まさか、貴方が一族の人間とはね」

「……だったら?」

 ケネスは酷薄な顔で嘲笑する。

「都合が良いと思っただけですよ。王太子の女を手に入れるのはさすがに骨ですから」

 実験体を見るような目をするケネスに、セラフィアナの護衛として会った時のたおやかな雰囲気はない。その酷く冷たい表情に怯みそうになりながらも、レイは彼から視線を逸らさなかった。

「俺たちで一体何を?」

「もう察しがついてるのでは?」

 レイはギリッと歯噛みした。

 彼の言う通り、薄々ながら察しはついていた。そのどれもが、証拠というには心許ないものばかりで、確信が持てなかっただけ。

「魔物化を引き起こしているのは、あんたか」

 睨みつけながら、ずっと胸に燻っていた「まさか」を口にすると、彼は小馬鹿にしたように笑った。

「ご名答」

 ずっと考えていたのだ。ユティの話がどこから漏れたのか。

 エゼルフィードやその周囲からはあり得ない。もしそこが発信源なら、もっと早い段階で噂がまわっていたはずだ。

 だが、彼女の悪い噂が流れ出したのは、丁度レイたちがユティの元に滞在していた頃。

 レイはセラフィアナへの手紙にユティの名を書いていた。

 こんな偶然があるのか。

 また、あの噂があれば、ユティがこうして急に姿を消したところで、誰も不思議に思わない。

 レイたちですら、今回のような偶然で彼女が連絡なく消息を断つ場面に遭遇していなければ、「ほとぼりが冷めるまで別の場所にいるのだろう」と気にも留めなかったに違いなかった。

「俺にかかった疑いもあんたか」

「そう。あの時の石が役に立ちましたよ」

 セラフィアナに渡した魔道具、その後に研究用と請われて作ったもう一つが悪用されたと悟る。おそらく、模造品を作ったか、製作者が分かる範囲で破壊して、現場近くにでも置いておいたのだろう。

 いつから計画していたのかは知らないが、まんまとしてやられたらしい。

 ケネスがレイを見下ろして嗤う。

「はじめは、ただそこの女と共犯にするつもりだったんですが、拾いものをしましたね」

 レイに全ての罪を被せることを計画していたが、ラティアの一族と判明したことで、実験に使う方へ切り替えたらしい。

 こんな男を信用していたのかと、レイは自分自身に腹が立った。セラフィアナを見る労るような視線に、嘘はないと思っていたのに――。

「何故、こんなことを」

「……。むしろ問いたいんですが、何故フィアスリートは精霊の軍事転用を考えないのです?」

 坦々とした問い。純粋に疑問に思うかのようなそれに、レイの背筋に怖気が走る。

 確かに、軍事面での活用という点で考えれば、精霊を人為的に魔物化する術というのは、この上なく有用なのだ。見境なく人を襲うようになった魔物を、戦場に放り込めば良いのだから。

 それは、ラティアの一族を奴隷化するよりも余程――。

 だがそれは、あまりにも倫理観に悖る。レイには発想すらない考えだった。

「レイ。この国に来て、暮らして……。思いませんか? どうして、精霊という強大な力を持つこの国が、都市国家程度で収まっているのか」

「……あり得ない。精霊は、人間のよき隣人。そうだろ!?」

「――……そう思っているのは、ラティアの一族だけですよ」

 レイは息を飲む。

 彼の言うことが分からないではなかったからだ。牢の中にいた、幼き日。周囲から向けられた視線を嫌でも思い出した。

 彼らは自分たちを同じ人間として見ていなかった。それは、同じ「奴隷」という立場の者たちも、だ。

 どこか畏怖するような、恐れるような、――化け物を見るような。

 そんな目をしていた。もう随分と忘れていたものだったけれど。

「……だからって、俺は」

 とても許容出来なかった。

 だがケネスは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「別に貴方の許可なんて求めてませんよ。私は成すべきことをするだけです。それで、誰が何人死のうが……関係ない」

「――それは、どういうことですの、ケネス」

 突然割って入った声に、ハッとしたのはレイだけではなかった。

「…………姫様……」

 部屋の入口に、杖をついたセラフィアナがいた。

 その後ろに見えたフェデリオの姿に、レイは胸がきゅっとなる。

 ……来てくれた。

 鼻の奥がつんとするがどうにか堪えて、ケネスを睨む。

「勘弁したらどうだ? もう逃げられないだろ」

「……確かに分が悪いですね」

 だがそう言う割には、ケネスの表情にはまだ余裕が見える。

「でも、これならどうですか?」

 言うが早いか、ケネスは懐に手を突っ込んで何かを引っ張り出す。何かは分からないが、止めた方が良い。

 フェデリオも同じことを思ったのか、こちらに向かって走り出していた。

 だが、一歩間に合わずにケネスが手の中のものを床に叩きつけた。

「っ!?」

 黒い煙幕が上がる。それはあっという間に部屋中へと広がって、すぐに消える。

 ケネスはまだそこにいて、目眩ましの煙幕ではなかったことは明らかだが、なら一体何の効果が。

 そう思ってあたりを見渡していると、背後で呻き声が上がった。

「っぐ……」

「ユティ!?」

 彼女は身を二つ折りにして、荒く息をついていた。額には脂汗が浮かんでいる。

「わ、たしは……大丈夫…………っ、それより」

 彼女が視線で指すのはフェデリオの方だ。慌ててそちらを見ると、彼は慌てたような顔で手の平で受け止めた何かを見ている。

「レイ! 精霊が……!」

 フェデリオの叫びでハッとする。姿は見えないが、おそらくあの手の中には、あの蝶の精霊がいる。

 そして、その存在を示すように、黒い靄がそこから立ち上る。

「魔物化……!」

 ようやく先程の煙幕の謎が解ける。あれこそ、魔物化を引き起こす魔道具だったのだ。

「――きゃあっ!!」

 その時、セラフィアナの悲鳴が上がった。彼女はいつの間にかケネスに囚われていた。

「それでは、私は退散させていただきます」

 そう言って、セラフィアナを抱え風のように去っていく。

「待て!」

 叫ぶが当然止まってくれるはずもない。

 だが今は、ただ追いかけるわけにもいかない。レイはフェデリオを呼んだ。

「フェデリオ! 俺のズボンのポケットを探せ!」

「は!?」

 微かに赤らんだ顔に何を想像しているのか、とこめかみをひくつかせながらも、必要なことだけ叫ぶ。

「乳白色の石だ。それを床に叩きつけろ!」

 何か策がある。そうようやく伝わったのか、フェデリオが慌ててこちらへと駆け寄って、レイの指示通りにする。

 乳白色の石が硬い床に当たって砕け散る。

 それと同時に、ぱあっと白い光が輝いた。

 目も眩むようなそれをやり過ごし、レイは背後のユティに声をかける。

「ユティ、気分は?」

「あ……、……ええ、大丈夫。もう、平気……」

 まだ肩で息をしているが、身体の強張りが解け、顔色が戻っていく。

「フェデリオ、そっちは」

「大丈夫、黒いの…消えたよ」

 ほっと安堵するフェデリオに、レイも肩の力が抜けた。

「そうか。……効いてよかった」

 それは、レイが暇を持て余した一ヶ月で作った、魔物化の対抗手段だった。人為的に魔物化させられた精霊たちにだけ効く魔道具で、魔物化の原因を取り去ってくれるものだ。

 もっとも、試験をすることもできず、お守り的に持っていたものだった。そのため、効くかどうかは未知数だったが、どうにかその賭けに勝ったらしい。

「……フェデリオ、拘束を解いてくれ。ケネスを追うぞ」

 頷いたフェデリオが、鎖に剣の柄を叩き込む。手枷はあっさりと外れ、ようやく自由の身となる。

「……、フェデリオ」

 走り出そうとする前に、後ろでユティの分を壊していたフェデリオの方へ振り返る。

 作業を終わらせた彼がこちらを向くのを待って、正面からぎゅっとその背に手を回した。

「約束、守ってくれたな」

 必ず助ける。その約束を。

 フェデリオは不敵に笑って、身を離したレイの瞼にキスを落とす。

「そうだよ。だから、レイももう……嘘の約束はしないで」

「……ああ」

 少し傷付いた色を見せる彼の瞳に、ほんの少しのやるせなさを感じる。

「これからは、ちゃんと傍にいてやるよ」

「うん」

 レイとフェデリオは、誓いをたてるように触れるだけのキスをしてから、手を繋いで走り出した。

59

「ケネス、離してくださいませ! どうか……!」

 セラフィアナのお願いを彼はいつだって聞いてくれた。

 少し困らせるようなお願いだって「仕方ないですね」と笑ってくれた。

 今だって、抱き上げる腕はいつものように優しいのに、目を合わせてくれない。微笑んでもくれない。それだけで、涙が滲む。

 ケネスは人質として、セラフィアナを連れ出した。それくらい分かっている。

 でも、ならば彼はどこへ行こうとしているのだろう。

 ケネスは階段を駆け上がり、三階のバルコニーまで辿り着く。景色は広く城下が見渡せるが、彼にとっては袋小路も同然の場所だった。

「ケネス……、どうして何も言ってくれないのです」

 彼の取り出した何かで、精霊が魔物になってしまった。それをセラフィアナはこの目で見たというのに、それでもケネスを信じたい心が軋む。

 ただ一言、自分は関係ない、違うんだと、そう言ってくれれば、何をおいても信じられたのに。

「……わたくしを、騙したのですか?」

 とうとう堪えきれなくなった涙が?を一筋伝った。

 だが、ケネスの返答を聞く前に、追手が辿り着いてしまう。

「ケネス・ブラウナー! もう、ここまでだ!」

 彼は追手の声に微かに眉を顰めて、セラフィアナをそっと床に下ろした。そして、今度は信じられないほど強い力でその身体を突き飛ばす。

「きゃっ!」

 衛兵の一人に抱き留められて、どうにか転倒を免れるが、セラフィアナはそれどころではなかった。

「ケネス! 何か……、何か、言ってください……!!」

 必死の懇願に、ケネスの顔が歪む。

「夢を見るのも大概にされたらどうですか?」

「ケネス……?」

 初めて見るケネスの温度のない顔に、セラフィアナは混乱する。二の句の告げないセラフィアナに、ケネスは酷薄な顔で嗤った。

「はっきり言わねば分かりませんか? 私は貴女を利用したんです。利用するために近付いた。だから、用済みなら捨てる。それだけです」

「っ――!」

 心臓がズタズタにされたように痛んだ。

 こんなにも酷いことを言われているのに。

 それなのに、いまだに心は彼を好きだと叫んでいた。

「だから、さよならです」

 ケネスが背を向ける。

 彼が、彼が行ってしまう。

「待って……!」

 セラフィアナの身体を支えてくれていた衛兵の手から抜け出し、彼に駆け寄ろうとする。

 だが、魔道具のおかげでどうにか歩けるようになったばかりの身体は言うことを聞いてくれず、床にべしゃりと倒れ込む。

 ケネスの足が止まった。

 ゆっくりと振り返った彼は、倒れ込んだセラフィアナの前に跪いて、悲しげに――笑った。

 それはあまりにもいつも通りの優しい顔で、セラフィアナは言葉を失う。

 ケネスは床に落ちたセラフィアナの髪を一房持ち上げて、そこにキスを落とす。

「私のことは忘れて、どうか幸せに。……セラフィアナ」

 ケネスはパッと立ち上がると、何事もなかったかのように背を向けた。

「……いや、まって」

 彼は歩みを止めず、バルコニーの端へと辿り着く。

「まって……、まってください、ケネス……!」

 彼は欄干に飛び乗る。

「ケネス……っ!!」

 そして、一度も振り返ることなく、外へ身を躍らせた。

「――――い、いやあああぁぁぁっ!!」

 セラフィアナは、両の目から涙をボロボロと零しながら絶叫し、そのまま意識を失った。


 バルコニーの下からは、死体はおろか、足跡一つ見つからなかったらしい。

 彼は忽然と姿を消した。

 フィアスリートから。

 そして、セラフィアナの前から。

60

 ケネスの逃亡後、様々な調査が行われたが、結局彼が何者だったのかは分からずじまいだった。

 幸い、魔物化を彼が引き起こした場面を目撃した人々によって、レイの嫌疑は晴れ、同じくユティも自宅へと戻った。

 ただ、セラフィアナはケネスの一番近くにいながら何も気付けなかった、と己を恥じて自ら罰を望み――、近く城から離れた場所にある離宮へと蟄居となるらしい。

 今は謹慎の身だそうだが、レイは一連の関係者ということもあって、一度だけ面会している。多少やつれてはいたが、どこか晴々とした表情だったのが印象的だった。


 その後なんだかんだと、王立研究室の方へ戻れることとなったレイだが、つまるところ無断欠勤扱いになっていた一ヶ月の穴埋めをすべく、今は溜まった仕事に忙殺される日々だ。

 そんな風に日常が戻ってきて、取り調べ、仕事、そういったものが落ち着いた頃、エゼルフィードから呼び出しを受けた。

「お久し振りです、殿下」

 調子はどうかなどといった世間話を少し挟み、エゼルフィードは小さく息をついて、持ち上げていたカップをテーブルに置いた。

「今日来てもらったのは、君に会わせたい――、いや……、君に会いたいと言っている人がいるからだ」

 びくりと身体が震えた。

 最後の魔物騒ぎから半月近くが経過している。あの日にあったことのあらましは、レイも既に聞き及んでいる。

 レイはエゼルフィードが言うその人の正体に察しがついている。

 エゼルフィードから託された手紙について、ユティに聞いた時は分からない振りをしていたけれど、本当はいつかこの日が来ることを知っていた。

「……どうしても、会わねばなりませんか」

 つい、そんなことが口に出てしまう。

 震えそうになる手をぎゅっと握りしめ、エゼルフィードの顔が見れないまま、ぽつりと言った。

「――……無理強いはしない」

 その返答に、ほっとしながらも寂しさが襲う。

 レイはこの場にいない男の存在を思い浮かべた。

 今すぐにおまえが手を握ってくれたなら。

 そんな風に思ってしまう自分を情けなく思いながらも、どうしても今だけは傍にいてほしかった。

 怖かったのだ。十年以上の月日を離れて過ごした人と、もう一度顔を合わせるのが。

 レイが黙っていると、エゼルフィードがふと微笑んだ気配がして、そろりと顔を上げた。

「だがね、レイ。本当に……会いたくない? 彼女はもう、そこにいるのに」

 そこ、と言って続き部屋に繋がる扉をエゼルフィードは指す。

 その指先を視線で辿り、レイは気が付くと立ち上がっていた。

「行ったらいいよ」

 優しく背を押すような声に、レイはローテーブルに躓きそうになりながら、その扉の所へ走った。

 ドアノブを捻り――、開ける。

「――――母さんっ!」

 一瞬驚いた顔をしたその人は、記憶にあるままの優しい顔で微笑んだ。

「……あいたかったわ、レイ」

 広げられた腕に、そのままの勢いで飛び込む。抱き留められた腕はやさしくあたたかで、涙が零れた。そのまま止まらなくなった涙を止めることもなく、レイは子供に戻ったように大声で泣きじゃくる。

 宥める母の手は、十六年の月日をあっという間に埋めていった。

61

 母との再会からほどなく。

 レイはブルーノと共に、「あるもの」を完成させた。

 それはレイが魔物騒ぎに関して疑念をもたれ、衛兵に捕まった日に彼に頼んだ代物で――。

「……うん。これは『破邪結界』とでも名付けたらいかがでしょう、陛下」

 設置に関しての奏上をした場には、国王とエゼルフィード、それから開発責任者としてブルーノとレイ、それから国政を担う大臣たちがいた。

 国王に軽い調子で提案したのはエゼルフィードだ。

 国王本人は資料を片手に難しい顔をしていたため、レイは酷く緊張していたが、エゼルフィードの進言で少し彼の表情も緩む。

「そうだな。では、この『破邪結界』の設置を認める。各方は王立研究室に全面協力するように」

 その言葉で、ほっと肩の荷が降りる。

 破邪結界。そう名付けられた魔道具は、五つで一組の魔道具だ。その魔道具を置く範囲――今回はフィアスリート全域は、これより人為的に精霊を魔物化するような、魔素(マナ)を害のある方向へ変質させるのを防ぎ、正常化されることとなる。

 つまり、あの日レイがユティと蝶の精霊を救った乳白色をした石の、範囲拡大強化された魔道具だった。


 それから、さらに一ヶ月。

「おつかれさま、レイ」

 帰宅したレイを、一足早く戻っていたフェデリオが抱きしめる。

「……ほんと、疲れた」

 すっかり慣れてしまったフェデリオの胸に、ぼんやりと身を預けつつレイは呟く。

 時折、なぜこいつと同じ家に住んでいるのだろう、と思うことがある。

 そうなのだ。フェデリオはレイと離れざるを得なかった一ヶ月を、それはそれは寂しかったとのたまい――、レイが気付いた時には、この男は家を買っていた。

 はじめは「返してこい」と言ったのだが、「一緒に住んでくれないの?」と、うるうるした目で見つめられ、どうにも断れなくなって今に至る。ほとほと自分は、この男に甘くなったものだ、と思うが、一緒に住んでみるとなかなか快適で、唯一の難点と言えば、四六時中この男が纏わりついてくるのが、少々うざったい時があるくらいだろうか。

 抱きしめられたまま動こうとしないレイの顔を、フェデリオが覗き込む。

「……大丈夫? もしかして、体調悪い?」

 見当違いの心配をするフェデリオに苦笑して、レイは不意打ちでその唇にキスをした。

「気疲れだよ」

 今日は、件の破邪結界をついに運用しはじめる日だった。

 五ヵ所に設置された要石の内一つで、起動の処理をして、上司、それから国王の元へ直々に報告に行かされ、何か失礼をしないかと気が気ではなかったのだ。

 レイからのキスに頬を赤らめたフェデリオは、照れくさそうにそっぽを向いている。

「もう……、疲れたんでしょ。その気になってもしらないよ……」

 レイはふっと不敵に微笑むと、彼の耳を甘噛みした。

「その気にさせてるんだが?」

「本気? お風呂とごはんは?」

「……後でいい」

 ぎゅっとフェデリオの首に腕を巻き付けると、フェデリオは仕方がないなぁとでも言うように肩を竦めて、そのままレイの身体を持ち上げた。

「じゃあ、リクエストにお応えしないとね」

 フェデリオはレイの頭にキスを落としながら、寝室への道を辿る。部屋へと辿りつくと、彼はレイをそっと立たせて、その肩にあるローブを滑り落した。

 そしてレイの手を引きベッドの縁に座らせると、そっと押し倒す。まだ茜色の空から降る光が部屋に射し込んでいる。明るい中で肌を見られるということに気付き、少し恥ずかしさを覚える。

「……そういえば、これどうしたの?」

 フェデリオが隣に座りながら、レイの胸元に手を伸ばす。何のことか分からずに首を傾げると、彼はレイの胸ポケットから何かを引っ張り出した。

「あっ!」

 その白くひらめく布を目にして、レイは慌てて跳び起きた。

「それは……!」

 レイは取り返そうと手を伸ばすが、一歩遅くフェデリオがその布を開く。

「これ――」

 フェデリオが怪訝な顔をする。フェデリオが手にするのは何の変哲もないハンカチだ。布の端にイニシャルが縫われていることくらいしか、取り立てて目立ったものはない。

 だが、レイは「見られた……」と恥ずかしさで顔を覆って呻く。その様子でフェデリオがハッと息を飲んだ。

「まさか、あの時の……!?」

「…………そうだよ」

 レイはあまりの恥ずかしさに、穴を掘って埋まりたくなったが、ぼそぼそとギリギリ聞こえる声量で返答する。

 そのハンカチは、あの夜――「賢者」が魔物化したと知らされたあの夜に、見知らぬ衛兵らしき男から受け取ったハンカチだった。

 あの男は名乗らなかった。だが、イニシャルと声、それから体格、そういったものを加味すれば、その相手が誰なのか推測は容易だった。その相手が見つかれば返そうと思っていたのだが、レイが人物を特定した時には既に、フェデリオは呪われた後。当然、ハンカチどころではなく、今もレイが所持していた。

「どうして、こんなところに……?」

 当然の疑問をぶつけられ、レイはみるみる顔を赤くした。それを見られたくなくて、フェデリオから視線を逸らす。

「……悪いかよ」

「え、そういうわけじゃ……」

「――今日は、おまえがいなくて心細かったんだ! だから、代わりに……っ、悪いか!?」

 真っ赤な顔で叫ぶと、虚を突かれたらしいフェデリオはしばし茫然と黙り込んだ後、にへっと相好を崩した。

「レイ、かわいい……」

「あーもう! こういう反応するの、分かってたから言いたくなかったんだよ……」

 フェデリオはにこにこと笑いながら、丁寧にハンカチを畳むと、サイドテーブルに置いた。

「……返したほうが良いか?」

 ぽつりと聞くと、フェデリオがレイの髪を梳く。

「いいよ、持ってて。それに、『あげる』って言ったよ?」

 レイは顔を赤らめ俯いたまま、こくんと頷いた。ほっと安堵しながら。

 フェデリオはその熱い頬にキスをして、そのまま唇を重ねる。

「んっ……」

 再びベッドに横たえられながら、シャツのボタンが外されていく。

「っ……ぁ…………」

 肌をフェデリオの手が滑って、胸をはだけさせる。

 そして、フェデリオの手が左肩にかかって――、彼はぴたりと動きを止めた。

「……レイ」

「奴隷印が……」

 震える声で呟くフェデリオに、レイは目を閉じたまま問いかける。

「奴隷印が、何?」

 フェデリオは、そこに指を滑らせて、言った。

「――消えてる」

「っ!?」

 ハッとして、顔を上げる。そして、レイは禍々しい文様のあった場所を見る。

「あ……、ほんとに……」

 自分でもその場所に思わず触れた。

 長い間消えることのなかった烙印が、消え失せてしまっていた。

「どうして」

 信じられないと、嬉しさ半分戸惑い半分という声で、フェデリオはそう呟く。レイは、昼の出来事を思い出しつつ、口を開いた。

「……今日、破邪結界が作動した時に、一瞬だけ痛みが走ったんだ」

 肩を貫いた酷い痛みは、思わず膝をつくほどで、あの時のレイは、この魔道具が何か悪い方向に作用してしまったのだと思い込んだ。

 でも、自分で確かめる勇気もなく――。

 大急ぎで今日中にしなければならない仕事を片付けて、レイはフェデリオの元に戻った。もし、本当に奴隷印が何か悪い方向へ変質したのなら、自分がいつまでこうして動けるか分からなかったからだ。

 だから、帰ってすぐに触れ合うことをせがんだ。最後かもしれないから――、と。

 レイはくすくすと笑いを漏らす。

 とんだ取り越し苦労だ。もう一度丁寧に魔素(マナ)の流れを探ってみるが、綺麗さっぱり消えてしまっている。

 レイは止まらない笑いに涙を滲ませながら、フェデリオの頬に手を添える。

 もう最期なら、と飛んで帰ってきたことは伝えずに、レイは別のことを言う。

「多分、この奴隷印が不完全だったから、破邪結界に反応したんだと思う」

「不完全?」

「そうだ。俺には『主人』がまだいなかったから」

 奴隷印の役割は、刻まれた人物の身分を表す目的の他に、その奴隷を買い上げた人物との契約事項も刻まれる。

 だが、レイはまだ売買される前の状態だった。そのため、レイの肩にあったそれは、完全なものではなく、契約事項は記されていなかった。

 だからこそ奴隷商の元から逃げ出せたのだ。

 フェデリオはレイの言葉に微かに眉を寄せ、頬に添えられた手に顔を擦りつける。

「よかったよ。君を買った人間がいたとしたら、殺しに行くところだった」

「…………なあ、おまえ。本当に呪いは解けたんだよな……?」

 さらっと発せられた、なんだかとても怖い発言にレイが問うと、フェデリオは腹の読めない笑顔を浮かべる。

「厄介な男に捕まってしまったね、レイ」

「……かもな」

 ふと、呪いの最中でも冷静に見えたのは、この男が本来とても強い執着心を持っていたが故なのではないかと思った。

 フェデリオはふっと微笑んで、レイの肩に唇を寄せる。

「っ、あ……」

 きつく吸われて、奴隷印があった場所に、別の痕が残る。

「これからは、僕以外の痕を残さないでね」

「……馬鹿」

 レイは小さく悪態をつきながらも、フェデリオの身体に腕を回した。

 この男から贈られる「所有の証」なら、そう悪くない。

 そんな風に思うようになった自分自身に苦笑して、レイはフェデリオの肩――同じ場所に唇を寄せた。

62

 長い廊下を歩けば靴音が高く響く。

 酷く寒々しいその場所に震えそうになる身体を無視して、目の前に現れた大きな扉を開いた。

「……ただいま戻りました」

 膝を折り、少し高い位置にいる女に頭を垂れる。

「失敗したそうね」

「はい、申し訳ありません」

 冷たい問いに、坦々と答えると、女はそれ以上追及することもなく、手を振った。

「まあ、構わないわ。これからは私の側で役に立ってくれるのでしょう、ケネス」

「……はい」

 ケネスは一層深く頭を下げた。

「私は貴女の命ならば、喜んでこの身を捧げます」

 女は不満そうに鼻を鳴らして、もう一度手を振った。

 煩わしそうにする彼女に、自分への愛などないのは分かっているそれでも、自分は彼女のためになるのなら、なんだってするのだ。

 ケネスは脳裏に浮かびかけた、陽だまりのような笑顔を振り払う。

 自分のような人間がいるべきなのは、この冷たく凍えるような場所なのだから。



下巻へつづく……

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