冬が深まり、屋敷の周囲も一面真っ白に染まる。

 強い寒さの中での生活にようやく馴染んだ頃には、微かに春の気配が感じられるようになっていて――、アミラは十五歳となっていた。

 とはいっても日々の暮らし自体にそう変化はなく、リーヴィスと共に過ぎていくやわらかな時間が続くだけだ。

 所作が洗練され、重たいドレスを着こなせるようになり、言葉遣いも帝国貴族のそれに近付いたが、アミラの本質は何も変わらない。今も早く父母の元に戻りたかった。特にこんな、年齢を重ねるという節目の時には強く郷愁の念が湧く。

 今日はリーヴィスが朝から出かけていて一人のため、よりそう思うのかもしれない。

 その時、扉を叩く音がして応答しつつ振り返った。

「アミラ、ただいま帰りました」

 そこにいるリーヴィスの姿に目を丸くする。

「おかえりなさい……。早かったのね?」

 てっきり夜まで戻らないものだと考えていたのだ。彼が外出する時は、たいてい丸一日不在にしている。日中に帰宅するのは珍しいことだった。

「今日は少々無理を言いましてね。それと、これを」

 リーヴィスが後ろ手に隠していたものを差し出してくる。

 それはかわいらしい小花を纏めたブーケだった。

「わあ……。どうしたの、これ」

 そっと受け取りながらリーヴィスを見上げると、彼は困ったように笑う。

「どうしたの、って。今日は貴女の誕生日でしょう? おめでとう、アミラ」

 軽く抱き寄せられて、こめかみにキスが落ちた。やわらかな感触に、胸がドキリと音を立てる。

 時間をかけてじわじわと縮まった距離は、「兄妹」と称すには甘やかなものに思えた。

 アミラは花の匂いを嗅ぐ振りをして、赤くなった頬を隠す。それから、照れ隠しにつんとそっぽを向いて口を尖らせた。

「距離が近うございますわよ、お兄様

「これは失礼いたしました、レディ」

 くすくすと笑うリーヴィスは、代わりにアミラの手を取ってその指先にキスをする。

「でも少しは慣れてもらわないと。そろそろ人前に出てもらおうかと思っているので」

「そうなの?」

 彼に連れ出されて以来、アミラは殆どの時間を今いる屋敷で過ごしてきた。

 接触するのはリーヴィスと、彼の選んだ教師陣、それから実は別邸だというこの邸宅に勤める数少ない使用人のみ。アミラを引き取る契機となったという彼の父にすら、いまだ対面したことはない。病気がちで本邸に籠っている父親と会わせて、無闇に興奮させたくないと説明されていた。

「貴女は素地がありましたからね。こちらの歴史と貴族独特の文化さえ覚えれば、後はどうとでもなりますよ」

「ふぅん……。あら、でも。あんなに密着するのが『普通の社交』なの?」

 そんなはずはないというのを理解しながら、揶揄い混じりに問い返すと、リーヴィスは肩を竦めた。

「あれは私だけにしておいてほしいですね」

「あまり妹に構ってばかりだと、未来の奥様に嫌われますよ、お兄様」

 冗談の延長でそう返したアミラだが、急に手首を強く掴まれて、はっと顔を上げた。

「そう思うなら、貴女が私の『奥様』になりますか?」

「は……?」

 軽口、という雰囲気ではなかった。だが真剣に受け止められるはずもなく、アミラは身を捩ってリーヴィスから一歩離れようとする。

「何言ってるのよ。揶揄うのは……」

 これまでもどこか含みを感じるようなやり取りはあったが、それでも「仲の良い兄妹」で収まる範囲だった。しかしこれは――。

 彼が握り締めたままのアミラの手を持ち上げて、その手首に口付ける。

「貴女が望むなら簡単なことですよ」

「……わたし、?」

「そう。決定権は貴女にある」

 意味が分からない。

 現状、アミラはリーヴィスの所有物だ。そして今後、計画が上手くいって「貴族の娘」になれたところで、どの家と交流するのか、どこに嫁いで縁を繋ぐのかは、彼が決めるのだろうと思っていた。

 それまでの間に仲を深めることで情に訴えて、親元に、祖国に返してくれと頼めないか、という下心はあったものの、どちらにせよ決めるのはリーヴィスだ。

 アミラに出来ることは本当に少ない。なのに――

「……どうして?」

 彼は暫し黙り込んで、不意にアミラの髪をするりと撫でた。それから、額にキスを落とす。

「いずれ分かります」

 一体それっていつなの――。

 その問いを、アミラは口にすることはできなかった。

 リーヴィスの目があまりに真剣で、そしてどこか――ここではないどこか遠くを見つめている気がしたからかもしれない。




 アミラは暫しブーケを握り締めたままぼんやりとしていた。

 リーヴィス「混乱させた」と一言謝罪してから部屋を出ていき、今ここにはいない。

 混乱、は確かにした。けれど――、嫌ではなかった。

 花束に顔を埋めて、アミラは息をつく。

 自身の一番叶えたい望みは家に帰ることだ。それは変わらない。それでも、この生活が終わってしまうことを惜しく感じはじめているのも、また事実だった。

 彼と夫婦になる様をほんの少しだけ想像する。穏やかな日々がこのまま続くのだと思えば、悪くないような。そんな気がするのだから困ってしまう。

 冗談なのであったならば、「年上の優しいお兄さんに、これからは甘く愛されるなんて素敵」と、無邪気にはしゃぐことができたが――。そうやって一蹴するには、その目は真剣だった。

 だが、アミラを妻にすることは、この家にとって何の益もない。この国での身分は言わずもがなだが、祖国に戻ったとてただの平民である。父が爵位持ちで多少は裕福、一応親族に貴族がいるとはいえ、継承権もなければ、そもそもそれほど高い位置にある家ですらない。

 ならば残るは、彼がアミラ自身を望んでくれている、という可能性だが――……。

 頬がぽっと赤らむが、すぐにいやいやと首を振る。

 それだけで身分の低い妻を迎えられるほど、貴族社会は甘くはない。帝国の歴史を学び理解したことだが、この家は世が世なら、たとえ同じ国に暮らしていたとしても、一生で見かけることすら出来なかったであろうほど高位の家柄なのだ。その時の自負が消えない当主――リーヴィスの父が許すはずもない。救いの手を差し伸べるのと、嫡男の妻と認めるのでは話が違う。

 アミラはぎゅうっとブーケを握り締める。

 先程のあれは、性質の悪い冗談だった。そういうことにしておくのが無難だろう。

「……花瓶、もらってこなきゃ」

 ぽつりと呟きながら、手の力を緩めて苦笑した。体温でなのか少々萎れ気味になっているそれを、優しく抱え直して部屋を出る。

 人を呼び付けて持ってこさせればいいのかもしれないが、アミラはいまだそういった振る舞いには慣れることができずにいた。

 物置きになら何かあるだろうか。なんて考えながら、廊下を歩く。途中で誰かとすれ違ったら、訊ねてみようと思いつつ歩を進めていると、ふとリーヴィスの声が聞こえた。

 客間の扉がほんの少し開いている。来客だろうかと不思議に思いながらも、その前を通り過ぎようとした時だった。

「何故、ティニス殿下に接触しなかった?」

 聞き覚えのない壮年の男の声に、つい足を止める。

 ティニス……「殿下」?

 眉をひそめて、そろりと扉に近寄った。

 それは――、アミラの父の名だったのだ。

 いや、普通に考えれば同名の別人だろう。しかし、「これを聞き逃してはいけない」という嫌な予感に、アミラは胸がざわめいていた。

 部屋の中にいるリーヴィスと男は、こちらの存在に気付かぬまま話を続けている。

「無茶を言わないでください、侯爵。帝国の終焉を悟り、いち早く亡命なされた方が戻ってこられると本気で思っていらっしゃるので?」

「だが、正当性を鑑みれば――」

「馬鹿正直に接触していれば、警戒されていたはずです。娘の警護も一層厳しくなっていたでしょう」

「……上手くいったから良かったものの。もし、行方不明にでもなっておられたら」

「あり得ません。他所で売ったとて回収できない程の金を出しましたから。跡に残るほどの怪我はさせないよう厳命しておきましたし、肚も無事。今ではすっかり心を許してくれています。何も問題ありませんよ」

「お前は……、王配に名乗りを上げるつもりか?」

「さて。選ぶのは彼女ですから」

「…………お前たち親子はどうかしている」

「かもしれませんね。父上は亡き王女殿下のご即位を今も夢見ている。何も知らない娘にその夢を押し付けるほどに」

「お前とてその父の悲願を叶えるため、『何も知らない娘』をわざわざ奴隷に落としたのだろう」

「悪いことではないでしょう。これからの帝国には、弱者を理解できる為政者が必要です。アミラにはそうなってもら――」

 その名前が出た時、アミラの手からブーケが滑り落ちた。

 ぱさりというその音に、男たちが振り返る。

 彼らの顔が一瞬強張り――、リーヴィスが即座に微笑みを浮かべなおして立ち上がった。

「盗み聞きとは行儀が悪いですよ、アミラ」

 近付いてくる男に、アミラは一歩、また一歩と後退する。

「今、の……、どういう…こと…………」

「何がですか?」

「……騙したの?」

 リーヴィスが浮かべていた微笑を消して黙り込んだ。

「――侯爵、今日は帰ってもらえますか」

 部屋の中で成り行きを見守っていた壮年の男は、眉をひそめはしたものの、沈黙したまま席を立つ。だが、アミラの隣をすり抜ける時に足を止めて、一礼した。

「ご挨拶はまた改めて。失礼いたします、アミラ様」

 彼に何も返せないまま立ち竦んでいるうちに、男は踵を返して去ってゆく。

 リーヴィスには一言もなかった。

 いや、それよりも――。彼のとった礼は、最敬礼だった。そう、まるで「帝室」に相対する時のような。

 ここに来たばかりの頃であったなら、分からなかったはずだ。しかし今のアミラは、帝国貴族として身に付けているべき素養を備えつつある。

 先程の彼らの会話と、去り際に見せた男の態度。何が起こっているのか意味は分からずとも、理解させられてしまう――。

 侯爵と呼ばれていた男の姿が見えなくなった時、突然アミラは手首をきつく掴まれて、部屋の中に引きずり込まれた。

「いたっ……!」

 そして、そのままソファへ仰向けに転がされて、リーヴィスに抑え込まれる。

 男の無表情が間近にあって、ゾッと恐怖を覚えて息を飲んだ。

 両手は頭上で纏められていて、足もスカートが彼の膝で縫い留められたように動かせない。

 声すら出せずに浅い息をはくと、リーヴィスが暗い声で言う。

「それで、どうしますか? ここから逃げる?」

「は……?」

「貴女がどこから聞いていたのかは知りませんが……。大方の事情は把握したのでしょう? クウィンシア帝国最後の後継者、アミラ皇女殿下」

 はっきりと言葉にされて、震える唇で呟いた。

「父、様が……、本当に……?」

「ええ。帝国滅亡の前に秘密裏に亡命され――、今となっては当時を知る唯一の皇族と言っていいでしょうね」

「で、でも……! 最後の皇帝の子供に父様の名前なんて……」

 アミラは当然既に帝国の歴史を学んでいる。皇帝の子は五人だったはずだ。そして全員処刑されている。

「ああ、それは皇后の子です。側妃や妾が産んだ者も含めれば皇子皇女は十八人いたんですよ。ティニス殿下は九番目。身分の低い妾の子でした。本来なら、継承権も低く皇位が回ってくることなどない――。だからこそ、亡命を果たし、今日まで見つけることすら出来なかったのですがね」

「……わたしに何させるつもりなの」

 リーヴィスから視線を外し、小さな声で呟く。彼は嘲笑混じりに答えた。

「言ったでしょう。父は貴女に『想い人』を見ていると。今は亡き第一皇女殿下。彼女を思わせる貴女が、帝国を再興させ、その頂点に立つことを夢見ている」

「馬鹿げてる……」

「ええ、そうですね。ですが、その『馬鹿な』夢を皆が見ているんですよ」

「…………貴方も?」

 アミラの囁くような問いに、リーヴィスは答えなかった。それがまるで聞こえなかったかのように、話を続ける。

「さあ、どうします。ここから逃げて死ぬか、私と共に来るか」

 その問いかけに、アミラはきゅっと唇を噛んだ。

 選択肢など無いに等しいのに、わざわざ訊いてくるこの男が憎らしくて堪らなかった。

「貴方はわたしを騙した」

「ええ」

「そんな人、信用できない」

「……そうですね」

 それでも生きたければ彼についていくしかない。だが、一言「貴方に従う」という言葉が出せずにいた。

 逡巡したまま黙っていると、縛められた腕を握る手に力が籠もる。

「逃げますか?」

 痛みに呻きそうになったところに、問いが重ねられた。しかし、アミラがそれに反応するより早く、顎をきつく掴まれる。

「まあ、簡単には逃がしませんが」

「んうっ……!?」

 キスされた。

 そう理解したのは、リーヴィスの舌が唇の割れ目を辿り、その隙間へ捩じ込まれた時だった。

 何をされているのか分からない。

 反射的な抵抗で彼の胸を押し――、次の瞬間にはガリッという音と共に、血の味が口内に広がっていた。

 唇が離れていく。

 肩で息をしながら見上げた彼の目は、何の色も欲も感じられず、ただ感情のない目でこちらを見下ろしていた。

「なに、するの……っ」

 生々しい感触の残る唇を押さえながら、アミラは思い出したかのようにリーヴィスを睨む。

 彼はそんなアミラを嘲るように片頬を上げた。

「何って……。密室で男女がすることなど、決まってるでしょう。『私の妻に』という言葉に喜んでいたくせに」

「あれは――、っ!」

 つい先刻のやりとりを揶揄され、頬が羞恥と怒りで赤くなる。

 しかし、何も反論できない。彼の言葉に未来を夢想して、心を踊らせたのは事実だ。

 同時に理解してしまう。リーヴィスのこれまでの振る舞いは、全てアミラを懐柔するためのものだったのだろう、と。

「わたしのこと、好きでもないくせに……!!」

 その時、一瞬だけリーヴィスの瞳が揺れた気がした。

 だが、それは見間違いかと思うほどすぐに覆い隠される。次に彼が浮かべたのは、出会った時とまるで同じ、感情の見えない笑みだった。

「まさか。……愛していますよ、誰よりも」

「っ……」

 嘘つき、と詰ってやりたかった。

 だが何故か声が出ずに、ただただ胸が苦しくなって涙が滲んだ。

 その瞬間、ふと腕の拘束が緩む。

「――……興が削がれました。ですが、くれぐれも逃げようなどとは考えないでください」

 リーヴィスは手を離して立ち上がると、こちらを見もせずに部屋を出て行った。

 しんと静かになって、独りなのだと身に沁みて――、ぽろぽろと涙が流れ落ちていく。

 触れた唇の感触が、凍えるように冷たい視線が思い出されて、どうしようもなく悲しい。

 淡い憧れのような恋心が不意の接触で急激に育ち、そして――粉々に砕け散ったのだと悟るには十分だった。

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