07
水辺に咲く紫
「ロリーナ嬢は明るくてよい子だな。それに比べて妹君は、いささか大人しすぎるのではないか」
「双子というだけあって、顔形はよく似ているが――」
「いいではないか。次女なのだから、出しゃばりすぎるよりは……」
大人たちの軽い応酬。
それを幼き日のシエナは、ドレスの裾をぎゅっと掴んで聞いていた。
そう、その通りだ。
明るい姉ロリーナは、これからヴィオリア家を支えていかなければならない。
自身は出過ぎてはけない。慎ましく、穏やかに。
いずれは誰とも知れぬ男の元へと嫁いで、その家のために生きていくのだ。
それには、この慎ましやかな態度は、きっと武器になる。
だから、間違ってはいない。決して、間違ってなど――
シエナはふと目を覚ます。
「夢……」
天井は見慣れた自室のもの。
「ああ、そうだ。帰ってきていたんだった……」
王都での日々は終わりを告げ、今シエナは住み慣れた我が家にいる。昨夜にここへ到着した後そのままウィルフレッドと別れ、父ランドルフへの報告もそこそこにベッドへ潜り込んだのを思い出した。
昨日は、相当疲れていたらしい。
今更になって、過去の夢を見るなんて。
まだ外は夜が明けたばかりの仄暗さを残していたが、このまま目を閉じても眠れる気がしなかった。
シエナはゆっくりと起きあがる。
すると、目尻に溜まっていた涙が、一筋流れ落ちた。
シエナは無言のままそれを服の袖で拭う。
泣いている場合ではない。考えなければならないことは山のようにあるのだ。
そう、それに――
「わたしは、幸せじゃない。どうして泣くの……?」
愛する人と婚約するという未来が待っている。
自分は幸せの絶頂のはずなのだから。
あまりに早く起きてしまったため、時間を持て余したシエナは、いつかのように湖へと向かった。
夜の湖とは違い、朝のそこは明るく清廉な空気に包まれている。
朝日を受け、きらきらと輝く湖面を見つめながら、シエナはその傍に座り込む。ぼんやりと、時が過ぎていった。
どのくらいが過ぎただろう。山の端から半分ほど顔を出すばかりだった太陽は、その姿をしっかりと拝めるほどの時間が経ってしまっていたらしい。
そろそろ戻らねば、と腰を浮かせた時。
「シエナ」
静かに自身の名を呼ぶ声がした。
「……ウィルフレッド様」
「屋敷に行ったら、ここだと聞いて」
あの夜とは反対側から現れた彼に、シエナは苦笑した。
「すみません。もう、戻ろうとは思っていたのですが……」
なんとなく立ち上がりそびれ、シエナは座ったままウィルフレッドを見上げた。
「何を……していたんだ?」
何を、と聞かれると困る。シエナは曖昧に微笑む。
「少し早くに目が覚めてしまって。朝の散歩、ですかね」
そうか、とウィルフレッドが返すと、それきり会話が続かない。
「そういえば、何かご用でしたか?」
屋敷に行ったと彼は言った。そして、わざわざここまで足を運ぶということは、何か用事があったのだろうとシエナは類推する。
しかし、ウィルフレッドは片手で口を覆い、困った顔をした。
「あー……。その、婚約者に会いに来るのに、理由が必要か?」
「……え?」
シエナはぽかんとウィルフレッドを見上げる。
婚約者に会いに来る、ただそれだけのために来たと言うのだろうか。
「隣に座ってもいいか?」
「え、あ……、えっと、はい……」
隣に腰を下ろしたウィルフレッドから思わず視線を逸らす。シエナは自身の膝頭を見つめ、冷静になろうと努めた。
こんなことは、ロリーナとの時にはなかったことだ。
もちろん、ロリーナと殆ど会っていなかったというわけではない。彼はいずれヴィオリア家に婿として入り、この家を継がなければならない。そのため、ランドルフから様々な事柄について指導を受けている。
そのためにはヴィオリア家に来る必要があり、その日は必ずロリーナとの交流を持っていた。
そのランドルフから受ける勉強も一段落つき、最近では頻度が減っていたが、それでも月に二、三度は屋敷へ訪れている。
それでもいつも、彼の第一の用事はランドルフの対面だった。
しかし今、彼は「婚約者に会いに来た」と言った。その理由を考えて、シエナの心は浮き足立ちそうになる。
だがシエナは、心の中で首を大きく横に振った。
自惚れてはいけない。
この「婚約」は通常のものとは違うのだから。
シエナとウィルフレッドは、まだ正確には婚約状態にはない。とはいえ、ロリーナが駆け落ち紛いのことをしてしまったため、彼女とは婚約破棄せざるを得ない。しかし、ウィルフレッドの婿入りは決定事項だ。ならば取れる手段は、シエナとの婚約しかない。
こんな流れで決まったものなのだ。
だからこそ、シエナとウィルフレッドの間に問題を起こすわけにはいかない。彼は優しい人だ。きっと、こちらを気遣って訪問回数を増やそうとしてくれているのだろう。
シエナはそう結論づける。
そうでなければ、ロリーナを愛していたはずの彼が、わざわざシエナに会いに来るはずがない。
「シエナ」
名を呼ばれ、ハッと我に返る。彼の方へ向くと、彼の視線はシエナの胸元にあった。
そこには、彼から送られたネックレスがある。
「付けてくれているんだな。……うれしいよ」
シエナの心臓が、ドクンと大きな音をたてた。その鼓動は早さを増して、頬を熱くさせる。
彼が、とろけるような笑みを見せていたからだ。
「っ……」
そんな微笑みを浮かべた彼と、目があってしまう。
唐突に逃げたいような気分にさせられた。しかし、その思いに反して、身体は指先すら動いてはくれない。
「……シエナ」
彼の声が甘いものに感じた。
やめてほしかった。
勘違い、しそうになる――
シエナはぎゅっと目を瞑り、そして、彼の胸をトンと押した。
「こんなことまで、しなくて……いいです」
シエナはそろりと目を開いた。
唇が、触れあいそうなほどまで近くにある。
シエナは彼の胸に手を当てたまま、視線を逸らした。
「だって、わたしたちは……、愛し合っている、わけじゃ、ない。……そうでしょう」
自身はウィルフレッドを愛していても、彼はそうじゃない。
その事実を自らの口で伝えるのは、とても辛かった。それでも言わなければならないことだ。
愛している振りなんて、してほしくない――
「……そうだな」
ウィルフレッドが静かに身を引く気配がした。シエナの両手から体温が離れていく。
ザリッと音がして、彼が立ち上がったのがわかった。
「すまなかった。もう戻ろう。屋敷まで送る」
ウィルフレッドはこちらへ手を差しのべている。それを取ることにシエナは一瞬躊躇した。
「……はい」
しかし結局は、彼の手に己のそれを重ねる。
もしも、もしも――、彼がわたしを見てくれていたのなら。
シエナはウィルフレッドに手を引かれながらも、視線を足下に落とす。
彼がわたしを見てくれていたのならば、拒みはしなかったのに――。
湖の畔に咲く小さな紫色の花が目についた。それは、自身の瞳の色とよく似ている。
その花は、踏まれてひしゃげてしまっていた。それは、シエナの心情を表しているように見えてならなかった。