06
冴えた銀色を帯びた月

「あ……」

 知られてしまった。

 シエナは怪訝な顔をしたロリーナから、目を離せないままふらりと一歩後退する。

 知られてしまった……。知られてしまった――!

 行き交う人混みの中、三人だけが時を止めてしまったかのように動かず、声も発しない。

 そう、ウィルフレッドすら、何も言わない。

 シエナは震えそうになりながら、背後を仰いだ。

 ウィルフレッドと目が合う。

「……っ!」

 息を飲んだ。

 彼の目はただ凪いでいた。

 怒りも、悲しみも、疑問すら浮かんでいない。

 まるで、何もかも知っていたかのように、ただ静かだった。

「あ……、あぁ……」

 シエナは喘ぐように言葉にならない声を漏らす。

 ウィルフレッドの瞳が揺れた。

 彼は何かを言おうとしている。

 そう悟ると、もう耐えられなかった。

「ごめん、なさい……!!」

 シエナはウィルフレッドにも、ロリーナにも背を向けて走り出す。どこへ行くかなど何も考えられなかった。ただただ、この場から逃げ出したい。

 その思いでひた走る。

 ぎゅっと目を瞑れば、目尻から涙が零れ落ちた。

 後ろから自身を呼ぶ声が聞こえたような気もする。

 それはロリーナのものだったのだろうか。それとも、ウィルフレッドのものだったのだろうか。

 ウィルフレッドならば、いいのに。

 いまだにそんな浅ましい考えを捨てられないことに、涙が止まらなかった。




 シエナは街の中をめちゃくちゃに走った。

 大通り、その脇道――。はじめはうっすらとでもどこを通ったか覚えていたシエナだが、それも次第に曖昧になってゆく。そして、自分がどこにいるのかも分からなくなった時、ようやく足を止めることができた。

 眼前には細い川があった。整備されたそれは、自然の形を留めない不自然さがあったが、それでもその水面は故郷の湖を思い起こさせる。

 シエナはそれを見つめながら、背後の壁に背を預けて肩で息をした。

 走っている最中(さなか)には気付かなかった疲労が、今更になって現れたようだった。

 どうして逃げ出してしまったのだろう。

 走ったことにより多少冷えた頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを思った。

 お父様に言われたことだった。あなたに恥をかかせたくなかった。ヴィオリア家の中だけで解決したかった。

 そう言えば、きっとウィルフレッドは分かってくれる。人を無暗に糾弾するような人じゃない。

 シエナもそんなことは分かっていた。

 それでも、逃げ出さずにはいられなかった。

 自覚、していたからだ。

 シエナは自分の顔を両手で覆う。

 ロリーナとして前に現れることで、たとえ偽りでも――、彼に愛されたかった。

 そんな身勝手な思いを、嫌というほどに自覚していたからだ。

「――シエナ」

 女の声が聞こえた。

 それなのにシエナの身体は、びくりと震える。

 ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ、声の主がウィルフレッドであることを期待した。

 女の――、自分とよく似た女の声だとわかっていたのに。

 シエナはぎゅっと唇を噛んで、一度は止まったのにまた零れそうになる涙を堪えてから、顔を覆っていた両手を下ろす。

「…………ロリーナ」

 そこには、夕日に照らされて目映いほどに輝いて見える、自身の片割れがいた。

「探したわ、シエナ」

「……、っ」

 ごめんなさい、という言葉が声にならず、シエナは唇を噛む。俯いた視界に、ロリーナの細い指が伸びてシエナの頬に触れた。

「ごめんね、シエナ」

「――っ、どうして、ロリーナが謝るの」

「……うん。でも、私があなたの名前を呼んだから」

 シエナはそろりと頭を上げる。

 久しぶりに見るロリーナは、悲しげな顔をしていた。

 彼女はあの一瞬で、シエナがロリーナの振りをしていたことに気付いたのだと悟る。

 当然といえば当然の話だ。

 今のシエナの格好は全て、ロリーナのもので出来ているのだから。

「それにね、シエナ。私が何も……、あなたにすら何も告げずに行ってしまったのが悪いの。そうでしょう?」

 苦笑するロリーナに、シエナの目からついに涙が零れた。

「そう……、そうよ……。ロリーナが、ろりーなが、わるいんだからぁ……!」

 涙が後から後から零れ落ち、シエナはしゃくりあげる。

 彼女を責めても何にもならないことは、分かっていた。でも、今だけは全ての責任を投げ捨てて、誰かに縋りたかったのだ。

 ロリーナはシエナの背に手を回し、シエナも彼女に縋るように抱きつく。

「ろりーなのばか! なんで、なんで……!」

 シエナは声を上げて泣いた。

「そうだね、私のせいだね」

 ロリーナはその背をただ優しく撫で続けたのだった。




 泣きやんだシエナがロリーナの手に引かれ辿り着いたのは、小さな一軒家だった。

 王都の貴族街にある――とはいっても、平民たちの暮らす地区に一番近い場所のこじんまりとした家だ。

 その家の客間らしき部屋に通されたシエナは、ロリーナに導かれるままソファに腰を下ろし、ぼんやりとしていた。ロリーナは茶を淹れてくるといって今ここにはいない。

 ここはどこなのだろう。

 少し落ち着いてきたシエナは、部屋を見渡しながら思った。

 ヴィオリア家は王都に家など持っていない。また」、すぐに頼れるような親戚もここにはいない。

 だというのに、ロリーナの振る舞いはこの家に住んでいる者のそれだ。ならば彼女がこの家を買ったとでもいうのだろうか。

 だが、シエナは首を振る。

 この短期間でそんなこと、ありえない。

 その時、不意に扉が開く音がして、シエナはロリーナが戻ってきたのだろうと振り返る。

「……あ」

 だが、そこにいたのはロリーナではなかった。

「ウィル、フレッド様……」

 それきり沈黙が落ちる。

 ウィルフレッドは扉のところで立ち竦んだまま、何かを言いたげに口を何度か開いたが、結局は何も言わない。そして、迷うように視線を逸らした後、意を決したようにシエナのところへ歩み寄ってきた。

 彼はシエナの対面に座った。

「無事で、よかった。……シエナ」

「…………はい」

 それ以上に言葉が続かない。ウィルフレッドも、何故だか何も言わない。

 これまでの事を訊ねるでも、詰るでもなく、ただ静かだ。

「――この家は、ロリーナの恋人のものらしい」

 しばらく沈黙が続いたあと、ウィルフレッドが口にしたのはそんな言葉だった。

「こい、びと……?」

 彼が今までのことに触れないことが、怖いような、ほっとするような。そんな気持ちになりながらも、シエナは意味が分からない言葉を聞き返すように呟いた。

 事実、意味が分からなかった。「恋人」というのは、自身の知っている「恋人」という言葉であっているのだろうか。

 ウィルフレッドは、そんな内心を見透かしたように、苦笑を唇に乗せた。

「そう、恋人。名前はティニス・ユリエット。彼は、つい最近までエムロディア家にいた方だ」

 ティニスという青年は、王都で騎士となるべくここまで来たらしい。彼がエムロディア家を出た日は、ロリーナが姿を消した少し前だ。

「つまりロリーナは……、そのティニスという人を追いかけていった、ということですか……?」

「そうらしい」

 単身ティニスの後を追ったロリーナは、王都までの道半ばで彼と再会したらしい。

 しかし元々、彼はロリーナに別れを告げ王都へと旅立っている。当然彼女を連れていくつもりもなかった。とはいえ、それまでの道をまた一人で帰らせるわけにもいかず、ひとまず王都までは身柄を預かり、迎えを寄越すようにと手紙を送ったらしい。

「それで、こちらに住まわせていただいている、と?」

「名目は住み込みの使用人……、ということにしてあるらしいが――」

 ウィルフレッドはそこで言葉を切ったが、シエナにも彼が言わんとしていることは伝わった。

 この家に来たとき、数名の――本物の、使用人の姿を見た。彼らへのロリーナの態度は、同僚という気さくなものではなく、女主人への敬いが見て取れた。

 それはつまり、彼女はもうヴィオリア家に帰る気はない、そういうことだろう。

 シエナは黙ってしまったウィルフレッドを、上目遣いに盗み見た。

 彼はあまりにも淡々としている。愛する人に裏切られたはずなのに。

 事態を消化し切れていないのかもしれない。それはシエナも同様だが、彼とではきっと重さが違う。

 シエナは何か声をかけようとして口を開いてみるが、結局は言葉にならず沈黙を貫くことを選んだ。

 彼を騙していたわたしが、一体何を言えるというの。

 シエナはきゅっと唇を噛んで俯く。

 その重い沈黙は、ロリーナが戻ってくるまで続いた。




 シエナとウィルフレッドはそのままロリーナたちの家に滞在することとなった。

 日が暮れる頃、仕官から戻ってきたティニスは、感じの良い好青年、といった雰囲気にシエナの目には見えた。その印象は裏切られることなく、彼は事情を把握すると、まるで全て自分の責任だというほどに謝罪をし、その勢いはこちらが恐縮するほどだった。

 夕食は意外にも和やかに進み、シエナは一時ではあったが、様々に山積する問題を忘れることができた。

 しかしそれも与えられた客室で、一人になるまでの話だ。

 それまでは忘れていられた数々の事象が、シエナの眠りを遠ざけていく。

 ベッドの中で何度か寝返りをうっていたシエナだが、最後には眠るのを諦めて立ち上がった。薄い上着を手に、ベランダへふらりと足を踏み出す。

 なんとなく、月に誘われている。そんな気がした。

 外へ出てみれば、少し冷たさをはらんだ風が通りすぎ、シエナは慌てて上着を羽織って前をかきあわせる。

 あたりは静かで、まるで世界にただ独り、残されてしまったように感じた。上空に浮かぶ月も今日は、銀色の――酷く冷たい色に見える。

 シエナはじっとその月を見上げていた。

 しかし、その静かな空気は、キィという扉が開く音にかき消される。

 シエナはそちらの方向を見て、目を見開いた。

「ウィルフレッド様……」

 何室かある客間は、すべてベランダで繋がっているらしい。隣の部屋を宛がわれていたウィルフレッドは、シエナが出てきた扉とは別の扉のところにいる。

 しばし同じように驚いていた彼は、部屋に戻ろうかと迷ったらしい。自身の背後に一瞬目を向ける。

 だが、すぐにシエナの方を向き直り、少し困ったように笑った。

「そちらへ、行ってもいいか?」

 シエナは迷いつつも頷く。

 彼がどういうつもりでそんな事を言うのか分からず、恐いとは思った。しかし、いずれは向き合わなければならないことだ。

 彼が一歩近付くごとに、緊張が高まっていく。

 一歩、二歩、三歩――。

 彼は、シエナから一人分の距離を空けて立ち止まった。

「……そんなに、警戒しないでくれ」

「そ、んな…つもりは……」

 ない、とは言えなかった。

 たしかにシエナは、彼が何を言うのだろうと「警戒」している。

 だが、それにも関わらず、空けられた距離を悲しいと思っていた。

 ウィルフレッドは肩を竦め、先程までのシエナと同じように月を見上げた。

「眠れなかったのか?」

「……はい」

「そうか……。俺もだ。何故か、目が冴えてしまって」

 シエナは返す言葉が見つけられず、俯いて黙り込んだ。

 以前、シエナとして彼と喋る時、自分はどんな風にしていただろう。

 それが何も思い出せない。

 黙っていると視線を感じた。その視線を辿って上を向くと、ウィルフレッドがどこか寂しげにこちらを見つめているのに気付く。

「ウィル、フレッド様……?」

「…………もう、ウィルとは呼んでくれないんだな」

「え……」

 一瞬、ほんの一瞬、そう呼んでほしいのだと彼が訴えているように聞こえた。

 だが、そんなはずはない。彼が愛しているのはロリーナだ。「ウィル」と呼んでほしい相手も、ロリーナ。忘れてはいけないことだ。

 シエナは自惚れるな、と自分に言い聞かせるように拳を握りしめる。

「――いつから、気付いてらっしゃったのですか」

 ロリーナと再会してから、シエナは彼を「ウィル」とは呼んでいない。それなのに「もう」と言うということは、それ以前から既にシエナの嘘に気付いていたということだ。

 一体いつから、彼はシエナの浅ましい嘘に気付き、そして、騙された振りをし続けていてくれたのだろう。

 ウィルフレッドは目を眇めた。

「――最初から」

 端的に返された答えが、シエナは理解できなかった。

「最、初……?」

 ウィルフレッドはこくりと頷いた。

「そうだ。君と夜の湖で会った次の日。君がロリーナだと言って現れた、その瞬間から」

「なんで……」

 何故、黙って騙されていたのか。その問いは言葉にならなかったが、彼はそれを正しく受け取り、返答する。

「……君の父上が、君に『ロリーナ』と呼びかけたから……だ。何か聞いてはならないことがあるのだろうと、そう思った」

 ウィルフレッドはそこで言葉を切り、ふと月に目を向けた。

「とはいえ……、君の演じるロリーナは、彼女そのものだったからな……。確証を得たのはもう少し後――、夜会の最中だ。あの時も、こうして夜風に当たっただろう?」

 侯爵邸のテラスでのことがシエナの脳裏に浮かんだ。

 あの時は、風で髪が乱れてそれをウィルフレッドが直した。ただ、それだけのはずだ。

 彼はシエナが思い出したのを見て取り、軽く頷いて話を続ける。

「君は――、いや、君もロリーナも知らないだろうけど……。君たちの瞳は、太陽の(もと)では同じ紫色だが、こうして……」

 ウィルフレッドは月を指差して、そのままシエナの瞳の方へその指を持ってくる。

「月の光の(もと)では、微妙に色味を変えるんだ。ロリーナは赤みがかった紫に。シエナは、青みがかった紫に」

 ウィルフレッドの指先が、シエナの目元に触れそうで触れない場所に止まる。

「今も――」

 ウィルフレッドはやわらかな微笑みを浮かべる。

 そう、まるで――、ロリーナであった時に向けられたような愛しげな笑みだ。

 シエナは胸を押さえる。どうしようもなく、胸が高鳴った。

 しかし、シエナその鼓動を止めようとするように、ぎゅっと胸元で手を握りしめる。

 勘違い、してはいけない。彼が愛しているのは、ロリーナだ。

「……そういうことだったのなら、きっと知らない間に色々と助けていただいていたんですね。夜会では」

 シエナは無理に話題を変える。これ以上、そんな顔を向けられているのは、あまりに辛い。

「そうでもない。君は完璧な「ロリーナ」だった」

「本当ですか?」

 当たり障りのない話題に移っていくことに、シエナはほっとした。そして、ふと胸元で揺れる緑の石を思い出した。

「そういえば、これをお返ししなければなりませんね」

 これはロリーナに宛てたものだろう。シエナがそう言いながら鎖の留め金に手を回そうとすると、ウィルフレッドは眉根を寄せた。

「それは『君に』と言わなかったか?」

「でも、それは……」

「あの時の『ロリーナ』は、シエナだろう?」

「でも、わたしには、あなたからこういった物をもらう資格は……」

 あの時は「婚約者ロリーナ」への贈り物だから、受け取ることができた。しかし、今のシエナとウィルフレッドの間に横たわる関係性は、幼馴染、もしくは未来の兄妹だ。

 どちらにしても、こういった装身具を受け取れる立場にはない。

 シエナがそう訴えると、ウィルフレッドは難しい顔で押し黙った後、ぽつりと言った。

「なら、相応の立場になれば、受け取れるのか?」

「それは、どういう……、――っ!?」

 ウィルフレッドは、不意にシエナの手を取った。

「こんな流れで言うつもりじゃなかった。だが……、聞いてほしい」

 シエナは手を振り払うことも出来ず、ウィルフレッドを呆然と見上げる。

「ロリーナがこうなってしまった以上、今度は俺とシエナが婚約させられる可能性が高い。だから、そう命じられる前に言っておきたかった。シエナ、俺と結婚してほしい」

 シエナの脳裏にいつかの光景が甦る。

 赤いドレスを着たロリーナ。彼女に白い花を差し出すウィルフレッド。陽光煌めく中、光に包まれ、まるで世界が祝福しているような光景だった。

 その時と同じ言葉。

 しかし、周囲を取り巻く状況は、正反対と言っても良いほど違った。

 ああ、なんて可哀想なのだろう、彼は。

 ロリーナの立っていた場所に立ちたいと、願ったこともある。しかし、それが叶えられてみると、なんて惨めなのだろうか。

 これは、きっと彼なりの誠意なのだろう。

 愛した人を奪われ、自分に宛がわれるのは、最愛の人によく似た紛い物。

 それでも、きちんと言葉にしてくれる彼は、とても、とても優しい人だ。

 だから、返した。

「……喜んで、お受けします。ウィルフレッド様」

 あの日のロリーナが返した言葉を。

 嬉しそうに、彼を見つめて「ウィル」と呼んだロリーナ。

 泣きそうなのを隠すために俯いて「ウィルフレッド様」と呼んだ自分。

 彼はどんな気持ちで、同じでいて、全く違うこの言葉を聞いたのだろうか。

 シエナはどうしても、顔を上げることが出来ず、彼がどんな表情でそれを聞いていたのかは、分からず仕舞だった。

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