05
金色の野原

 観劇に行き、一週間が経った朝。

 シエナは、いつか――ロリーナ失踪の知らせを受けたときを――を彷彿とさせる、エリスの声で目を覚ました。

「お嬢様!!」

 肩で息をする彼女を宥めつつ、シエナは首を傾げた。

「エリス……、今度は何事ですか?」

「あぁ、シエナお嬢様……。どうか、どうか落ち着いて聞いてくださいませ……」

 前と全く同じ前置きを聞いて、少々呆れてしまう。だが、前回のような悲壮感はなく、慌てているのは同じだがどちらかというと、吉報を持ってきた、そんな雰囲気がする。

 そう例えば、こんな――

「ロリーナお嬢様が、見つかりました」

 息を飲んだのは一瞬だった。まず、確認しなければならないことがある。

「生きて、いる?」

 努めて冷静に、シエナは静かな声で聞いた。エリスは、はぁと上がった息を整えるように、大きく息を吐きだした後、笑みを浮かべた。

「はい。便りを受け取っただけですので、お会いすることは叶いませんが」

 彼女がしっかりと頷くのを見て、シエナは身体の力が抜ける。

「そう……、よかった……」

 よかった。本当に。

 自身で考えていたよりも、ロリーナの身を案じていたらしい。シエナは安堵で滲んだ涙を寝間着の袖で拭った。

 ロリーナとしてウィルフレッドと会うことは、もう二度とないだろう。それに寂しさを覚えぬと言えば嘘になる。

 しかしそれ以上に、ロリーナの無事が確認できたことが、嬉しくて嬉しくて、たまらない。

 そして、そう思えていることにも、安堵していた。

「お父様と、お話をしなければね。今後のことを」

「はい、着替えを済ませ次第、すぐ来るようにとのことです」

 エリスの言葉に頷き返すと、シエナはランドルフの元へ向かうべく、立ち上がった。




「……どうして、あなたがここに」

 ランドルフのいる書斎へ向かったシエナを迎えたのは、思わぬ人物だった。

 呆然と呟く声に振り返ったのは、ここにいるはずのない人物――ウィルフレッドだ。

 シエナは説明を求めるように、彼の傍らで難しい顔をする父に視線を向ける。

「ともかく、こちらに来るんだ。――ロリーナ

 ランドルフの言葉にシエナはハッとした。

 今、父は自分のことを「ロリーナ」と呼んだ。それはつまり、まだウィルフレッドへの嘘が有効だということだ。

「はい、お父様」

 にっこりと微笑み、努めて軽い足取りで二人の傍へ向かう。

「それで。何故ウィルがここにいるのか、聞いてもいいですか?」

 小首を傾げて尋ねると、ランドルフは難しい顔で、一枚の手紙を差し出してきた。

「これが、エムロディア家に送られてきたらしい」

 シエナはそれを受け取り、読んでいいかとウィルフレッドを見上げる。彼が頷き返してくれるのを確認し、シエナは書面に目を落とした。

 内容は簡単なものだ。

 ついこの間までエムロディア家で世話になっていたという青年が、ヴィオリアの娘を発見したという内容だ。

 何故その青年が、という不思議はあるが、シエナが驚いたのはそこではない。

「――王都!?」

 思わず声を上げてしまったが、誰もそれを咎めることもなく、ランドルフに至っては同調するように深い溜息をついた。

 ヴィオリアの娘が見つかったというのは、ここから一週間はかかる距離にある、この国の都だったのだ。

 ろくに領地を出たことのない片田舎の領主の娘が、一人で行けるような場所ではない。

「お父様、これは……」

 誰かの手引きがあったのか、あるいは――誰かと共に、出て行ったのか。

 シエナの言葉を遮るように、ランドルフは首を横に振った。

「確かめに行かねばなるまい」

 ロリーナに何があったのか。

 彼女にそれを、直接訊ねたい。

「わたしが、行きます」

 シエナが重々しく言うと、ランドルフが鋭い視線を向ける。

「許可できない」

「な、何故ですか」

「お前まで王都に行き、何かあった場合はどうする」

「それは……」

 ランドルフは、ひとまず使者を一人派遣して、状況を窺わせる予定だったのだろう。その後、ロリーナの様子に合わせて、連れ戻すための人員を割く。そんな流れを組んでいたはずだ。

 しかし、その使者にシエナが成り代わるとすると、一人でというわけにもいかない。少なくとも護衛が必要になる。あと、付き添いの侍女や、信頼できる案内人もいた方が良い。

 そういった人々を集められたところで、シエナが「一人」であることには変わりない。彼らは付き添いや家臣に過ぎず、場合によってはシエナだけで立ち回らねばならないこともあるだろう。

 ランドルフが難色を示す理由は、シエナにもよく分かっていた。しかし、ここで引いてはいけない気がした。

 ロリーナと会って、彼女の真意を知る必要がある気が。

 シエナは、どうにか説得しようと、もう一度口を開こうとした。しかし、それより早くウィルフレッドが一歩前へ出る。

「――ならば、俺がついて行きます」

 ランドルフの厳しい目が彼の方へ向かう。だが、ウィルフレッドは怯まなかった。

「エムロディア家も、もう無関係ではいられません。彼女が行くと言うなら、俺も行きます」

「ウィル……」

 シエナは戸惑って彼を見上げる。

 どうしてここまで、という疑問は浮かんだ。だが、彼がついて来てくれるのならば、問題の大方が解消されるのは事実だ。

 シエナは「一人」ではなくなる上、彼は何度か王都へも行ったことがある。

「……お願いします」

 シエナは頭を下げた。

 ランドルフは深い溜息をついて、不承不承頷いたのだった。




 シエナは気持ちの良い風に吹かれながらも、小さく溜息をついた。

 眼前には、視界いっぱいの野原。それは夕日に照らされて、黄金色に輝いているように見えた。

 ヴィオリアの娘が王都にいるという報を受け数日。

 今朝早くに屋敷を出たシエナは今、ヴィオリアの領地から離れた小さな村を目前としている。まだ侯爵領から出てこそいないが、シエナにとっては既に未知の土地である。

「美しいな」

 隣に歩み寄ってきたウィルフレッドの声に振り返る。

「そう、ね……」

 馬車の中から見えたこの景色に、シエナが見惚れていると、少し止まろうと提案したのは彼だった。

 愛おしげに見つめられると胸が酷く痛む。

 届いた手紙に「ヴィオリアの娘」としか書かれていなかった。そのために、いまだにシエナは彼に、自分はロリーナであるという振りを続けている。

 しかし、それも王都に着くまでだろう、というのは分かっていた。

 王都に着いてロリーナと会えば――、きっと彼を騙すことなどもう出来ない。顔を見て、二人で並んだときにまで、彼を騙せるとは思っていなかった。

 だって、ウィルフレッド様は、わたしたちを間違えて呼んだことなんて、一度もない……。

 シエナとして彼に最後に会ったあの晩ですら、遠くから見た時にどう思ったのかは分からないが、それでも呼びかける名前は間違えなかった。あんなにも暗かったというのに。

 シエナはぎゅっと目を閉じた。

 この辛く苦しく――幸せな、そんな日々は、遠からず終わりを告げる。

 そもそも、こんなにも長い間、騙しおおせるとは思っていなかった。

 だからこそ、その覚悟が出来ていなかったのだと気付く。

「どうした?」

「……いいえ」

 シエナは無理やりに笑顔を作った。

「そろそろ行きましょう。日が沈んでしまうわ」

 シエナは美しい野原に背を向ける。

 彼を騙し続ける汚い自分が、目にしてもよい景色だとは、もう思えなかった。




 出発から一週間が経った頃、シエナは王都の土を踏んでいた。

「ここが……」

 それ以上の言葉が続かない。何をどう言えばいいのか分からなかったのだ。

 州都ですら随分な都会だと、シエナは思っていた。だがこの都を目にすれば、それが勘違いだったとわかる。

 遠くに見える城、周囲の建物も整然として美しい。それらが立ち並ぶ往来を進む人々の数も、とてつもない量だ。

「シエナ」

 差し出されたウィルフレッドの手を、何のためらいもなく掴んだのは、そうしなければ確実にはぐれてしまうと思ったことが大きい。

 王都に到着したのは昼前。宿に待機することとなった御者や侍女たちと別れ、今は、ここに来ることになった手紙の差出人を訪ねるべく、書かれていた住所をウィルフレッドと二人、目指している。

 もうすぐ終わりが来る。

 彼に嘘をついていたことが知られてしまえば、どうなるのだろう。

 軽蔑されるだろうか、それとも。

 シエナはそれが怖くて、ウィルフレッドの手を無意識に握りしめた。

 それに気付いた彼は不思議そうに振り返り、ハッとしたように息を飲んで足を止めた。

「どうし……――」

 自身の後方に向けられたウィルフレッドの視線を追うように、シエナも後ろを振り返る。どうしたの、という疑問の言葉は、最後まで続けられなかった。

 そこには同じように経ち竦む、一人の女がいた。彼女も目を丸くしてこちらを見ている。

 その顔はシエナとよく、似ていた。

 は、とシエナは浅く息をはく。指先が小さく震えた。

 先に金縛りが解けたのは、女の方。

「シエナ……?」

 ぽつりと彼女――ロリーナは、呟いた。

Copyright (C) Miyuki Sakura All Rights Reserved.