04
深い緑の石

 夜会の日から一晩明け――。

 次の日には、ウィルフレッドからランドルフへ、正式にロリーナを連れ出す旨が書かれた手紙が届いた。昨晩のシエナを驚かせた観劇の約束は、他の者にとっても同じく初耳の出来事だったようで、屋敷内は少し騒然とした。

 ――本当に、約束なんてしていたのだろうか。

 シエナの胸にはそんな疑問も浮かんだが、指定された日付まで間もない。ロリーナの捜索と、観劇へ出かける準備と、それらに追われるように時は過ぎていった。

 その日までにロリーナが見つかれば、彼と出かける役目はシエナのものではなくなる。

 彼と二人きりで居続ければ、いずれ彼を騙していることが知られてしまうかもしれない。しかしそれと同時に、たとえロリーナとしてであっても、彼から愛おしげな視線を向けられること、優しくされること、傍に寄り添えること――、それらに確かな喜びを感じていた。

 ただ一度の、夢のような時間。

 そうであった方が、よほど良かったのではないか。

 ウィルフレッドと約束の観劇に向かい、婚約者としての時間を過ごす中で、その思いは強くなった。

 薄暗い劇場の中にシエナたちはいた。

 ウィルフレッドの隣に座り、美しい男女の役者が悲しい結末を迎えるのを見ていた。

 大木の元。ようやく再会できた真の恋人たち。だが彼らは、無情な死によって引き裂かれるのだ。

 悲恋の幕が降りると、シエナの目からは一筋の涙が落ちた。

 その物語の結末が悲しかったからではない。

 死は「真の恋人たち」を引き裂いていく。自身もまた、ウィルフレッドとロリーナの仲を、それと同じように引き裂いてしまうのではないだろうか。

 人々が厭うものに成り下がる自分。

 それでも想いを止めることができない現実が、あまりに悲しかったのだ。




「あの、今日はありがとう。ウィル」

 観劇の後、遅めの昼食をとりながらシエナは言った。

 州都でもそれなりの高級店の一室で、今はウィルフレッドと二人きりだ。ボロが出ないようにと口数が少なくなっていたシエナだが、これだけはどうしても伝えたかった。

 何故かシエナの好みを突いた内容の劇に、二人きりの食事。まるで恋人同士かのような錯覚を起こさせる。

 これがロリーナの身代わりとしての役目でなければ、きっと心から楽しむことが出来ただろう。

 きっと、一生の思い出だ。

「……楽しめたか?」

 少し心配そうに尋ねる彼の様子が意外で、シエナはふと笑いをもらす。

「もちろん。とても……、とても楽しかった」

「そうか」

 ほっと息をはいた彼は、ようやく安心したのか表情を緩める。しかし、シエナの胸には反対に、黒く靄がかったものが浮かぶ。

 彼がどれほどにロリーナを愛しているのか――、見せつけられた気分だった。

 その気持ちを振り払うように手元の皿に目を落とすと、ウィルフレッドはふと思い出したように声を上げる。

「そうだ。……君に、受け取ってほしいものがある」

 シエナが再び顔を上げて首を傾げると、彼は懐から小さな薄い箱を取り出した。

 ロリーナへの贈り物。

 それにシエナが手を出しあぐねていると、ウィルフレッドはその箱を開く。中には、小さな緑の石がついたネックレスがあった。

 深い、深い緑の石。それは、ウィルフレッドの瞳と同じ色だ。

「これは……」

「渡そうか悩んだ。けど俺はこれを――、君に、つけてほしい」

 彼の瞳と同じ色をした石。そこには意味があるのだろうか。

 ありがとう、と笑って受け取らなければ。「婚約者」に自分の色のアクセサリーをつけてほしいと望むことなんて、何もおかしいことではない。

 しかし、ロリーナへの愛が形になったようなそれに、シエナはどうしても触れることができない。

「これは、私への贈り物……ですか?」

 感動して信じられないのだと受け取られるような言い方をしながら、シエナの本心の問いはそうではない。

 これは、(ロリーナ)への贈り物ですか――。

 彼はここにいるシエナをロリーナだと思っている。だから、そんな問いに意味はないと知りつつも、聞かずにはいられなかった。

 ウィルフレッドは、何か言いたいことを飲み込むような吐息をもらした。しかし、何も言わない彼は、その代わりというようにシエナの手をそっと握った。

「君に、つけてほしい」

 シエナの問いには答えず、念を押すようにウィルフレッドはそう言った。真剣な彼の視線に射抜かれ、目を逸らすこともできない。そのあまりに真剣な眼差しに、シエナの頬が熱くなった。

 まるで、「シエナ」への贈り物だと、そう言われているような錯覚さえ覚える。

 何を馬鹿な。そう思うのに、視線が逸らせなかった。

「……俺が、つけてもいいか?」

 シエナが熱に浮かされるようにただ頷くと、ウィルフレッドの手が離れていく。

 それが、少しだけ寂しい。

 ネックレスを手に、ウィルフレッドはシエナの背後へ回った。

 箱から取り出す際の衣擦れの音がして、しゃらりと金の鎖がこすれる音と、留め具を外す音が聞こえる。

 シエナも、ウィルフレッドもお互い無言のままだ。だから、それらの音が妙に大きく聞こえた。

 シエナの首に細いチェーンがまわり、小さな石が肌に触れた。ひやりとした感触にほんの少し身を竦ませると、背後で吐息のような笑い声がもれた。

「……片時も、外さないでくれ」

 囁くような声と共に、首筋にあたたかな感触がふれる。

「――っ、」

 びくっと震えて背後を見れば、優しく微笑むウィルフレッドがいて、シエナはそれ以上、何も言えなくなってしまった。




 夕方を過ぎる頃には、シエナは自宅へと帰り着いていた。

 自室で一人物思いに耽る今も、その胸元にはあのネックレスが揺れる。

 無意識にその緑の石を触りながら、シエナはひっそりと溜息をついた。

 このネックレスをもらった後も、ウィルフレッドはただ優しく、いかにも紳士的にヴィオリア家の邸宅までシエナを送り届けて帰って行った。

 首筋に触れた柔らかな感触が忘れられない。

 シエナの手は無意識に(うなじ)を辿る。

 本当は、わかっている。これは、ロリーナに与えられたものだと。

 彼の微笑み、優しい手、贈り物も全て。

 胸元で控えめに輝く緑の石も、シエナのためだと言われているように感じた眼差しも、幻想だとわかっていた。

 それでも、この「夢」を少しでも長引かせたくて、仕方がない。

 ロリーナに返さなければならないと知っていたが、「彼にいつ鉢合わせるか分からないから」などともっともらしいことを言って、今も外せないでいる。

「……なんて、身勝手」

 シエナは窓からぼんやりと湖面を見つめながら呟いた。

 ロリーナが行方不明だというのに。

 生きているのかさえ、分からないというのに。

 彼女の無事を祈らなければならないのに。

 でも、でも――

「わたしは、心のどこかで……」

 ロリーナが見つからなければいいと、思いはじめている。

 シエナは苦しみに耐えるように、ぎゅっと目を閉じた。

Copyright (C) Miyuki Sakura All Rights Reserved.