03
青い花、一輪
「完成です、お嬢様」
エリスの声に、シエナは閉じていた目を開く。
眼前にある鏡をそろりと覗き込み、思わず息を飲んだ。
「……こうしてみると、ロリーナそのものね」
普段のシエナならばあまり着ない薄桃色のドレスに、高く結い上げた髪をした自分の姿を見る。
感嘆のような、自嘲のような、そんな溜息が漏れた。
今夜は例の夜会の日だ。ロリーナの不在を隠すという目的を思えば、これでいい。これでいいのだが――
まるで、わたしなんてはじめからこの世にいなかったかのようだわ……。
シエナは鏡に手をついて、嗤う。
こうして少し服を変えるだけで、自身でも見紛うほど姉に見えるのは予想外だった。
「シエナお嬢様……」
あまり嬉しそうにはしていないシエナを、エリスが不安げな顔で見ていた。それに気付いたシエナは、慌てて笑顔を取り繕って振り返る。
「少なくとも黙っていれば、誰にもわたしがシエナだとは分かりませんね、エリス。よくやってくれました。あとは……、わたしの演技力次第。ね」
苦笑すると、エリスもようやくほっとしたように表情を緩めた。
「ご武運を、お嬢様」
「ええ、行ってきます」
シエナはエリスに微笑み返して、部屋を出る。そろそろ、ウィルフレッドが迎えに来る時間だ。軽く急ぎ足で玄関ホールの方へ向かうと、人の話し声が聞こえてくる。
「もうウィルフレッド様が迎えにきたのね……」
シエナはこれから、彼と共に夜会へ向かう手筈となっていた。緊張が高まってゆく。それを少しでも散らそうと、廊下の角で立ち止まったシエナは、一度、二度と深呼吸をした。
この場から一歩でも足を踏み出せば、ウィルフレッドと会ってしまう。
ならば、「シエナ」でいられるのはここまでだ。
「……わたしは、『ロリーナ・ヴィオリア』」
言い聞かせるように呟いてから、足を踏み出した。
その先には予想通り、ウィルフレッドとランドルフの姿がある。しかし、今はじめて彼らに気がついたかのような顔で、シエナは驚いてみせた。
「あ、もう来てたのね。待たせてごめんなさい、ウィル」
普段のシエナがしないような言葉遣い、呼び方、仕草――。
事情を知っているはずのランドルフさえ、一瞬目を瞠ったのがわかった。
これならば、きっとウィルフレッドには分からないだろう。
シエナは少しだけ自信をつけて、ウィルフレッドを見た。しかし、何故だが彼は、微かに怪訝な顔をしている。
「……あの、ウィル?」
「え、ああ……、いや。今日は一段と綺麗だと思って」
そう言って微笑む様子はいつも通りだ。シエナは気のせいだったかと内心首をひねりつつ笑った。
「あら、ありがとうございます。お世辞でも嬉しいですわ」
だが、長く共にいればいるほど、自分がシエナだと知られてしまう危険性が上がるのは間違いない。ならば早く行って、早く帰ってくるのが得策だろう。
そう結論づけたシエナはくるりと、背後にいたランドルフの方を見た。
「それじゃあ、行ってまいります、お父様」
「ああ、くれぐれも気を付けなさい、ロリーナ」
いきましょう、と促せばウィルフレッドはシエナの手を取り、隣を歩く。しかし、何かを彼に探られているような、そんな視線を感じた。
辿り着いた侯爵邸は、夜の闇を吹き飛ばしそうなほど輝いていた。
シエナとしても何度か訪れたことのある場所のため、今更圧倒されたりなどはしない。しかし馬車を降り、その眩しさを直に浴びれば、少々気後れしてしまった。
「緊張しているか?」
隣に立つウィルフレッドの問いかけに、シエナはハッとして首を振る。
「いいえ、大丈夫。あなたこそ顔が固いわ、ウィル」
ロリーナはこういった場所でも、茶目っ気を忘れない。だからシエナはそういって何でもないことのように笑った。
きっと「シエナ」としてこの場所に立っていたならば、引きつった笑顔に虚勢を張って「大丈夫」と言うのが精一杯だっただろう。
ウィルフレッドは苦笑を返し、シエナの腕を取った。
「行こう」
頷き返したシエナは、彼と歩調を合わせて中へと入った。
一歩踏み出してしまえば、どうということはなくなっていく。
侯爵への挨拶も、何曲かのダンスもそれほどの困難もなく終わってしまった。幸い、誰にもここにいるのがシエナだとは、気付かれていないらしい。不審げな目で見られるようなこともなかった。
一通りの社交を済ませたシエナが壁際で休憩していると、別の令嬢とのダンスが終わったらしいウィルフレッドがこちらへやってくる。
「少し外に出ないか?」
彼の背後には何人かの女性からの視線があるが、彼自身は気付かない振りをしている。そろそろ踊り疲れたのかもしれないと思ったシエナは頷いた。
「わかったわ、テラスに出ましょう。夜風にあたれば気も休まるわ」
二人で連れ立って外に出れば、広間の喧騒は遠くなった。やわらかな、この季節にしてはあたたかな風が吹いている。
シエナは欄干に手をついて、ふぅと息をついた。知らぬ間に詰めていた息を吐き出す。本当は、ウィルフレッドにも警戒を解いてはならない。だが、シエナ自身にとっても彼は、長い付き合いだ。どうしても気が緩む。
彼は、シエナの隣で同じように手をついて黙っていたが、今はその沈黙が心地よかった。シエナは自然と目を閉じて、今ここにはいない片割れを思う。
ロリーナはどうしてるのだろう。
どうしていなくなったのか。この場に責任ある立場として立つのを厭ったのだろうか。それとも――?
その時、一陣の風が吹き抜けた。
「あっ……」
髪が巻き上がり、髪が解れて少しだけばらける。シエナはそこを押さえて、少々慌てた。
大きく乱れたわけではないが、一度下がって直してくるべきだろうか。
「大丈夫か?」
ウィルフレッドが、頭を押さえる手とシエナの顔とを交互に見る。
「あ、えっと……」
返答にまごついていると、ウィルフレッドはシエナに何が起きたか分かったようだった。
しばし悩むように視線をさまよわせた後、彼はおもむろに自身の胸ポケットに飾りとして刺さっていた造花の青い花を手に取る。
「手を離して」
彼の言葉に従い、シエナがおそるおそる手を離すと、彼はほつれた毛をすくい取り、花の茎で器用にまとめ上げた。
「これで帰るまでは持つだろう」
「あ……、ありがとう、ございます」
戸惑ったまま彼の離れていく手を見上げると、ウィルフレッドの目とぱちりと合う。そして、何故か彼はシエナの瞳を覗き込むようにじっと見つめた。
「あ、あの……?」
シエナはロリーナのフリをするのもすっかり忘れ、彼からの視線に戸惑う。ウィルフレッドは、軽く口角をあげて首を横に振った。
「あ、いや。……君は青が似合うな、と思っただけだ」
「……そう、ですか?」
ウィルフレッドの視線が外れると、シエナにも冷静さが戻ってきて、首を傾げた。
ロリーナに似合うのは、どちらかというと「赤」だ。
もしや、正体がばれたのかと内心冷や汗をかくシエナだが、ウィルフレッドは顔を上げるとこう言った。
「そろそろ、帰ろうか。……ロリーナ」
「はい」
青が似合う、というのは「意外と」似合う、という意味だったのかもしれない。
シエナはほっとして彼の後をついていった。
しかし、ほっとしていられたのも束の間のことだった。
帰りの馬車に乗り込んだシエナは、ウィルフレッドから思わぬことを聞かされる。
「……ところで」
妙に緊張した面持ちで口を開く彼に、シエナは目を瞬かせる。
「なんですか?」
「その……、来週のことは、覚えているか? 来週……、州都まで、……そう、演劇を見に行こうと言っていただろう」
え!? と言いそうになる口を、シエナは慌てて噤む。
彼と約束したのは、おそらくロリーナだ。しかし、シエナはそんな話を聞いていない。父からもそんなことを聞いているような素振りはなかった。
それに何より、これまでウィルフレッドとロリーナが二人きりで、どこかに出かけたことなどあっただろうか。
彼らはシエナの知らぬ間に、そんなにも仲睦まじくなっていたのだと思うと、やるせない。
「えっと、そう……でしたね」
どうにか平静を保ちシエナは頷く。しかし、何故だかウィルフレッドは、なんとも言えない顔をして、黙り込んでしまった。
「あの、ウィル?」
わたし、何かまずい返答をしてしまったのかしら……。
シエナは固唾を飲んで、彼の動向を伺う。
しかし、彼が返答するより早く、馬車が止まった。ヴィオリア家の屋敷に着いたのだ。
「……着いたみたいだな」
ウィルフレッドも小さくそう呟き、そして何故かシエナの手を取った。
「来週、楽しみにしている」
彼はそのまま手に取ったシエナの指先にキスを落とす。彼はすぐに唇を離すが、ちらりと上目遣いに見上げられ、シエナの心臓が高鳴った。
「え、っとその……。はい、楽しみにしています」
ロリーナならば、もっと快活に笑って「ええ、楽しみにしてるわ」とでも言わなければならないところだったはず。
だがその時のシエナには、そう返すのが精一杯だった。
彼が手を離すと、馬車の扉が開いた。
「おやすみ、いい夢を」
そう言って微笑む彼に、ただ頷くことしかできなかった。