02
黒い海に一人佇む

「……今日もいいお天気」

 シエナは自室でぼんやりと、窓からの景色を眺めていた。

 まだ明け方近いこの時間。

 何故かいつもより何時間も早く目覚めてしまったシエナは、静かな朝のひとときを満喫していた。

 屋敷のすぐ傍に見える湖畔に、朝日がきらきらと反射して眩しい。開けた窓からは涼やかな風が入り、薄い金の髪を撫でていった

「あれから三年か……」

 ロリーナの婚約から今日で三年が経過する。長いようで短いような、そんな時間が過ぎていた。

 今も目を瞑れば、ロリーナの美しい真っ赤なドレスと、ウィルフレッドが渡した真っ白な花を、シエナは昨日のことのように思い出せる。

 早く吹っ切ってしまえればいいのに。

 何度そう思っても、失恋の傷は癒えてはいなかった。

 二人が結婚してしまえば、この想いにも終止符が打てるかしら……。

 そんなことを考えながらも、シエナは小さく溜息をつく。

 彼らはまだ、婚約者となっただけで結婚自体はしていない。ロリーナが成人する十八を迎えるのを待っていたためだ。

 だが、それも今年で終わりだった。

 今年の冬に迎える誕生日で、ロリーナは十八となる。

 あとたった数ヶ月先のことだ。

 それを過ぎれば、すぐに婚礼ということになるのだろう。

 下級貴族の結婚だから、それほど準備に時間はかからないはずだ。良い時期を選んで、となったとしても、遅くとも半年後――来年の春までには婚儀が執り行われるだろう。

 愛する姉が幸せになるのだから、嬉しくないわけではない。

 だが、その夫婦生活を間近で見るというのは、かなり辛いだろうと思えた。

 ヴィオリア家には男児がいない。女性の爵位継承がこの国では認められていないため、長子のロリーナが婿をとることが決まっている。その婿がエムロディア家の次男であるウィルフレッドだった。

 小さな町――村と言う方が近いかもしれない程度の領地を、隣同士で管轄するヴィオリア家とエムロディア家は、かねてから家族ぐるみの付き合いをしている。そのため、ロリーナ、ウィルフレッド、シエナの三人はいわゆる幼馴染という関係だ。

 正式に婚約したのこそ三年前だが、子供の頃からロリーナとウィルフレッドがいずれ結ばれるのだろうという空気には、シエナも気付いていた。

 不毛な恋。

 まさにそんな言葉が似合いの想いは、打ち消そうとすればするほど、膨らんでいった。

「どうして、わたしはあなたを愛してしまったのでしょう……」

 爽やかな朝の空気に似合わぬ、暗い溜息が漏れた。

 その時。

「お嬢様!!」

「っ、はい!?」

 驚いて振り返ると、部屋の扉が開け放たれ、そこには動揺を隠し切れぬ様子の侍女がいた。

「エリス……? いったい、何事ですか?」

 住み込みの使用人の中で一番年の若い彼女エリスだが、こんな風に取り乱した姿をシエナはこれまで見たことがない。

「あぁ、シエナお嬢様……。どうか、どうか落ち着いて聞いてくださいませ……」

 一体何なのだ、と急かしたいのを我慢して、シエナは頷いて続きを促す。

 エリスはごくりと生唾を飲み込み、ようやく口を開いた。

「ロリーナお嬢様が、いなくなりました」




 シエナは父ランドルフの書斎にいた。

 朝の静かな空気をぶち破る、ロリーナの失踪という報にヴィオリア家は一時は大混乱に陥った。ランドルフの指示のもと、総出で屋敷内を隈なく探したが、ロリーナは結局見つかることはなく、代わりに見つかったのは、書置きと思しき紙切れ一枚だ。彼女の部屋に置かれていたそれには、彼女の字で「自身の幸せのため、この地を離れます」とあった。

 それは、ロリーナ自身の足でこの屋敷を出たことを表している。

「――お前はどう思う」

 その書置きを見ながら、父ランドルフは唸るような低い声でシエナに問いかけた。シエナやロリーナのものとよく似た紫色の瞳は、俯いた顔で陰り陰鬱な色に見える。

「……誘拐犯に無理やり書かされた、という線は……薄いと思います」

「やはりそうか」

 ランドルフは深い溜息をついた。

「ひとまずは、領地をくまなく探す。……が、見つからなかった場合――、明日が問題だ」

 彼の言葉にシエナは首肯する。

 明日、この地を治める侯爵家主催の夜会が開かれるのだ。

 この国は王族も含めた上級貴族の七つの家門によって分割統治されている。それぞれの貴族たちは、さらに領地を細分化し、各々の家門に属する下級貴族に土地を任せている。

 その「家門に属する下級貴族」のうちの一つが、ヴィオリア家であり、エムロディア家。我々が属する家門を束ねる「上級貴族」が件の侯爵家である。

「体調不良、といって欠席するわけには参りませんか?」

「……今回の夜会は、ウィルフレッドをヴィオリア家の正式な跡取りとして披露目をする場でもある。そこに『ヴィオリアの娘』が欠席するのは難しいだろう」

 家門の交流会と称し、定期的に開催されている夜会だが、ロリーナの誕生日とを考えれば、婚礼までの期間では明日が最後の機会と思われた。

 そこにヴィオリア家の次期当主夫妻、として行ってこそ意味がある。仮に欠席するとなれば、外に出歩けないほどの重病とも取られかねなかった。

「ですが、もし見つからなければどうしようも……」

「――いや」

 ランドルフの鋭い視線がシエナを貫いた。

 びくっと震えて、一歩後ずさる。

 嫌な予感がした。

「まさか……」

 ランドルフはこくりと頷き、重々しく告げた。

「お前が、ロリーナとして夜会に出ればいいのだ」




 すっかり日も落ち、星空ばかりが目映い時間になった頃。

 シエナは一人、湖の波打ち際を歩いていた。

「……ロリーナ、どこへ行ったの?」

 足を止め、空を振り仰ぐ。

 日中いっぱいの必死の捜索も虚しく、彼女はついに発見できなかった。

 一人きり、というのは初めてな気がする。

 シエナの隣にはいつもロリーナがいて、たとえ離れていてもどこか繋がっているような、そんな不思議な縁を感じていた。

 だが、今は違う。寄る辺を無くしてしまったかのように、不安が込み上げた。

 屋敷の中にいてもそうだ。人々の動く気配は感じられるが、誰も彼もが不安な顔をして、ロリーナがいないことを、より深く感じさせられるような気にさせられた。

 周囲に誰もいないことを感じられる場所は、屋敷からほんの近い場所にある湖、ここしかない。

 秋のはじめを感じさせる夜風が、少し肌寒かったが、今はこのくらいの方がむしろ丁度良いような気がした。何も感じないような心地よい気候だったならば、きっといなくなった片割れのことばかり考えてしまっていただろう。

 とはいえ、いつまでもここにいるわけにはいかない。しばらくぼんやりと立ち竦んでいたシエナだが、そろそろ戻ろうかと考えはじめていた、そんな時。

「――シエナ?」

 ハッとして声の方を振り返ると、そこに人影がある。長身の体躯、短い金茶の髪が風に吹かれているのが、カンテラの明かりに照らされている。彼は――

「……ウィルフレッド様?」

 ロリーナの婚約者、そしてシエナの想い人である、ウィルフレッドその人だった。

「ああ……。シエナ、こんなところで何を?」

「えっと、夜風に当たりたくて。ウィルフレッド様こそ……」

「向こうから姿が見えたから――」

 彼は湖の対岸を指差す。

「一人のようだし、心配になって」

「そうでしたか……」

 湖の向こうは、エムロディア家の治める土地だ。ウィルフレッドが指差した方向には、彼とその親、それから兄夫妻が同居する屋敷もある。

 かなり遠くにあるはずの場所からよく見つけられたものだと感心しつつ、シエナの胸はちくりと痛む。きっと彼は、この場所にいるのがロリーナであることを期待して訪れたに違いない。はじめからシエナだとわかっていれば、来てはくれなかったのではないだろうか。

 それでも――、嬉しい。

 彼に一目でも会えたことが、シエナにはたまらなく嬉しかった。

「……でも、大丈夫ですよ。この辺りはヴィオリアの――貴族の屋敷がある、と誰も近付きませんから。それに、そろそろ戻ろうと思っていたところです」

「そうかもしれないが……。夜に一人で出歩くのは感心しない」

 眉根を寄せるウィルフレッドに、シエナはくすくすと笑う。

「そうですね、気を付けます」

 まだ納得していなさそうな彼に、シエナは微笑んだ。

「でも、ここってとても静かじゃないですか。波の音くらいしかなくて。今日は……一人になりたかったから」

「……何かあったのか?」

 ウィルフレッドは先程まで浮かべていた不満げな顔がすぐさま、心配げなものに変わる。

 たしかに、色々あった。

 だが、シエナは首を横に振る。

「いいえ、何も」

 ロリーナの失踪は、エムロディア家にも――ウィルフレッドにも伏せられることとなった。そろそろ結婚が決まると思われる今の時期だ。花嫁が逃げたかのようなことは言えないと、ランドルフが判断したからだ。

 シエナもそれに異論があるわけではない。

 だが――。

 明日からわたしは、ウィルフレッド様を騙さなければならない。

 その事実に胸が痛む。

 しかしそれでも、やり遂げるしかないのだ。愛する人がいなくなってしまったなどと、彼に悟らせてはいけない。ロリーナが見つかるまで、必ずやり遂げる。

 シエナは自分と彼を偽らなければならないという、悲しみを押し隠して笑った。

「それじゃあ、わたしはそろそろ戻りますね。おやすみなさい、ウィルフレッド様」

 次に「シエナ」として彼に会えるのは、一体いつになるのだろう。

 そんな不安も、見て見ぬ振りをした。

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