「――……」

 ニクスは真剣な眼差しで海とキャンバスとを見つめるツェントの横顔を見ていた。

 音をたてるのも憚られるような、神聖とも言える空気を感じる。

 聞こえるのは絵筆が滑る音と、潮騒だけ。

 ニクスは目を閉じて、その音色に耳を傾ける。

 心地のよい静寂からしばし。ふと視線を感じて目を開ければ、ツェントがこちらを見ていた。

「……なに?」

「いや……、きれいだと思って」

 飾り気のないその言葉にニクスは瞠目する。

「…………『海』が?」

 照れを隠すように空とぼけて聞き返した。

「その……、」

 ツェントはまごついたように視線を彷徨わせて、しばし黙る。だが、意を決したように顔を上げた。

「――ニクス、海に行かないか」

「海に?」

 ツェントは立ち上がると、テラスから直接浜へと通じる階段の方へと歩いていく。そこに一段足を下ろすと振り返って言った。

「ずっと海と君を描きたいと思っていたんだ」

 差し出される手。

 ニクスはゆっくりと立ち上がって、その手に己の手を重ねた。




 ニクスは靴を脱いで波打ち際に足をひたす。

 少し冷たいその水にほんの少し肩を竦ませながら、水平線の向こうを見つめた。

 ちらりと後ろを振り返れば、砂浜にツェントが腰を下ろしてスケッチブックに鉛筆を走らせている。

 視線を感じたのか彼が顔を上げ――視線が絡むと、優しい笑みが返されて、ニクスは思わず視線を外した。

 しまったと思い直して彼の様子をちらりと確認すれば、とくに気にした様子もなく手を動かしている。

 よかったような、少し物足りないような。

 そんな気持ちになりながら、ニクスは空を仰ぐ。

 夕暮れに差し掛かりはじめた空は、薄い青と赤のグラデーションが広がっていた。

 そういえば彼と初めて会った時の色に似ているな、と思い返す。

「ニクス」

 ぼんやりしていると、ツェントが近付いてくる足音が聞こえた。

「……描き終わったのか?」

「ひとまずは」

「ふーん……。……見ていい?」

 ニクスは海から上がって、頷きを返すツェントからスケッチブックを受け取る。

「――っ」

 そこには波打ち際にいるニクスの後ろ姿が、ラフなタッチでいくつも描かれていた。

 波に足を浸した姿や、水を軽く蹴り上げた瞬間。それから、ふと振り返った時の――

「……あんたの目には、こんな風に見えてるのか」

 どこか呆然とした気持ちで呟く。

 紙面上にいるニクスは、グッと胸を掴まれるような侵しがたいほどに神聖な、けれどどこか色を感じる、そんな姿をしていた。

 ツェントがこちらに手を伸ばして、頬にかかっていたニクスの髪を耳にかける。

「言っただろう、『きれいだ』って」

「――僕は、」

 彼が一歩距離を詰めた。どんどん影が近付いて、ニクスは思わず目を閉じそうになる。だが、

「……そんな人間じゃない」

 間近まで迫った唇がピタリと止まった。吐息を感じるほどの距離で視線が絡む。

 このまま、何も言いたくはなかった。このまま、彼の気持ちを、行動を、受け入れてしまいたい。

 けれど過去の過ちが、胸を締め付けてそれを許さないのだ。

 ツェントのまっすぐな感情を、受け入れるにはあまりにも、自分は――。

「僕は、あんたみたいに真っ直ぐじゃない」

 一心にキャンバスへ向かう背中を何度も見た。繊細に動く指先、一点を見つめる視線、それらはあまりに眩しかった。

「『きれい』なのは、あんたの方だよ……」

 どれほどに悔い改めても、自分が己の欲のために人を陥れようとした過去は消えない。

 このまっすぐな男に、自分は相応しくない。

 そんなことはもう、ずっとはじめに分かっていた。

 ニクスはツェントの胸を押す。

「だから、それ以上は――」

 言わないで。

 その祈りのような願いは、言葉になりきらなかった。

「いやだ」

 そう囁いたツェントは、ニクスの顎をやわい力で、しかし素早く掴む。

 そして気が付いた時には、唇が重なっていた。

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