3章過去の記憶と

 エリーゼがいるという部屋にネリーは向かう。

 すると中に入るまでもなく、女の厳しい叱責の声が聞こえた。それに気圧されながら、おそるおそる扉を開く。

「どうして、この程度の事も出来ないの!?」

 金切り声を上げているのはエリーゼではない。侍女であるはずのラナが主人の代弁者であるかのように激昂している。

 彼らの前には、散乱した茶器の破片。飛び散った飴色の液体は、白っぽいエリーゼの服も同じ色に点々と染めていた。火傷をするような量ではないことに、ネリーは少しほっとしつつ、どうするべきかと行動を迷う。

 しかしラナの興奮具合と対照的に、当事者であるはずのエリーゼは、場の混乱が見えていないかのように平然と本を読んでいた。

 その傍らには、跪くように床へと崩れ落ちた公爵邸の侍女がいる。若く、比較的経験の浅い娘だった。

「も、申し訳ございません……」

 茶を運んできたらしい彼女は、怒鳴りつけられて可哀想なほどに怯えている。

 その姿と、自身の過去の姿とが一瞬だけ重なって見えた。

 彼女の感じているだろう恐怖を思う。そうなると最早、ネリーは黙っていることなど出来なくなって口を挟んでいた。

「何をしているんですか」

「あら、お嬢様。見てお分かりになりませんか。この出来損ないに、『教育』をしているんです」

「彼女は、貴女にここまで言われねばならないことをしたのですか?」

「エリーゼ様のお服を汚したのですもの」

「あの、私は……!」

 床にいた侍女が、思わずといった雰囲気で声を上げるが、その声にもラナは眉をひそめた。鋭い視線を向けられ、上げた声は続けられなかったらしく、彼女は黙ってしまう。

「口ごたえ出来る立場なの? 身の程が分かっていないようね」

 怯えきった彼女に嗜虐的な笑みを浮かべたラナは、ネリーに一瞬視線をはしらせた後、腕を振りかぶった。

「――!」

 あ、と思った時には足を踏み出していた。

 そして、パンッと乾いた音がする。

「…………っ」

 ネリーは左頬を押さえて、床に手をついた。

「奥様!」

 後ろから悲鳴のような声が聞こえ、痛みで飛びかけた意識が戻ってくる。

 振り上げられた手を見た時、ネリーは考える間もなく足を踏み出していた。そして、床に座り込む侍女の前に割って入り、次の瞬間には頬に平手打ちを受けた。

「あらあら、ご立派ですこと」

 平然としているラナを見て、ネリーの行動も予測した上での行動だったと気付く。

 彼女はどのような手を使ってでも、ネリーを貶めたいらしい。

「でも、身の程を思い出された、と思って良いのかしら」

 いつかに母の衣装を汚してしまった際、ネリーはその報いとして父から頬を張られた。彼女がその時のことをあてこすっているのだと気付く。

 あの日の惨めさ、恐怖を思い出してゾッと身を震わせた。ラナは震えるネリーを見て、笑みを深める。

「それならばお嬢様? そこの侍女の代わりに、これを処理してくださいます?」

 クスクスと侍女三人の嘲笑が響く。

 ネリーは頬の痛みと、過去の出来事を思い出さされた衝撃で、思考が纏まらなくなりはじめていた。今と昔とが曖昧になり、今目の前に立っているのが誰なのかすら、分からなくなる。

「さあ」

 駄目押しのような声は、記憶の中の父の声と重なった。

 ネリーは床に両手をつき、視線を下げる。

「かしこ、まり――」

「ラナ」

 静かにネリーの言葉を遮ったのは、それまでこちらに一切の関心を向けていなかったはずのエリーゼだった。

 ラナの視線が外れ、ネリーは息をはく。少しだけ、身体の感覚が戻ってきた。

「はい、エリーゼ様」

 しかし依然としてエリーゼは、目の前の情景が何も目に入ってもいないかのように、手元の本に集中している。

「お前、少しうるさくてよ。いつまで、つまらぬ者の相手をしているのです?」

「も、申し訳ございません……」

 ラナが頭を下げている間も、エリーゼは本のページから目を離さない。

「もう、後ろの二人と王都へお帰りなさいな」

「――え?」

 何でもないことのように発せられた言葉に、その場の誰もが反応出来なかった。あまりに急な命令に、三人はひときわ呆然としている。

「……な、なぜですか」

「お前たちがいると、やかましくて仕方がないからですわ」

 思わぬ展開にネリーは呆然とエリーゼを見上げる。それに気付いた彼女は、ニヤリと笑った。

「あら、御姉様。感謝してくださってもよろしいのよ? 彼らがいなくなって、一番嬉しいのは、御姉様……。そうでしょう?」

「それは……」

 否定できずに黙り込む。エリーゼは返答に窮するネリーを見て、おかしそうに笑った。

「もしかして、わたくしのお目付け役がいなくなることを、心配なさっておいでかしら? ――それなら、無用な心配でしてよ。もう少しすれば、きっと来ますもの」

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