3章過去の記憶と
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ネリーは、ペンを持っていた手を止めた。
いや、止まってしまった、と言う方が正しいかもしれない。中途半端な所で止まったペン先からインクが伝い、黒い染みをつくる。だがネリーは、暫くそのことに気が付かなかった。
「あ……」
ネリーは溜息をつき、ペンを置く。駄目になった便箋も横へとおいやり、両手で顔を覆った。
「『大きな問題はなく』――、なんて、嘘ばっかり……」
エリーゼが来て以来、ネリーの心はどんどんと暗く沈んでいた。ラナたち侍女の横暴さに気持ちは過去に戻っていって、彼らの行動を許してしまう。そればかりか、言いなりになっている姿に屋敷の者は困惑し、憤りを感じはじめているようだった。
そして中には、そんな「女主人」に不満を持つ者も当然存在する。そのことはネリー自身も重々承知していたが、何も良い方策はないまま時だけが過ぎていた。
そんな折に届いたロアンの手紙は、こちらの状況を知っているのかと思うような助言が書かれた内容で、少しドキリとさせられる。
だが、遠い地にいる彼が知るはずもない。
それならば、こちらから無用な心配をかけるわけにはいかなかった。
エリーゼの来訪は伝えない。
それが、ネリーの下した判断だ。
しかし、そう決めてはみても、ペンをはしらせるごとに決意は鈍っていく。
今感じている苦しさを吐露してしまいたかった。
きっとロアンならば受け入れてくれるだろうと思う。それゆえに、なおさら全てを言いたい思いは強くなっていた。
それに加え、エリーゼがもし本当にロアンの想い人であったのならば、彼のためにも告げるべきではないのか、という気持ちもよぎる。想う人が待っていると聞いたならば、士気も上がるのではないだろうかと。
だが同時に、少なくとも今は彼の妻である自分は、彼女との関係を問い質しても良いのではないかと思うこともあった。しかしすぐに、所詮は政略結婚なのだから、聞く資格はないだろうと考えなおす。
そんな色々な思いが次々浮かんでは、頭の中でぐるぐると周り、それがネリーを混乱させていた。
今も自室に閉じ籠ってラナ達を避けるだけの自分は、彼の妻に相応しくないのではないか。そんな気持ちで一杯になっている。
戻ってきて、と書きそうになる手を何度も止めて、駄目にしてしまった紙は、もう何枚になるか。
それでも、弱音をはくことなど出来ない。
ネリーは彼を支えられるようになりたかった。なら、弱い姿を見せるわけにはいかない。
「……ロアン」
彼の名を呼ぶ声は、驚くほど弱々しかった。
その時、遠くからガシャンと何かが割れる音が聞こえたような気がした。
「……何?」
怪訝に思ったネリーは、使えなくなった紙をくず籠に入れ、そろりと廊下に出る。近くを通った侍女をつかまえて事情を訊ねた。
「何かあったのですか?」
「あ、奥様……。エリーゼ様の――」
ネリーはその名前を聞くだけで陰鬱な気分になる。しかし、放っておくことも出来なかった。