3章過去の記憶と
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「は……?」
一瞬、何を言われているのか、よく分からなかった。
ネリーはぽかんと口を開けて問い返すと、エリーゼはまた小馬鹿にするように鼻で笑う。
「あらいやだ。聞こえなかったの? 暫く滞在するわ、と言ったのよ。」
「そうではなく。何故、と聞いているのです」
「あら、御姉様には関係なくてよ」
関係ないわけがないでしょう、と思わず声を荒らげそうになり、それをぐっと飲みこんだ。努めて冷静に口を開く。
「関係なら、あります。今ここをお預かりしているのは、わたしですから」
そう言うと、エリーゼはさも今気付いたかのように目を見開いた。
「あら、そうだったわね。わたくしったら。今はまだ、御姉様が『公爵夫人』ですものね」
ネリーは、「まだ」という言い回しに引っ掛かりを覚え、眉根を寄せる。
「……どういうことです」
「ふふ。実はわたくし先日、王都で…公爵様をお見かけしたの」
先日――、おそらくは国王に召喚された彼が、ノールヴィリニアを離れていた間のことだろう。
急に何の話だろうと思ったネリーだが、ひとまずは大人しく聞いてみることにした。
エリーゼは夢見がちに続ける。
「目と目があったわ……。とても素敵な方だった。だから――」
エリーゼは、もったいぶるようにそこて言葉を切って、ちらりとネリーを見た。そして、十分に間を置いてから続ける。
「恋に落ちてしまったの。……一瞬で。わたくしも、きっと……あの方も」
ネリーは言葉に詰まり、息をのんだ。
「……何が、言いたいのですか」
いや本当は、そう訊きながらも、彼女が何を言いたいのかは分かっていた。
「もう一度公爵様……、いえ『ロアン』に会いたいの。ねぇ、分かるでしょう?」
彼女は、ネリーに成り代わって「公爵夫人」になりたいのだ。
ネリーは俯いて黙り込む。
にわかには信じがたい話だ。
目が合っただけで恋に落ちる? そんなことがあるのだろうか。
だが、もし本当だったら?
ロアンが、エリーゼを妻にしたいと望んでいたとしたら……?
「わた、し…は……」
それきり言葉が出ない。
ロアンと婚姻を結んだのがネリーである限り、現状、自身が「公爵夫人」であることは揺るぎない事実だ。彼からノールヴィリニアを預かる者としては、到底出ていくことなどできない。
だが、もしロアンが本当にエリーゼを見初めたのなら。
いずれ彼が戻ってきた時、自分がここに居続けるのは、迷惑になるのではないだろうか。
どうしたらいいのか分からない。
俯いたままのネリーを見ていたエリーゼは、ふふと笑うと訳知り顔で頷いた。
「いいのよ、御姉様。この地位が惜しいのでしょう?」
――違う!
地位なんかどうでもよかった。望んでいるのは、そんなことではなく……。
しかし、その気持ちをネリーは上手く言葉にすることが出来ない。唇は震えるばかりで、何の言葉も紡げなかった。
エリーゼは反論できないネリーをどう思ったのか、慈愛にあふれた笑顔を浮かべる。
「大丈夫ですわ、御姉様。わたくしは優しいもの。彼が戻るまでは、御姉様が『公爵夫人』。――ああ、その後だって心配しなくていいですわよ。お金も地位もある再婚相手を紹介してさしあげますもの」
自信満々に微笑むエリーゼを、ネリーはただ見ているしかなかった。