2章貴女への誓い
7
「……ん」
身体を包んでいた温もりが離れていく。
それが少し寂しくて、ネリーはその「何か」が離れていかないように手を伸ばした。
「……ネリー」
優しく自身を呼ぶ声。
「家族」の冷たい声と、全く違う。少し低くて、耳心地のいい――
「ろあん……?」
「起こしたか」
舌足らずに呼ぶと、返答があった。
暫くぼんやりしていたネリーだが、次第に頭にかかった靄が晴れると、はっと目を開いた。
「――えっ!?」
がばりと身を起こすと、眼前にロアンの驚いた顔がある。周囲を見渡すと、知らない間に寝室へと運ばれていたらしく、ネリーはベッドの上にいた。
窓の外に目を向ければ、知らぬ間に空も暗くなりつつあった。
「寝ていても構わないぞ?」
「……わたし、寝て……ました、か?」
直前の記憶を辿る。
そう、花瓶を落とした。彼に怒られると思っていたら、抱き上げられて……?
ネリーの記憶はそこで途切れている。
腕の暖かさに安心して、それから――。
「あの、わたしは……どれくらい……」
「――そう長い間じゃない。連れてきて寝かせようとしたら、起きてしまったから」
「そう、ですか……」
赤くなった頬を見られないよう、少し俯く。
抱き上げられた末に寝てしまうなんて、なんて恥ずかしい真似をと思い、ネリーはそれ以上言葉を続けることが出来なかった。
「ネリー」
どうして、彼に名を呼ばれると、こんなにも胸があたたかくなるんだろう。
ネリーには、とても不思議だった。
「どこか切ったりはしていないか?」
「え……?」
暫し考えて、割れた花瓶を思い出す。サッと血の気が引いた。
「も、申し訳ございません……。不注意で、花瓶を割ってしまい……」
出来うるかぎり頭を深く下げる。
以前は皿の一枚を割っただけでも手酷く叱られたものだった。あんな高価な花瓶を駄目にしてしまったのだから、さすがの彼も怒っているのではないだろうか。
どうすれば許してもらえるだろう。彼の呆れた溜息はもう聞きたくない。
だが、ロアンの口から飛び出したのは、叱責ではなかった。
「ネリー、そんな事はどうでもいい」
「え……」
「あんな物の替えなど、いくらでもある。気に病むことはない」
彼の言葉に驚き、ネリーはゆっくりと顔をあげた。
この方は、あの人達と違う。
そんな当然といえば当然のことを、今更ながら実感した。
「さあ、疲れているのだろう? 休みなさい」
ロアンはそっとネリーの肩を押し、ベッドへ寝かせる。掛布をふわりとかけると、もう彼は部屋から出ていこうとしていた。
「あ……」
ロアンが行ってしまう。
そう思うと、ネリーは無意識に手を伸ばしていた。
しかしその指先は、彼の服裾を掠めるだけで終わる。掴むにはネリーの動きは緩慢過ぎた。
彼はきっと気付かないで、そのまま行ってしまうのだろう。
そう思うと、どこか寂しくて目を伏せる。
「――どうした?」
返答に驚いて視線を上げると、彼は立ち止まってこちらを見ていた。
どうして、気付いてほしい時に必ず、彼は気付いてくれるのだろう。
先程まで感じていた寂しさが、とけて消えていく。
とてもうれしかった。
「あ、あの……」
だが何故、彼を引き留めたかったのか分からず、ネリーは言葉を探す。
何を言いたかったのだろう。
「ありがとう」それとも「ごめんなさい」だろうか。どちらも当たっているようで、違うような気がした。
「…………、」
ネリー? とロアンが不思議そうに首を傾げる。
「……、いえ。あの、ロアン」
意を決して、ネリーは彼を見上げる。
「次に、お出かけになる時は、お見送りをさせて下さい」
迷った末にそう言うと、ロアンは一瞬驚いた顔をしてから、微笑んで頷いた。
彼はネリーの傍に戻ってくると、もう寝なさいと、親が子にするような優しい手付きで頭を撫でる。
そのあたたかい感触に安心して、ネリーは素直に目を閉じた。