2章貴女への誓い

「……ん」

 身体を包んでいた温もりが離れていく。

 それが少し寂しくて、ネリーはその「何か」が離れていかないように手を伸ばした。

「……ネリー」

 優しく自身を呼ぶ声。

「家族」の冷たい声と、全く違う。少し低くて、耳心地のいい――

「ろあん……?」

「起こしたか」

 舌足らずに呼ぶと、返答があった。

 暫くぼんやりしていたネリーだが、次第に頭にかかった靄が晴れると、はっと目を開いた。

「――えっ!?」

 がばりと身を起こすと、眼前にロアンの驚いた顔がある。周囲を見渡すと、知らない間に寝室へと運ばれていたらしく、ネリーはベッドの上にいた。

 窓の外に目を向ければ、知らぬ間に空も暗くなりつつあった。

「寝ていても構わないぞ?」

「……わたし、寝て……ました、か?」

 直前の記憶を辿る。

 そう、花瓶を落とした。彼に怒られると思っていたら、抱き上げられて……?

 ネリーの記憶はそこで途切れている。

 腕の暖かさに安心して、それから――。

「あの、わたしは……どれくらい……」

「――そう長い間じゃない。連れてきて寝かせようとしたら、起きてしまったから」

「そう、ですか……」

 赤くなった頬を見られないよう、少し俯く。

 抱き上げられた末に寝てしまうなんて、なんて恥ずかしい真似をと思い、ネリーはそれ以上言葉を続けることが出来なかった。

「ネリー」

 どうして、彼に名を呼ばれると、こんなにも胸があたたかくなるんだろう。

 ネリーには、とても不思議だった。

「どこか切ったりはしていないか?」

「え……?」

 暫し考えて、割れた花瓶を思い出す。サッと血の気が引いた。

「も、申し訳ございません……。不注意で、花瓶を割ってしまい……」

 出来うるかぎり頭を深く下げる。

 以前は皿の一枚を割っただけでも手酷く叱られたものだった。あんな高価な花瓶を駄目にしてしまったのだから、さすがの彼も怒っているのではないだろうか。

 どうすれば許してもらえるだろう。彼の呆れた溜息はもう聞きたくない。

 だが、ロアンの口から飛び出したのは、叱責ではなかった。

「ネリー、そんな事はどうでもいい」

「え……」

「あんな物の替えなど、いくらでもある。気に病むことはない」

 彼の言葉に驚き、ネリーはゆっくりと顔をあげた。

 この方は、あの人達と違う。

 そんな当然といえば当然のことを、今更ながら実感した。

「さあ、疲れているのだろう? 休みなさい」

 ロアンはそっとネリーの肩を押し、ベッドへ寝かせる。掛布をふわりとかけると、もう彼は部屋から出ていこうとしていた。

「あ……」

 ロアンが行ってしまう。

 そう思うと、ネリーは無意識に手を伸ばしていた。

 しかしその指先は、彼の服裾を掠めるだけで終わる。掴むにはネリーの動きは緩慢過ぎた。

 彼はきっと気付かないで、そのまま行ってしまうのだろう。

 そう思うと、どこか寂しくて目を伏せる。

「――どうした?」

 返答に驚いて視線を上げると、彼は立ち止まってこちらを見ていた。

 どうして、気付いてほしい時に必ず、彼は気付いてくれるのだろう。

 先程まで感じていた寂しさが、とけて消えていく。

 とてもうれしかった。

「あ、あの……」

 だが何故、彼を引き留めたかったのか分からず、ネリーは言葉を探す。

 何を言いたかったのだろう。

「ありがとう」それとも「ごめんなさい」だろうか。どちらも当たっているようで、違うような気がした。

「…………、」

 ネリー? とロアンが不思議そうに首を傾げる。

「……、いえ。あの、ロアン」

 意を決して、ネリーは彼を見上げる。

「次に、お出かけになる時は、お見送りをさせて下さい」

 迷った末にそう言うと、ロアンは一瞬驚いた顔をしてから、微笑んで頷いた。

 彼はネリーの傍に戻ってくると、もう寝なさいと、親が子にするような優しい手付きで頭を撫でる。

 そのあたたかい感触に安心して、ネリーは素直に目を閉じた。

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