2章貴女への誓い

 あの夕食の日から数日。

 ネリーは物陰からそろりとロアンの様子を窺っていた。

 廊下の隅にある、壺や皿などの装飾品が置かれた台の影に身を潜め、じっとする。頭上には、繊細な細工の施された花瓶があった。

 遠征へと出ることになった彼は、日々忙しげに動き回っている。

 そんなロアンを陰から見つめていた。

 自分自身でも、何をしているのだろうと思わないでもない。ネリー自身、勉強しなければならないことは多く、決して暇ではなかった。

 しかしその「暇ではない」状態も、ロアンの忙しさほどではないだろう。それほどに、彼は多忙だった。

 ロアンがしなければならないのは出発の準備、だけではない。ノールヴィリニアの領主として、不在時の采配もしている。

 少しでも、わたしがお手伝い出来れば……。

 もっと、何でもそつなくこなせる人間だったら、と思えてならない。せめて、領地に関する心配事くらいは、肩代わりしたかった。

 しかし現状のネリーでは、到底力量が及ばず、無力感に唇を噛み締める。

 何か出来ることはないか。そう思って様子を窺う日々だが、何か行動をしなければ、と焦っているだけなのかもしれなかった。

 だが、それで彼の邪魔をしてしまっては、意味がない。

 せめて、お邪魔だけはしないようにしないと。

 時刻は夕刻を迎え、ネリーにはもう予定はない。だが、ロアンはそうではないはず。彼が夜遅くまで何かをしているのは知っていた。

 ここにいても仕方がないと思い直したネリーは、立ち上がって身を翻す。

 しかし、その拍子に置いてあった花瓶に肘が当たった。

「あっ――」

 くらりと揺れたそれに、ネリーは手を伸ばす。

 だが一歩届かず、その花瓶は床へと落下していった。

「――っ!」

 ガシャンと大きな音を立てて破片が散らばる。

 その音に、当然ロアンも振り向き、目が合ってしまった。

「あ……」

 ネリーはふらりと一歩後退り、ペタンと床に座り込んでしまう。足の力が抜けて、もう一度立ち上がることは出来そうもなかった。

 目を見開いたロアンが、小走りで近寄ってくる。

 ネリーはぎゅっと自分を抱きしめ、身を小さくした。

「も、もうしわけ……、ございません……!」

 役に立たないばかりか、迷惑をかけてしまう。自分の役立たずさを、ただただ露見させることしか出来ない。

 彼の目が、今度こそ失望に染まってしまう。

 そう思うと、怖くて、仕方がなかった。

 俯いて固く目を瞑る。

 きっといつものように罵声を浴びせられて――。

 しかし、次にネリーが感じたのは、罵りでも痛みでもなかった。

 ひやりとした指が、柔らかく頬に触れる。

「――っ」

 驚きに息を飲み顔を上げると、膝をつき心配げな顔をしたロアンがいた。

「どうした?」

「あ……」

 そうだ、この方は「父」ではない。無闇に憤りをぶつけてくるような人では、ない。

 そのことを思い出し、少しだけ冷静さを取り戻す。

「えと――」

 それでもネリーは口籠って俯いた。

 犯した罪は変わらない。彼に失望されるのは、酷く怖ろしかった。

「……はぁ」

 彼の嘆息に身体が震える。

 しかし、背中に彼の手が触れ――

「きゃ……」

 浮遊感を感じたのは一瞬で、気が付くとネリーはロアンに、片手で抱え上げられていた。

 意味が分からず、ロアンの顔と周囲を交互に見る。

「あ、の……」

 おそるおそる声をかけると、彼と目が合った。

「……顔色は悪くないな」

「え……?」

 ロアンはネリーの顔をしげしげと観察した後そう呟き、その様子を呆然と見守っていた周囲に視線を向けた。

「誰か、これを片付けておくように。私は少し、ここを離れる」

 ネリーを抱いたままそう言うと、彼らに背を向け歩きだす。

「あ、あの――、ロ、ロアン……」

 どこへ行くつもりかと呼ぶと、彼は少し足を止め、ネリーと視線を合わせた。

「しっかり掴まっていなさい、ネリー」

「は……はい……」

 ゆっくりと腕を彼の首に回すと、ロアンも再び歩きはじめる。

 やっぱり、この方に名前を呼ばれると、とても落ち着く――。

 ネリーはロアンの腕に身を預けながら、目を閉じた。

 ついさっきまで、あんなにも不安だったのに。

 誰かの腕に抱かれ、こんなにも安心したのは一体いつ振りだろうか。

 ネリーはやわらかな温もりに包まれ、身体の力がすぅと抜けていくのを感じた。

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