2章貴女への誓い

 ネリーが夫について知っていることは、とても少ない。

 ロアン・ファヴル――ノールヴィリニア公爵である彼は、人々から恐れられながらも、国の守護者として一種の敬意が払われている。先王の第二王子として生まれたにもかかわらず、政治の表舞台には決して出ようとせず、兄の即位後すぐに公爵位を賜り臣籍に(くだ)った。それ以後は、戦の才を発揮し、国王に従順な臣であり続けている。

 王命以外で殆ど北の地を出ることのないロアンについて、ネリーが事前に知っていたのは、この程度の表面的な噂話だけだった。

 あとは、残虐非道な悪魔は頭に角が生えている、血を啜って生きている――、などといった信憑性の低い話ばかりである。

 少なくとも、頭に角は生えていなかった。

 ロアンが手紙を残して王都へと向かってから幾日か経ち、ネリーも少しづつではあるが、この地での暮らしに慣れはじめていた。

 ノールヴィリニアの公爵夫人として必要な教養を、と学ぶことになった様々な事柄は、難しくもあるが思う以上に楽しいものだった。

 それまでのネリーは、外を出歩いた時に恥をかかない――家の顔に泥を塗らない、程度の最低限の知識しか与えられておらず、ロアンの支えとなるには不十分だった。しかし、その不出来さを誰もそれを責めようとはしなかったことが、ネリーの心を軽くさせていた。

「あ……」

 ネリーはふと窓の外を見る。読んでいた本のページをめくる手が止まった。

 今日は自室で、ノールヴィリニアの言い伝えを纏めた書物を読んでいた。この地には、国が興るずっと昔から、人々が暮らしていたとされている。しかし彼らが文字を持ちえなかった時代は長く、その間の歴史、風習、文化の多くが口伝継承されていた。今ネリーが目を通しているのも、それらを纏めたものの一冊だ。

 一年の大半を雪に閉ざされるノールヴィリニア。伝承の数々も冬や雪にまつわることが多い。

 窓越しには、灰色の雪雲が見えた。

「まだ、雪が……」

 そして、ちらちらと舞う白い雪も。

 王都では、気温も上がり花が咲き乱れる頃合いだ。少しずつ夏へと向かっていく季節。どんどん暖かくなっていく頃で、雪など降るはずもない。

 だが、長い冬をまだ脱しきれていないノールヴィリニアでは、いまだにほんの時折、こうして雪が舞う。

 それまで暮らしていた場所とのあまりの違いに、ネリーは毎日驚かされているような気がした。

 だが、地面を見れば確かに芽吹きはじめた遅い春の気配を感じる。その中で幻想のように漂う雪は美しく、ネリーはすぐにその景色が好きになった。

 白い雪の粒は、みぞれのような雨まじりの重いものではなく、綿のようにふわりと漂っている。それを見ていると、どことなく気分が浮き立ち、外へ出てみたくなった。

 防寒具を取りに行くほどでもないと思ったネリーは、本に栞を挟むと立ち上がる。

 心の向くままに行動しようという気持ちになったのは、随分久し振りのことのような気がした。

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