1章北の地へ
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次第に雪深くなる山々を越え、ネリーはノールヴィリニアの領主邸に辿り着いた。
遠くから見た際も、とても巨大に見えた、城と言って差し支えなさそうな屋敷は、近くから見るとより一層圧倒される。
馬車が速度を緩めはじめると、ネリーは窓辺から顔を離し、背筋を伸ばして姿勢を正す。
そうしている間にも速度は更に減少し、やがて静かに停まった。
外から扉が開かれると、スッと手を差し出される。その手に、ネリーは戸惑いながら自身のそれを重ねた。
御者の手でも、従者の手でもない。手の皮は厚かったが、家事仕事で荒れた手とはまた違う、力強い手だった。
少し前までの、荒れた手のままだったならば、触れることも躊躇ったに違いない。
一体、誰だろう。
腕を視線で伝い、顔を上げる。
「……!」
その先にいた男と目が合った。だが、思わずぱっと視線を逸らしてしまった。
この方だわ――。
手に、緊張で少し力がこもる。
ネリーは馬車から足を踏み出し、もう一度、今度は目だけで男に視線を向けた。
少し長めの黒い髪に、黒い瞳の美丈夫がそこにいる。周囲に立ち並ぶ人々の雰囲気も、ネリーの勘が正しかったことを告げていた。
この方が、ノールヴィリニア公爵……。
ネリーの夫君となる男だった。
地面に降りると、そっと男の手を離す。一歩距離をとって背筋を伸ばし、スカートを摘まみ上げると深く腰を落とした。
いくら「北の悪魔」と呼ばれる人物といえど、すぐには切り捨てられたりはしないだろう。それでも、不興は買わないに越したことはない。ネリーは精一杯、丁寧な振る舞いを心掛けた。
「お初お目にかかります、公爵様。ネリー・ルフューにございます」
どうぞネリーとお呼びください、と言って、そのままの体勢で彼の返答をじっと待った。
「……顔を上げてくれ」
少し困ったような声に、おそるおそる彼の言葉に従う。表情を見るに、怒ったわけではないようだった。
彼は一瞬だけ微苦笑をして、ネリーが先ほど離した手をとる。それから、貴婦人にするように、彼はその指先に口付けた。
思わぬ行動に、つい手を引っ込めそうになり、どうにか耐える。
「あ、あの……」
貴族の令嬢としてまっとうに生きていたならば、この程度で慌てなかったのかもしれない。だが、ネリーは大混乱している内心を押し隠すことで、いっぱいいっぱいになっていた。顔も熱いような気がする。
それに気付いているのかいないのか、彼は平然としたままだった。
「そんなに畏まる必要はない。何かの縁で共になるのだから」
ネリーはぽかんと彼を見上げる。それに気付いた彼は、ふと微笑した。
「ようこそ、北の辺境へ。貴女を心から歓迎する。ネリー」
先ほどの苦笑交じりの微笑みとは全く違う。
美しい。そんな言葉が似合う微笑だった。