1章北の地へ
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北の領地は、少し寒すぎることを除けば、とても暮らしやすい場所だった。
はじめて貴族らしい扱いを受け、人にかしずかれる生活。
それはネリーを戸惑わせたものの、周囲の人々の視線はとてもあたたかだった。夫となる公爵が、自身を妻として尊重してくれているからだと、彼らの視線で理解する。
長旅の疲れはまだ残っているような気がしたが、ノールヴィリニアに到着した三日後、婚礼が執り行われていた。
公爵はこの結婚をあまり公にしたくない様子で、参列者はこの屋敷に勤める者たちだけ、という貴族らしからぬ質素さだ。しかしネリーにとっても、大勢の前で晒し者になるよりは都合が良く、何より父母を呼ばなくて済んだのが幸いだった。
「奥様」
式場には公爵が待っている。そこに入る扉の前で、ネリーは執事のレイブスに声をかけられた。ルフュー家の家令より幾分年嵩の彼は、随分穏やかな性分らしく、常に柔和な微笑みを浮かべている。
そんな彼がここに現れたのは、これからネリーを新郎の元まで連れていくためだった。
これは本来なら、父親が行う役割だ。だが、あの父親と歩かねばならなかったかもしれないと考えると、ネリーは心底ゾッとする。
レイブスは、私が相手で申し訳ないという趣旨の言葉を幾度か口にしていたが、彼が父親役を引き受けてくれて、本当に良かったと感謝すらしていた。
「よろしくお願いします、レイブス」
優しげに目を細める彼は、皺のある手でネリーの手を取ると、ぴんと背筋を伸ばした歳を感じさせぬ立ち姿を見せる。
重い扉がゆっくりと開いた。
薄いベール越しに、花婿の姿が見える。
「行きましょう」
レイブスの声に押されるように、ネリーは一歩足を踏み出した。
長いベールが揺れ、身体を包む真っ白なドレスにさらさらと衣擦れを起こす。
一歩、一歩と、これから自身の夫となる人の元へと近付く。
彼はネリーと対になるような、黒い礼服を着ていた。
「……っ」
彼の視線が向けられ、薄絹越しに目が合う。
なんて、美しい方なんだろう……。
平凡な自分が横に並ぶことを、少しだけ申し訳なく思った。
ぼんやりと彼を見ていると、そっと手に力を込められる。はっとして隣を見ると、レイブスが小さく頷いた。
公爵の方を見ると、手が差し出されている。
レイブスの手が離れると、ネリーはそろりと公爵の方へ手を伸ばした。それをすかさず取った公爵に導かれるように、彼へと歩み寄る。
あとは、宣誓の言葉を告げ、署名をするだけ。しかしその瞬間のことを、ネリーは緊張で殆ど何も覚えていられなかった。
しかし、鮮明な記憶として残っていることが二つだけある。
それは、ベールが取り払われた後に見た、どこまでも続く闇夜のように美しい瞳の色。
それから、触れた彼の唇がとても優しかったこと。
ただ、それだけ。