1章北の地へ

「……よく考えると、不思議ではない、か」

 父の言葉から半年ほど。

 ノールヴィリニアへ向かう馬車の中で、ネリーはポツリと呟いた。

 これからネリーが嫁ぐ相手は、()の地の領主、ノールヴィリニア公爵ロアン・ファヴルという男だ。

 広大なノールヴィリニアの地を治める人物。だが、それだけではない。

 それは、彼の「ファヴル」という姓が表していた。

 彼は、ノールヴィリニアを母方の祖父から継承する以前、「王子」と呼ばれる立場にあった。「ファヴル」は、臣籍降下した王族に与えられるもの。

 彼は、現国王の弟だった。

 本来なら、ネリーが嫁げるべくもない相手。そもそも、その顔を見ることすら出来るかどうか、という存在だ。

 いや、立場からして、今ごろ婚姻という運び自体がおかしいとも言える。

 彼は今年で二十八になるらしい。男性の結婚年齢は、女性のそれよりも多少遅いこの国でも、王弟という身分を考えれば、遅すぎると言っていいだろう。

 その中で彼が独身を貫いていたのは、不安定な情勢が続いていたという点もあるかもしれない。だが、彼が持つ異名の影響も少なくはないだろう。

 北の悪魔――

 数年前、若き王の即位につけこみ侵略行為を働いた隣国の軍を、完膚無きまで叩きのめした彼につけられた名だった。

 非情な戦略で敵を欺き、自身も前線に出て幾百の人間を屠ったという。

 国を見事守りきった英雄。

 だが、その「英雄」に向けられたのは、敬意ではなく畏怖だった。

 残虐非道で血も涙もない――。などと言われているが、どこまで本当の事なのかは未知数だ。兄王の即位と同時に公爵位を継いだ彼だが、王子であった時代も、公爵となってからも、戦場を除けば殆ど人前に姿を現しておらず、その人となりは伝わってこない。

 しかし、エリーゼを溺愛しているあの父が、彼女をそんな噂の流れる「北の悪魔」に嫁がせるわけがない。

「でも、王弟との繋がりは欲しい、か……」

 一体、父はどうやってこの婚約を取りつけたのか。

 今年で二十一歳となるネリーは、この国における女性の適齢期を考えると、お世辞にも若いとは言いがたい歳だ。

 ……まぁ、わたしには関係のないこと、かな。

 ネリーは柔らかい布地のスカートを撫でた。

 覚えている限りでおそらくはじめて、自身のためだけに仕立てられた服だ。これから公爵家に向かう「娘」に、安物の服も胸の余るエリーゼの服も着せられないという、見栄のための服だった。

 そんな上等な服を撫でる自身の手も、この半年で可能な限り磨き上げられており、エリーゼほどではなかったが、これまで生きてきた中で、一番滑らかで美しい手になっていた。

「……あ」

 不意に外を見れば、木々の影に白い雪が混じりはじめている。あたたかかった王都と、こんなにも気候が違うのかと驚かされた。

 ネリーはもう一度、自分の着ている服を見下ろす。

 少なくとも、服が薄すぎるために凍死した、などという結果にはならなさそうだと思った。

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