1章北の地へ
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「失礼致します」
ネリーは重厚な扉を叩く。父の書斎であるそこは、良い記憶が全くない場所で、扉の前に立つだけで嫌な汗が流れた。
中から「入れ」という威圧感のある返答が戻ってくると、その気持ちはさらに膨れ上がる。しかし、ここに立ち尽くしているわけにもいかず、ネリーは慎重に扉を開けた。
「遅い」
ネリーの身体が、ビクリと震える。
激した声ではない。むしろそれは、淡々としたものだった。
しかし、その声はネリーを萎縮させる。
「申し訳、ありません」
じろりとこちらを睨む男は、ネリーの実父であるはずの人物だ。
だが、やはりというべきか、その目には娘への慈しみなどという感情は、一片たりとも存在しない。
四十半ばを迎え、壮年と言われるような歳になる男だったが、その顔は今なお若々しく、その力強さがよりネリーを威圧する。
エリーゼと同じ青の目。妹からは多少の愛嬌を感じるそれは、この男が宿しているだけで、冷たく、恐ろしい。
だが、普段ならば暫し続く叱責が、今日はなかった。代わりに、ふんと不満げに顔を歪めるだけで、本題へと移る。
どうやら、何がしかのお咎めではないらしい。内心ほっとしていると、彼は口を開いた。
「お前の嫁ぎ先が決まった。ノールヴィリニアだ」
突然の宣言、だが、ネリーは驚かなかった。それよりも、ついに来たか、という感慨の方が大きい。むしろ、遅かったくらいだろう。
だが、その行き先については、少し意外に思った。
「ノールヴィリニア……」
王都から最も遠い領地の一つであるノールヴィリニア。北方の広大な山岳地帯を抱く代わり、あまり豊かな土地ではないと聞く。雪深い場所で、真冬は交通にも影響をきたす、らしい。
いずれにせよ、遠い地ゆえにほとんど馴染みがない場所だった
そこまで考えて、ネリーは首を捻る。
この男が自分を政略の道具として、誰かの元に嫁がせることは、かねてより分かっていたことだ。こちらに拒否権などあるはずもなく、精々、妻に無体を働くような男でないことを祈るくらいのことしか出来ない。
だがその嫁ぎ先は、相当吟味されているはずだった。ネリーのためではなく、家のために。その婚礼によって、どれほどの利益がもたらされるのか、それが最優先事項だ。そのためには、金か地位、もしくはその両方を持つ男が選ばれる。つまり、相手はそれなりに名の知れた貴族なり豪商なりだろうと、ネリーはずっと思っていた。
ノールヴィリニアは王都から遠い。そのため、あまり情報はなく、知っていることなど殆どないに等しかった。
しかし、あの地は冬の厳しさから貴族は寄り付かず、商人も拠点とはしづらい土地のはずだ。
あの辺りを拠点にしている商人などいただろうか。
いないことはない、のだろう。だが、ネリーの結婚相手に選ばれるほどの豪商なら、王都まで名声が届いていないとは思えなかった。
「あの……、何とおっしゃる方がお相手でしょうか」
おそるおそる尋ねると、父は馬鹿にするように鼻で笑った。
「あのような僻地。一人しかいないだろう」
その言葉にネリーは目を見開く。
「まさか」
確かに彼の言うとおり、ノールヴィリニアという地方で思い浮かぶ男は一人だけ、いる。だがネリーは、自分の相手として選ばれるはずがないと、一番はじめに候補から消していた男だった。
「……『北の悪魔』。お前は奴に嫁いでもらう」