何かの会を催しているらしい数軒を除いて殆どが静まり返り、あたりは星が瞬く以外は真っ暗な闇だった。時々遠くに聞こえる人の声の他は、フェリムとその妻たるアルメリーネの乗っている馬車が動く音のみが聞こえていた。

 家を出て数刻経っているもののどちらも口を開かず、沈黙が守られていた。アルメリーネはそこに憎き仇でもいるかのように、スカートを握ったまま、自分の膝を見つめていた。

 フェリムも十年ぶり、しかもアルドラント伯爵としては初めて、こういった会に出ることになるウェリオ伯の夜会に緊張を隠せないのだろう。そわそわと視線を彷徨わせていた。

 馬車から出てみると、辺りはまるで昼間のような明るさだった。屋敷のそこかしこがキラキラと輝き、さながら別世界と言ったところだ。

 しかし、フェリムはその光景をちらりと目に留めただけですぐに振り返った。先ほどよりもいっそう蒼白になっているアルメリーネに手を差し出すと、彼女は驚いたようにフェリムの顔をちらりと見上げて、その手を取った。

「アル。」

 アルメリーネの細い指をしっかりと握って、フェリムは彼女を馬車から下ろす。そしてそっと自分の方に彼女を引き寄せて笑いかけた。微かに、ともすれば気が付かないほどではあったが、アルメリーネの手が震えていた。

 アルはどうして震えているんだろう。

 その瞳も不安を映すように切なげに潤んでいた。

 アルメリーネはぎゅっとフェリムの手を握る。自分に縋るかのようなその行為に、フェリムは、思わぬほど嬉しく思った。

「行こう。」

「ええ……。」

 アルメリーネが心配であったフェリムだったが、彼女が不安げにではあったが、しっかりと頷くのを見てゆっくりと中へと歩きだした。




 アルメリーネは早くも人々の好奇の視線に耐えられなくなっていた。話をすれば皆にこにことしているだけに、余計に気分が悪い。フェリムを伴って会場に現れたアルメリーネに人々はチラリと視線を寄越して、そしてあまり見ていて気持ちの良くない笑顔を口に浮かべる。隣を見上げれば、平静を装いながらも不思議そうな表情のフェリムに、自己嫌悪の溜息が漏れぬようにするのにアルメリーネは苦労をした。

 アルメリーネにはたとえ聞こえなくても、人々が何を口にしているのか痛いほど分かっていた。

 毒婦アルメリーネが、また新しい男に手を出した。

 アルメリーネはこの噂がフェリムの元に届くのが怖かった。十年前ならば信じなかったかもしれないこの噂も、十年もの間離れていた彼が聞いたらどう思うか、それがとても怖かったのだ。

 その時、誰かがそれらの視線をものともせず、二人に近付いて来た。

「アルー。」

「リディス。」

 呼ばれた方向をアルメリーネが振り返ると、にこにこと手を振りながら歩いてくる人物がいた。噂を真に受けない貴重な友人の一人であるリディスだった。隣には彼女も夫を伴っている。

「ふふ、すごい注目ね。大丈夫?」

 リディスはちょんとアルメリーネの頬をつついて、にっこりと笑う。彼女のその行動で、少しはアルメリーネの緊張も解れたのか、少しだけ顔がゆるんだ。そして、アルメリーネは大丈夫と言うようにリディスに向かって頷く。それに少しは安心したのか、リディスは満面の笑みで頷くと、ちらっとフェリムの方へと視線を向けた。

「それで、そちらのハンサムさんを紹介してくれないの、アル?」

「あ、そうね。」

 そう言われて初めてアルメリーネはフェリムを紹介しなければいけなかった事を思い出した。そうしてわたわたと、もっとも傍目には落ち着ききった様子で、前の二人にフェリムを紹介した。

 アルメリーネの言葉で三人はそれぞれ挨拶をかわした。それが一通り済むと、リディスはふっと笑みをこぼした。

「でも、なんだか初めてお会いする気がしませんね。アルからお話をよく伺っていましたもの。」

「そうなんですか……?」

 意外そうな面持ちでアルメリーネに向き直ったフェリムの視線に、どことなく気恥ずかしいような気がして、少し目線を外した。

 そんなに話をしたかしら。

 いまひとつ記憶にないアルメリーネは内心首を捻った。

「でも初めてお会いするんですから、お話を色々とお伺いじたいところなんですけれどね。少しアルに用事がありますの。少し奥さまをお借りしてもよろしいでしょうか。」

「あ、はい。もちろん…。」

 フェリムの答えを聞くが早いか、リディスはがっちりとアルメリーネの腕を掴んで、少しだけ頭を下げると、さっさと彼女を部屋の外へと引き摺って行った。

「あ、ちょっ…、リディス。」

 フェリムをほったらかしにして部屋を出るのは気が咎めたアルメリーネは、リディスを止めようとしたが、彼女は問答無用でアルメリーネを連れていく。アルメリーネは心配のあまり出来うる限りフェリムを振り返ったが、彼の姿はあっという間に見えなくなった。




「ちょっと、リディス…! 何も今じゃなくていいでしょう。今、あの子をあそこに一人で置いておくなんて。」

 この彼のいない十年間で、アルメリーネの評判は地に落ちていた。いたるところの、彼女が顔も知らないような男と、噂になることもしばしばで、噂だけが独り歩きをしていた。彼女の名を聞いて嫌な顔をしないのは、家族と少数の友人を除けば、遊びたい盛りの若い男性くらいなものだった。

 フェリムはこれからそんな噂を否が応でも聞かされるはめになる。彼に辛い思いをさせるかもしれない。アルメリーネは今すぐにでもフェリムの元に戻りたかった。

「わざとよ。」

 青い顔をして狼狽えているアルメリーネに、むっつりとした顔でリディスは向き直った。

「十年も貴女をほおっておいた報いだわ。」

「でも……!」

 リディスは自分の為に怒ってくれている、それがわかっていてもアルメリーネは彼女の行動に納得できなかった。アルメリーネは反論しようと口を開いたが、何かを言う前にリディスが遮った。

「十の子供だったんだから…、は聞き飽きたわよ。―――それにね、あそこに貴女がいたとして、何かできたと思う?」

「そうかもしれないけど…。」

 確かに彼女の言う通り、アルメリーネにできることは何もなかった。今日を凌いだところで、いずれは噂も彼の耳に入るだろう。目の前で皮肉られても、上手く返すことは出来ないだろうから、彼に余計な誤解を与える可能性もある。

 そのまま黙ってしまったアルメリーネに、リディスは溜息を吐いた。当初の目的はとりあえずアルメリーネとフェリムを引き離す事で、それには成功していたリディスだが、アルメリーネを連れてくるときのその彼女を見たとき、もっと別の事がリディスは心配になっていた。

「ねぇ、アル……。分かってる? 彼はもう十歳の子供じゃないのよ。」

 そんなこと今更言われなくても分かっている。アルメリーネは不思議そうに友人の顔を見た。リディスはとても心配そうな様子でアルメリーネを見つめていた。

「貴女の隣にいたのは誰? ちゃんと、彼の事見てる……?」

 リディスは何が言いたいのだろう。

 意味が分からないアルメリーネだったが、その言葉はなぜか重く彼女の心に残った。




「いない。」

 リディスと別れた後、アルメリーネは広い邸宅内を彷徨い歩いていた。とりあえず、フェリムの居場所を掴もうとしただけだったはずが、彼はどこを探しても見つからなかった。

 アルメリーネは屋敷の中は、粗方探し終え、残るは庭と外へ出てきていた。さっと視線を巡らすが、人がいそうな気配もない。苛立ち交じりの溜息を堪え、アルメリーネは庭の方へと降り、きょろきょろと辺りを見回しながら庭を歩いた。

 あの子は私にどんな態度をとるのかしら。

 アルメリーネは自分が心底情けなかった。噂の始まりは些細な事で、自分の説明下手が噂を悪い方向に広めてしまった理由だといことは理解できていた。

 はじめは勇んでフェリムを探していたアルメリーネだったが、時間が経つにつれて、どんどん勇気もしぼんでいった。

 諦めて一旦中に戻ろうかしら。

 庭の大分端の方まで歩いてきたアルメリーネは、すれ違いになっただけで、中にいるのかもしれないと判断を下した。そして屋敷の方へ踵を返そうとした。

「アル。」

 しかしその時、誰かが自分を呼ぶ声がした。アルメリーネは少しの期待が胸に昇ったのを感じた。

 しかし、顔を上げた彼女の目に飛び込んできた人物は、意外と言えば意外な人物だった。

「アゼル……。」

 アルはじりっと後ずさる。そして、胸に膨らんでいた期待も萎んでいった。

 彼はアルメリーネと同い年で、友人の一人だった。しかし、アルメリーネが成人した頃からか、彼女に言い寄るようになった人物だった。

「そんなに警戒しなくてもいいだろう。」

 アゼルはそう言いながらアルメリーネに一歩づつ近付いて行く。そして、アルメリーネの手を捕らえると、自然と自分の口元に持って行き口付けを落とす。

 アルメリーネは手を引き抜こうとしたが、アゼルは彼女の手をしっかりと掴みそれを許さなかった。

「旦那が帰って来たそうだな。」

 アゼルは何でも無い事のように、握ったアルメリーネの手を見ながら言った。

「そうよ。だから、もう、あんなことしないで。」

「あんなこと?」

「手紙よ。」

 アゼルの不敵な笑みを、アルメリーネは睨むように見据えた。まるで自分は悪いことなど何一つしていないかのように。

 手紙こそ、そう頻繁ではなかったが、アゼルはアルメリーネと会うたびに、フェリムとの離婚をあらゆる理由を並べ立てて唆してきた。それに一切応じて来なかったアルメリーネだが、アゼルの言うことが一部真実を射ていることも分かっていた。

「そんなに可笑しなことは書いていないつもりだが? 君が社交界で居心地の悪い思いをしているのも、未亡人のような扱いをされているのも、全て夫が傍にいないからだ。」

「でも、もう帰って来たわ。」

 アルメリーネは即座に反論した。フェリムがいない頃は、確かにその通りだった。しかし、彼が帰ってきた今となっては、すべて意味を成さないはずだ。しかし、アゼルは少し肩を竦めただけで、特に気にした様子はなかった。

「それはそうだ。だが、この十年君が何をしていたか知らない男が、君を御しきれるか? 口出しされて、君の唯一の楽しみまで奪われるかもしれない。」

「………。」

 今までアゼルからこんなにはっきりと言われた事はなかった。

 アルメリーネは泣き出しそうな気持ちを堪え、アゼルに掴まれていない方の拳を固めた。

 アゼルも私を男遊びが激しい女と思っているんだわ……。

 分かってはいた事だったが、改めて突きつけられると辛かった。

「私のところに来れば、何も制限はしない。ウェスペラントなら君が成人した時点で、君の物になっているはずだろう?」

 ウェスペラント、アルメリーネが継いだその土地は結婚した時点では夫の物とされてた土地だが、義父母の計らいもあり、アルメリーネが成人した時点で彼女の物になっていた。

 アゼルはその土地が目当てなのだろう。アルメリーネがどんな噂をされているか分かっているはずなのに、それについて何も言いはしなかった。ウェスペラントには身分の低い愛人がいる、その噂についてさえも。

「私の元に来い。辛い思いはさせない。」

 アゼルは空いている方の手でアルメリーネの頬にふれた。

「ア、アゼル。」

 アゼルはその手をすべらせて、アルメリーネの顎を持ちあげる。

 そして、アルメリーネが制止する間もなく、唇を奪った。




 アルメリーネは気が付くと自分の部屋で蹲っていた。

 どうやって帰ってきたのかも覚えていない。

 アゼルにキスされた後、彼を突き飛ばして夢中で逃げたような気がしたが、それも定かではなかった。

 アゼルにキスされたのは初めてで、それに驚いたというのもあったが、それ以上にフェリムへの裏切りをしてしまった、そういう思いがアルメリーネの中でぐるぐるとまわっていた。

 しかし、ひとしきり考え終ると、言付けも無くフェリムを置いて帰って来てしまったことに気が付いた。どうしようかと、立ち上がろうとした時、外が騒がしくなって突然扉が開いた。フェリムの部屋と繋がっている方の扉から入ってきたフェリムは、少し険しい顔で部屋へと入ってきた。

「旦那様!」

 フェリムを追いかけてきたらしいベルは、彼がアルメリーネの部屋に入るのを止めようとしていた。思い返すと、誰も入れるなと言った覚えがある。アルメリーネは首を軽く振って、ベルを下がらせると、フェリムの顔を座り込んだまま見上げた。

 勝手に帰ったことを怒っているの? それとも、自分に纏わりつく噂の方かしら…。

 アルメリーネは開き直るような気持ちで溜息を吐いて、視線を床へと下げた。

「アル、大丈夫?」

 フェリムはそろそろとアルメリーネの傍に寄って、膝をついた。そして、アルメリーネの前髪をかきあげて、おでこに触れた。

 アルメリーネはいたたまれなさと、罪悪感で身を引いた。フェリムの顔が見れない。

 フェリムは身を引いたアルメリーネを見て、肩を竦め手を引いた。

「体調、悪いんでしょう? 着替えて寝ないと。」

 そう言ってフェリムはアルメリーネに立つように促す。御者か誰かがそう伝えたのだろう。フェリムの振舞いは親切そのもので、アルメリーネに対して何か腹を立てているような素振りは見られなかった。しかし、アルメリーネにはその行動さえも、ごまかしのような気がした。

 どうしてなの……?

 その問いはアルメリーネの口をついて出た。

「なんで私なんかに優しくするの…。」

「アル……?」

 消え入りそうな声しか出なかったが、二人しかいないこの静かな部屋では、その声はフェリムの耳にもはっきりと届いた。フェリムは怪訝な顔をしてアルメリーネを見つめた。

 しかしアルメリーネが何も言わないので、フェリムは心配になったのか彼女に手を伸ばした。だが、色々な感情でぐちゃぐちゃになっていたアルメリーネには、それさえも癇に障る行動だった。その手を叩いてさっと立ち上がった。

「どうしてこんな、出来損ないの妻に優しくするの、って言ってるのよ!」

「え……?」

 そう叫んだアルメリーネの目からは、幾筋もの涙が零れおちた。

 今まで堪えていた様々なものが胸に湧き上がってくる。

 分かっているはずなのに、驚いたような顔をしているフェリムが腹立たしくてならなった。

 涙は止めどなく溢れ、感情もそれに呼応するように溢れてくる。

 悔しい。悲しい。辛い。

 でも、何に対してかも分からなかった。

「分からない振りをするつもりなの? そんな偽善やめてよ…!」

「待って、アル―――」

「貴方も私のこと、汚れた女と思ってるんでしょう!!」

 立っている事さえも耐えられなくなったように、アルメリーネはぺたんと座り込んだ。顔を覆って嗚咽を漏らす。

 フェリムはどうしていいか分からず、とりあえずは慰めようと思ったようで、彼女に近付こうとした。しかし、気配を感じたアルメリーネはキッと顔を上げて叫んだ。

「近寄らないで! 出て行って、出て行ってよ!!」

 そう言いながら、手近にあったクッションをフェリムの方へ投げつけた。そして今度は顔を覆って床に突っ伏すようにして泣き始めた。

 フェリムはなすすべもなく、ほどなくすると静かに部屋を出て行った。

「フェリムさ……。」

 アルメリーネは声を上げて泣いた。




「旦那様!」

 上着を着、玄関を出ようとしていたフェリムの元に、一人の侍女が走ってきた。

 眉を吊り上げ、怒り心頭と言った様子の彼女は、まさにずかずかと彼の元に歩み寄ってきた。

「えっと、ベル。どうかした?」

「どうかした、じゃありません!」

 これだけ彼女に親身になってくれる侍女がいることはフェリムにもありがたいことだ。一応、家の主ということを考慮して、抑えてはいるようだが、今にも掴みかからんばかりといった様子だった。

「……本当に出て行かれるおつもりですか。」

「まあ、一晩だけね。」

「一晩?」

 フェリムはアルメリーネの部屋を出た後、考えた結果、今夜の所はアルメリーネから離れた方がよさそうだ、という結論に達していた。彼女にも整理をつける時間を与えた方が良さそうであったし、何よりフェリム自身も数個確認したいことがあった。

 僕も自分の気持ちに整理を付けたい。

 フェリムは今夜の夜会で、彼女と同じくアルメリーネを探していた。その結果、彼女と見知らぬ男の逢引のような場面に遭遇してしまっていた。それを見たとき、フェリムの中に激しい感情が現れた。

 アルメリーネが後一瞬でも、男を突き飛ばして去っていくのが遅ければ、二人の間に割って入って、彼女を問いただしてしまっていたかもしれない。特に、アルメリーネに関する社交界での噂は聞いていて気持ちの良いものではなかった。その後に見せられたのだから仕方がないのかもしれなかいいた。

 しかし、フェリムはアルメリーネが男といたあの一瞬、その噂を信じかけてしまった。それが彼にとって、最も腹立たしい事だった。

「アルの事は頼むよ、ベル。僕は今夜はヒューの所に泊めてもらうから、もし、アルのこと…、それ以外でも何かあったら、すぐに連絡して。…もう、アルを独りにはしたくない。」

「………。少し、お待ちになってください。」

 ベルはじっとフェリムの顔を見た後、何かを決心したように、そう言って何処かへと駆けて行った。

 ほどなくして戻ったベルは、籠を抱えていた。

「これをお持ちください。」

「これは……?」

 フェリムはその籠を受け取って中を覗いた。その中には、リキュール、ワイン、蜂蜜が入っている。よく分からないその組み合わせに、ベルの方を見たが、彼女は真剣な面持ちで、しかし何も言わなかった。

「奥様の事はお任せください。」

「……わかった、行ってくるよ。」

 フェリムはベルに見送られて、屋敷を出た。

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