ヒューをフェリムに任せて、客間を後にしたアルメリーネはベルを探していた。家の使用人達はあの後ベルの姿を見ていなかった。

 アルメリーネは家中を歩き回って、ようやく、彼女の部屋でその姿を見つけた。

 部屋の隅で丸くなっていたベルは、アルメリーネが扉を開けて呼びかけるまで、彼女が入ってきたことにも気が付いていない様子だった。

「ベル……。」

 日が陰ってきたとはいえ、まだ夕方であるのにカーテンがひかれ、明かりも付いていない部屋は薄暗かった。

 アルメリーネの声にひかれ顔を上げたベルの?には、紛れもなく涙の筋が付いていた。

 アルメリーネは静かに扉を閉めて、ベルにゆっくりと近寄って、膝をついた。

「あっ……。」

 ベルがそのアルメリーネの行動に驚いて止めさせようとするのを押しとどめて、アルメリーネは優しくベルの肩に手を添えた。

「貴女が泣いている理由を知りたいわ。教えてくれる?」

 ベルは新しく流れた涙を拭いながら、頷いた。




 ベルはまず初めに、アルメリーネに頭を下げた。今まで黙っていて申し訳ない、とそう言って。

 アルメリーネが知っている限りのベルの出自は、この国の辺境に領地を持つ名家の親戚の娘だった。これに関して、ベルは嘘はついていなかった。事実、この家は彼女の母方の親戚で、交流もあり、協力してもらっていたそうだ。彼女の実家はそこから国を超えたところにある家で、一人娘だったらしい。

「ヒューは……、幼馴染、です。」

 そう言って話を締めくくったベルは、もう涙こそ止まっていたが、俯いたままで、アルメリーネの顔を見ない、いや、見ることさえ出来ない様子だった。

「そう……。」

 話を黙って聞いていたアルメリーネは、どうしたものかと考えた。何故、家出という暴挙に踏み切ったのか、ベルは言わなかった。言いたくないことまで無理やり聞き出す気は無いアルメリーネだったが、場合によっては責任持って家に返さねばならないかもしれない。一人娘ならば、なおさらであった。

 しかし、アルメリーネは暗い表情のベルを見て、こんな理論的な考えは吹き飛んでしまうのを感じた。

 アルメリーネはそっとベルを抱き寄せる。彼女を守れるのはアルメリーネだけだった。

「心配しないで、ベル。貴女が望む限り、貴女を追い出したりしないから。」

「っ……!」

 緊張した様子でアルメリーネにされるがままになっていたベルは、その言葉を聞いた途端、アルメリーネに抱きついた。アルメリーネに縋るようにベルは彼女にはしがみつく。

 アルメリーネは嗚咽をもらす彼女の背を、何も言わず撫で続けた。




 その日の夕食は何事も無く進んでいった。ベルはアルメリーネの配慮で体調不良ということになり、自室に籠もっていたが、ヒューの方は何事も無かったかのように振舞っていた。些か言葉数が少ないのと、チラチラと出入り口付近を気にしているということに、気が付いたのはフェリムぐらいだろう。

 ベルを心配するアルメリーネが、早々に部屋を出た後、二人になった男達はリキュールを片手に談笑を続けていた。

「これ、アルドラントで作られてるそうなんだ。」

 フェリムは手に持っていたグラスを傾ける。アルドラント伯爵領の特産物であるオレンジの爽やかな香りが広がる。

 幼い頃、初夏になるとそこかしこでオレンジの実と共に嗅いだ爽やかな香りを懐かしみながら、フェリムはグラスを回した。十年前には無かったこのリキュールは、一体誰の発案だろうか。今では、貴族の中でも徐々に噂が広まっているらしい。

「いい香りだな。」

 グラスの中身を一口含んだヒューは、微かに笑みを浮かべた。

「で、奥方とはどうなんだ?」

 ヒューはニヤリと笑いながら友人を見た。ヒューの目から見て、仲違いしているようには見えなかった二人だが、実際のところは本人の口から聞かねば分からない。

「え。……そ、その、喧嘩は、してない。」

 見ていて面白い程動揺したフェリムは、気分を落ち付けようとして手に持つ酒をあおった。そして一呼吸置くと、改めてここ数日間のアルメリーネを思い出そうとした。

「というか、喧嘩するほど、会ってない………?」

 どれほど思い出そうとしても、食事の時の数回の会話以外、思い出すことが出来なかった。明らかに避けられている。

「……あ、そう。」

 困惑した顔で真剣に考えはじめたフェリムにどうとも返すことのできないヒューは、彼から目線を外して酒を一口すすった。

 アルメリーネは昔から控えめではあったが、よく笑う人物だった。ところがフェリムが思い出せる彼女の笑顔は、十年前の今よりも幼さの残る笑顔だけで、再会して以降の顔は一つも思い出すことができなかった。

「どうしよう、思ってたより悪い状態かも。」

 フェリムは最初は慣れなくとも、彼女が怒っていないならば、時がなんとかしてくれると思っていた。しかし、どうも事態が好転していない事を彼は認めざるを得なかった。

 ヒューはフェリムの肩を叩くと、持っていたグラスを机に置いた。フェリムの事は同情に値したが、これは二人の問題であって、ヒューにはどうすることもできない。

 ヒューはそのまま立ち上がって、フェリムに手をあげた。

「帰るよ、見送りはいいから、頑張れ。」

「あ、ああ、うん。」

 フェリムが立ち上がる間も無く、ヒューが行ってしまうと、フェリムは部屋に一人になった。フェリムはグラスに残る酒を飲み干すと、それを机に置いた。そして間も無く部屋には誰もいなくなった。




 一方、アルメリーネはベルの様子を見に行った後、自室へと戻ってきていた。暫くすると門の開閉する音が聞こえ、客人が帰ったことを悟った彼女は、今日はさっさと寝てしまおうと夜着へと着替えてベッドへと身を横たえた。しかし、眠気は一向に現れず。アルメリーネは何度も何度も寝返りを打ちながら、目を閉じ眠ろうと努めた。しかし頭は余計に冴えるばかりで、ついにアルメリーネは諦めて身を起こした。

 頭に浮かぶのは、ベルの涙とフェリムの事だった。アルメリーネはベルとヒューの二人と自分達を知らず知らず重ねていた。ベルはなんと気丈なのか。アルメリーネはフェリムから逃げてばかりの自分と、相手を睨まんばかりにまっすぐと見ていたベルを対比して、なんとも言えぬ気持ちに駆られていた。

 あの子と向き合う時に来ているのかもしれないわ。

 アルメリーネはふらふらと立ち上がると、ベランダへと出た。外の空気が吸いたかった。

 アルメリーネは欄干に身を預けて、細い月を見上げた。アルメリーネにはそれが、まるで自分を嘲笑っているかのように見えた。

 アルメリーネはその視線から身を隠したいかのように、視線を下げる。自然と溜息もこぼれた。

 その時、突然自分ではない声が聞こえた。




 フェリムは客間を出た後、アルメリーネの部屋のドアを叩いていた。寝ているかも知れない、そう思って控えめにではあったが、起きていれば気がつく程度の音はあったはずだった。

「………?」

 応答が無いのでもう寝てしまったか、と諦めようとした時、微かに風のような音が部屋の中から聞こえた。そろそろ深夜という時間、しかも初春のまだ肌寒い時期には不可解な音である。

 フェリムはふと心配になり、様子を見るために、まず自分の部屋の扉を開けた。フェリムとアルメリーネの部屋は一枚の扉で繋がっており、また、ベランダでは敷居も無く繋がっていた。

 許可無く部屋に入るのを躊躇ったフェリムはベランダから様子を見ることにしたのだった。

 ベランダの方へと近寄ったフェリムはその先に、探していた彼女の姿を認めた。

「アル?!」

 アルメリーネは夜着のまま、何を羽織ることもなく、足は裸足だった。このままおいておいたら風邪をひいてしまう。

 フェリムはとりあえず、自分の手近にあった彼の上着を取ると、慌てて外へと出た。

 その音に気が付いたらしいアルメリーネはぼんやりとフェリムに視線を向けた。フェリムの焦ったような表情を心底不思議そうに彼女は見た。

「アル、風邪ひくよ。」

 フェリムはアルメリーネが何かを言う前に、持っていた上着で彼女を包んだ。アルメリーネはきょとんとした顔でフェリムの顔を見上げた。

 フェリムはアルメリーネに見上げられている、ということを不思議に感じた。思えば、十年前は同じ五歳差であっても十と十五。その差はひどく大きい。いつも相手を見上げていたのはフェリムの方だった。

 こんなに小柄だったんだ。

 上着越しでも彼女のほっそりとした肩のラインを感じる。

「フェリム…さん?」

 空に浮かぶ細い月の弱々しい光でも浮き上がるようなその顔は、見惚れるほど綺麗だった。フェリムはアルメリーネのゆるく留められた髪を解いて指を絡ませる。絹のような、とはまさにこれのことを言うのだろう。フェリムは髪をするりと持ち上げて口付けた。

「あ……。」

 フェリムはその髪を辿るようにアルメリーネの頬に手を伸ばして、触れた。ピクッとアルメリーネの身体が震えた。フェリムはアルメリーネに顔を近づけて手が触れているのと反対側の頬に触れた。

 アルメリーネが目を閉じると、フェリムはその唇に優しく触れる。微かに震える彼女を落ち着かせるように。

 手をアルメリーネの背中に回すとサラサラとした髪が手を掠め、先程まで外気で冷たくなっていた彼女の肌は高揚していた。

 フェリムは彼女の唇を啄むようにしたあと、少し唇を離した。

 アルメリーネは艶っぽく息を吐いて、床から離れていた踵を地面につける。フェリムの服を握りしめていた手の力をゆっくりと抜いて、どこを見るでもなく、ぼんやりとしていた。

 そして、アルメリーネはゆっくりと顔を上げた。少し赤くなった頬で、のろのろとフェリムに視線を合わせる。フェリムは何の気なしにアルメリーネの髪を手で梳いた。

「!」

 アルメリーネは夢が覚めたかのように、飛び上がってフェリムから身を離し、動揺しきった様子で視線を彷徨わせる。彼女の頬は、先程と比べ物にならないほど真っ赤に染まっていた。

「あ、わ、私……。も、もう寝ますから!」

「あ、アル―――」

 アルメリーネはフェリムから逃げるように自分の部屋へと飛び込んでカーテンをひいた。外からもう彼女の姿を見ることはかなわなかった。




「び、びっくり、した……。」

 アルメリーネは部屋に駆け込みカーテンを閉めた後、そのままへたり込んでいた。

 手を頬に添えると、驚くほど熱い。

 教会で交わしたそれとは全くかけ離れていた。

 アルメリーネは無意識で自分の唇を指で辿る。彼の柔らかな感触、そして爽やかなオレンジの香りが蘇って、さらに熱が集中するような気がした。

 アルメリーネは窓辺に寄って、カーテンの隙間から外を覗いた。フェリムはすでに姿を消している。

 それを確認した後、ようやくアルメリーネは息を吐いて、のろのろと立ち上がった。

「あ……。」

 彼女の肩に掛かっていたフェリムの上着が重力に従って滑り落ちた。すると、途端に寒さが彼女を襲った。

 外へ出てもそれほど寒さを感じていなかった。思えば裸足で、しかも夜着。まだ初春のこの時期で寒くないわけがなかった。だが、それにも気が付かぬほどだった。

「本当ね。風邪をひいてしまうわ。」

 アルメリーネは足元に広がった上着を拾い上げて、抱き寄せた。石鹸とはまた違った香りがする。

 アルメリーネはそれを名残惜しげに身体から離して、さっと畳んで自分のベッドの枕元に置いた。

 明日、きちんとお礼を言って返さないと。

 アルメリーネが明日の事を考えたのは、フェリムが帰って来て以来初めてのことだった。




「奥様…大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫…。」

 アルメリーネはきくつ腰を締め付けるコルセットに手を添えながら、着替えを手伝うベルを見た。今夜はフェリムの叔母の嫁ぎ先であるウェリオ伯の夜会に夫婦で招待されていた。

 フェリムが帰って来て初めての会として、親戚にあたる家というのは、アルメリーネにとってまだ幾分かマシではあったが、溜息は意図せず溢れる。

 その間にもベルが手早くリボンを結んで、アルメリーネの髪の毛を美しく結い上げていく。

「奥様?」

「いいえ、何でもないのよ、大丈夫。」

 アルメリーネの溜息を聞きつけたベルが声をかけるが、アルメリーネは力なく首を振った。

 アルメリーネはちらりと自分のベッドの枕元に目をやった。この溜息の理由は億劫な社交会でも、息もし辛いコルセットでも無かった。彼女の視線の先には依然として、昨晩のフェリムの上着が置かれている。今日一日、悶々としながら機会を窺っていたアルメリーネは、まだ返すことができていなかった。

 帰ってきたら、必ず返すのよ。

 そう言って延びていくのも分かってはいたのだが。

「はい、出来上がりましたよ。」

 髪を飾るリボンを留め終わると、ベルは一歩下がって、出来を確かめ、不備が無いのを確かめると笑顔で頷いた。

 アルメリーネはベルの顔を見た。昨晩は酷く取り乱していたベルだったが今朝になると、もういつもの彼女に戻っていた。だがアルメリーネは、ふとした瞬間、ベルが寂しげな表情を浮かべているのを見逃していなかった。

「ベル。」

「はい、奥様。」

「私は…何があっても貴女の味方だから。」

「あ……。―――はい。」

 私、自分のことばかりだわ。

 このときのベルの表情はアルメリーネは生涯忘れる事はなかった。

 美しい笑顔。これに勝る言葉は無い。

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