四
「落ち着きましたか?」
ひとしきり泣いた後、アルメリーネはベルにされるがままで、シャワーを浴びて、部屋着に着替え、ベッドの上でシーツに包まっていた。
ベルはホットミルクを、ぼんやりしているアルメリーネに渡した。それを受け取ったアルメリーネは、膝に置いたままじっとコップの水面を見つめている。
「……フェリムさんは?」
「今夜は戻られないそうですよ。」
「そう。」
アルメリーネの目から、再び涙が伝った。真っ赤になった目元は、既に痛々しいほどだ。
ベルは蒸らしたタオルでアルメリーネの目元を優しく抑える。これ以上泣いて欲しくなかった。
「泣かないでください。明日にはお戻りになりますよ。」
「分からないわ。」
ふるふると首を振ったアルメリーネの声には全く元気がない。ベルはアルメリーネの手から一口も飲まれていないホットミルクを取って、横の小さな卓に置いた。
いつもは気丈に振る舞う彼女なだけ、今の落ち込み様はより心配だった。
ベルはアルメリーネの隣に腰掛けて、アルメリーネの涙を拭った。
「ベル…。私、きっと愛想を尽かされてしまったわ。ここはあの子の家なのに、出てけ、だなんて。それに、完全に私の八つ当たりだわ……。明日、帰ってきたとして、今度は私ね。出て行くのは。」
ベルはすっかり自信を無くしてしまったアルメリーネが、見ていられなかった。ベルは堪らなくなってアルメリーネを抱き寄せた。彼女が自分にそうしてくれたように。
アルメリーネはただ静かに涙を流したまま、ベルにすり寄った。
「私、この家を出るなんて、考えられないわ。オレンジやブドウの事も、ある、けど。それよりも……。」
ベルは宥めるようにアルメリーネの背を撫でていたが、その呟きを聞いて驚いて手を止めた。
オレンジやブドウよりも?
ベルは夏のアルドラントで広がるオレンジの爽やかな香りと、秋のウェスペラントに漂うブドウの甘い香りを思い出していた。そして、それらから作られた酒をはじめとした生成品を。
ここ暫くで、アルメリーネがそれら以上に関心を示したものが、あっただろうか。オレンジのリキュール、ブドウの花の蜜で作られた蜂蜜、ワインの生産量が上がり、しっかりとした利益が出せるようになったのも、本人は領民の努力と言って否定しているが、アルメリーネの尽力があったからだ。特に、リキュールと蜂蜜はアルメリーネと領民たちによって、企画され売り出しはじめたものだ。
領民たちが笑顔ならば、自分も笑顔になれる。
そういつも言っていた彼女にとって、それを左右するオレンジとブドウは最大の関心事だった。
「さあ、もう寝てしまいましょう。明日になれば、きっと全て、上手くいきますよ。」
ベルは、優しく微笑むと、アルメリーネをベットに寝かせて、明かりを落とした。
朝。アルメリーネはぼんやりと目を擦りながら、起き上がった。ベルが気を利かせたのか、外は大分明るくなっているが、カーテンはまだ閉じていた。アルメリーネはそろっとベッドを下りて、カーテンを開けた。外は目を細めるほどの良い天気で、泣き腫らした目がヒリヒリするような気がした。
「朝……もう、昼かしら。」
太陽も大分高い位置にいて、陽光が燦々と降り注いでいる。
「あら、奥様。おはようございます。」
ベルはアルメリーネがまだ寝ていると思っていたのか、静かに入って来たらしく、声を掛けられてはじめて、扉が開いたことに気が付いた。アルメリーネはゆっくりと振り返って、ベルを見つめた。
「……ん。おはよう、ベル。」
まだあの子は帰って来ていないの? 彼は昨夜、どこに泊まったのかしら……?
そんな疑問が顔に出ていたのか、ベルは少し困った様な顔で笑った。
「まだ旦那様はお戻りではありません。ですが、ヒュー様のところに泊まると仰っていましたので、連絡を取ることは可能ですよ。」
「え、いえ、いいの…。」
「そうですか?」
ベルはアルメリーネが握っていたカーテンを形よく留めながら、にこにことアルメリーネに笑いかけた。
そしてアルメリーネを鏡台の前に座らせて、髪の毛を梳かしはじめた。アルメリーネはベルのするがままで、ぼんやりと座っていた。ベルはそれを良いことに、アルメリーネが普段付けたがらないようなリボンや装飾で髪を飾った。そして、サッと彼女を立たせて、いつもの落ち着いたデザインの服を避けて、もっと年相応の若々しいドレスを着せた。
ベルは、もっと輝いて良いのだ、そう思わせなければと思っていた。アルメリーネは、社交界へも積極的ではなく、正直なところ立ち回りが上手い方でもない。その割に、ウェスペラントへの滞在も多く、領地に籠ってばかり。こう言った行動を非難するわけではないが、噂の一因になっているのも事実だった。しかし、今から噂を払拭することは出来ないだろう。だが、フェリムと一緒ならば変わるかもしれない。ベルは少しづつ、そう思い始めていた。
それには、まず年相応の服を着せねば。今まで来ていた服は、色も暗いものが多く、まるで未亡人かのような格好だった。格好はこの時代、人を判断する大きな基準の一つなのだから。
「さ、出来ましたよ。」
ベルは自分の仕事に満足して、アルメリーネを見た。そこには、明るいベージュと桃色のドレスに、それと同系の赤のリボンで髪を飾った、若々しい女性が立っていた。今までの暗い印象を与える彼女とは、目を見張るような差である。
「よくお似合いですよ。」
「そう……?」
アルメリーネは自分の姿を見下ろして、めったに見ない明るい服に驚いたが、特に何も言わなかった。
ベルはアルメリーネがぼんやりと自分を見下ろしている間にも、ささっとベッドメイクを済ませて、ご飯を持ってくると言い残して部屋を出て行った。
「奥様―――!」
「?」
しかしほどなくして、血相を変えたベルが部屋に飛び込んできた。食事を持ってきたという風にはとても見えない彼女の様子に、アルメリーネもさすがに慌ててベルの元へ駆け寄った。
「ア、アゼル、様が……。」
「え?」
今、ベルは何と言ったの? アゼルが……?
「そう、私だ。」
そろそろとアルメリーネが顔を上げると、いつの間にかそこに人がいた。扉に手をついてアルメリーネを見下ろすのは、アゼルだった。
「帰るか?」
「うん、そろそろ戻らないと。アルが心配だから。」
フェリムはヒューの借りている宿屋の部屋を出て、友人を振り返った。ヒューは扉に手をつきながら、フェリムの肩を叩いた。
昨夜のもう夜も更けたころに訪ねてきたフェリムは、沈んだ顔をしていたが、今朝になるとそれも消えて良い顔色になっていた。
「またな。上手くやれよ?」
「分かってるよ。」
この一晩で色々な事をフェリムは考えた。これからどうしてゆくべきか。どうしていきたいのか。
「もう、迷わないから。」
フェリムはアルメリーネの待つ家に向かって、歩をすすめた。
「アゼル……。」
ベルはアルメリーネを庇うように彼女の前をどかなかった。しかし、アルメリーネはベルの肩に手を置いて彼女に下がるように言った。ベルも二人のただならぬ空気に気が付いているのだろう、出て行くのを渋っていた。しかし、アルメリーネが再度頼むと、不承不承と言った様子で何度も振り返りながらも出て行った。
「何の、用?」
「昨日すぐ帰ってしまっただろう。さすがに心配でね。」
「そう…?」
本当にそうかしら。
アルメリーネは怪訝な顔でアゼルを見据えた。アゼルは真剣そうな顔をしているが、アルメリーネにはどうしても、彼が心配して来たとは思えなかった。
「フェリムさんが家にいないから来たんじゃないの。」
「………。そうかもしれないな。」
アゼルは溜息を吐いて、ふっと笑うと、アルメリーネに近付いて行く。アルメリーネもそれに合わせて後ずさるが、やがて窓際に追い詰められた。
窓の桟についたアルメリーネの手に重ねるように、アゼルは手をついた。
「ちょっ……。」
アゼルは空いている左手でアルメリーネの髪をかきあげた。アルメリーネはそれを拒否する様にギュッと目を瞑って、下を向いた。
もう、耐えられないわ…。
アルメリーネはアゼルを拒否することも、だからといって、受け入れる事も出来なかった。
「そこまでこだわる必要がどこにあるんだ。」
「私……。」
アルメリーネは何も言うことが出来ず、ただただ唇を噛み締めていた。フェリムを裏切りたくない。しかし、彼女にはもう抵抗するだけの気力も残っていなかった。
「―――アル!」
その時、また別の声が響く。アゼルとアルメリーネは声の方を見た。
その先の人物を見て、アゼルは小さく舌打ちをした。アルメリーネは、信じられない思いでその先を見ていた。そして、空いている方の手で口元を抑えた。
そこにいたのはフェリムだった。
「おや、ヒーローのお出ましか。」
アゼルは余裕を含んだ笑みで、フェリムの方を見た。アルメリーネの手は、まだしっかりとアゼルに握られている。
はじめは二人の状況に驚いていたフェリムだったが、次第に表情は険しくなっていった。
「アルを放せ。」
アルメリーネが見た事も無いようなひどく厳しい表情で、フェリムはアゼルを睨んでいた。アゼルの手に少しだけ力がこもったが、彼は平静を保ったままだった。
「十年も放っておいたのは君だろう? 今更、妻だからといって所有権を主張するのか?」
「そんなんじゃない。」
フェリムは強い口調で言った。
「ただ、僕は、もしまだアル、君が僕を待って、必要としてくれるのなら。もう、独り放っておくなんて、したくなかっただけだ。」
フェリムは強い決意を込めて、アルメリーネを見た。アルメリーネは嬉しさで胸がいっぱいになった。そして、それを現すように、涙も後から後から流れて行く。
「フェリムちゃ……、フェリムちゃん―――!」
アゼルはぼろぼろと泣き始めたアルメリーネを、目を細めて見、手を放そうとした。しかし、完全に離れる前にアルメリーネの肩を抱き寄せる。しかし、それも数秒のことで、アルメリーネが抵抗する前にアゼルは彼女から離れた。それからは何もなかったかのように踵を返す。
そして、部屋から出る前にちらりとフェリムを見た以外は、何にも関心が無いかのように彼は足早に立ち去った。
「アル……!」
フェリムもアゼルの視線に一瞬だけ視線をくれたが、すぐにアルメリーネの方へ駆け寄って行った。
アゼルに解放された途端、床に座り込んで泣きじゃくっていたアルメリーネは、フェリムが彼女を抱き寄せると、フェリムに抱きついて泣き続けた。
「フェリムちゃん……。フェリムちゃん……。」
ただただ泣いて、フェリムの名を呼び続けるアルメリーネに、フェリムは驚くほどの庇護欲を掻き立てられていた。
「帰るのが遅かったね、ごめん。」
アルメリーネが落ち着くのを待って、フェリムは言った。アルメリーネはようやく泣くのを止めて、でも黙ったままフェリムにしがみ付いていた。
「違う。悪いのは私よ。今回のことだけじゃないわ。私、こんなに噂の的になって、情けない……。」
「どうして? 君は僕の分まで頑張ってくれているでしょう。アルドラントやウェスペラントも、この十年で随分変わったって聞いたよ。もちろん、良い方向に。君が頑張ったからだ、って皆言ってる。」
アルメリーネは黙って首を振っているが、それがただの謙遜なのはもう分かっていた。
今朝早くに、ヒューと二人で、アルドラントとウェスペラントの人間を市場から見つけ出して話を聞いたのだから、間違いはない。この二つの領地で、彼女の事を悪く言う人間はいないと言っていた。
フェリムはアルメリーネの頭を撫でてて、そっと自分の方を向かせた。
「ありがとう、アル。君がいてくれて良かった。」
アルメリーネは目を見開いてその言葉を聞いた。そして、また涙を零す。
「でも、私……。」
自分のしたことが余計な事ではなかった。それはアルメリーネにとってとても嬉しい事だった。しかし、不安が消え去ったわけではなかった。あの噂達を彼はどう思っているのだろう。
フェリムはアルメリーネの顔が不安に曇るのを見逃さなかった。
フェリムは安心させるようにアルメリーネに微笑むと、彼女の瞼に口付けた。
「噂を気にしてる? 大丈夫だよ。君はそんな人間じゃない、そんなのも分からないと思った? 大丈夫。僕は君を信じるから。ただ一言、『あれは嘘』と言ってくれればいい。」
「『あれは嘘』よ、嘘よ……。」
「うん…。」
フェリムは一層強くアルメリーネを抱き寄せた。背中の服をアルメリーネが掴んだのか、引っ張られる感覚がした。この十年、彼女はどれほど心細かったのだろう。その事を考えると、フェリムの胸に後悔の念が押し寄せたが、今は後悔している暇はない。
「アル。さっきも言ったけど、僕はこれから君を独りにはしたくないし、守っていきたい。……僕と共に生きて、笑ってほしい。僕はアル、君を愛してる。これが……、一晩考えた答えなんだ。」
「私で、良いの、フェリムちゃん……?」
驚きからか目を見開いて、アルメリーネはフェリムを見上げた。フェリムは、アルメリーネの目尻に溜まる涙を、優しく人差し指で拭い、その手で彼女を再度引き寄せた。
「僕には君しかいないよ。アル、離れていた十年を取り戻すことは出来ない。けど、これから十年…もっと長くを共につくっていくことは出来るから。……それじゃ、ダメかな。」
アルメリーネは再び涙が溢れるのを感じた。しかし、その口元には紛れもなく笑みが広がっている。今までとは全く違う涙だった。
「いいえ、いいえ。すてきね、フェリムちゃん…。」
フェリムはそう言いながら、自分に抱きついてくるアルメリーネが愛しくてならなかった。
彼女は自分の事をどう思っているのだろう。いつか、同じ気持ちで自分を見てほしい。
「さあ、アル。そろそろ立とう。折角、可愛らしい服を着てるんだ、泣くのもお終いにしよう。それから、出来れば……、ちゃん付けは止めてほしいな。もう僕は、十歳の子供じゃないんだから。」
「ええ、そう、そうね。―――フェリムさん。」
その「フェリムさん」は何故か、今までのそれと、また違うように聞こえた。アルメリーネにとってもそれは同様だった。
アルメリーネは立ち上がると、同じく立ち上がったフェリムを見上げた。彼は彼女よりも少し背が高い。
アルメリーネはリディスの言っていた事がようやく理解できたような気がした。自分はずっと、十歳の少年だったフェリムちゃんを見ていたのだ、ということに。
アルメリーネは、きゅっとフェリムの上着の裾を掴んで彼の動きを止めると、その背中にぴったりとくっついた。
「私、貴方のことが好きよ。…愛してるんだわ。」
そのとき振り返ったフェリムが見たアルメリーネの笑顔は、十年前、あの時から変わらない、彼女が最も素敵に映る笑顔だった。