souvenir et amour

 それからどうしたのだったか。

 ベルはヒューに二度と会いたくないという一心で、醸造所を一人後にした。

 客人を置いて勝手に帰るなど、アルメリーネの顔に泥を塗ることになる――。そんな考えすら、今のベルには浮かばない。

 独りきりで、誰もいない道をとぼとぼと歩く。昼はよい天気だった空は、俄に曇天となって、ついには雨粒を落としはじめていた。

 季節は夏に差し掛かろうとしているものの、日差しもない中では肌寒さを感じる気候だ。ましてや今は、降り出した雨で全身がずぶ濡れとなり、髪の先からはぽたぽたと雫が滴っている。

 寒い。

 けれど身体以上に、心が凍えそうだった。

「――ベルッ!!」

 不意に聞こえた声に振り返る。

「あ……」

 そこには、馬を駆る男の姿があった。その馬が前足を高く上げて急停止するのを、ぼんやりと見つめる。

「ヒュー……」

 実に十年ぶりだった。

 彼の名を呼ぶのは。

 雨粒が頬をすべり落ちてゆく。頽れそうになる足をどうにか動かして、ベルは気が付くと駆け出していた。ヒューも慌てて馬から降りる。

「ヒュー……、ヒュー!」

 衝動のまま彼の胸へ飛び込んだ。

 そんなベルを自身が濡れるのも厭わずに、彼は強く抱きしめてくれる。

 凍りつきかけていた身体が、心が、彼の体温で溶かされてゆく――。

「もう、どこにもいかないで……」

 それだけ言うと、途端に足から力が抜けるのを感じた。

「ベル!?」

 慌てたように名を呼ぶヒューの声が聞こえた気がする。しかしベルはもう立っていられずに、そのまま意識を手放した。




 頭がぼんやりする。

「――雨に打たれたせいでしょう。大事はありませんので、よく養生なさってください」

 遠くに聞こえた医者と思しき声で、どうやら自分は熱を出して倒れたらしい、とベルは知った。

「……ここは?」

 誰ともなく訊ねると、ハッとしたように息を飲む気配を感じ、ヒューが視界に現れる。

「気が付いた? よかった……」

 安堵に彼が膝をつくのを見ながら、ベルは身体を起こそうとした。しかし、ヒューはそれにまたしても慌て、ベルの肩を押さえる。

「まだ寝てなきゃ駄目だ。アルメリーネ夫人には、君が体調不良だと連絡しておいた。だから、心配しないでいい」

 身体を押し留められ、ベルは大人しくベッドに再度身を横たえる。

 そうだ……、奥様に何のご連絡もしていなかった。

 今更ながらそんなことを思い出し、心配げな顔を崩さないヒューを見上げる。

 いつものベルなら、確かにアルメリーネが一番の懸念点だった。それをこの短い間にどうして分かってくれたのだろう。

 湧き上がった気持ちを誤魔化すように瞬きをすると、ほろりと涙が一滴流れ落ちてゆく。

「ベル……?」

 彼の怪訝な表情に首を振って、ベルは辺りを見渡した。

「それより、ここは?」

「宿屋だよ。商会の部下たちとの話し合いに使おうと思って、部屋を取っていたんだけど……。丁度よかった」

 ヒューは捲れていたシーツをベルの肩まで引き上げる。

「ああ、それと。服は女性に変えてもらったから」

 言われてみれば、雨粒を吸って重くなっていたはず服は、簡素ながら着心地の良いワンピースになっている。

「……ヒュー」

「どうした?」

 彼の優しい眼差しに、また涙が零れそうになった。

「私……、あなたが、とても……好きだったの…………」

「……うん」

 胸に凝っていた気持ちを吐き出すと、身体から緊張が解けてゆく。熱で白む思考の中、ベルはぽつりぽつりと続けた。

「あの頃に戻りたい、なんて……、思ったことない。今だって……。でも…………」

 ヒューの方へ手を伸ばす。彼はその手をしっかりと握ってくれた。

「あなたと、一緒に過ごした時間だけは……私にとって、宝物なの」

「ベル……」

「あの瞬間に戻りたい……」

 ついに堪えきれなくなった涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

 ヒューはその涙を、そっと指で拭った。

「戻れるよ。君が望むなら」

「……ほんと?」

「ああ」

 彼はベルに覆いかぶさるような形で、その身体を抱きしめる。

 あたたかくやわらかな感触が心地よくて、ベルもヒューの背に手を回した。

「そろそろ、おやすみ」

 唇が重ねられて目を閉じる。まるでそうすることが当然であるかのように、ベルもまたそれを受け入れていた。

「……そばにいて」

 眠りに落ちようとする間際に、ぽつりと言う。

「ああ、もうどこにも行かないから」

 握られた手のぬくもりに安心して、ベルは再び夢の世界へと落ちていった。




 次の日、熱の下がったベルは、のそりとベッドから起き上がった。

「あ…………」

 傍らにはヒューがベッドの脇に置いた椅子の上で眠っていて、ベルの手を握りしめている。

「ちょっと、ヒュー……」

 空いている方の手でその肩を揺すり起こせば、寝ぼけ眼の彼は目を擦りながら顔を上げた。そして、ベルが起きているのに気付いて、慌てて椅子から腰を浮かせる。

「ベル、熱は? 大丈夫か?」

 そっと額に手を当ててくるヒューに、ベルは苦笑した。

「大丈夫はこっちの台詞だわ。一晩中ここにいたの?」

「ああ……。だって、心配で」

「それに着替えてもいないんじゃない? 雨にうたれたのに。あなたこそ風邪をひいてしまうわ」

「そんなの……、どうってことない」

 ヒューはベルの背に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。それに、自然と身体を擦り寄せて、ほっと息をつく。ほんの少し前まで、この腕を拒絶していたことが信じられないほどに、そこは居心地が良かった。

 ずっと欠けていた何かが、埋まってゆく気がする。

 でも、ここに居続けるわけにもいかないと、ベルは彼からの身を離そうとした。

「ヒュー……。私そろそろ、奥様の元に……」

 昨夜連絡をしてくれたと聞いているが、もう身体の調子は戻ったのだ。彼女のもとに帰らなければ。

 だがヒューはその腕を離そうとせず、ベルの背を撫でた。

「ああ、それなんだけど。念の為にこのまま二、三日は休むように。だってさ」

「奥様が……?」

 ヒューが頷く。

「王都から戻って休みなしだったろ? 夫人はそれを気にされてるみたいでな。屋敷に戻れば働くに違いないから、できればこちらで預かってほしい、って」

「……そうなの」

 心遣いは嬉しいが、案内役を途中で放りだしてしまったばかりか、休みまで……、と罪悪感が湧く。その葛藤が表情に出ていたのだろう。ヒューは困った顔をして、ぽんぽんとベルの背をあやすように叩いた。

「ベルがどうしても戻りたいなら、送るよ。……どうする?」

 ヒューの問いかけに、ベルはむっと唇を尖らせる。

 ここで選択を迫るのが、ずるい。

「……奥様にそこまで言われたら、すぐには帰れないわよ。……ここにいるわ」

 アルメリーネを理由にそんなことを言う。だが、本当はただ――。

 ベルはヒューの服を掴んだ手を、離せないでいる。

 ただ、彼の傍を離れがたい……。それだけなのかもしれなかった。




 それから、ヒューとは多くの時間を過ごした。

 彼の部下たちを紹介されたり、今日のようにアルドラント領一番の街へ散策にも出かけたりと、ベルが退屈を覚えないようにという配慮を端々に感じる。

 散策自体は、主に市場調査のようなものだったため甘さの欠片もなかったものの、ベルにとってはそれこそ――、昔の数少ないやわらかな記憶を思い起こさせて心が安らいだ。

「ベル、今日は付き合ってくれて、ありがとう」

 市街から宿に戻って馬車を降りたところで、ヒューがベルの手を引きながら言った。

「そんなの……。どうせ暇だもの」

「暇つぶしでも俺が嬉しかったの。……あ、そうそう」

 何かを思い出したように、彼は懐を探りだす。

「はい、これ。今日の記念に」

 差し出されたのは、リボンがかけられた小さな箱だった。

「記念って……。何の記念よ」

 ベルは苦笑まじりに封を解いて、その箱を開ける。

「あ……」

 中に入っていたのは、小さなイヤリングだった。深い青色をした――まるで、海を閉じ込めたような石がついたものだ。

「それ、見てただろ?」

 彼の言う通り、ある骨董品店に行った時に目を奪われた品だった。

 気付かれてたなんて。

 ベルは気恥ずかしさに頬を染め、そんな表情を見られないようにヒューから視線を逸らす。

「いつの間に買ったのよ……」

「驚いた?」

 彼の楽しげな声に、そっぽを向いたまま頷いた。ちらりと、盗み見るように目だけをヒューの方に向ければ、そこにはいたずらっぽい笑顔が浮かんでいる。

 そうだ。彼はいつもこうして、ベルの無駄に入った力を抜かせてくれていた。

「ヒュー……」

 今ならば、彼と上手くやっていくことが出来るのだろうか――。

 そんなことを、ふと思った自分自身に驚く。

「なに?」

「……ううん。その、ありがとう」

 ヒューの表情がぱっと輝いた。その明るい笑顔があまりにも眩しくて、胸が疼く。

 そんなに喜ばないでよ……。

 素直になれずにそんなことを思いながらも、ベルはあたたかな気持ちが全身に広がっていくのを感じていた。




 それから数日が経ち、ベルはアルメリーネの元へと戻ることを決めた。

 彼と過ごした日々をほんの少しだけ名残惜しく思いながら、ただ、その気持ちは耳に輝く海色のイヤリングに隠して、アルドラントの屋敷前に降り立つ。

「送ってくれて助かったわ」

 ベルは馬に相乗りしてきたヒューを振り返って言った。

「いや、俺が君といたかっただけ」

 苦笑するヒューに少々照れて――、それを悟られないように眉根を寄せる。

「ねえ、ベル。これからの事なんだけど……」

「――ベルさん!」

 背後から割って入った声に、ハッとして屋敷の方を見た。

「…………アンディ」

「よかった。酷く体調を崩したと聞いて……。心配してたんだ」

 ベルの手を取り、邪気のない笑顔を浮かべる彼に、罪悪感が胸を突く。

 その手を振り払えないでいると、今度は後ろから抱き竦めるようにヒューの腕が伸びてきて、アンディから引き剥がされた。

「……ベルから離れてくれないか」

 腰に回った腕を見て、アンディが顔をしかめる。

「貴方にそんなことを言われる筋合いは、ないと思いますが?」

「いや、ある」

「……何故?」

「彼女は俺の婚約者だ」

 その言葉を聞いた時、ベルは湧き上がった怒りで頭がどうにかなるかと思った。

 俺の婚約者……?

「――馬鹿なことを言わないでちょうだい」

 怒りも過ぎると冷静になるらしい。ベルは身を捩って彼の腕から抜け出すと、真正面からヒューに対峙する。

「ベル……」

「私たちの婚約なんて、とっくの昔に無くなっているはずだわ」

「ベル、俺は…………」

 キッと睨めつければ、彼はたじろいだように口を噤んだ。

 それが――、一層腹立たしい。

 理不尽な怒りなのは理解していた。けれど、あとからあとから怒りが湧いてきて、一向に収まらない。

 婚約者なんて言葉は嫌いだ。まるで、義務として傍にいるのだと、そう言われているように感じてしまう。

 きっとヒューには、そんな意図などなかった。そのくらい、分かっている。けれど――。

 ベルは彼の背後に向かって指を差した。

「帰って」

「ベル――」

「帰ってよ!!」

「…………わかった」

 ヒューはぽつりと呟くと、無言で馬に跨りベルに背を向ける。

 小さくなっていく背中を見つめながら、唇を噛み締めた。

 あの男は、一度も振り返らなかった。

 それが彼の答えであるような気がして、涙が込み上げそうになる。

 もうどこにも行かない、って言ったくせに――。

 自ら「帰れ」と言っておきながら、とも思う。それでも、置いていかないでと胸の中で小さな自分が泣いていた。

「……ベルさん」

 控えめにかけられた声に、現実へと引き戻された気がした。

「あの、僕……」

 ベルはゆっくりと振り返って、アンディの顔を見上げる。

 彼となら、穏やかな「幸せ」が手に入ると思った。でも――

「……ごめんなさい」

 気が付くとそう口にしていた。

「ベルさん」

「私、やっぱりあなたの気持ちには応えられない。思わせぶりなことをして、本当に酷いと思ってる。でも……」

 もう認めざるを得ない。

 私はずっと昔から、そして今も――

「……あの人が、好きなの」

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