souvenir et amour

 気まずい会話から一週間。

 あの日以降、ベルがアルメリーネたちと馬車に同乗することはなく、他の侍女たちと共に移動することとなった。

 ヒューと顔を合わせなくて済むことはとてもありがたい。一時だけとはいえ、彼のことを考えずにいられるのは、気が楽だった。

 そして長い道のりも終わり、アルドラントの屋敷に到着する。

「お帰りなさいませ」

 領地管理を任される家令たちの出迎えを受けるアルメリーネたちの後ろで、ベルも顔馴染みと再会をしていた。

 仲の良い侍女仲間から、最近の領地での様子や起こったことを聞いたりしていると、後ろから肩が叩かれる。

「ベルさん、おかえり。久しぶりだね」

「アンディ」

 赤茶の短い髪を後ろに束ねた人の良さそうな青年は、屋敷の料理長に師事する見習いだった。

「ええ、久しぶり。元気だった?」

 にっこりと微笑むと、彼の?がうっすらと朱に染まる。

「う、うん。ベルさんも元気そうでよかったよ。あ、そうだ聞いて」

「どうしたの?」

「今日のご夕食のデザート、僕に任せてもらえることになったんだ」

「本当? すごいじゃない!」

 良かったわね、と手を叩いて喜ぶと、アンディの頬はますます赤くなった。

 純朴そうな彼は、ベルに対する好意がだだ漏れている。それこそ、誰の目にも明らかなほど。

「……。ね、どんなものを出すの?」

 しかしベルは、それにずっと気付かない振りをしていた。

 気付かなければ、このままでいられる。このままでいればきっと、傷付くこともない。

 そんな卑怯な考えを胸の奥に隠したまま。

 アンディが嬉しそうに話すのを笑顔で聞きながら、ベルは屋敷の中へ歩き出す。

 その時、不意にヒューと目が合った。

「…………っ」

 何――?

 思わず震えるほど、強い視線がベルを射抜いていた。

「ベルさん?」

 立ち止まってしまったベルに、アンディが怪訝な顔をする。

「な、なんでもないわ」

 睨んでいるとさえ言えるような眼光から、どうにか視線を引き剥がして背を向けた。

 だが、その背中にずっと彼の眼差しを感じる。

 どうして、あんな……。

 ベルは酷く緊張しながら、その視線から逃れるように屋敷へと入っていった。




 アンディと別れたベルは、数名の侍女と共にアルメリーネの私室にいた。

 運び込まれた荷物を、皆で次々に整理していく作業に取りかかる。そもそもは身の回りに関心の薄い主人であるため、それほど時間はかからない――のが前年まで。今回は、仲直りを果たしたフェリムによって愛しの奥様へのプレゼントが大量にあり、それを嬉しさと戸惑いと、あと呆れとが入り混じった表情で、手早く片付けていった。

 ようやく部屋が綺麗になり他の侍女が下がった頃、アルメリーネが姿を現す。ベルは晩餐の身支度に訪れた彼女を、鏡の前へ導いた。

「長旅お疲れ様でした、奥様」

「それは貴女もよ、ベル」

 彼女はそと微笑み、鏡台に座る。

「今日くらい休んでも良かったのに」

「いいえ。奥様にお仕えすることの方が、私には大事ですから」

 既に湯浴みを済ませたアルメリーネからは、香油のよい香りがした。ベルは鏡越しににっこりと笑って、滑らかな髪に櫛を通す。

「……ありがとう、ベル」

 彼女はその口に感謝を乗せるがそこには、冴えない表情が浮かんでいた。

「奥様……、どうかなさいました?」

 思わず問いかけると彼女は振り返ってそっとこちらの手を取る。

「怒ってはいない?」

「え……、私がですか?」

 頷くアルメリーネに、ベルは首を捻った。

「その、ヒューさんと無理に会わせたこと」

「あ……。いえ、……無理に、なんて」

 驚いたのは確かだし、愉快だったわけではない。とはいえ、承諾を取ろうとしてくれた際に、名前を聞きもせず受け入れたのは自分だ。

 それに、二日目以降に彼と顔を合わせずに済んだのは、彼女の配慮であることをベルは気付いている。

「あのね、ベル」

「……はい」

「明日から、ヒューさんに畑とリキュールの製造所をご案内しようと思っていたのね。それで、その案内役として彼は……貴女を指名してきたの」

「え……」

 何故、と思わずにはいられない。

 実のところ、ベルはアルメリーネの補佐のような役割も果たしていた。そのため、件のリキュールについても彼女の次くらいには知識があるし、案内役として不足のない人間ではある。

 ただそれは、実情を知っていれば――という話だ。外から見たベルは、アルメリーネに付き従うだけの、ただの侍女にしか思えないはずなのに。

「『ベルが承諾すれば』と言ってあるから、断ることも出来るけれど……。どうしたい?」

「わ、私は……」

 断ってしまえばいい。

 そう思うのに、喉が張りついたように声が出なかった。

 おそらくここでベルが拒絶すれば、きっとアルメリーネは二度とあの男と会わないように取り計らってくれるだろう。

 だから、断ってしまえばいい。それなのに――。

「ベル」

 黙り込んでしまったベルに、アルメリーネは優しく声をかけた。

「奥様……、私……」

 どうしたらいいのか分からない。

 理性は断ってしまえと言っているのに、その言葉を口にすることがどうしてもできなかった。

「ねえ、ベル。私とフェリムさんがすれ違ってしまったのは、会話が足りなかったからだと思うのね」

 アルメリーネは、握ったベルの手に更に力を込めた。

「貴女があの方に対して、何か思うところがあるのは見ていれば分かるわ。けど――」

 彼女の真剣な目が、こちらを射抜く。

「『今の彼』を見てから決める……。それでも遅くはないのではないかしら」

「……でも」

「会えなくなってから後悔するよりも、今のうちに見極めてみてはどう?」

 目を伏せて黙考する。

 アルメリーネはじっと、その考えが纏まるのを待ってくれていた。

 そして、ベルが出した答えは――




「今日はよろしく、ベル」

 明くる朝、ベルは屋敷の前でヒューと共にいた。

「……奥様にどうしてもと言われたので、仕方なくです」

 アルメリーネの勧めに従い、彼を見極めてみることにはしたものの、すぐさま素直になれるはずもなく、憎まれ口を叩く。

 この男と別れてから十年も経ったというのに。

 ベルは内心嘆息する。

 あの日に負った心の傷は、いまだにじくじくと痛んで血を流している気がした。

「……行きましょう」

「うん」

 それぞれ馬に乗って屋敷を出る。

 オレンジ畑自体は近くにもあるが、訪問を予定しているのは領地内でも規模の大きな醸造所のある家で、少し離れた場所にあった。

 一応案内役であるベルは、道中無言――というわけにもいかず、ヒューと馬を並べてぽつぽつ説明をする。

 製造方法についてや、酒造りに従事している人々のこと。また、実際取引が成立した際にどの程度の量が輸出できるのか、国内での消費状況など、彼からの質問も多岐に渡った。

 どこまで答えてよいか分からないものについては、「奥様にご確認を」と返したものの、次第に弾むようになった会話は、ほんの少し――過去の優しい記憶を思い起こさせる。

「――やっぱり、ベルを案内に指名してよかった」

 不意にそんなことを言ったヒューに、ベルは虚を突かれる。

「…………どうして?」

「君は昔から頭のよい人だったから。きっと奥方を一番に支えているだろう、って思った。案の定だ」

「……そんなこと」

 ベルは俯いて唇を噛む。

 頭がよい? そう見えていたのだとすれば、必死に必死に勉強して――、どうにか見れるようにしていた努力も、多少は効果があったのだろうか。

 それでも両親の期待を超えられるほどでは、なかったけれど。

「こんなの……、奥様の近くにいれば、誰だって答えられる」

「そんなことない。過去二十年の収穫量の推移を資料も無しに諳んじれる人なんて、そうはいないよ」

「ただ覚えていただけだわ」

「なら、酒造を開始してからの領地内における生活向上についての見解は? あれも誰かの受け売りだとでも? 違うだろ?」

「…………」

 彼からの反論に、ベルは手綱をぎゅっと強く握った。

「ベル……」

「――やめてよ!!」

 気が付くと、そう叫んでいた。

 湧き上がる激情を抑えつけようとするが、それは堰を切ったように溢れてくる。

 ヒューがはっと息を飲む気配がした。だがそれでも――、一度飛び出した言葉は、もう止まらなかった。

「私は出来ない子なの! もう何も期待しないで!! 私に、押し付けないでよっ!!」

 ベルはいつも「期待」されていた。

 けれどそれは、こなせて当然のことを当たり前にすることと同義だった。しかしベルはその「当たり前」を、当たり前に出来るだけの能力がなかったのだ。

 だからいつも苦しくて――。アルメリーネに出会い、「あなたの速度でいい」とそう言葉で、態度で示してくれたことが、本当に心を軽くさせてくれた。

 あたたかい人々の中で、忘れかけていた過去の重圧。それが、ベルの喉を締め付けるようだった。

 涙が零れ落ちそうになり、ぎゅっと目を閉じて我慢する。

 この男の前で、泣きたくなどなかった。

 だって、きっとまた、拒絶されてしまう。そうなれば私は――。

「……ベルさん?」

 割って入った別の声に、ベルはハッと顔を上げた。

「アンディ……」

 何故ここにと言いかけて、今日向かう予定だった醸造所は彼の実家だと思い至る。

 もうこんなに近くまで着いていたのか。

 言い争いの声を聞かれていたのなら、なんとバツが悪いのだろう。

 ベルは取り繕ったように笑った。

「今日はお手伝いに帰ってたの?」

「う、うん……。お客人が来るからって……」

「そうなの。じゃあ丁度よかった。彼を中に案内してあげてくれる?」

「え、あ……」

 そこでアンディは、初めてヒューの存在に気付いたような顔をした。

「醸造所については、私より知っているでしょう?」

 ベルはさっさと馬を降りると、同じように地面へ立ったヒューの馬も引き取った。

「私は馬を預けてくるから。お願いね」

 彼らの返事を聞きもせず、ベルは背を向けて歩き出す。

 何度もアルメリーネと共に訪れた場所だ。難なく厩を見つけると、馬丁に世話を頼んでその場を後にする。

「…………はぁ」

 本来ならすぐにヒューたちの元へと戻り、案内役の仕事を続けなければならない。

 だが、どうしても足が動かなかった。

 庭の隅にしゃがんで溜息をつく。木陰になったそこは、誰にも見つからないだろう場所だ。ベルは黙ったまま視線を落として蹲る。

 ……どうして、私をかき乱すの。

 この場にいない男に、恨み言が浮かんだ。

 息が苦しくて、胸元をぎゅっと掴む。

 その時。

「あ、いた」

 ベルの上に濃い影が落ちて、顔を上げる。

「あ……」

 一瞬、ありもしない想像をした。

「……アンディ」

 ベルは目の前に現れた彼に、明らかに――失望していた。彼は何一つ悪くないというのに。

「どうしてここへ?」

 ベルはスカートの裾を払って立ち上がった。

「その……。ベルさんの様子がおかしかったから、気になって」

 ヒューのことは、父親に預けてきたそうだ。

 アンディは、ベルの顔を覗き込む。

「……泣いてたの?」

 思わず動揺して、手を?に当てた。濡れてはいない。

「そんなことは……」

 苦笑を浮かべて誤魔化そうとするが、彼の真剣な顔は変わらなかった。

「でも、泣きそうな顔してるよ」

 アンディの手がベルの目元に伸ばされて、思わず一歩身を引く。

「あ……、その……」

 傷付いた顔で手が降ろされるのを見て、ベルはどうしようもなく罪悪感に埋め尽くされた。

 もう、いいんじゃないの?

 そんな自分の声がする。

 こんなにも、私を優しく愛してくれる人なんて、他には――。

 彼を選べば、きっと少し退屈で、けれど平和で穏やかな日々が待っているに違いない。

 なら――。

 ベルは自らが空けた距離を詰める。

 一歩、二歩、と彼に近付いて、その肩口に頭を預けた。

 何も言わないまま、俯いてじっとする。

「……ベルさん」

 アンディの手がぎこちなく背にまわった。慰めるように動くその手を、ただただじっとして受け入れる。

 そんな二人の影を見つめる視線に、ベルは最後まで気付かなかった。




 アンディと別れたあと、ベルはまだ当てもなく庭を歩いていた。

「……どうしよう」

 胸の高鳴りなど一つもない抱擁が思い出される。

 彼を選ぶべきなのだ。そう考えて身を委ねようとしたのに、丁度その時にアンディは呼び出しを受けて去っていった。

 その瞬間浮かんだのは、紛れもない――安堵だった。

「……ベル」

 ふと呼びかけられた声にハッとする。

「あ……」

 そこにいたのは、今度こそ……ヒューだった。

 彼は眉根を寄せてズカズカと歩いてくると、ベルの手首を掴む。

「何を……!」

「――アイツが好きなのか?」

 落とされた言葉に、胸がドキリと音を立てた。

 アンディのことは信頼している。けれどきっと――、「好き」ではない。

 だが、ヒューに掴まれた手が熱くなって、そう思ってしまう自分に、そしてそれを気付かせた男に反発を覚えて叫んだ。

「だ、ったら! どうだと言うのよ!!」

 手首をもぎ取ろうとするが、彼の力は強くびくともしない。

 ヒューの顔が苦々しげに歪められる。

「っ……!」

 苦しげな表情のままベルは身体を引かれ――、ヒューの胸元に抱きすくめられていた。

「は、はなし……」

 ベルが拒絶の言葉を吐き切る前に、背中に回った手にきつく力が籠る。

「嫌だ……! やっと……、やっと、見つけられたのに」

 息が止まるかと思った。

 まるで、ずっと行方を探してくれていたかのような言葉じゃないか。

 でもそんなはずが――。

「十年もかかった。国外の伝手を作るために、俺がどれほど手を尽くしたか分かるか!? 必ず生きていると……、信じて……」

「……どうして」

 ヒューはベルを抱きしめていた腕を緩めた。見上げると、そこには泣きそうな顔がある。

「……君が……、好きだから」

「あっ……」

 彼の指が顎にかかる。吐息が近付いて――、唇が重なった。

 触れるだけの口付けは、すぐに離れていく。

 信じられなかった。

「……うそよ」

 ずっと探していたなんて、あり得ない。だって、彼は――。

「どうしてなの。今の私は、もう家にも帰れない。ただの、侍女なのに。あなたが必要とするようなものは、もう何も持ってないの」

 それとも、あの家はまだ私を勘当していないのだろうか。十年も失踪していたというのに、後継者のままだとでも……?

 ベルは唇を震わせた。

 だってそれくらいしか――、彼が自分に執着する理由など、あるはずがない。

「ベル、俺は……。君がいてくれたら、それで――」

「――嘘言わないで!! なら……。そんなことを言うなら……! どうしてあの時、ただ抱きしめて、慰めてくれなかったのよ!」

「あの時……?」

 思い当たることがない、という顔をするこの男が憎いと思った。それくらい彼にとって、最後の日に起こった出来事は、言葉は、何ということもないものだったのだろう。

「私は……、あなただけは、私を、受け入れてくれる、って……ばかなことを…………」

 ヒューの服を掴み、顔を伏せて呟く。彼はハッとしたように息を飲んだ。

「まさか十年前の……、最後に会った日のことを……言ってるのか?」

 素直に認めるのは抵抗があったが、観念して小さく頷く。ヒューはベルを再度抱きしめた。

「……ごめん。あの時は、君がそこまで思い詰めているなんて、考えてなかったんだ。ちょっと落ち込んでるだけだろう、って。発破をかけようと――」

「違う」

 ベルは低く呟く。

「あなたは私に『家を継いでくれなくちゃ困る』と言ったわ。私は、それで……」

 ヒューが動揺するように、身体を震わせた。

「…………俺の…せい……?」

 やはり分かっていなかったのだ。

 ベルはぎゅっと手を握りしめる。

「そうよ。あなたのせい。あなたは私の身分が好きだったのでしょう? なのに、今更……」

「!? ちが、あれは、そんな意味じゃ――」

「……じゃあ、どんな意味なのよ」

「それは――……」

 ヒューは口を噤む。返答はこない。ならば、沈黙こそが肯定ということだ。

「……離して」

 彼の腕が、呆気なく離れていく。

 ぬくもりが失われた気がして、身を切られるような心地がした。

「っ……」

 今まで我慢していた涙が一筋零れ落ちた。

「ベル、」

「近寄らないで!」

 ベルはヒューに背を向ける。

「もう、私に構わないで」

「…………、」

 数拍ののち、彼が踵を返した音がした。そのまま足音が遠ざかってゆく。

「……っ、う」

 ベルはその場にしゃがみ込んで、顔を両手で覆った。

 ――行かないで。

 その言葉を口にすることはできなかった。

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