souvenir et amour一
ベルの朝はとても早い。
日の出と共に起きて軽く身繕いをし、この家の奥方アルメリーネの元へと向かう。
雇い主である当主よりもよほど、自分にとって唯一の主人だと仰ぐ彼女は驚くほど働き者で、ベルにとっては同じ女性としても素晴らしく尊敬できる相手だった。
「おはようございます、奥様」
扉を叩き、そっとそれを押し開ける。
「……あら」
だがそこにアルメリーネの姿はなく、ベルは口元に手を当てた。
以前ならば、早起きの彼女がこの時間に起きていないことなど、なかったのだが――。
ベルはちらりと、続き部屋に通ずる扉を一瞥する。
先日、長い……長すぎる遊学期間を経て、十年ぶりにアルメリーネの夫君が帰宅した。
はじめはぎこちない様子の二人だったが、次第に心を通わせるようになり、最近は――こうして寝室からなかなか出てこない朝も増えている。
アルメリーネは幸せそうだった。
それ自体はとても嬉しい。きっと、子ができる日も遠くはないだろう。そんなことを考えれば、心が踊った。
もっとも、そんなに簡単に許していいのか、というモヤモヤもまだ残っているものの――。それはそれ、だ。
「…………」
ただ、浮かれる気持ちとは別に、心の奥にしまい込んだ傷が疼く。
ほんの少し、本当にほんの少しだけ、「羨ましい」と思っている自分がいることに、ベルは気付いていた。
ああやって愛し愛され、お互いを支え合って生きていく。
その関係性はベルにとって、とても……、とても、焦がれていた愛の形だったから。
「馬鹿ね、私は」
どうして敬愛する主人の幸せを、ただ無邪気に喜ばせてくれないのだろう。
それもこれも――、あの男が過去を連れてきたからだ。
必死に逃げて逃げて逃げて……、やっと振り切ったと思っていたのに。
ベルはその場に立ち尽くしたまま、ぎゅっと目を瞑る。アルメリーネと顔を合わせる頃には、「いつものベル」に戻るのだ。
あんな男、知らない。「ベル」は、知らないのだ。
当主フェリムの友人として訪れた男は、あの日以降不気味に沈黙している。
ならば、こちらも同じものを。
きっと顔を合わせなければ、忘れていくだろう。
そう願って、ベルは無理やりに「いつも通り」の笑みを浮かべた。
王都での社交シーズンも終わり、ついにアルドラントの領地へと戻る頃になった。
ベルも当然ながらアルメリーネについて行くため、来年までこの地を踏むことはない。
荷が積まれていく馬車を見つめながら、やっと戻れるのだと内心とても安堵していた。
正確には……、「戻れること」に、ではなかったのだが。
結局もう一度あの男が、ベルの元へ訪ねてくることもなく。きっとこのまま王都を出れば、彼と会うこともないだろう。
やはり、あの男にとって自分はその程度の相手だったのだ。
懐かしい顔を見たから、急に姿を消したことを問い詰めただけで、少しすれば忘れてしまうような、そんな。
ベルは当然じゃないかと自嘲を浮かべる。
今の自分は一介の侍女だ。そんな女に利用価値などあるはずもない。
聞いたところによると、あの男は商会を開き、中々のやり手として名が広まりつつあるらしい。ならば、それに相応しいのは、貴族に婿入りできるような家の一人娘か、もっと大きな商会の娘か――、そんなところだろう。
そのどちらでもない、ただの幼馴染、ただの知人、顔見知り、その程度の自分など歯牙にもかけるはずはなかった。
ほんの少しだけ、期待した……けれど。
そんなものは存在しなかったことにして、胸の奥底にしまい込む。
「――ベル」
ふと聞こえたアルメリーネの涼やかな声に、ベルは顔を跳ね上げた。
「は、はい。奥様」
「大丈夫? ぼんやりしていたようだけれど」
心配げな彼女に、大袈裟なほど明るく笑って答える。
「ぼんやりなんかしてませんよ! 元気いっぱいです! それより、何かご用ですか?」
アルメリーネはじぃっとベルの顔を見つめたが、結局は何も訊ねずに、困ったように微笑んだ。
「なら、いいのよ。そう、用事なのだけれど……」
「どうかされました?」
彼女は言葉に迷うような、表情でゆっくりと言った。
「その、ね? 私……馬車に乗るじゃない? フェリムさんと一緒に」
「……? はい」
夫婦なので当然だろう。改めてどうしたのかと思っていると、アルメリーネは続ける。
「それで、貴女にも同乗してほしいのね」
「……はい」
「それでね、もう一人……ご一緒する方がいるのだけれど、構わないかしら……?」
どうやら、四人目の同行者についてが本題だったらしい。
ベルは首を傾げながらも、頷いた。
「奥様がよろしいのでしたら、私に否やはありませんよ」
「……そ、そう。…………ごめんなさいね」
「え?」
最後に呟かれた謎の謝罪に問い返す前に、ベルの背後から声が響いた。
「今回はお招きいただき、ありがとうございます。夫人」
「…………え」
悲鳴を上げなかったのは奇跡だと思う。
そこには、もう二度と相まみえることはないはずだった男――ヒューがいた。
「本当に、ごめんなさいね……」
思考停止して固まっているベルに、アルメリーネがもう一度、謝罪を口にする。
一方、当のヒューは呑気なもので、目が合うとウインクを飛ばしてきたので、思わず殴りそうになった。
なんでも、ヒューは商談の話をするために同行を決めたらしい。
アルメリーネが領地を盛り上げるために開発したリキュール。それらを故国で専売したいのだそうだ。
今のところ、件のリキュールは国内でのみ流通している。それほど量産ができるわけでもない。
それでも――、いや、だからこそ、彼は今のうちにアルメリーネと手を結んでおきたいのだろう。
流通量が少ないことは、裏を返せば希少価値が高いということ。珍しいものに目がないのは、どこの貴族も同じだ。商機は十分に見出だせる。
つまり、完全に仕事目的でこの男は来たらしい。
ベルは対面に座るヒューを、それと分からない程度に睨む。
彼は昔から社交性に富んでいたが、そんな性質は今も変わらないようだった。友人だというフェリムはもちろん、あまり愛想の良い性格とは言い難いアルメリーネも、朗らかに彼の話を聞いている。
ここでむっつりと黙り込んでいるのは自分だけだ。
己ばかりこの男を気にして、馬鹿みたいだとも思ったし、拗ねているように見られるのは癪だとも思った。けれど他の人にするように、この男に向かって笑いかけてやることなど、もっと出来そうになかった。
もう今更、どういう態度を取れば良いのかも分からない。
ベルは彼から視線を外して、流れる景色を見つめた。時折、隣に座るアルメリーネが心配げにこちらを窺っているのは分かっていたけれど、それでいて気付かない振りをする。
馬車の外に見えるのは、何の変哲もない小麦畑だ。この十年ずっとアルメリーネの傍らにあったベルにとっては、もう見慣れすぎるほどに見てきたものだった。
だからもう、改めて目に留めるようなものは何もない。
それでもベルは、まるでその先に見つけなければならないものでもあるかのように、一心にそちらへ視線を向けていた。
「――ベル、つまらなかったかな?」
不意に三人の会話が途切れた時、ヒューのやわらかな声が届いた。
急に話しかけられたことに驚いて、びくっと身体を揺らす。
「あ……、いえ」
動揺したのを悟られないように、つんと視線を逸らした。
「私は奥様の侍女としてこの場にいるだけです。どうぞお気になさらず」
冷たく言い放てば、ヒューの目に一瞬だけ傷付いたような色が乗る。だが次の瞬間には、それは幻のように消えていて、ベルは見間違いだろうと結論づけた。
だってこの男に、私の言葉ごときで傷付く理由などないのだから。
ヒューはほんの少し寂しそうに、その顔に笑みを浮かべる。
「……そう。付き合わせてしまっていたんだね」
それきり彼は人が変わったように黙り込んだ。
ベルは胸を刺すトゲのような罪悪感を無視して、また窓の外へと視線を向ける。
背後ではアルメリーネとフェリムが困ったように顔を見合わせていた。