第三部晴れ渡る国

第五楽章思い出をたずさえて

「ラミア、どうして急に……」

 当惑するルテスをよそに、ラミアはとある場所を目指して歩いていた。

 フーデリアの湖。

 あの場所を目指し、ラミアはただ足を動かす。

 ユチルの家とフーデリアにある妖精の里は、妖精たちのもつ術で繋がっている。それを使い、ラミアはルテスを連れて湖を目指していた。

 森の中にある、あの湖だ。

 その近くまで行った頃には、彼もラミアがどこを目指しているのか分かったらしく、何も言わなくなった。

 ほどなくして、目の前に開けた場所が現れる。

「……久し振り、ね」

 記憶の中のものより少し小さくなったような気がした。日照りの影響は、王都から遠いこの地にも影響を与えはじめているのかもしれない。

 ラミアは靴を脱ぎ、湖へと近付く。

 ルテスは何も言わず、ただそれを見守ってくれていた。

 冷たい水に足を浸す。その感触を感じるか感じないかで、ラミアは舞はじめた。

 三年の間、目を背けてきたものだった。

 だがそれはラミアの身体に驚くほど馴染んで、今まで舞をせずに生きて来られたのが不思議なくらいだった。

 いつかと同じように、湖の上で舞った。

 目を閉じ、心の赴くままに拍子をとって、足を踏み鳴らし、くるりと回る。

 あれほど――嫌悪すらしていたはずのものなのに、楽しくて、仕方がなかった。

 その時、ぽつんと頬に何かが当たる。

「あ……」

 目を開き、舞は止めないままに空を見上げる。

 青い空に、薄い雲。そして――

「……雨」

 濡れるにまでは至らないような、細い雨が降る。

「あぁ……」

 こんな雨では、王都を苦しめる日照りには何の役にも立たない。

 それでも。

 ラミアは胸がいっぱいになった。頬を涙が伝う。

「私は、まだ舞姫なんだ――」

 呟きと共に、集中が切れたのか足から抵抗が消えた。

 あ、と思う間もなく湖に落ちる。水飛沫の合間から、ルテスの声が聞こえた気がした。

 ずぶ濡れになったラミアは、腰のあたりまで水に浸かりながら、呆然と座り込んでいたが、大慌てで駆け寄ってくるルテスを見て、ぷっと吹き出した。

「ラミア……」

「ふふ……、だって、いつかと同じなんだもの」

 くすくす笑っていると、ルテスが大きな溜息をついた。そして、ひょいと抱き上げられる。

「今回ばかりは、水量が少なくて感謝だな」

「そうね」

 あの時はラミアを助けるため、ルテスまでずぶ濡れになった。もっとも、ずぶ濡れのラミアが抱きついていては、同じかもしれないが。

 ひとしきり笑ったラミアは、ルテスの首に腕をまわした。

 あの時よりもたくましくなった彼の腕にドキドキしながらも、どこか安心する。

 そして、言った。

「私、舞うわ」

 空を見上げると雨はもう止んでしまっていたが、代わりに虹がかかっていた。




 それから、事はトントン拍子に進んだ。

 ルテスを介してユリーシアとやりとりをし、ラミアが儀を執り行う日もあっという間に決まる。

 王都の中心街にある広場が舞台となり、準備は進んでいた。

「いよいよ明日、だね……」

 設営の終わった舞台を、ルテスと共にラミアは見ていた。

 街の人々は、明日この場所で、誰が舞をするのかは知らない。

 ラミアは、「醜聞」を起こした一ノ姫。国民からの反発は必至と、その正体は伏せられている。だが、王宮のお膝元であるこの街では、まだラミアの顔を覚えている者も少なくないだろう。

 それと知れた時どんな反応をされるのか、それが怖くて堪らなかった。

「ラミア」

 傍らに立っていたルテスに、手をそっと掴まれる。

 そのぬくもりに安堵するとともに、知らぬうちに手が震えていた事に気付く。

「ルテス……」

 見上げると、彼は神妙な顔をして、舞台を睨むように見ていた。

「明日の事で、一つ……言ってなかったことがある」

「え……?」

 彼の思わぬ言葉に、ラミアは目を瞬かせる。

 ルテスは言葉を選ぶように視線を彷徨わせた後、ラミアの目を見つめて、言った。

「明日、舞を奉納するのは、俺達だけじゃない。……もう一人、いるんだ」

「もう一人?」

 フーデリアに行ってからこの日まで、ラミアはルテスと何度か舞の練習をしていた。舞姫一人、楽士一人のつもりでの練習だった。

 その「もう一人」は舞姫なのか、楽士なのか。どちらにせよ、感覚が変わってくることは間違いない。

 ラミアは不安になって、思わず握っていたルテスの手に力を籠める。

「それは、誰なの?」

「それを話す前に、聞いておきたいことがある。――ユチルの昔の話、何か聞いたことは?」

 何故、ここにユチルの名前が。

 ラミアはそう思ったが、ひとまず質問に返答する。

「フーデリアにある妖精の里で育った、って事くらい、だけど……」

「――昔、フーデリアの山中で、大きな土砂崩れが起きた」

 またしても、突然に話題を変えたルテスに、ラミアは目を瞬かせる。だが、彼にはどこか口を挟ませないような気迫が見え、ラミアは黙って彼の言葉を待つ。

「幸い、村への影響はなかったから、それは次第に忘れられていった。けど、妖精の里では、そうではなかった」

 ルテスは過去を思い出すように、遠い空を見上げる。

「里にも直接の影響はなかったらしい。けど……、その災禍が起きた理由が問題だった」

「理由……?」

 ルテスは頷いて、言葉を続けた。

「俺達人間は、雨を降らせたければ、舞と楽をするだろ? でも、妖精達はそれに加えて、歌も重要なんだ。――その日も、一人の少女が歌っていたらしい」

 ラミアは、バラバラに見えていた話の断片が繋がるのを感じた。

「まさか……、ユチルが――」

 ルテスは何とも言えぬ苦笑を浮かべた。

「ユチルは稀代の歌い手だったらしい。けど、その日から歌うのを止めてしまった。もう十年以上だ。俺達は、それを歌えるようにしなければならない」

 十年。

 自分の三年とは比べものにならないほど永い時間、歌と離れたユチル。

 そう思うと、ラミアはどういう気持ちで自分を見ていたのだろうと、切なくなった。

「ルテス、三人目、は……」

 その答えは、分かっていた。

 しかし、聞かずにはいられなかった。

 ルテスは一瞬だけ言葉を詰まらせて、言った。

「――ユチルだ」




 雨を降らせるための儀の日を、ラミアは迎えていた。

 三年振りに、舞姫の衣装に袖を通す。

 あの時も、これはこんなにも重かっただろうか。

 頬の隣で揺れる一ノ姫の房飾りは、あんなに馴染んだものだと思っていたのに、今は異質でしかない。

 ラミアは一つ溜息をついた。

「『一ノ姫』は、重いね。――レルカ」

 存在に気付かれていると思っていなかったのか、背後から息を飲む声が聞こえた。

 振り返ると、立ち竦む彼女の姿が見える。

 房飾りに触れると、五色のそれがさらりと揺れた。

「ねぇ、レルカ。私……、これが終わったら、この房飾りが二度と、誰の手にも渡らないようにしようと思ってたの」

 レルカは、黙ったままラミアの言葉をじっと聞いていた。

 ラミアは一ノ姫としての日々を思い出し、目を伏せる。

「でも、違うんだね」

 かつては、ここに存在して当たり前だったものが、今はそう思えない。その現実を目の当たりにして、ラミアは勘違いに気付いた。

「もう、『一ノ姫』はいないの。この世界の、どこにも。だから――」

 ラミアは触れていた房飾りを、ぎゅっと掴んで、そのまま引き千切るように、それを取った。髪が数本ブチブチッと音を立てたが、意外なほどあっさりと取れてしまったそれに、ラミアは少し悲しいような、よく分からない心地がした。

 レルカを見ると、彼女は目も見開いて固まっていた。

「私は、もう『一ノ姫』じゃない。ただの『ラミア』として、舞う」

 房飾りを近くの卓に置いて、ラミアはそれに背を向けた。

「ありがとう、レルカ」

「え……」

 この決断が出来たのは、多分、レルカがいたからだと思った。

 レルカが、この三年間の思いを伝えてくれたから。

 私は、あなたを赦す。

 その気持ちを込めて、ラミアはレルカに微笑んだ。




 呆気にとられるレルカをおいて、屋外へ出たラミアは、照りつける太陽を見上げた。

 もう何日も変わらず、それはギラギラと輝き衰えることはない。

 ラミアは化粧が落ちぬようにしながら流れる汗を拭う。軽やかな薄絹で作られた衣装が、汗の滲んだ肌にへばりついているような気がした。

 ルテスからユチルの話を聞いたあと、ラミアはユチルにその事を尋ねようとした。しかし、結局は上手く言葉に出来ずに黙り込むばかりだった。

 今日は、儀式の日だ。

 だが、ここにユチルはいない。

「ラミア」

 声に振り返れば、揃えの衣装を着たルテスがいる。

「……、来てくれるかな」

 ユチルは、今回の儀式に呼ばれている事自体は知っているらしい。

「必ず、来る」

 きっぱりと言い切った彼に、ラミアも無言のまま同意した。

 なら後は、自分たちの舞と楽で、彼女を舞台に引き上げる――

 ただ、それだけだ。

「行きましょう」

 これから、大勢の人々の前に姿を現さなければならない。

 それが恐ろしくないと言えば、嘘になる。

 不意にルテスが、ラミアの手を掴んだ。

 恐ろしい、それでも、彼がいればきっと立っていられる。

 ラミアは、ルテスに微笑み返して、一歩足を踏み出した。




 壇上へと近づくと、嫌でも緊張が高まってゆく。

 少しだけ、足が震えているのに気付いたが、ルテスの手が勇気をくれ、舞台へと登りきることができた。

 そこで受けたのは、縋るような視線、どうせまたと諦める視線、ラミアに気付いて疑いを持つ視線――、様々な思いを伴った視線だった。

 どちらからともなくラミアはルテスと手を離し、彼は舞台の後方へ、ラミアは中央へと足を進めた。

 暫くはざわめいていた人々も、ルテスが笛を構え、ラミアが立ち止まると自然と黙り込む。

 シンと、その場が静まり返った。

 その瞬間を見計らい、ルテスの音が――響いた。

 二人きりの練習で何度も聞いたその音色。ラミアの身体は、もう自然と動く。

 舞台をくるりくるりと動きながら目を閉じる。

 思い出すのは、かつてのフーデリアでの、ルテスとのひと時だ。山の中で、彼の笛の音をじっと聞いていた、あの時間。

 その時に聞いた、名前も知らない曲をルテスは奏でていた。

 この曲でと主張したのは彼だった。これは、元々妖精の里に伝わるものらしい。人間世界で伝わる曲は沢山知っているラミアだが、妖精の里の曲は殆ど知らない。

 それはこの曲も同様だ。何故ならば、それはユチルが歌を辞めたきっかけの曲でもあるからだ。

 ならば彼の言う通り三人で奏でる曲として、これより相応しいものはないとラミアも思った。

 あとは、ユチルが来るか。

 それだけだ。

 ラミアは空に顔を向け、目を開ける。

 上空は薄い雲一つない。

 やはり、三人が揃わなければならないのだと、痛感させられた。

 だが、もう少しで曲は終わってしまう。

 ラミアはくるりと回って、ルテスを見た。彼の顔にも焦りを感じた。

 足を打ち鳴らす。

 笛の音が響く。

 タンと音を立ててラミアは静止し、曲が、終わった。

「…………」

 ユチルの姿は、なかった。

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