第三部晴れ渡る国
第四楽章姫君の安息
笛の音が聞こえる。
ラミアは庭の木にもたれながら、その音色を聴き入っていた。
この三年で、いつしかとても恐ろしく感じるようになっていた楽の音が、今は眠りを誘うほどに心地良いものに感じる。
とても不思議。しかし、悪い気はしない。
ルテスとの再会から数ヶ月。あの日から程なく彼はユチルの家へと転がり込んでいた。
今はラミアと同じく居候の身で、時折、街の楽団に笛を教えに行っている。
木漏れ日の下にいるラミアは、曲が終わり笛の音が途切れると、自然と閉じていた目を開いた。
額に浮いた汗をぬぐい、木の反対側に座っているルテスを覗き込む。
「ルテス、次は……、フーデリアの湖で聞いた曲がいいな」
頷いたルテスが、ラミアの希望通りに吹いてくれる。
ついこの間まで妖精の里で暮らしていたラミアは、この曲が妖精の里に伝わる曲だということを今はもう知っていた。
本当は歌詞もあるらしい――が、まだ聞いたことはない。
どうして誰も歌わないのかと里長ミレースに尋ねた時、彼女は酷く複雑な顔をしていた。その表情はあまりにも痛々しく、結局その理由を聞くことは出来なかったが。
また目を閉じてルテスの笛の音を聞いていたラミアだったが、曲が不意におかしなところで途切れたのに気付き目を開く。
「……ルテス?」
振り返ると、ルテスはじっと何かを見つめていた。
その視線の先にいたのはユチルだ。
「どうかした?」
「ユチル、ふらついてないか?」
ルテスの言葉に、目を瞬かせてユチルの方を見た時だった。
彼女の持っていた洗濯籠が、ぽすんと地面に落ちる。そして、そのまま前のめりにユチルが倒れていった。
「……ユチル!?」
ラミアはすぐに地面を蹴って、走りはじめる。後ろからはルテスの気配も続く。
「ユチル! ユチル……!」
彼女を抱き起すと、その顔は異様に赤く、息も荒い。だというのに、汗を一滴もかいていなかった。
「ラミア、ユチルは俺が運ぶ。お前は部屋まで水を持ってきてくれ」
「わ、わかった!」
険しい顔のルテスに頷き返すと、ラミアはすぐに井戸の方へと走っていった。
「ごめんなさい。随分楽になったわ」
少しだけ塩味のついた水を飲み下し、ユチルは肩を竦めた。
ユチルを運んだルテスは、多少落ち着いたらしい彼女を見てほっと息をつく。まだ、多少眩暈を感じるようだが、意識もはっきりしているし、すぐに良くなるだろう。
ルテスは部屋のカーテンに少しだけ開いた隙間から差し込む陽光に、うっすらと眉をひそめた。
ユチルの倒れた原因は暑さだ。
今もカーテン越しにギラつく日の光が見える。ラミアは今、冷たい井戸水を汲みに行っており外にいる。そのことがほんの少しだけ心配になった。
会話が途切れ、ユチルも眩しいばかりの窓の外を見透かすように、ルテスと同じ方向を見ていた。
「――言わないの?」
不意の問いに、ルテスは息を飲んだ。
「……、何を」
ユチルがこちらを向いた。向けられた静かな目にルテスはたじろぎそうになった。それを隠すように、無表情を装って彼女を見下ろす。
「自分も言っていないのに、俺にそれを問うのか?」
ユチルは困ったような、悲しんでいるような、何ともいえない顔をして肩を竦めた。
「やっぱり、この晴れ続きはそういうことなのね」
ルテスはそれに答える代わりに溜息を吐いた。どうやら、カマをかけられたらしい。
王都で最後に雨が降って、もう何日になるのだろう。少なくともルテスが王都に戻って以来、雨が降るのを見たことはない。地面は異常に渇き、砂埃が酷くなった。今ラミアがいるであろう井戸の水量も、明らかに減っている。王都に比べれば郊外は多少降雨があるため、まだ何とかなっているようだったが――、旱魃が起こるのも時間の問題だろう。
神の機嫌によって天候が左右されるこの世界で、この異常気象を正すことが出来るのは、舞姫と楽士のみだ。
ユチルは自嘲気味に嗤った。
「力のある舞姫がいなければ、こんなにもこの世界は弱いのね」
先日、ルテスはユリーシアの元へ呼び出された。
新しく着任した呪術師長の少女が、この日照りを終わらせる方法を夢見したという。
それによれば、ある三人が揃えば雨は降る――、のだという。
その中にはラミアが含まれていた。
「それで? ラミアにこの国のためにもう一度舞ってくれなんて、言えるのか?」
その時、別の声が割って入った。
「どういう事……?」
ユチルとルテスが、ハッとその声の方向を見れば、そこには水瓶を抱えたラミアがいた。
「ラミ――」
「ねぇ! どういう事なの!? 私が舞えば、って……!」
興奮したラミアの手から瓶が落ちて、派手な音と共に割れた。その中になみなみと入っていた水も、床にぶちまけられる。だが、彼女はそれに気付いてすらいないかのように、一歩、また一歩とユチルの方へと近付いていく。
「ねぇ、雨が降らないのは、私のせいなの……?」
「それは違うわ!」
ユチルが声を上げるが、まだ倒れた余波があるのか、ベッドに手をついた。ルテスはユチルに落ち着くよう目で伝え、ラミアに向き直った。
「ラミア。確かに、王都には長い間、雨が降っていない。けれど、それは決してお前のせいじゃない」
言うなれば、力を持つ舞姫を手放した王宮側の落ち度だ。
現在、一ノ姫の代わりを務めているレルカをはじめとした、舞姫達では太刀打ちできない程の日照りが続いている。
新呪術師長の夢見は必ず当たるという話だが、散々苦しんだであろう彼女に、一度は己を捨てた国のためにもう一度舞を、などとどうして言えるだろうか。
ルテスはこの三年を詳しく知っているわけではない。それでも、彼女にとってあの場所が苦しみを思い出させる場所だということは、嫌と言うほどに理解していた。
「でも、私が、舞いを…しないから…………」
ラミアは言葉を途切れさせると、身体がふらりと傾ぐ。
「ラミア!」
ルテスが受け止めた時には、既に彼女は気を失っていた。
「………」
その身体はあまりに、軽かった。
その日から、ラミアは再び伏せがちになった。
戻りはじめていた食欲はなくなり、陽の光を避けるように、カーテンの引かれた薄暗い部屋に閉じこもって過ごす。そんな日々へと逆戻りしてしまったのだ。
そんなラミアを見かね、ルテスやユチルが外に連れ出そうとすることもあったが、やはり気分は塞ぎ込んだままだった。
今日もラミアは部屋に籠ったまま、布団にくるまってベッドの上で蹲る。
陽の光が怖かった。
ルテスによると、王宮側も幾度となく舞をしているらしかったが、雨どころか雲一つ現れることはない。それがラミアを、いっそう追い詰める。
このままでは、近いうちに旱魃、そして飢饉になるだろう。もう、遅いかもしれない。しかし、一日でも早ければ、早いだけ、回復も早くなる。
そんなことは分かっていた。
それでも、一歩が踏み出せない。
ラミアが舞ったからといって、降るという保証もない。もう、落ちる評判すら無いラミアだが、これ以上の中傷は耐えられそうにもなかった。
「ラミア」
部屋の外から、小さく扉を叩く音が聞こえて、ユチルが名前を呼ぶ。
「………どうしたの」
自分でも分かるほど、か細く、そして暗い声しか出せない。
ユチルもそれに怯んだかのように、微かに息を飲んだ。だが、彼女は言葉を続けた。
「ラミア、一緒に買い物に出かけない? そろそろ買い置きが無くなりそうなの」
外に出たくはなかった。
だが、ユチルが懸命に自分を連れ出そうとしているのも分かっていたラミアは、重い身体を起こし、部屋の扉を開けた。
「うん……、いく」
「わかった」
ほっとした顔のユチルに手を引かれ、ラミアは部屋を出た。
幾日か振りの市場は、ラミアに眩暈を覚えさせた。
人が多すぎて、気分が悪くなる。
「……ごめん、市場は急すぎたね。顔色が悪いわ」
ユチルはラミアの額に手を当てて、肩を竦めた。
「ちょっと、ここで待ってて。ささっと、いるものだけ買ってくるから」
街の広場の一角にラミアを残し、ユチルは人混みに紛れていく。そう身長の高くないユチルは、すぐに雑踏に紛れて消えてしまった。
広場の端の方に寄って、ラミアは行き交う人々を見つめる。
舞姫だったころは、この中を堂々と歩いていた。
それが今では、こんな端で息を潜めている。
ラミアは今の自分が酷く馬鹿馬鹿しいものに思えて、嗤いが込み上げた。
近くを通る人々が、突然独りで笑いはじめたラミアに、奇異の視線を向ける。それでも、ラミアはそれを止められなかった。
その時。
「……ラミア嬢?」
聞えた声に、ラミアはぴたりと声を上げるのを止めた。胡乱な目で顔を上げると、そこに人々の流れに逆らって立ち止まる男がいる。
彼は確かにこちらを見て、ラミアを認識していた。
しかし、ラミアには誰か分からず首を傾げ―――、脳裏に何か閃くものを感じる。
「ケイル、殿……?」
その男、ケイルはニヤリと笑って、ラミアに頷いた。
「ねえ、本当に大丈夫なのね?」
臨時休業となった店内で、ラミアは何度もそうたずねるユチルに頷いた。
「少し、不安だけれど。でも、これは私が乗り越えなければならない事だと思うから……」
「………わかった。私は、奥にいるから」
何度も振り返りながらその場を後にするユチルを見送り、一人になったラミアは店のカウンターに座って頬杖をついた。
「三年ぶり、か……」
ルテスと再会してから、あの頃を思い出させる人々との再会が続いている。
街で会ったケイル。
そして―――
店の扉が、カランコロンと軽やかな音をたてて開く。
だが、軽やかな鈴の音とは裏腹に、ラミアはひどく重苦しい気持ちで立ち上がる。
「久しぶり」
絞り出した声は、些か震えていた。
だが、無理矢理に微笑む。
「―――レルカ」
扉を開けたのは、三年ぶりに見る、酷くやつれたレルカの姿だった。
黙ったままの彼女は、俯き加減で戸口に立ち尽くしている。
どうしたものだろう。
ラミアは暫く様子を窺ってみたものの、彼女が自分から動くつもりのないことを悟ると、カウンターから出た。
レルカの傍まで歩み寄ると、手を伸ばす。
「!」
レルカがビクッと肩を跳ねあげて、こちらを見る。
ラミアは彼女の後ろにある扉のノブを掴んだところで、レルカの過剰反応に驚いて動きを止めた。
彼女はラミアの手のある場所を確認すると、いたたまれなげに、また視線を落とした。
「………。」
ラミアはゆっくりと扉を閉める。
彼女は、私にぶたれるとでも思ったんだろうか。
俯いたままのレルカの様子を窺いながら、そんなことを思う。
なら、何故、私に会いに来たのだろうか。
「――レルカ、ついて来て」
客間という大層なものはこの家にはないため、その代わりのキッチンにある食卓へ彼女を通す。そこまで向かうラミアの後ろを、彼女は大人しく付いてきた。
「座って」
レルカはまた大人しく、その言葉に従う。
ただこちらの言いなりになる彼女の姿は、ラミアの知るレルカではなかった。
ケイル殿は、この事を言っていたのかな……。
数日前。街でケイルと再会したラミアは、彼から思わぬ提案を受けた。
『レルカと、会ってみてくれませんか』
彼は、久しぶりだとか、そういう当たり障りのないあいさつの後、そう言った。
突然の言葉にラミアははじめ、意味が分からなかった。しかし彼は、それを気に留めずに言葉を続ける。
ラミアがいなくなってから、レルカは少しづつ、どこかがおかしくなっていった。一ノ姫にならないのは、ラミアのことがあったからだろう。そしてもう一度、だから会ってほしい、と。
断っても良かった。
自分から、あの時の傷を抉るようなことをしなくても、良かった。
だが、ラミアは結局その申し出を受けて、今こうしてレルカと対面している。
黙ったままの彼女の向かいに座り、彼女の言葉をただ待った。
何をしに来たの?
どうして会おうと思ったの?
何故そんな苦しそうな顔をしているの?
どう尋ねても、彼女を責めているように響く気がする。
レルカとこうして再会するまで、彼女に対してもっと、激しい感情が湧くかと思っていた。
しかし今、ラミアの心は不思議と穏やかで、レルカを責めようとは思えないでいる。
ふと、ルテスの顔が浮かんだ。
自分がその場にいたら、余計なことを言ってしまうかもしれないから、と出かけていったルテス。
彼が、全て包んで受け止めてくれた。
きっと、この心境の変化は、彼のおかげだろう。
ルテス……。
彼をおもうと、心が温かくなる。
ラミアは口元を緩める。
気が付くとその口から、するりと言葉が飛び出していた。
「ねぇ、レルカ。こうして、二人で向かい合うなんて、ずいぶん久しぶりじゃない?」
レルカがそろりと顔を上げる。
ラミアが一ノ姫となった日から、変わってしまった関係。
その前までの二人なら、こういうことも少なくなかったとラミアは今更ながら思い出す。
懐かしさで、自然と笑みが零れる。
レルカはそんなラミアを見て、当惑した表情を浮かべる。
「―――て、ないの?」
「え?」
「おこって、……ないの?」
震える声は、覇気がなく弱々しいものだった。
「………なに、に?」
ラミアがレルカに怒る様なこと―――。
覚えがない、と言いかけて、口を噤む。
一つだけ、あったか。
「……………あの日の、事?」
レルカの肩が震えた。
そして、小さく、ほんの微かに彼女は頷いた。
ラミアは目を伏せる。
その日は、ラミアが一ノ姫であった最後の日だった。
王宮を飛び出す直前、ラミアはレルカと会ったのだ。
まるでその日が最後であったと知っていたかのような、そんな頃合いで彼女は現れた。
何を言われたのだったか。
その後の色々な事象を体験したラミアは、それをもうはっきりとは覚えていない。
ただ、あの時ラミアは、彼女の言葉に酷く傷ついた。
「あなたを、傷つけたかった」
ぽつりと、レルカが言葉を零す。
「あなたを傷つければ――、それであなたが王宮を去れば、一ノ姫を辞めれば、すべてが、手に入ると思っていたの……」
「――なら、何故、一ノ姫にならないの?」
ラミアの問いに、レルカは弾かれたように顔を上げる。だがすぐに視線を逸らした。
「あなたを追い出して、目が覚めたから……」
「目が、覚めた?」
レルカは頷く。
「私にとって、絶対だった一ノ姫の位が、ひどく、儚いものだったこと――。それを知って、ようやく……、あなた以上に一ノ姫に相応しい人間はいないと、認めることが出来た。だから、私が一ノ姫になるなんて、できないのよ」
レルカの表情は、苦渋に満ちている。
彼女はひどく後悔しているらしい。それはラミアにも痛いほどに伝わる。
しかし、安易に許すということも出来なかった。
あの日の言葉達がなければ、ラミアは舞に関わる全てから目を背けることはなかっただろう。
それで、酷く苦しんだ。
この三年を思えば、「許す」の一言は、どうしても出てはこない。
何の言葉も、出ては来なかった。