第三部晴れ渡る国

第三楽章溺れる女神

 定期の往診を終え、ユチルは帰途を辿っていた。

 帰りには薬草を仕入れてくるとラミアに言って出かけたはずだったのだが、その荷物は行きと変わらず軽い。

 その原因である空を見上げて、ユチルは溜息を吐いた。

「早く、何とかしてくれないかしら……」

 上空は憎らしいほどの快晴で、雲一つない。もうどのくらい、雨を見ていないだろう。

 今、王都リャデンシャスで――いや、王都に限らずこの国全体で、日照りが続いていた。そのせいで、ユチルの求める薬草も酷く数を減らしている。

 今回は、どうにかほんの少量だけだが手に入ったものの、次は厳しいだろうと薬草店の主は見立てていた。金を出せば、という問題でもなく、どこの店もそう変わりはない。

 薬草が手に入らなければ薬が作れない。薬が作れなければ、店を続けることができなくなる。

 受け持つ患者の中で、ある意味で一番厄介な精神的な病を患うラミア。彼女に症状を和らげるものを煎じてやるやることもまた、出来なくなるのだ。

 気休め程度にしかならないものでも、それを取り上げられれば出来ることすらなくなってしまう。ユチルではどう足掻いても、原因を取り除いてやることが出来ないからだ。

「とりあえず、帰ったら薬湯を……」

 次の段取りを考えながら歩いていると、目の前に自宅が見えてほっとする。

 日差しが厳しい。歩いているだけでも、体力を奪われるような気がした。次は帽子を持っていこうと決意しながら、ユチルは扉に手をかける。

 その時、ガッターンと大きな音が中から聞えた。

「何!?」

 ユチルは思わず、取っ手から手を放す。踏み込むべきか逡巡した後、そっと扉に耳を当てた。

 何かが倒れたようなその大きな音以降、店内は静かだ。ユチルは外から気配を窺うのを諦めて、扉をゆっくり押し開く。

 泥棒か何かだったらどうすべきか、対処法を頭に巡らせながらおそるおそる顔を覗かせる。しかし店内は、ユチルが想像していたようなことは何もなかった。

 泥棒はおろか、誰かが暴れているわけでも、棚がひっくり返っているわけでもない。

 一体、さっきの音は何だろうと、ユチルは扉をもう少し開いて中を見渡した。

 店内はユチルが出た時のままに見える。一つ違うのが、こちらに背を向けて中央に立ち竦む男の存在だ。

 それから、店番をすると言っていたはずのラミアがいない。

 この男が、何かしたのだろうか。

 ユチルは眉根を寄せて、声をかけようとする。しかし、男の方が一歩早くことらへ振り返った。

 その顔を見て、ユチルは言葉をなくす。

「あ、あなた――」

 記憶の中のそれよりも大人びた顔つきをしていた。しかし、人違いと思うには彼と似過ぎている。

「ルテス……?」

 おそるおそるその名を呼ぶと、男――ルテスは目を瞬かせた。

「――まさか、ユチル?」

 思わぬ再会に、二人は呆然と互いの顔を見つめたのだった。




 久方振りに再会した旧友である少女を見つめ、ルテスは過去を思い返した。

 ユチルと出会ったのは、もうかなり昔のこと。妖精の里から一人抜け出して森にいた彼女と遭遇したのがはじまりだった。

 会うのは決まって森の中だったが、当時一番の友達――そう言って差し支えないほどには仲が良かった。

 疎遠になったのは、一体いつの事だっただろう。

 他者に排他的な妖精たちと人間、そんな互いの立場を知り、自然と会わなくなっていった――そんなものだったような気がする。

「それで……、どうやってここまで?」

「呪術師長のユリーシア殿に教えていただいた」

 ユチルとカウンター越しに向かいあっている現状は、不思議な感覚だった。もう二度と会うこともあるまいと、思い込んでいたことに気付く。

 厳しい表情をしている彼女はルテスの答えに、さらに渋面になった。

「やっぱり……」

「『やっぱり』?」

 そういえば、何故彼女はラミアの居場所を知っていたのだろう。そんなことをルテスは今更になって不思議に思った。

「あれは…私の姉。だから、ラミアのことも……知ってたの」

 言われて見れば、ユチルとユリーシアの髪色は同じ赤紫。妖精たちの髪色は、大抵は里ごとに同系統の色をしているらしい。その上よくよく見れば、顔立ちも似ている。気付かないでいられたのが不思議なほどだ。

「それでユチル。……ラミアに、一体何があったんだ?」

 ルテスは、つい先程に見たラミアの姿を思い出していた。

 自身の知る、三年前の彼女とはあまりに違う姿。痩せ細り、頬は少しこけていた。

 それだけじゃない。

 その顔には覇気がなく、目は疲れきり、かつてその瞳を輝かせていた光のようなものを感じることもできなかった。

 それは、一ノ姫でなくなったことだけが原因とは、ルテスには思えない。

 だが、その問いにユチルは首を振った。

「それは……、私からは、言えない」

 答えにはなっていない。しかしその言葉だけで、この三年が平穏ではなかったことが、嫌というほどに感じられた。

「…………ねぇ、ルテス。あなたは、どうしてここに来たの。」

「俺は、ラミアに――」

 そんなことは、言うまでもない。

 ルテスはこの三年に、ラミアを探し続けていた。ずっと、ずっとだ。国中を回り、小さな手掛かりを求めて。

 だが、ユチルはその言葉を遮って、重ねて尋ねる。

「そうじゃなくて。あなたは、どうして……、ラミアに会いに来たの?」

「え?」

 ユチルが至極真剣な眼差しで、ルテスを射抜いた。

「あなたは、ラミアと…、どう、なりたいの?」

 ルテスは、その問いに言葉を詰まらせる。

 どう、なりたい……?

 ルテスの中に、その答えはなかった。ただ、彼女を求めて、会いたいと願っていただけ。

 会った後、どうなりたいか、など、考えたことすらなかった。

 どうなりたい? 俺は、ラミアと、どう――

 ルテスはふるりと首を横に振った。

「わか、らない。…………でも」

 ユチルは、首を傾げて続きを促す。

「俺は、まだ、ラミアに会ってはいない」

 口をついて出た言葉が、ストンと胸に収まった。

 そうだ、俺はまだ、「ラミア」に会ってはいない。三年前の、輝き溢れたあの、「ラミア」には。

「俺は……、あの頃の笑顔が、もう一度見たい。それが見れるまではきっと、俺の中でラミアに会った…ことにはならない」

 ユチルはその言葉を、目を丸くして聞いていた。だが、次の瞬間にはぷっと噴き出した。

「――わかった。そうね…、私もあの子の陰のない笑顔、見てみたい」

 ユチルはふっと息をついて、どこか遠くを見つめるような目をする。

「――もうそろそろ、進まなきゃだよね。ラミアも、私、も……」

 ユチルはぽつりとそう零したのだった。




「ふぅ…………」

 ルテスが店を出たところで、ユチルは細く溜息をついた。

 なんだか、ひどく疲れてしまったような気がする。

 ルテスの出ていった扉を見つめ、ユチルは頬杖をついた。

 果たして、彼の来訪はラミアにどのような影響を与えるのだろう。この三年、彼女の時はずっと止まっていた。

 それが動き出した。きっと、このままでいることはもう出来ない。ぬるま湯に浸かっているだけでは何も変わらないと、そう思ったからこそ、ユリーシアは動いたのだろう。そのことは理解できる。しかし――

 ユチルは目を閉じ、遥か昔に忘れようとして、また再び顔を出してきた出来事にもう一度封をする。

 今はラミアのことを優先しなければ。

 さて、と声を出して立ち上がり、玄関にかかった「営業中」の札を「準備中」に変えて、鍵を閉める。そして、ラミアの部屋へと向かった。

「ラミアいる? 入っていい?」

 扉越しにそっと声をかけるが、反応はない。だが、部屋の中に微かに身動ぎする気配を感じた。中に彼女がいるのは確かなようだ。しかし扉が開く気配はなく、ユチルは彼女を刺激しないようにもう一度声をかける。

「ラミア、ル――彼なら、もう帰っていないから……、開けてくれない?」

 だが、やはり応答はなかった。

 少し時間をおいた方がいいのかもしれない。ユチルが踵を返しかけたその時、キィと音がして、扉が細く開いた。

「ユチル……」

 扉の隙間から、目だけ覗かせて辺りを確認したラミアは、そこにユチルしかいないと分かると、ようやく扉を開けた。

「入ってもいい?」

 ラミアはその問いに、黙って頷く。そうして部屋へと戻った彼女は、ベッドの縁に腰掛けた。じっと床を見つめ、ユチルの方へ視線を向けようとしない。

 ユチルは彼女の対面に椅子を置いて座った。が、何を言えば良いのか言葉が出て来ない。

 どうすれば、ルテスと話をしてみてほしいと、上手く伝えることが出来るのかが分からなかった。

「どうして、きたのかな」

 沈黙のまま、永久にも思える時間が経った頃、ラミアがふいに呟く。途方に暮れたような声だった。

 誰が、と彼女は言わなかったが、ルテスのことであるのは明白だ。ユチルは言葉に迷いながらも、ゆっくりと口を開く。

「彼は、あなたをずっと……、探してたんですって。この、三年間」

 そう答えながら、ユチルは考えていた。

 ラミアはルテスのことをどう思っているのだろう。

 そんな根本的なことさえユチルは知らない。「ルテス」の名が、彼女を傷付けるのではないかと、口に出すことも出来なかったからだ。

 しかし彼女と過ごした三年の月日で、多少類推することは出来たことはある。

 ラミアはルテスを恨んでいるわけじゃない。一ノ姫を辞めさせられた責任の一端に、彼は関与しているらしい。それでも、恨みを抱いているわけではないようだった。

 いや、「恨んでいる」なら、もっと事態は簡単だったのかもしれない。

 彼女の抱える感情は、一言で表せるような簡単なものではなく、彼女自身その「気持ち」を持て余しているようにみえたからだ。

 軽い気持ちでは聞くことが出来なかった。いつか時の流れが心の傷を癒し、口に出せるようになるまで待とうと思っていたのだ。

 ――それは、間違っていた?

 少なくとも、姉は「間違っていた」と判断したのだ。

「探して、た……? なんで……」

 ラミアは驚愕に目を見開いている。

 だが、その言葉にユチルは何も返すことが出来ない。だから代わりにユチルは、小さく首を振って別のことを聞いた。

「……三年前、私と初めて会った時の事、覚えてる?」

「え……、う、うん……?」

 突然変わった話に彼女は首を傾げる。ユチルは構わず話し続ける。

「私はあの時から、貴女が、動き出せるようになるまで見守ろうと思ってた」

 ラミアとユチルの出会いは、彼女が一ノ姫を辞めて王宮を飛び出した直後のことだ。ユリーシアが故郷の里に知らせを出した。それを受けた里長ミレースの命で、ユチルは彼女の元へ会いに行ったのだ。

 それからずっとラミアを見守ってきた。そしてこれからも、彼女が自然と歩き出せるその日まで、そうあるのだと思っていた。

「でも、それじゃあ、ダメだったのね――」

 事は既に動きはじめている。なら立ち止まってなど、いられるはずもないのだ。

 だからユチルは言った。それが、ラミアには酷だと分かっていたけれど。

「ルテスと話をして、ラミア。彼は、あなたを探して……、求めてた、今も。だから――」

 しかし、ラミアは首を振る。

「そんなの、いまさら…………」

 彼女の唇は震えていた。膝の上で握られた拳も。

「ラミア……」

「ムリ、ムリだよ……、話なんて――」

 その苦しげな顔に、ユチルの決心が鈍る。

 だが、ここで引いてしまったなら、もう二度と、ラミアは立ち上がれなくなるのではないか。そんな不安が込み上げた。

 ユチルは、その不安に突き動かされるように、言った。

「ラミア! 今まで、ずっと逃げてきた! でも、何も、変わらなかった……! 今はきっと、動き出す時なのよ! だから――――」

「いやっ!!」

 ラミアは、ユチルの言葉を遮り叫ぶ。そして、その勢いのまま立ち上がり、部屋を飛び出していく。

「ラミア!」

 一拍遅れて、ユチルもその後を追った。

 ラミアは外へ飛び出したらしい。玄関の来客を知らせるためのベルが、カランカランと激しく揺れている。ユチルも外へと飛び出す。

「ラミア…………」

 しかし、彼女の姿は既にどこにもなかった。




 ルテスはユチルの元を去った後、王宮へと戻ろうとしていた。

 しかしどことなく足取りは重く、素直に足が向かない。

 活気のある大通りを、それとは正反対の気分でルテスはとぼとぼと歩いていた。騒めいた人波が、一層孤独を引き立たせるような気がする。

 自身を見た時のラミアの反応が頭を離れない、

 ルテスとて、諸手を挙げて歓迎されると思っていたわけではなかった。思っていたわけではなかった――が、それでも、幽鬼を見たかのような顔をされるとも考えていなかったのだ。

 一体、彼女に何が起こったというのだろう。

 王宮で最後に会ったラミアを、ルテスは思い出す。悪意に晒されて打ちのめされてはいたが、それでも気丈に笑っていたはずだ。

 どうしてこの三年もの間、傍にいたのが自分ではなかったのだろう、という後悔だけが募る。どうして、彼女が出て行く前に気が付けなかった――?

 彼女が自身を疎んじていることだけをまざまざと見せつけられて、もう会いに行かぬ方が彼女のためなのではないかとさえ思う。

 思考の海に沈んでいたルテスは、気が付くと王宮への坂道を上っていた。その門前には、見知った人影がある。

「ケイル……」

 よう、というように気楽な様子で彼は片手を上げたが、こちらの様子を見て取ったのか、すぐに怪訝な顔になった。

「なんだ? 随分、その……元気がないな。ラミア嬢に会って来たんじゃなかったのか?」

 ルテスはその言葉に首を傾げた。

「どこでそれを?」

 ユリーシアからラミアの情報を聞いたルテスは、その足で王宮を出た。ユリーシアのことを伝えてくれたケイルへだけは、報告してから行くべきだったのかもしれないと、今ならば思う。しかし、ラミアの事を聞いてすぐは、そんなことを考える間もなく王宮を飛び出した。つまり、彼は何も知らないはずなのだ。

「ああ、単純に……、お前が突然飛び出して行くなんて、そのくらいの用事だろうと思っただけだよ」

「……なるほどな」

 それで? と訊ねてくる彼にルテスは重い口を開いた。

「――――はぁ……、それは、また…………」

 話を聞き終えたケイルは、頭をガリガリと掻く。再会して早々、脱兎の如く逃げられたルテスに、彼もかける言葉が思いつかなかったのだろう。ルテスも話をすることではからずとも、改めて現実を突き付けられたような気分になり途方に暮れた。

「俺は一体、何のためにラミアを探していたんだろう……」

 衝動に駆られるように王宮を飛び出し、国中をまわった。感情のまま、その気持ちに言葉などつけたことがなかったことに気付く。

 探し出して――、そして、「どう」したかったのか。

 ユチルに問われたことを再び自問する。

 だが、「何のために」という言葉に、ケイルは目を丸くしていた。

「ケイル?」

「何のために、って……。彼女と共にいたかったから、じゃないのか……?」

「え……」

 予想外の所からもたらされた「答え」にルテスは呆ける。

「お前、そもそもラミア嬢に近付きたくて、楽団で頑張ってたんだろ? 勿論、お前自身の望みもあったんだろうけど……。それでもお前は、ずっと彼女を見つめて、追いかけてただろ。――共に……傍にいたかった。だからじゃないのか?」

 傍にいたかった。

 そう言われて、ルテスはようやく思い出した。

 故郷のフーデリアで、彼女とはじめて会ったあの日。それから、楽団に来いと言ってくれたその言葉。そしてその時――、必ず彼女に追いつくのだと誓った、その気持ちを。

「そうか…、俺は……」

 その時。

「――ルテス!!」

「ユチル?」

 悲鳴のような声が聞こえ振り返ると、坂の下から息を切らせて走るユチルの姿があった。

「ラミアが……、ラミアが、いなくなったの……!」

 その瞬間、ルテスは地面を蹴り出していた。胸に渦巻いていた疑問が、全て吹き飛んでゆく。

 俺は、ラミアのことが――。

 もう、ルテスの胸に迷いはなかった。




 ラミアは走っていた。

 人のいない路地を抜け、大通りを埋め尽くす人々の合間を縫うように駆ける。

 この三年ですっかり弱くなってしまった足の裏は、細かい砂の粒にいともたやすく傷付けられ、血が滲んだ。

 だがラミアは痛覚を失ってしまったかのように、何も感じずにただ走っていた。

 逃げ出したかった。

 辛くままならない現実から目を背け、全てをなかったことにして――逃げ出したかった。

 どうしてこんな苦しい思いをしてまで、前に進まねばならないのだろう。ただ全てに目を瞑り、穏やかな日々を過ごすことが何故いけないことなのだ。

 ぎゅっと目を瞑ってでたらめに走る。

 その時、地面の微かなへこみに足を取られ、すっかり体力の無くなってしまっているラミアは、そのまま受け身をとることもままならず地面に倒れ込んだ。投げ出されるようにして、人通りのない広い道の中央に座り込む。

 地面についた手から、膝から、血が流れている。

 不健康な白さになった肌から、生を思わせる紅い鮮血が滲んでいた。それが今のラミアの目には、酷く滑稽に映る。

 俯いた頭の上からは厳し陽射しが降り注ぎ、遮るものもない道の中央で、刻一刻と体力は奪われていた。

 このまま座り込んでいるわけにもいかない。

 頭の片隅にほんの少しだけ残っていた理性が、ラミアの顔を上げさせた。

「――――っ」

 思わず息を飲んだ。

 無意識に、救いを求めでもしていたのだろうか。

 唇が震える。

 そこはかつての――、テンシアの屋敷だった。

 自身が一番幸せだった頃の記憶が甦っていく。舞がただ楽しく、愛され、何の憂いもなかった頃の記憶だ。

 それらを再び掴もうとするかのように、ラミアはよろりと立ち上がった。足は震え、まともに立つことも出来ない。だが、ゆっくりと足を踏み出す。

 地面には点々と赤黒い血が、彼女の足跡を残すように落ちていたが、やはり痛みは感じない。しかし、怪我をしていないはずの胸が、酷く苦しい。

 一歩、足を踏み出す。しかし身体を支えきれずに倒れ込むように、数歩。そして、ガシャンッと音を立てて、その門扉を掴んだ。

 立っていられない。ラミアは、それを縋りつくように握りしめたまま、ずるずると地面に膝をついた。

 門扉を掴む手が、震える。

 どうして、私はここにいるのだろう。もう、ここにテンシアはいない。絶対的な庇護者も味方もいない。それなのに。

 ラミアが王都を去るのと同時に売りに出された屋敷は、不思議なほど、当時の姿を留めている。

 そのことが、余計にラミアを苦しめていた。

 変わらない屋敷と、ひとり、変わってしまった自分と。

 孤独に押しつぶされそうな思いがする。

 屋敷に入れば、テンシアが、カスィルが、暖かく迎えてくれるのではないか。抱きしめて、慰めてくれるのではないか。そんな愚かな妄想が止められなかった。

 あぁ、どうか、誰かがここから出てきて、私を拒絶してほしい。

 そうすれば……、そうすれば、きっと、今度こそ、私は――――

「――っ、ぅぁ…………」

 泣くことが出来たなら、きっと、この辛さも全て流してしまえるだろうに。

 流れることのない涙は、ラミアの身体の内に溜まっていく。

 その涙で、溺れてしまいそうだった。




 夕刻の鐘が鳴った。

 ルテスは紅く染まる夕焼けを視界の端に入れ、焦りを感じていた。

 ユチルから事情を聞いた後、彼女と別れ、街中を駆けずりまわった。

 しかし、ラミアはどこにもいない。

 また、失ってしまうのではないか――

 そんな恐ろしさが胸を埋める。ルテスは浮かぶ考えに必死で目を逸らし、街を走り続けた。もう失うのは、耐え難い。その気持ちだけが、ルテスの歩を勧めさせる。

 その時、ふと細い路地に目が止まった。

 地面に、黒っぽい染みがある。

 点々と続くその跡に導かれるようにして、ルテスは路地に身を滑り込ませた。途切れることのないその染みは、血の跡のように見える。

 ならば、ラミアが怪我をしているのだ。

 ルテスは何故だか疑いもなく、それが彼女の痕跡だと思った。

 その黒に導かれ、細い路地を抜けていく。

 右へ曲がり、左へ曲がり、また、右へ。

 めちゃくちゃな経路は、ラミアが酷く取り乱しているらしいことを伝えてくる。

 ルテスは、細いその道を足早に抜けていく。薄暗く細いその場所を半ば走るような速度で歩いていると、突然視界が開けた。

 急に光が飛び込んできて、ルテスは思わず目を覆う。ようやく目が慣れ周囲が見渡せるようになった時、ルテスは暫し瞠目した。

「…………ラミア」

 ルテスの目の前には、大きな屋敷があった。彼女はその門扉に縋りつくように座っていたのだ。

 ラミアは夕日に照らされ、まるであの世の人間であるかのように見えた。そのまま、息絶えて、しまっているのかと。

 それほど、妖しく、美しく、そして――、儚かった。

「ラミア……」

 ルテスは、数歩彼女との距離を縮め、そっとその名前を呼んだ。

 その声に反応して、ラミアの肩がビクリと揺れる。生きていることに安堵するが、彼女は振り返らない。

 ルテスはラミアの傍に寄って膝をつき、その俯いた顔を覗き込む。

「ラミア」

 虚ろな目が、そこにはあった。

「戻ろう」

 そっと門の格子を掴むラミアの手を、包み込むようにルテスは握った。

 その言葉に、ようやく彼女がルテスの目を見た。門扉を握りしめていた手からも力が抜ける。

 だが、ラミアはそのまま身体からも力が抜けて、ルテスが慌てて抱きとめる腕の中で、気を失った。




 ずっと、逃げてきた悪夢が――、ついに追いついた。

 彼は、何をしに来た? これ以上、私から何を奪うというの?

 酷く寒い。

 冷たい水をかけられたのだから、当然……、いえ、違う。それはもう、三年も前のこと。

 なら、私は、今――――?


「…………っ!」

 ラミアは目を開けた。

 そこは先程までいた、虚無のような暗闇ではない。

 部屋だ。自身の。

 ラミアは荒い息を整えようと、息を吐く。だが、上手くいかない。全身は嫌な汗にまみれて、気持ちが悪かった。

 ゆっくりと身を起こし膝を抱えるが、今にも吐きそうな気分だった。

 身体も、心も、気持ち悪く、悪いものを全て出してしまいたくなる。だがそれも上手くいかずに、はっと短く息を吐いて、ラミアはゆっくりと辺りを見渡した。

 部屋は薄暗い。もう日没近いのだろう。明かりも何もない部屋は、灰色に見える。

 ぐるりと視線を巡らせ、ラミアはある一点でそれを止めた。

「――――っ」

 息が、止まるかと思った。

 ぎゅっと胸を掴んで、どうにか浅い呼吸を繰り返したが、空気が肺に入ってきた気がしない。

「どうして……」

 どうしてここに、彼がいるの。

 ふらつく頭を抱えながら、ラミアはよろりと立ち上がった。

 三年間、忘れたことなんてない。

 恨んだわけではなかった。しかし今の状況を作り出したきっかけの出来事に否応なく関係している彼を、忘れられるわけがなかった。

 胸が引き絞られるように痛い。

 逃げて、逃げて、逃げ続けた悪夢が、追いついて来てしまったのだ。

 頭がひどく痛む。

 ラミアはふらりと立ち上がり、彼のすぐ近くにある棚の前で止まった。その棚の上から二段目をゆっくりと開ける。

「…………、」

 そこにあったのは、小さなナイフだった。

 鞘から引き抜いて、それを眼前に持ち上げる。

 その刀身は磨かれた鏡のように虚像を映した。

 酷く陰気な顔をした女が立っている。

 ラミアはその陰気な影から目を逸らし、すぐ傍で椅子に座り目を閉じている彼を見た。

 これは、過去の亡霊だ。

 ラミアはふらふらとその亡霊に近寄って、その前で止まった。

 彼は目を覚ます気配すらない。座り込んだその姿をじっと見下ろす

 もう、過去に苦しめられるのは沢山だった。

 ならば、この亡霊を消せば――

 ラミアは鈍く光るナイフを、彼の頭上に振り上げた。

 これを下ろせば、全てが、終わる――――?

 だが、ラミアはそれを振り下ろしはせずに、ゆっくりと手元に引き寄せる。

 刀身の中には、やはり陰気な女がいた。

「あぁ………」

 もっと簡単に、悪夢を終わらせる方法があったじゃないか。どうして今まで、気が付かないでいられたのだろう。

「もう、終わりにしたい…………」

 ラミアは目を閉じる。

 そして、持っていたナイフを逆手に持ち替えた。

 それから今度は、躊躇いなくナイフを振った。

 己の喉元に向けて。




「…………?」

 待ち望んだ、甘美な死が訪れない。

 確かに、ナイフを振り下ろしたはずなのに痛みさえもない。

 何故?

 ラミアは閉じていた目蓋をそろりと開いた。

「なっ、」

 そこにはナイフがあった。

 赤い、紅い血も。

 ただその色は、ラミアの喉から噴き出したものではなかった。

 ナイフの刀身に雫が伝って、床に落ちる。

「なんで……」

 ラミアの震える手は、もうナイフを握っていられなかった。

 だが、それを代わりに掴んでいる者がいた。

 ルテス。

 彼が、刃に手が傷付けられることも厭わずに、それを掴んでいたのだ。

 ラミアの手がナイフの柄から完全に離れた一拍後に、ルテスの手からもそれが滑り落ちる。

 床に落ちて当たる、カラランという音で、ラミアはようやく我に返った。

「な、んで、手を、手を怪我なんか、したら……、あなたは笛を―――」

 ラミアの震える手が、ルテスの赤く染まったそれに触れる。その血は生々しいほどに温かい。だが、彼は自身の手から流れるそれを、無感動に見つめるだけだった。

「そんな事はどうでもいい」

「どうでもよくなんてない!!」

 ラミアは堪らず、そう叫ぶ。

 彼はまだ、あの舞台に立てるのだ。それなのに――!

 しかし、ラミアの興奮とは裏腹に、ルテスは冷たいとさえ思えるほど冷静な目で、ふいと視線をそらした。

「どうでもいい事だよ。……お前の、命が失われるのに比べたら」

「そんなわけ――」

 言い募ろうとしたラミアを、ルテスは静かに制した。小さく首を振られ、そしてその凪いだような目で見つめられると、ラミアは二の句が告げなくなる。

「それより、どうして……、殺さなかった? ――俺を」

「――っ!」

 息を飲む。

 一体、いつから彼はラミアの行動に気が付いていたのだろうか。

 そして、気付いていながら、避けようとも、止めようともしなかったのだという事実に、ラミアは戦慄する。

 ルテスの血が一滴落ちて、血濡れた紅い床に吸い込まれるように同化した。

「殺したいほど、憎んでいたんだろう?」

「――違う!」

 ラミアは反射的にそれを否定する。ちがう、ちがうと何度もその言葉を繰り返しながら、首を振った。

「ちがうの、憎かったんじゃない、恨んだわけでも……。でも……、でも! 苦しかったの……! 苦しくて、あなたが…いなくなれば、この苦しみが、なくなるんじゃないかって、思った……。すべて、おわりに…したかった――――」

 ――そうだ、全てを終わりにしたかったんだ。

 ラミアは握っていたルテスの手を離した。

 その手は、ルテスの血で紅く染まっている。

 色んな感情が胸を渦巻いて気分が悪い。

 つい先程まで、苦しいほどに温かかったその血は、もう冷え切って、今度はその指先から熱を奪っていく。

 視界がぐらつく。ふらりとよろけると、その身体をルテスが怪我をしていない方の手で支えた。

「……どうして、やさしくするの」

 ラミアは俯いたまま呟く。だが、ルテスは答えない。

 その姿に苛立つ。ギリッと歯を食いしばって、黙ったままの彼の手を振り払った。

「――どうして! どうしてよ!! 同情!? そんなの……! そんなの……、みじめじゃない……」

 ラミアは立っている事も出来ず、床にへたり込む。

 これなら、夢の中で冷水を浴びせられ続ける方が、まだマシなのではないだろうか。

 床についた手をぎゅっと握りしめる。

 手についていた血が床に移って掠れた線を描いた。

「私は、もう…………」

「――ラミア」

 ルテスの静かな声に、びくりと肩を跳ね上げる。俯いてしまった顔を上げることがどうしても出来ない。

 ラミアの視界に、ルテスの膝が見える。傍に気配を感じて、彼がすぐ近くで膝をついているのが分かった。

 だが、ルテスはラミアに触れるでもなく、数拍の間の後、静かに口を開いた。

「――――俺は、この三年、ずっとお前を探してきた」

 ラミアは何も答えられずに、俯いたままその言葉を聞き続ける。

「それは、同情なんかじゃなかった。……けど、じゃあ、どんな理由なのか、と問われたら、それも分からなかった」

 ルテスはそこで一度、言葉を切り、大きく息を吐いた。

 何度か口を開こうとした気配を感じるが、言葉を選ぶように言いかけては止めるを繰り返し、そうしてようやく、続きを語り始める。

「今も……、分かったわけじゃない。――けど、一つ、分かったことはある」

 ラミアは黙ったまま、続きを待つ。

 すると、ルテスがふと微笑んだような吐息を漏らした。

「――俺には、お前が必要なんだ」

 ラミアはそろりと顔を上げた。

 そこには、彼がいた。

 ラミアのよく知る、ルテスがいた。

「ル、テス………。」

「やっと、名前を呼んでくれた」

 そう言ってルテスが浮かべた微笑に、驚くほど自身が安堵しているとラミアは気が付く。

 安堵して、身体の力が抜ける。

 そうなって初めて、自分がどれほど気を張っていたのかを知った。

「抱きしめて、いいか?」

 血だらけだけど、と困ったように笑むルテスに、ラミアは小さく頷く。

 すると、驚くほど強い力で抱きしめられた。

 押しつぶされて、胸が詰まる。

 だがそれとは反対に、息がふっと軽くなった。空気がようやく、肺の奥まで届いたような、そんな。

 ラミアはそろりとルテスの背に手をまわした。

 あたたかい…………。

 ほっとしてラミアは目を閉じる。

 そして、その目から涙が一筋零れ落ちた。

 もう、涙で溺れることはない。

 ラミアはルテスの腕の中で、そう思った。

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