第三部晴れ渡る国

第二楽章傷付く心は()が為に

 彼らに、笑顔で迎えてもらえるだなんて思っていたわけじゃなかった。

 浴びせられる暴言。それらの無情な仕打ちに、なすすべもなく俯く。冷たい水が髪から滴り落ちて、地面を濡らしていった。もう、顔を上げる事さえできない。

 ――なぜ、帰ってきた! この面汚しめ!!

 本当にね。何故、帰ってきたのかしら。

 俯いたまま視線だけを上に向ける。

 そこには自身とよく似た顔立ちの少年が、不安げな顔で立っていた。

 ああ……、そうか。

 私の居場所など、すでに、無かったのだ。

 心が冷え切っていくのを感じながら、ふらりと立ち上がった。それを見た女が、少年を庇うように抱き寄せて叫んだ。

 ――あなたなんて、産まなければよかった! あなたなんて……!

 誰の入る余地も無いその家族に背を向ける。

 まだ何かを叫んでいたが、耳を素通りしていった。

 産まなければよかった、か……。――ええ、その通りだわ、母さん。

 私なんて……

 ――――死んでしまえばよかったのに。




「――っ、……あたま、いた」

 ラミアは酷く痛む頭を押さえて、ベッドから身を起こした。

 近くのサイドテーブルに置かれた水をコップに注いで、一気にそれを飲み干す。温くなったそれは、身体のだるさを解消してはくれなかったが、ないよりはましだ。

 ぼんやりと辺りを見渡したラミアは、カーテンから漏れ出る光に目を留める。

 もう昼近いらしい。

 窓からの強い日差しは、その薄い生地が遮ってくれてはいるが、気温はだいぶと高くなってきていた。

 もう起きなくてはと思うのだが、自分の身体とは思えないほど、それは言うことを聞いてくれない。それでも何とか引きずるようにして、ベッドから這い出す。じっとりと汗が染みついた服を脱ぎすて、新しい服を出した。それをどうにか身に纏ったラミアだったが、もう限界だとまたベッドに倒れ伏す。

 今日は夢見が悪かった。だから余計に身体の重さが酷い。

 定期的に現れてはラミアを苦しめるあの夢は、この三年間、全てを忘却して楽になることすら許してくれなかった。

 夢なら良かった。本当に、夢なら。

 ラミア自身、何度もそう願ったことだ。しかしあれは過去、確かにこの身に起こった現実だった。

 ……つらい、わけじゃない。

 ラミアはベッドのシーツに顔を押し付けたまま、ぎゅっと目を瞑る。

 愛されて育ったわけではなかった。舞以外の全てが不出来なラミアは、両親が自身を疎ましがっているのも知っていた。ただ、唯一上手く出来た舞で、「一ノ姫」にまでなったラミアは、彼らの誇りだったに違いない。

 だがそれも、その「一ノ姫」が醜聞を起こすまでは、だ。

 その地位から転落し、その上酷い評判を連れて戻った「出来損ない」など、彼らの中ではすでにいないも同然のものだったのだろう。

 ラミアは自嘲を漏らす。

 それに、彼らは手に入れたのだ。

 最後に見た両親、その後ろにいた幼い少年を思い出す。

 自身の弟だと、直感していた。

 彼のことはあの一瞬に見ただけの姿でしかない。だが、弟の無垢に両親を慕う目は、ラミアには忘れがたいものだった。親の愛を疑ったことのない目。きっと己と違い、よく出来る息子なのだろう。

 その存在が、ラミアの心を更に抉った。

 本当に、私なんて必要なかったんだ、と。

「――ぅ、……ゲホッ……」

 込み上げる吐き気にラミアは傍に置いてある空の盥を引き寄せる。そしてその中に、胃液を吐き出した。口の中に嫌な酸っぱさと苦さが纏わりついて、気持ち悪さが増幅する。

 吐いても、楽にはならない。

 ラミアは口を濯ぎに行こうと立ち上がる。だが、その足に力が入らずふらついた。

 傍の棚に手をついて、なんとか転倒するのを堪える。

「――っ」

 泣いてしまえたら、どんなに楽だろうか。

 しかし、ラミアはどうしても泣くことが出来なかった。三年前のあの日から、枯れてしまったように涙が出ることはない。

 ただ胸だけが苦しくなってゆく。

 もう、生きるのさえも苦しい。

 しかし、死ぬことを選ぶほどの情熱も、もう残ってはいなかった。

 だから今は、ただ惰性で生を繋いでいる。




「あ、おはよう、ラミア」

 リビングに入ると、ふわりと草の香りがした。

 優しいその匂いに包まれると、多少気分も持ち直し、ラミアは小さく微笑む。

「ん……。おはよ、ユチル」

 彼女はこの家の主で、この三年の間ラミアを支え続けてくれた少女だ。赤紫色の短い髪が示すように、妖精でもある。

 しかし彼女は、もう長らく人間たちに交じって生活しており、ここで薬師をして暮らしていた。今もその手元には乳鉢があり、何かの草がすり潰されている。

 ユチルはその手を止めて、ラミアの顔をじっと見つめた。

「……顔色が悪い。昨夜は寝れなかった?」

 ずばり見透かされたラミアは視線を逸らすが、彼女は軽く眉間に皺を寄せた。

 座りなさい、と無言のまま指し示された椅子にラミアはそろりと座ると、ユチルは持っていた乳棒を置いて立ち上がった。

「ご飯は? 食べれそう?」

「………がんばる」

「食べないと、元気つかないからね」

 彼女はよしよしと頷いて、ラミアの食事の準備をはじめた。

 その後ろ姿を見つめながら、物思いに耽る。彼女と出会った日のことが、自然と思い出された――。


 ラミアがユチルと出会ったのは、三年前、ラミアが王宮を飛び出した日のことだ。

『長の命で迎えに来た』

 それがユチルの第一声。

 ラミアも当初は警戒したが、詳しく聞けば彼女は以前訪れたフーデリアにある妖精の里の出身者で、あの時に会った長ミレースの使いとして現れたとのことだった。

 人間世界から一歩引いて生活をしている妖精達だが、世俗に疎いというわけではない。ラミアが大変な目にあっていると聞き、助けの手を差し伸べてくれたのだった。

 それからは、つい最近までラミアはその里で療養生活のようなものを送っていた。様々な出来事による衝撃で、精神的にまいってしまったからだ。その時に、専属で彼女の身体を看てくれたのがユチルだった。

 彼女は王都で人間に交じり、薬師として生活をしていた。しかしラミアを看るようになってからは、里にも頻繁に訪れ、なにくれとなく世話を焼いてくれたのだった。

 そこでの生活は、ラミアの身体をかなり癒した。

 もう大丈夫かもしれない。

 ラミア自身もそう判断して、ユチルが暮らす王都の家に移ってきた。

 それが、つい数か月前の話。

 だが、王都に戻り、ラミアの体調は逆戻りしてしまっていた。

 ユチルはそんな状態を心配し里に戻るかと提案したが、ラミアはそれに対して首を横に振った。

 逃げてしまえば、二度と戻ってこれぬような気がしたからだった。


 そうして今、ラミアは少しづつではあるが、薬師としての仕事をするユチルを手伝って日々を送っていた。

「今日は往診だったよね」

「そうよ。帰ったら薬湯を作ってあげるわ」

 ユチルは作り終えた食事を出しながら、にっこりと笑った。ラミアの前に出されたのは、薄味のスープ。弱った胃を刺激しないようにと作られたそれは、とても優しい味をしている。

「そろそろ出るつもりだから、食べられるだけ食べて。……ああ、帰りに薬草を仕入れてくるから、少し遅くなるかも」

「わかった。昨日の分の帳簿付けと、あとは店番もしとくね」

 笑顔を返すと、彼女はよろしくね、と言って出かけて行った。

 ラミアは一人静かになった部屋で、チビチビとスープを啜る。別の皿にはパンも盛ってあったがどうにも食べる気が起きず、なんとか今皿に入っている分だけはとスープを飲み干して席を立った。

 リビングから出て廊下を抜けると、そこは店舗へと繋がっている。店舗、とはいっても、いくつかの薬が置かれた棚と簡素なカウンターがあるだけの場所だ。

 近くに住む常連しか殆ど来ない店のため、店番とは言ったものの、座っているだけに等しい。ラミアも少しづつ覚えはじめてきた彼らの顔を思い浮かべて、この時間に来そうな人はいないな、と当たりを付ける。

 来るとすれば急患だが、その場合はどうしようもない。

 ラミアはカウンターの下に立てかけられた帳簿を取出し、ペラペラとめくる。

 ペンを持ってみるが、全く頭に入ってこなかった。

「…………はぁ」

 私は、本当に役立たずだ……。

 ラミアは重い溜息をつく。本当に自分は、舞以外何一つ上手く出来ない。

 店番も座っているだけ。たまに来る客に対しても、ユチルに取り次ぐしかできない。今しようとしている帳簿付けも、時間がとてもかかるのだ。

 しかもそれらさえ、体調が悪い日には満足に出来なかった。

「私は、どうして……」

 何もできない自分。

 今朝夢に出てきた母親の声が木霊する。

「本当に、どうして――」

 生きているのだろう。

 この三年、何度この問いを思ったか。

 ラミアは心のどこかで、王都に戻れば何か変わるのではないかと期待していた。テンシアに連れられ、この王都の土を踏んだあの時、罵られ続けた故郷での自分がいなくなったように。

 独りになるたび、そんな鬱屈した気持ちが湧き上っては、この世から消えてしまいたくなった。

 ラミアは再び溜息を吐く。

 その時、カランカランと嫌に軽やかな音が鳴った。

 来客だと気付いたラミアは、慌てて顔を上げる。

「いらっしゃいま――――」

 言葉が途切れた。

 喉が詰まって声が出せない。

 時が、止まってしまったような気がした。

 ああ、なんで……。

 胸を絶望のような何かが満たしていく。

 こんな事が、こんな事が、「変化」だというなら、私は――

「ラミア」

 その声が、名前を紡いだ。

 手からペンが滑り落ちる。

 そのカツン、という音で、ようやくラミアの時が動いた。

「――っ、ルテス」

 喉が引き攣る。

 立ち上がった時に倒してしまった椅子が、大きな音をたてたが、ラミアの耳にはそれも遠い。

 どうして、私は、王都に戻ってきてしまったの――!

 ラミアはその場にいることも耐え難く、込み上げる吐き気に口元を抑えて、訪れてしまった「変化」に背を向けた。

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