第三部晴れ渡る国

第一楽章君を求めし

 俺は何をしているんだろう……。

 ルテスの眼前には、王城があった。

 そこはほんの数年前まで恋焦がれ、そして念願叶って入ったはずの世界、その舞台であったはずの場所。そこをルテスは、複雑な気持ちで見つめていた。

 今立っている城下は。少し前に大風の儀があったせいか、まだ観光客やそれを目当てにした行商人が溢れ、普段よりも活気がある。そんな街を横目に、そこから浮いてしまうような陰鬱な気分で、ルテスは王城を目指して歩いていた。


 あの日から――ラミアが姿を消したあの日から、二度の大風があった。

 本来なら、王宮楽団員であるルテスは、その儀に備え準備だなんだと奔走していたはずだ。しかしルテスはその二度とも、それを避けるように王都を不在にしていた。

 大風の儀は王宮楽団員の義務。

 そんなことは分かっていたが、ラミアのいない場所で笛をとる、そのことがどうしても出来ないでいた。

 彼女が姿を消したことが知れ渡ったあの日、ルテスは何を考えるでもなく衝動に任せて王宮楽団長エグゼルの部屋へ向かった。

 そして、こう言った。

 ――ラミアを探す。だから、王宮楽団を辞める。

 そう言った時の彼が浮かべた表情で、自分がとんでもないことを言ったのだと、その時ようやく悟った。しかし、不思議と後悔の念は湧かず、ただ何かがストンと落ち着いた。そんな気持ちだった。

 だが、驚愕に満ちた表情をしていたエグゼルを見れば、反対されるだろうことは容易に想像がついたのも事実だ。

 阻止されたなら、無理やりにでも出て行こう。

 ルテスはひっそりとそんな決意を固めつつあった。しかし、エグゼルはその予想に反して静かに頷いたのだ。わかった、と。信じられないことだった。

 だが、エグゼルは条件をつけた。

『ただし、王宮楽団を辞める事は許可できない』

 探しに行くのは好きにしろ。ただし、籍は残しておく、と。

 ルテスはそんな甘い話があるのか、とエグゼルの言葉を思わず疑った。いや、仮にその言葉が本当のことだとしても、それはほんの短い間のことだろうと高を括っていた。

 だが今も結局はエグゼルの言葉通り、今も王宮楽団員の一員としてルテスは名を連ねている。

 その言葉が優しさによる物なのか、もっと別のものなのか。ルテスには未だによく分からない。

 あの時、辞めてしまった方が良かったのかもしれないと、何度思ったか知れない。自分の行く末はあまりに不安定だ。そんな不安と矛盾の間で揺れる苦しさがルテスにのしかかる。

 終わりは来るのか。本当に彼女を見つけられるのか。

 何も見えないまま、未だにルテスはずるずるとエグゼルの言葉に甘えていた。




 ルテスは王宮へと向かっていた。

 賑わう市街はいつの間にか遠く離れ、見えてきた堅牢な王城の門をくぐる。

 はじめてこの場所に足を踏み入れた時は、あんなにも心がうきうきとし、周りもキラキラ輝いて見えていた。しかし今、目に映るこの景色は、暗く、沈んで、どことなくよそよそしい。招かれざる客のような気持ちにさせられる。

 それでも歩みを止めることなく入った三年振りの城内は、ただ静かだった。

 時を止めてしまったかのように、あの頃と何も変わらない風景。自分だけが、遠く離れたところに行ってしまったかのような、そんな錯覚に陥る。

「……ケイルは、どこにいるだろう」

 独り城内を歩きながら、ルテスはぽつりと零した。

 今日、三年間寄り付かないようにしていた城に足を向けたのは、友人であるケイルから、便りを受け取ったからだ。彼はルテスが城を飛び出してからも、何くれとなく気にかけてくれる、数少ない人物のうちの一人だった。

 ルテスが王都にまで来たことは、この三年でも幾度かあったが、いつもケイルの方からこちらに会いに来ていた。だというのに、突然城まで来いとはどういうことだろう。

 ケイルの常ならぬ申し出を、ルテスも無視しかねて渋々応じた。

 足を踏み入れてみればどうということはない。しかし、やはりというべきか軽い後悔も覚えるのは事実だった。

 ルテスはひとまずケイルの部屋を訪ねるが、応答は無かった。しかし部屋の扉を見つめ、それからまだ中天に昇りきらぬ太陽を見上げ、それもそうかと思い直す。

 時間はまだ午前中。王宮楽団員はまだ練習の真っ最中だろう。

 とはいえ、もう幾許もせぬ内に昼休憩に入るはずだ。ルテスは、それまでどこかで待っていよう、と再び城内を散策しはじめた。

 楽団員が多く住まう寮は、練習場からも近い。寮の外へと出ると、拍子を取る音や楽士の奏でる楽器の音色、その中に交じって団員を叱咤する誰かの声――、そんな雑多な音が聞こえてくる。

 ルテスは懐かしいような、だがそれでいて、その中にいない自分を苦々しく思うような、そんな気分でその音に耳を傾ける。そして、その音に誘われるようにふらりと歩き出した。

 練習場の近くにある中庭。裏手に面しているため、はっきりと音が聞こえるわけではないが、そのさざめきの様なそれが心地よく、人気(ひとけ)も無いその場所にルテスは自然と足を向けていた。

 その隅にあるベンチにそっと腰掛ける。

 ルテスは空を仰ぎ、その青の眩しさに目を眇めた。

 こんな「城」という、良くも悪くも思い出深いこの場所にいると、様々なことが脳裏に去来する。

 ルテスはふと持っていた鞄をまさぐって、一本の笛を取り出した。手にしっくり馴染むそれは、ルテスがずっと愛用してきた笛だ。

 ラミアが城を去った後、暫くの間吹けなくなってしまったそれ。

 笛を――楽士であった自分を否定するように国中を彷徨う日々は、どうにもならないほど苦しかった。そんな時に堪らず吹いたこの笛は、ルテス自身すら驚くほどその苦しさを消し去ってくれた。

 やはり、これがなくては生きてゆけぬのだ。

 ルテスはそれ以来、時折笛を奏でている。

 この音色が、ラミアに届けばよいのに。そう思いながら。

 ルテスはその笛に、そっと唇を寄せ、息を吹き込んだ。三年前から今まで、その日々を思い起こしながら。




 午前の練習が終わる。

 レルカは薄く額に浮いた汗を拭いながら、練習場の中をぐるりと見渡した。

 本来ならば、もっと人がいるはずのこの場所に、今は普段の半分ほどしかいない。その面々も、目の下に隈をつくったりと冴えない顔をしている。

 そんな彼らを見ながら、舞姫で元気なのはきっと自分だけだとレルカは自嘲気味に嗤った。

 もう何ヶ月も入れ替わり立ち代わり、国中に楽団員が派遣されていく。結果如何に関わらず、馬車とはいえ立て続けの旅は、楽団員の体力を奪い続けていた。その上、少し前には大風の儀まで重なった。

 誰もが限界間近の状態で、舞い、奏でている。

 だがそんな中で、レルカが比較的元気なのは、一ノ姫が空位の現在、その代わりのようなことをしているからだ。

 一ノ姫は有事に備え、あまり王都を離れることはない。その慣習は、この「有事」のはずの状況でも変わらないらしい。もちろんレルカとて、全く何もしていないというわけではないが、舞台の多くは王宮内だ。遠出するとしても、他の楽団員に比べれば距離も短い所が多く、負担は遥かに小さかった。

 そんなレルカを、一ノ姫の代役なのだから仕方がないと、周りは言った。

 だが、それに納得することはできなかった。しかし、どれだけ「自分は一ノ姫ではない」と訴えようとも、その声が真に届く事はなく、「未来の一ノ姫は殊勝な心持ちの方だ」という、ありがたくない評判を付与してしまった。

 レルカはぎゅっと拳を握り、もう見ていられないというように他の舞姫たちから視線を逸らすと練習場を出た。そのまま部屋に戻ろうか、そう思っていたのだが、ふと足が止まる。

「笛の音……」

 練習場の中からではない。外、それも裏庭の辺りから聞こえている。

 暫くその微かに漏れ聞こえる音に耳を澄ましていたレルカだったが、はっと顔を跳ね上げた。

 どこか聞き覚えのある音色に、まさかという思いが芽生える。レルカは突き動かされるように、それを辿って走った。

 次第にその音ははっきりと聞こえはじめる。それにしたがって、まさかという思いが確信に変わった。裏庭に面した廊下に出ると、難なく笛を奏でる後姿を発見できた。ゆっくり足を止め庭木に身を隠すように、そちらを窺い見る。

 ……やっぱり。

 三年前、ラミアを追って城を去った、楽士ルテス。

 彼だ、間違いない。

 確信したレルカは、きゅっと唇を噛んだ。

 ふいに笛の音が止む。そして、ルテスがゆっくり立ち上がった。辺りを見渡し、こちらの存在を見とめたのか、身体ごと振り向いた。

 ルテスと目が合う。レルカは、ビクリと身体を跳ねさせた。

「……レルカ…か。――何の用だ?」

 素っ気の無い彼の声に、怯みそうになった。

 だが、聞かなければならない事柄があった。笛の音を追ってここまで来たのは、彼に会いたかったからなどではない。レルカは震えそうになる唇で、なんとかその問いを紡いだ。

「ラミア、は……?」

 この男が城に戻っている、という事は、彼女が見つかったのかもしれない。レルカは、それを恐れていた。

 だが、ルテスはその予想に反して、ふるりと頭を横に振った。

 ラミアはまだ、見つかっていない――。

「そ、う……」

 レルカはそう答えるのが精一杯だった。

 彼女がいないことに安堵していた。しかし、それと同じくらい、落胆もしていた。どちらともつかぬ気持ちが胸を占める。

 見つかって欲しいのか、欲しくないのか。自分にさえも、もう分からない。

 三年前。レルカはラミアに酷いことを言った。彼女を退団――いや、追放に導くあの噂がまわりはじめてすぐのことだ。

 あの時は、自分に正義があると思っていた。だが、ラミアが城を去り、これまで讃えられていた「一ノ姫」が見るも無残なほど貶められていく現実を見た。――見させられた。

 それはレルカの頭を氷水でもかぶったかのように急速に冷やしたが、一度放った言葉は戻らない。その時には全てがもう、手遅れだった。

 ラミアは不貞を働いた、らしい。彼女は肯定こそしなかったようだが、否定もしなかった。そして結局、不明とされたままのその相手を、レルカは知っている。

 正確には、察しがついていたに過ぎなかったが、あの日、レルカが発した酷い言葉が、それを図らずとも教えてくれた。

 それが、今目の前にいる、この男だ――。

 立ち竦んでただこちらを見つめるその男が、一瞬あの日のラミアと重なって見えた。レルカは三年前の幻影を振り払うように、きつく目を瞑る。

 その時、ルテスがぽつりと呟いた。

「何故、一ノ姫にならない……?」

 その問いに、レルカはバッと顔を上げた。

 この三年で、何度も聞かされた問いだ。しかし、この男から発せられたというだけで、酷く胸が痛い。

 ルテスの目は何の感情も映ってはいない。そのただ静かな目が、レルカにはただ恐ろしく感じた。

「わ、私に……一ノ姫になる資格は、無いわ……」

 この三年、ずっと、ずっと繰り返すこの言葉。だが、こんなにも絞り出すように答えたのは初めてだった。

 あんなに欲しかったはずのその椅子を、今のレルカは受け取ることが出来ない。

 だがこちらの葛藤など知る由もないルテスは、不思議そうに首を傾げる。

「ラミアの次に一ノ姫に近い存在だったのはあんただろ? 現に、他に誰もいないじゃないか。どうし――」

「貴方には分からないわ!!」

 堪らず叫ぶ。

 皆――、皆が、そう言うのだ。

 今、お前以上に「一ノ姫」に近い者はいない、と。

 なら、ラミアがまだいたとしたら?

 彼女がきっと、今も「一ノ姫」として君臨していたはずだ。

 あり得ない想像をするな?

 あり得なくなど無い。

 あの時、もし――

 レルカはボロボロと零れはじめた涙を乱暴に拭う。

 もうここにはいられない。いる理由もない。

 そう思った時にはレルカの足は動き出してた。ルテスに背を向けて走り出す。

 幸い、彼が追ってくることもなかった。

 思えば、それは当然のことだったのかもしれない。

 彼が追いかけるのは、いつもラミア、ただ一人なのだから。




「あんまり、いじめてくれるなよ」

 ルテスは突然後ろからかけられた声に驚いて振り返る。

 一体いつからそこにいたのだろう。声の主はケイルだった。走り去るレルカに気を取られていたからか、近付かれたことにすら今気付いた。

「いじめって。そういうつもりじゃ――」

 ない、と言いかけて、ルテスは途中で口を閉じた。

 もちろん、泣かせるつもりでなかったのは確かだった。それは確かだったのだが、責めるような気持ちが一欠片もなかったと言えば、嘘になるような気がした。

「…………それで、何の用だ?」

 口籠ったルテスは、やや無理矢理に話題を変える。ケイルはそれに肩を竦めただけで、何も言わなかった。

「その件については、俺の部屋で」

 彼はそういってくるりと踵を返す。内密の要件らしいというのはそれで察しがついた。ルテスは黙って彼について行く。その間、二人は無言だった。

 そう遠い場所にあるわけではない寮へはすぐに着いて、ルテスはその部屋に通された。三年前までは幾度となく訪れ、友との語らいで夜を明かしたことも度々だったその場所は、あの時と殆ど変わりがなかった。雑然とした部屋だが、不思議と居心地がよい。

 ルテスは、あの頃まで当たり前に享受していた日々に、突然引き戻されたかのような錯覚を覚えた。

「悪いな。あんまり……、外でする話でもないだろうから」

 床に散らばった荷物をケイルは適当に端に寄せ、床に腰を下ろした。ルテスもその近くの隙間に座る。

 よくよく見れば、その荷物は大風の儀に使われる衣装を丸めたものだった。

 大風の儀。

 ルテスはその言葉に、苦い物を感じる。

 思えばそれはこの三年間の、はじまりの日だった。

 ルテスはこれ以上それを視界に入れぬように、ふいと目を逸らす。

「で、何の用だったんだ?」

「あー……、っと、その前に。――ラミア嬢の行方は?」

 ルテスは首を横に振る。

 この三年、ルテスは国中を旅した。彼女の痕跡を求め、至る所を。王都は勿論、彼女が舞を披露した地方の都市、そして何より彼女の故郷。

 だが彼女はまるで、はじめから存在すらしなかったかのように、忽然と消えてしまったのだ。

 ルテスは、何度もめげそうになった。

 本当はもう、この世のどこにもいないのでは。

 そんな恐ろしい考えばかりが浮かんで、夢となった妄想がルテスの眠りを妨げたのも、一度や二度ではなかった。

 それを知らないわけではないケイルは、静かにそうかと言って目を伏せた。

「……だがケイル。何故、急にそんな事を? レルカのさっきの態度と、関係があるのか?」

 不自然に言葉を詰まらせ走り去って行った彼女の姿を思い出す。

 今のルテスに、ラミア以上に気に掛ける存在などはなかったが、それでもこんなにもすぐに忘れ去れるほど薄情ではないつもりだ。特に、目の前にいるこの男が、彼女のことを憎からず思っていると知っているのだから、なおさらだろう。

「あいつは、お前に何て言った?」

「大したことは……。――あぁ、一ノ姫にはなれない。そう言っていたが?」

 ルテスにはそれが酷く不可解だった。

 三年前のレルカは、自身から一ノ姫の位を奪ったとラミアを恨んでいる節さえ見受けられた。そんな彼女ならばラミアの失脚を、これ幸いとものにするだろうことは簡単に予想できた。

 だが実際にはこの三年、ずっと一ノ姫の位は空位のまま。本人に尋ねれば、苦しげな顔で「資格が無い」などと言って泣くのだ。ルテスには、全く理解が及ばない。

「一ノ姫にはなれない、か……。あいつとラミア嬢の間に、何があったんだろうな」

 ケイルはこの三年間のレルカの様子について、ぽつぽつと零した。

 彼女はラミアが王宮から消えたあの日を境におかしくなったという。ぼんやりしていることが増え――、かと思えば、狂ったように舞に勤しむ時もある。

 そして何よりおかしいと思ったのは、彼女が「一ノ姫」という単語に、過剰反応するようになったことだと彼は言った。

「そうか……」

 ルテスは愚痴のようなケイルの言葉に、そう返すほかない。

 彼の最たる不満は、レルカが己に一言の相談もしてくれない、そういった所だろうことは、その表情からも読み取れた。

 その気持ちは自身にも覚えがある。

 どうして俺に何の相談もなく、お前は姿を消したんだ――。

 ルテスも何度そう思ったか、もう覚えていない。

 しかしそれは、他人には解決できない問題なのだ。

「……それは俺にはどうしようもない。―――ケイル、そろそろ本題が聞きたい。」

 あまりに突き放したような言い方だっただろうかと、ルテスは彼の反応を窺う。だがケイルは気を悪くするでもなく、悪い、と少しバツが悪そうに笑って、そして静かに口を開いた。

「ユリーシア呪術師長殿がお前を呼んでいる。―――ラミア嬢のことで」




 数刻後、ルテスは王宮を出て街に戻っていた。

 行きと違い、通りすがりの人々が振り返る程の早足で、人波をかき分けていく。だが、そんな周りの反応など、その目には一つたりとも映ってはいなかった。

 ただ、ある場所を目指して、ルテスは脇目も振らずに歩き続けた。


 話はケイルと別れた後にまで遡る。

 彼との会話を終え、ルテスはその足で呪術師庁へと向かっていた。

 突然の来訪、先触れも出していない状況で、本来なら会ってもらえるはずもない。冷静に考えれば分かるはずのこともすっ飛ばし、ルテスはこの場所まで来ていた。

 しかし、意外にもあっさりと彼女との面会が叶い、少々困惑しつつも案内の人間について歩く。

 久方ぶりに足を踏み入れたそこは、滅多に来ることのなかったルテスでも分かる程に、慌ただしげだった。大風の儀が終わってすぐだからかとも考えたが、そういえば、とあることを思い出した。

 呪術師庁長官ユリーシア、副官ヴェリスの婚約。

 何ヶ月か前、風の噂で聞いた話だ。当時はまさかと思い、信憑性は薄いと考えていたが、もしかすると本当の話だったのかもしれないと考えを改める。

 ルテスが聞いた話によると、今年の大風の儀を最後にそれぞれ後任に役目を引き渡し、いずれは揃ってユリーシアの故郷に戻るのだという。

 妖精の里は、外部からの接触を嫌っている。それをよく知っているルテスは、外部、それも人間を迎え入れるなど、ありはしないだろうと思っていた。

 とはいえそんなことは、今のルテスにも殆どなんの関係もないことだ。前を行く案内人は事の真偽を知っているかもしれないが、特に尋ねようと思うこともなく、ルテスは黙ったままついて行った。

 そうこうしているうちに、客間のような部屋へと通される。そこには、ほろ苦い笑みを浮かべたユリーシアが立っていた。

 三年前まで、床に擦れるほど長かった赤紫の髪は、肩甲骨の辺りまで短くなっている。また、彼女が纏う衣服も呪術師長としてのものではなく、一呪術師と変わらぬものとなっていた。

 もう既に体制は、新しい呪術師長の元へと移っているのだろう。それもあって、こんなにもすぐに彼女との面会が叶ったのだと合点がいった。

「来てくれて、ありがとう。ルテスくん」

「お久しぶりです、ユリーシア殿。……ラミアのことで、話があるとか」

「ええ……、それなのだけれど……」

 挨拶もそこそこに早急に話を進めたがるルテスに、ユリーシアは苦笑を漏らす。

 しかし、ユリーシアはそこで言葉を切った。そして、逡巡するように視線を巡らせる。

 何を言いたいのだろう。ルテスは焦れる思いで彼女の言葉を待った。

「私は、ずっと……、迷ってたの」

 ユリーシア要領の得ない言葉に首を傾げる。

「ルテスくん、あなたにだけは、言うべきなんじゃ、って」

「何を………」

 そして放たれた言葉は、彼女の行動を怪訝に思っていたルテスを一層、混乱させたのだった――。


 ルテスは大通りから一本脇道に逸れ、一軒の家の前にいた。

 簡素な造りのその家は、王宮の様な建物の後に見るとみすぼらしく見えるが、庶民の暮らす家としては、何ら珍しくないものだ。周りに建つ家々も皆、同じようなものばかりで、ルテスも本当にここであっているのか、と自信が持てない。

 だが、ただの住宅にしか見えないそこは、薬草や薬を取り扱う店なのだという。だが、それを示す看板などといったものは何もなく、扉にかかった「営業中」という札だけが、この場所を店だと教えてくれていた。

「本当に、こんなところに……?」

 ルテスはユリーシアの言葉を思い出す。

『私は、ずっと……ラミアちゃんの居場所を知っていたの――』

 ユリーシアはそう言って謝罪をした。そうして教えてもらった場所、それが今、目の前にあるこの店だった。

 何故今まで教えてはくれなかったのか。

 そんな事は、今のルテスにはどうでも良かった。

 ルテスはその扉を、ゆっくりと押し開ける。

 来客を知らせる鐘が、カランカランと軽やかな音をたてた。薬草の香りがふわりと漂って、ルテスの妙に高鳴る鼓動を少しだけ抑えてくれる。

 だが、それも一瞬のこと。

「いらっしゃいま――――」

 言葉が不自然に途切れた。

 そこにいた女は、現れたルテスを呆然と見つめている。

 ずいぶん、痩せた……。

 もう少女とは言えぬ風情の女は、思い出の姿より幾分も儚くなっている。

「―――ラミア」

 名を呼ばれた女、ラミアは持っていたペンを取り落した。それはカツンと音をたてて床に転がる。

 その音が、いやに重く響いて聞こえた。

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