第二部風の吹く都
第一楽章大風の儀
――――― 一緒に王都に行くのよ!
彼女にそう言われてから2年の時が経った。
ルテスは笛から口を離して、前方で踊り終えて談笑している十五人の舞姫を見た。今握っている笛は、故郷で吹いていたものではなく、こちらに来た後、十五名の王宮楽団の楽士に選ばれた際に賜った笛だった。
ようやくここまで来た…。
見ることさえも叶わなかった一年、必死になって技術を磨いた。そして、その努力が認められ、彼女と同じ舞台に立てるようになったのは、つい半年前のことだった。
「ラミア……。」
揺れる金髪、朗らかに笑う口元、この二年彼女を忘れた事は無かった。
ルテスにはラミアが他の舞姫より、一段と輝いて見えた。
その光に少しは近付けただろうか。
「ルテス! お疲れさまー。」
舞姫と楽士の合同練習の後、ルテスを発見したラミアは、彼に手を振りながら近付いた。彼女の声に気が付いたルテスは、ぱっと振り返ってラミアを見た。
「ラミ…一ノ姫。」
「ラミアで良いよ。今、他に人もいないし。」
呼び辛そうに、「一ノ姫」と言ったルテスに、ラミアは苦笑しながらそう言った。
フーデリアで初めて会った時から、ラミアの事を名前で呼んでいたルテスは、ここ王都リャデンシャスに来て、王宮楽団の訓練生になった時から、彼女の事を「ラミア」と呼んだ事は無かった。王宮楽団は上下関係が厳しく、最上位の舞姫である一ノ姫を名前で呼ぶなど、言語道断という話だ。半年前、ルテスが正式に王宮楽団員となってからも、それは変わらなかった。
今思うと、ルテスがこっちに来てから、二人になったの初めてかも…。
王都に来てからのルテスは、彼の故郷であるフーデリアで見せていた、不遜さはなりを潜め、直向きに技術を磨いていた。もっとも、元から努力家なのはルテスの手を見れば一目瞭然なのだが。
「なんか、ルテス、見違えちゃった。」
二年前、まだ少年ぽさが残っていた彼の顔立ちは、もうすっかり大人の顔になって、元から自分よりも年上だったはずなのだが、ラミアは自分がさらに年少になってしまったような気がした。
「ラミアは…、変わらないね。」
「そう?」
そうかもしれない。一ノ姫となった時から、目指すものが無くなり、立ち止まっているからだろうか。
それに比べて、ルテスはこの二年で目覚ましい成長を遂げた。王都に来てから彼はすぐに頭角を現し、凄まじい勢いで王宮楽団員にまで上り詰めた。二年が経った今、彼は王宮楽団楽士の中でも、トップを争うような腕と言われている。技術も上がっているのは、言わずもがなであった。
「今日、ルテスの音を聞いて、ちょっと嬉しかったの。優しい音色、何にも変わってなかったから。」
あの町で聞いた優しい音色は、何一つ変わっていない。
ラミアはふふと笑ってルテスを見た。今日はルテスが王宮楽団員となって初めての、舞姫と楽士の合同練習。ラミアが彼の音を間近で聞いたのは、実に二年振りだった。
「そういえば、これから週一で、合同練があるらしいね。」
舞姫と楽士は基本的に三十名全員で共に舞楽を奏でる事は無い。舞に駆り出される時も、一部は王都に残り、駆り出される者のみで練習をする。それ以外の時は、舞姫、楽士で別れているため、顔を合わせることすら、滅多とない。
その為、不思議そうな様子で、ルテスはそうラミアに言った。
「あ、そうか…。ルテスが入って初めて、か。」
ラミアは暫く考えた後、そう言いながら手をポンと打った。ほとんどの楽団員はこの季節になると、合同練習になるのが当たり前になっているので、ラミアは新鮮な反応だと思いながら、ルテスの顔を見上げた。思えば、彼が王宮楽団員となってから、初めての季節だったかもしれない。
「これから毎年よ。もうすぐ…、『大風の儀』だから―――」
「あ……。」
ルテスは合点がいったのか、なるほどと大きく頷いた。
大風の儀。
それは、ここ王都リャデンシャスに、毎年一度吹き荒れる大風を鎮める為の儀だ。この国ができて以来、王都に年一度必ず吹く大風。遷都をしても、何故か王都に吹くこの風を鎮める儀は、年中行事と化し、王宮楽団の請け負う儀の中でも、最重要とされる儀の一つで、唯一、楽団員全三十名が必ず参加せねばならない儀となった。
ちなみに、この風を体感し儀を見るために、訪れる観光客もこの時期増える。
大風が吹くのは、ある一日のみ。その前日から夜通し舞を踊り、大風は日の出とともに吹き始める。そして、その日の太陽が真上に来るまで舞う。もちろん、過去には舞によって大風が殆ど吹かずに終わった年もあったようだが、大体は日がある程度昇るまで、風が吹き続ける。
「今年はいつ?」
ルテスの問いに、ラミアはうーんと唸って、首を傾げた。
「さぁ…。今年はまだ、予測が出てないから。」
大風が吹く日は呪術師庁と呼ばれる政府機関が、日付を占って予測を発表する。他の災害もそうなのだが、王宮楽団員は基本的に呪術師庁の予測に従って、舞を納めに行く。大体は、その予兆が出始めた時点でその場に赴くので、二年前のフーデリアのように、大概は大事になる前に事件は収束する。中でも、大風の儀に関して呪術師庁は、絶対の的中率を誇り、儀が始まって以来、日付を外した事は無いとされている。
例年通りであれば、そろそろ日程が告げられても遅くはない時期だった。
「一ノ姫。」
その時、ふと別の声が割り込んだ。ラミアが声をかけられた方へ振り返ると、そこには王宮楽団長のエグゼルの姿があった。
ここにいたのか、と言って近付いてきたエグゼルは、どこか焦ったような雰囲気があった。
「どうされましたか、団長。」
「いや、…ルテスも一緒か。」
エグゼルはルテスをちらりと確認して、自分を落ち着かせるように、小さく首を振る。
「一ノ姫にご用事なら、私は外しましょうか。」
ルテスがそう言って立ち去ろうとすると、エグゼルはルテスの肩を掴んで、彼を引き止めた。
「待て、…お前にも関係がある話だ。」
ルテスは驚いた表情で、エグゼルを振り返った。エグゼルはルテスの肩から手を離すと、二人の顔を見て、小さく息を吐いた。
「大風の儀の話だ。」
エグゼルの焦った表情と裏腹に不自然な程静かな口調に、ラミアとルテスは顔を見合わせた。
何かあったのだろうか。
いつも通りならば、王宮楽団員全員が集められたところで、呪術師庁長官から日程の発表を受ける。そしてようやく、そこから儀が動き始める。まだ日程も明らかになっていない時分から、王宮楽団長から一ノ姫へ個別の話があったなど、今まで聞いたことはなかった。
ラミアは小さく頷いて、エグゼルに続きを促した。
エグゼルは目を閉じて息を吐いた。そして、意を決したように目を開いて、二人の顔をを見た。
「先程、呪術師長殿にお会いしてきた。もちろん、儀の日取りを尋ねに、だ。だが、彼女はこう仰った。」
そこでエグゼルは言葉を一旦切って、もう一度、眼前の二人の顔を見た。そして、エグゼルは再び口を開いた。
「『此度の儀、日を定めることは出来ない』と―――」
一体どういうことなのだろう。
エグゼルに大風の儀について聞かされたあの日から、数日が経過していた。
今日の合同練習の後、ラミアは呪術師庁長官ユリーシアに呼び出され、予言の間と呼ばれる呪術師庁舎の一角にある部屋へと向かっていた。
予言の間とは、呪術師と呼ばれる、舞楽を奉じる者たちとはまた違う不思議な力を持つ者たちが、天災の予言をする部屋だ。一般人の立ち入りは厳しく制限されており、今回のように内部関係者から呼ばれでもしない限り、たとえ王であっても入ることは許されない場所だった。
「失礼いたします。」
ラミアは、そんな部屋の扉をそっと押し開けた。普段は呪術師庁の誰かが、守を固めている扉は、人払いがされていて誰もいなかった。
予言の間は壁で幾つかに仕切られていて、一つ一つは割と小さな部屋になっている。ユリーシアのいるであろう空間は、この中でも最奥に位置するため、ラミアは部屋をするすると抜けていった。
人が一人もいない……。
ラミアはユリーシアの元へと向かいながら、ちらちらと周りを確認していた。必ず数人は常駐しているはずの予言の間に、人を見かけないのは異様な状態だった。
思っていたよりも大変なことが起こっているのかも、しれないわ…。
そうして、ラミアは予言の間の最奥へと辿り着いた。
壁の脇から顔を覗かせると、その先には、女が座って祈りを捧げていた。彼女は明るい赤紫色の髪を床に流し、薄めの褐色の肌に薄い絹のような、衣服を身に纏っていた。
人間ではあり得ないような、赤い髪。彼女は人間とは違う種族、妖精、だった。
「ユリーシア。」
ラミアはゆっくりと目の前の妖精の女、ユリーシアに近付いて声を掛けた。ユリーシアもラミアの存在に気が付いていたのか、大して驚いた様子もなく、顔を上げると振り返った。
「ラミアちゃん…。久しぶりね。」
ユリーシアは、どこかほっとしたような表情でラミアを見上げて微笑んだ。ユリーシアは、ラミアにも座るように促して、自身もラミアの方を向いて座り直した。
「テンシアさんから、便りはあった?」
ラミアはユリーシアのその問いに、ふるふると首を振った。
テンシア、その名は、ラミアが王都へ上がる際に、何かと手助けをしてくれ、ずっと一緒に生活をしていた、育ての母のような存在の名だった。
ラミアは二年前のルテスのように、彼女が十を数える頃、当時の一ノ姫であったテンシアはラミアの故郷の村に訪れた。そこでテンシアは、ラミアを王都へと連れて行くことを決め、ラミアは彼女と共に、王都へと旅立った。思えば、ルテスを王都へと連れて来た時のことは、テンシアをなぞっていたのかもしれない、そうラミアは思った。
ラミアはテンシアから、舞姫について様々なことを学んだ。故郷の村にいたときはあまり好きでなかった舞を、好きになれたのもこの頃だった。ユリーシアと知り合ったのも、舞姫になる前は、呪術師庁にいたテンシアの伝手によるものだ。
しかし、ラミアが十四になった頃の事、テンシアは「黙って行く事を許して」そう書かれた、短い置き手紙だけを残して、いずこかへと姿を消した。一ノ姫が付ける房飾りも残されており、すぐにテンシアの後任を決める事となった。
その後、ラミアが十五になった頃に、彼女は一ノ姫となった。
「ユリーシア。こんな話をするために呼んだんじゃ、ないでしょ?」
ラミアは小さく首を振って、ユリーシアに向き直った。こんな話をするなら、何も予言の間まで呼び出す必要はない。
ラミアはちらと周りに視線を配った。誰もいない予言の間。余程聞かれてはまずい事があるのか。おそらくは、大風の儀の話か。
ユリーシアは、そうね、と言って、ゆったりと立ち上がった。ラミアが慌てて立ち上がろうとするのを、ユリーシアは視線で止めて、ラミアに少し悲しげに微笑んだ。
「天球って、知ってる?」
「……たしか、予言に使うんだったっけ?」
ユリーシアはこくんと頷いて、少しその場を離れた。そして、部屋の端に置かれていた、台座に置かれた水晶のようなものを持って、ラミアの側まで戻ってきた。
「これが天球。呪術師はこれを使って予言をするの。天球は何個もあるんだけれど、その中でもこれは……、風の天球、と言って、
ユリーシアはそう説明しながら、ラミアの前に手に持っていた風の天球を置いた。思っているよりも小さなそれを、ラミアは覗き込んだ。透明の球体の中には、うっすらと緑がかった何かが、渦巻くように揺れていた。
「…大風の儀の予言をするための、天球よ。」
ユリーシアは天球の前に座ると、するりと天球を撫でる。それに呼応するように、中の緑も揺れた。
「ちょっと…、相談したいことがあったの。」
「相談…?」
ラミアが顔を上げると、ユリーシアは真剣な表情で天球をじっと見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げて、ラミアの目を見た。
予言が出来ない、という話ときっと関係があるのだろうと、ラミアは思った。だが、ただの舞姫に予言に関してできることはほとんど無いはずだ。
なら…相談、とは……?
「実は、……予言は終わってるの。」
「え?」
ラミアは目を見開いて、ユリーシアを見つめた。それはつまり、もう既に日付は出ているということだろうか。それならば何故、彼女はエグゼルをはじめとした関係者に、「予言は出来ない」と言ったのだろう。
ラミアは、怪訝な顔でユリーシアを見返した。
「呪術師は、天球の力の流れの強弱や揺れをよんで、天災の時期、規模をみるの。それは、風の天球も同じ。いつも大風は、とても天球の力が強くなることで、日が分かるのだけれど……。」
ユリーシアはそこで一度言葉を切って、天球に触れた。そして、ラミアの手を取ると、ラミアの手を天球に触れさせ、ユリーシアも自分の手を重ねるように置いた。
「…分かる?」
ラミアは、手のひらから何かの力の流れを感じた。渦巻くような力、そして二回大きく広がるような力を感じた。
ユリーシアがそっと手を離すと、ラミアも手を引っ込めた。
「力が大きく…、二回……?」
ラミアは、自分の手のひらをじぃっと見つめていた。そして、先程感じたことを思い返すように呟くと、ユリーシアはラミアにゆっくりと頷いた。
「それが大風よ。」
ユリーシアの言葉に、ラミアは顔を上げた。
「え……?」
力の高まりが大風と言うなら、ラミアが感じた力は何だったのか。力は二回大きくなった。しかし、大風は古来から一年に一度のはずだ。
ラミアはハッと息を飲んで、ユリーシアを信じられない面持ちで見つめた。その視線にを避けるようにユリーシアは悲しげに目を伏せて、小さく頷いた。
「多分、貴女の思っている通り。今年の大風は……二回、あるのよ。」
「……!」
ラミアは何を言ったら良いのかも分からず、ただ目を丸くして、ユリーシアを見つめ返した。
大風が二回など、はじめて聞く話だった。ラミアが王都で暮らし始めてから、早八年だが、もちろんそんなことは無く、それ以前も、聞いたことがない。この話が広まれば、王都民、いや国民全てに混乱が広がることは必至だ。
しかし、関係者にまで何も言っていないのは、どういうことだろうか。
「そんな大事なこと、どうして私に…?」
ラミアは、信じられない気持ちで、そう呟くように聞いた。聞けばユリーシアは、この事実を呪術師庁副長官のヴェリスを除けば、ラミアにしか言っていないらしい。
ユリーシアは沈んだ顔のまま、項垂れるように言った。
「どうすれば良いのか…、分からなかったの。大風が二回ある、というだけなら、儀を二度すれば良いだけよ。でも、……違うのよ。」
「違う?」
ラミアはユリーシアの言葉に首を傾げた。
違うとはどういうことだろう。大風が二度あるというだけでも、前代未聞だというのに、まだ何か問題があると言うのだろうか。
「一度目の大風は、今から半月後。いつもとあまり変わらないわ。でも、二度目は……。二度目が…! ……一度目の、次の日…なの。」
「……!!」
ラミアの顔が青ざめた。ラミアは聞いた事が信じられず、ただ青い顔で項垂れるユリーシアを凝視していた。
次の日……?
大風の儀は全三十名の王宮楽団員が総出で奉じる。大風の前日の夜中から、約半日舞い続けるのは、王宮楽団員にとっても、容易ではない。大抵、次の日には多くの楽団員が、疲労で自室から出て来ない。
それを二日連続でするなど、無理な話だ。
「半々で…。半々で、してもらおうかと、思ったけれど……。貴女はともかく、他の者たちでは、大風を抑えるのは無理だと思うから。」
ユリーシアはそう言って、また小さく溜息を吐いた。
天災をどれだけ抑えられるか、つまり、神にどれだけ影響を及ぼせるかは、当人の力量がものをいう。一ノ姫として選ばれるということは、それだけその力が大きいということだ。ユリーシアをはじめとした呪術師達は、その力の差をある程度見極めることが可能であり、一ノ姫の選定にも、彼らが少なからず関わっている。
「………。」
ラミアは無意識に、自分の顔の両横で揺れる房飾りを触った。
ユリーシアは先程、何と言ったか。「
ラミアはぽつりと呟くように言った。
「私なら、なんとかできるの?」
ラミアの呟きに、ユリーシアはガバッと顔を上げた。先程から青かった彼女の顔色は、青いを通り越して、紙のように白くなっている。
「そ、そんなこと…させられるわけないでしょう?! 二年前、フーデリアで倒れたの、忘れたなんて言わせないわよ!」
わなわなと唇を震わせていたユリーシアは、そうラミアを怒鳴りつけた。
ラミアは二年前のフーデリアでの儀の事を思い出していた。
湖の上に浮かべられた板の上、楽士達の奏でる音に乗せるように舞った。楽士達、いや、ルテスの奏でる音だけを聞いて舞った。そして舞終わった後、不意に意識が途切れたのだった。
理由は分かっている。力を使いすぎたからだ。昔は舞楽が神を喜ばせ、災を鎮めるのだとされていたが、近年は、舞楽を奉じる舞姫や楽士、またその舞楽自体になんらかの力があり、その力が自然界、神に影響を及ぼす事が分かってきた。
その為、その力の強弱が舞楽を奉じた結果に、大きく影響を及ぼす。
当然の事ながら、一ノ姫たるラミアの力は強く、ユリーシアによると、歴代の中でも特に強いのでは、という事だった。
しかし、その力は人の内から発せられるもの。一度の使用には限度がある。もし、限界を超えてしまえば、どうなるかは分からなかった。
ラミアはその事をテンシアから聞かされ知っていた。だが、いや、だからフーデリアでは、ラミアが力を調整せねば、異変は治らないか、その場の全員が倒れかねなかった。
しかしその結果、ラミアが倒れたのは、その限界が近かったという、何よりの証だ。
二人とも、危険は痛いほど分かっていた。
ユリーシアは唇を噛んで、頑なに首を振った。
「ダメよ。王宮楽団員が全員でやって、一回止めるのがやっとなのよ…? 貴女一人じゃ……。」
ユリーシアはそこで言葉を切った。
「出来ない」そう言いたかった。そう言えばラミアも諦めて、違う手を考えるかも知れない。しかしユリーシアは、それを言う事が出来なかった。
もし、ラミアの命の事を考えなければ、彼女の力を考えれば、出来ない事もないだろうことがユリーシアには分かっていた。そして、それ以外に方がない事も。
「……出来るのね。」
ラミアの声は、確信を得たような声だった。ユリーシアは肯定することだけは出来ず、力なく首を振っていたが、もはやラミアには意味を成さなかった。
「お願い…。馬鹿な事はやめてちょうだい、ラミアちゃん。」
ユリーシアは力無くそう言ったが、彼女は自分の言葉に確信を持つ事が出来なかった。いや、本当は分かっていた。それ以外に方法が無い事は。
大風の儀は王宮楽団員全員で奉じるが、正しくは、王宮楽団員以外には、その舞台上に立ち入る事すら許されていない。これは、王宮楽団が設立されて以来のしきたりで、不測の事態である今回といえども、そう簡単に変えられはしない。つまりは、楽団員のみでするしかない。
これ以外に方を見出せそうにはなかった。
ラミアも同じ事を考えていた。自分にしか出来ないというならば、言う事は一つだ。
たとえ、自分はどうなろうとも。
「なら、一日目は他の皆で。二日目は…、私一人でする。」
ユリーシアはダメだ、危険だ、と騒ぎ立てたい衝動を抑え、心を落ち着けようと一つ息を吐いた。駄目だと言うだけでは、ラミアの決心はきっと変わらない。
ユリーシアはラミアをじっと見据えると、小さく首を振り、強い口調でこう言った。
「それは許可できません、一ノ姫。」
ラミアの表情が変わった。
儀を取り仕切る呪術師庁は、儀に関して絶対の権限を持つ。独立機関である王宮楽団といえども、儀に関しては、呪術師庁の決定には逆らう事は出来ない。
ユリーシアはラミアを「一ノ姫」と呼んだ。それはつまり、呪術師庁長官からの、正式な命令の意味を持つ。
ラミアは立場上、逆らう事は出来ない。
「―――っ、でも! そうしなきゃ……!」
「だから!」
反論しようと声を荒げたラミアを、ユリーシアはそう言って黙らせた。ラミアの言いたい事など、ユリーシアも痛いほど分かっていた。しかし、一人でさせるわけにはいかない。
ユリーシアは苦々しいものを飲み込んで、口を開いた。二度の大風を収める、ラミアに無理をさせない方法は、これしかユリーシアには思いつく事が出来なかった。
「……楽士ルテスを招集します。」
「ル、ルテス……?」
ユリーシアはこくっと頷いた。ラミアの方を伺うと、納得がいかないような顔をしていたが、適切な反論が浮かばないのか、何か言いたげな顔をしながらも、何も言わなかった。
「二日目は、貴女とルテスの二人でしていただきます。」
とどめのように、ユリーシアがそう言うと、ラミアはしばらく悩んだものの、最終的には小さく「わかった。」と言った。呪術師長からの命令では、どちらにせよ、逆らうことは出来ない。
自分だけでなく、ルテスにまで危険が及ぶことに、不安を感じているのだろう。ラミアはやはり、釈然としない顔をしていた。
ユリーシアは、ラミアが出て行った後の部屋で大きく溜息を吐いた。
ああ、ルテスくんも呼ばないと……。
二回目の大風をラミアとルテスに抑えさせる。本当にこれが最善だったのか、ユリーシアには分からなかった。もう決めてしまったというのに、いつまでもうじうじと悩む自分に、ユリーシアは苛立ち、それをいなす様に髪の毛を撫で付けた。
予言の間は、ラミアが来る前に人払いをしてしまっていたので、外まで人を呼びに行かなければならない。ユリーシアは、もう一度、小さな溜息を吐いて立ち上がった。しかし、長いスカートを捌ききれず、それを踏んでよろめいた。
「わっ……。」
しかし、ユリーシアが転けてしまう前に、何かが腕を掴んで引っ張り、ユリーシアは事無きを得た。そして、何とか自分の足で立って、そちらを見た。
「あ……。」
その視線の先には、ユリーシアとよく似た赤紫色の髪を、短く整えた少女が立っていた。
「εογνυλεεοιρδπ ροευσ」
「久しぶりね。」
ユリーシアは、自分の腕を掴む目の前の彼女を引き寄せると、優しく抱きしめた。
「懐かしいわ……。」
短髪の少女も、ユリーシアを抱き返し、彼女の胸に頬を寄せた。二人が以前に会ったのは、もう随分と前、ユリーシアが王都に来るよりも前の事だ。
二人は暫く無言で抱き合った後、ようやく互いを開放して、顔を見合わせた。二人は自然と笑みをこぼした。
「ιινσα ευτσεκψεριρχαιυηορυδθυα?」
「そう、今日はわざわざ来てもらったのよね…。―――実は、お願いがあるの。」
少女の怪訝な顔に、ユリーシアは、肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
「さっきの話、聞いてた?」
少女はこくっと頷いた。ユリーシアはそれを見ると、聞いていた事を咎めるでもなく、むしろ微笑んで、「それなら話が早いわ。」と言った。
ユリーシアはそもそもこの少女には、この一連の話を隠すつもりは無かった。いや、もしかすると、異変にはとっくに気が付いているかもしれない。きっと今回呼び出された理由も目星がついてるだろう。だから、彼女にはみなまで言う必要はない。
「お願い、聞いてくれる?」
少女はその言葉を聞くと、わざとらしいほど顔をしかめて、大きなため息を吐いた。
「ρητναεκ λιτνιφιεγισ? κχεαξευδσενσονρεπ?」
少女は不満そうに、ユリーシアに問いかける。ユリーシアは笑顔のまま、少女を見つめていた。嫌がるだろうことは百も承知だった。
しかしその時、不意に部屋の扉が開く音が響いた。二人しかいない空間では、遠い扉からでも、その音がいやに響いた。
少女はその音に、やれやれと首を振って、ユリーシアを見た。
「……受けるとは、思わないでよ。」
少女は流暢にそう言うと、ふっと姿を消した。妖精は人間には使えない不思議な力をいくつか使うことが出来る。少女が忽然と姿を消したのも、その力であることはユリーシアも分かっていたので、とくに驚くこともなく、代わりに苦笑いをこぼした。
やはり怒られた。でも、きっと、受けてくれるだろう。ユリーシアは確信を持っていた。
「ユリーシア様。」
不意に背後から声をかけられた。
「ヴェリス。どうしました?」
そう言いながらユリーシアが振り返った先には、呪術師庁副長官であるヴェリスの姿があった。
「いえ、一ノ姫がお帰りになる姿を見たので。」
ヴェリスはそう言いつつ、周りをきょろきょと見渡す。少女の声を聞こえたのかもしれない。だが、彼は異変がなさそうなのを見て取ると、とくに何も聞かず、床に置かれていた天球を持ち上げて、元の位置に置きなおした。
「どうするか、お決めになりましたか。」
「ええ…。楽士ルテスを呼んでもらえますか?」
事態は動き始めた。
ユリーシアは少し寂しげな表情で微笑んでそう言った。
「ルテス!」
呪術師庁長官ユリーシアに呼び出され、衝撃的な話を聞かされた帰り、ルテスは自室の前にいる友人、ケイルがその前にいるのを発見した。
ルテスもその声に手を挙げて答えると、ケイルはニヤっと笑って、ルテスに近付き、彼の肩を抱いた。
「遅かったな。どこ行ってたんだ? さっきの集会、いなかったろ。」
「野暮用。……え、集会?」
ルテスはともかく、部屋を鍵を開けて、彼を招き入れた。ここは王城の一角、王宮楽団員が詰めている場所から程近い場所にある寮で、楽団員一人一人に与えられている部屋だ。人によっては、他所に家を持ち、ここでは物置や臨時の場合に使っている者もいたが、ルテスをはじめ、ここで寝起きをしている者も多い。
ルテスは、不意の来客だったが、律儀に茶を淹れ、ケイルに出した。
「で、集会って?」
先程の返答が返ってこないので、ルテスはもう一度問い直した。
ルテスはつい先程まで、ユリーシアに呼ばれ話を聞いていたため、当然ながら、集会の存在すら聞いていない。
だが、この時期に開かれる集会など、ある程度は想像がついていた。おそらくは、大風の儀の話だろう。
「大風の儀の日取りが決まったんだよ。……聞いてなかったのか?」
「まぁ…、ちょっと呼び出されてたから。」
ルテスは、頭をかきながら、ケイルの前に座ると、足を組んだ。ユリーシアの話によると、おそらくケイルは二度ある大風のうち、一度目の日取りしか聞かせていないはずだ。大風が二度あることは、混乱を避けるために、極一部の関係者を除き、王宮楽団員にも知らされていないらしい。当然、ルテスも他言無用だと口止めをされていた。
だが、どうもこういう場面で、煙に巻いてうやむやにする、ということが苦手なルテスは、ケイルにどうすれば勘付かれずにこの場を乗り切るかということに、頭を悩ませていた。
問われなければ、答えないで済む。
「呼び出されてた、ね。……もしかして、何かあったのか?」
「なっ……。………どうして。」
突然の問いに、思わず動揺が出てしまった。なんとか、動揺を抑え、平静を装い聞き返すも、ケイルは呆れたような顔をしていた。
ルテスはそんな彼の顔を見て、「何か」があったことがばれてしまった事を悟った。ルテスは、自分の迂闊さを罵りつつ、軽く眉間に皺を寄せて溜息をついた。
そんなルテスを見て、ケイルは肩を竦めると、とりあえずルテスの問いに答えることにした。
「どうして、か…。ちょっと、色々あってな……。レルカが大暴れしたんだよ。」
「……は?」
一体なぜ、今その話をするのか、とルテスはポカンとケイルの顔を見た。しかも、暴れた、とはいったいどういう事だろうか。
ケイルはそんなルテスに、大暴れは言いすぎだなと、言った後、まぁ聞け、と目で制して、話を続けた。
大風の儀についての集会後の事だ。解散後、ほとんどの楽団員が散って行ったあと、ケイルは廊下の隅の方から、言い争うような声が聞いた。よく聞いてみると、声はレルカと、王宮楽団長のエグゼルのものだった。ただならぬ雰囲気を感じたケイルは、そっと近づいて、彼らから死角になっている位置から、状況を確認した。そこには案の定、レルカとエグゼルがおり、特にレルカは、激昂して今にも手が出そうなほどの剣幕だった。
そんな状況を見たケイルは、当然レルカが心配になった。相手は王宮楽団長、つまり彼女より身分が上だ。このままの状況でも、言葉によっては、問題になりかねないが、もし、手が出てしまったら、どうなるか分かったものではない。そして、止めに行こうと思ったケイルは、次のレルカの一言に思わず足を止めた。
「こう聞こえたんだよ、『一ノ姫の代役なんて、やりたくない』ってな。」
集会では、一ノ姫の代役の話など、全く出てこなかった。大風の儀は楽団員全員でするのが基本だ。もちろん、急病等で、人員が欠ける事はあったと伝わっているが、こんな半月も前に代役の話が出るなど、聞いた事がない。
何かあったのだろう、と思っても何の不思議もない。
「そうやって、ぼんやりしてる間に、二人ともどっかに行っちまってたんだけどな。」
かっこ悪いな、と言ってケイルは笑って、話を締めた。
ルテスは話を聞き終え、もう一度溜息を吐いた。これは、下手に隠すよりは、全て話した上で、口止めした方が良いかもしれない。気さくで割とお喋りなケイルだが、口は堅い。むしろ危惧すべきなのは、隠す事によって、彼の好奇心を擽り、極秘事項に首を突っ込ませる結果になる事の方だ。
「…もう、全部話す。ただし、ここで聞いた事は、ここだけの事にしろよ。」
ケイルは、明らかに嬉しそうな顔をして、任せとけ、と胸を叩いた。
ルテスは、もう一度大きく溜息を吐いて、ユリーシアに聞いた事を話しはじめた。
ラミアはユリーシアの元を辞した後、一週間ぶりに、自宅への帰途を辿っていた。自宅、とは言っても、生まれ育った実家ではなく、テンシアに伴われ、王都へとやって来た時から住んでいる、テンシアの家だ。
ラミアはぼんやりと空を見上げた。時間的には遅い時間だが、まだ日があり、空は赤い。王城からその屋敷までは、少し離れてはいたものの、歩くのが辛いほどではなかったので、ラミアは出来うる限り、歩いて帰るようにしていた。馬車で送ってもらう事も可能だったが、あの狭い車内は、どうも息苦しく、ラミアは苦手だった。
故郷の緑溢れるあの場所よりは、空気が悪く感じるが、外の方が幾分かマシだった。
空では、雲が西の空へと流れていく。まるで、太陽に吸い込まれていくかのように見えた。ラミアは目を細めてそれを見送った後、帽子を目深に被りなおして、帰途を急いだ。
普段は、王城内の寮で寝泊まりしているラミアだったが、一週間に一度は家へと帰るようにしていた。家主のテンシアは行方不明のため、その帰りを一心に待っている、侍女のカスィルに会うためだった。
一人で住むにはいささか大きな邸宅に、今はカスィル一人で住まわせているのが、ラミアは心苦しく思っていたが、毎日帰るには遠すぎた。
さらに太陽が傾いた頃、自宅である屋敷の前へと辿り着いた。
大きめの門を抜け、屋敷の扉に手を掛けようとした時、それより早く、扉が開いた。
「お帰りなさいませ。ラミアお嬢様。」
満面の笑みでラミアを迎えたカスィルは、扉を開けて、ラミアを中へといれた。
「ただいま、カスィル。」
ラミアも笑顔を返しつつ、帽子を脱いで彼女にそれを渡した。テンシアに連れられ、王都へと来た時から、カスィルはラミアのことを妹のように、大切に扱っていた。ラミアもラミアで、カスィルを姉のように慕っていた。
ラミアは、カスィルについていきながら、そろっと屋敷の中を窺った。相変わらず、掃除が行き届いていて、きちんと片づけられている。前と特に変わりはないようだ。ラミアはとりあえずは、ほっと胸をなでおろした。ラミアは常に様子を窺えるわけではないので、やはりカスィルが心配だった。
「御夕飯、用意しますね。…あ、そうだわ。」
カスィルは、振り返って、エプロンのポケットから、一通の手紙を出して、ラミアに渡した。ラミアがそれを受け取って、裏返すと、差出人は故郷の家族からだった。
「すぐお渡ししよう、って思ってたのに。すみません。」
「ううん。ありがとう。」
ラミアは、手紙を読んでからご飯にして、とだけ言って、カスィルの元を離れると、自分の部屋へと半ば早足で入った。
部屋に据え付けられている大きな机に座ると、引出しからペーパーナイフを取り出して、封を切った。
中からは小さな便箋が一枚だけ入っていた。
それにはこう一言。
貴女は我が家の誇りよ。
王都で一ノ姫として舞い続ける事への励ましも、慰めも、何もない一行だけの手紙。
それでもラミアは、こうやって手紙を書いてくれるだけで、嬉しく、胸がいっぱいになった。
返事を書かなければ。ラミアは引出しから、新しい便箋を一枚引っ張り出して、机の棚の上にある、インク壺に刺さるペンを手に取ろうとした。しかし、手が震え、そのペンを途中で落としてしまった。床にペンが転がって、ペン先についていた黒いインクが、床に散らばる。
しかし、床に落ちたペンは、ラミアのぼやける視界では認識することが出来ず、彼女は、まるで落としたことにすら気が付いていないように、もう一度、そっけなく一行だけ書かれた手紙を、もう一度見た。
パタッと水滴が落ちて、手紙のインクが滲んだ。ラミアはその手紙を取り上げると、それを額に押し付けるようにして、俯いた。
どうして私は泣いてるの……。
ラミアは月明かりが窓ガラスを抜け、部屋を照らすまで、ただ静かに泣いた。
「………これは、また。」
ケイルは溜息を吐いて、手をつけられないまま冷めてしまった茶を、思い出したように啜った。ルテスが話したのは、時間にしてみればそれほど長くはなかったのだが、内容はあまりにも重かった。
「大風が二度、ね……。聞いた事も無い。……なるほど、これは非常事態だな。」
ルテスはケイルの言葉に同意して頷いた。
まったく本当に、ケイルの言う通りだった。しかもユリーシアによると、二度のうち、力がどちらかに偏るということも、分散することもなく、本当に文字通り「二度」くるのだそうだ。
「それを二人で止めるっていうのか?」
一度目の儀にラミアとルテスは参加しない。ケイルにもそれは話したので、そう思うのは当然だし、実際その通りなのだが、ルテスは眉間にしわを寄せると、不服そうな顔をして頷いた。
「そう。でもそれより、僕が気に入らないのは、ラミアが二度目を一人で止めようとしていたことだ。」
さすがのケイルもそれには、口を開けて、驚きのあまりぽかんとしていた。
「そんなこと……、出来るのか?」
ルテスはますます眉間に皺を寄せると、睨むような勢いで、ケイルを見た。
「出来るらしい、信じられないことに。…命の危険を顧みなければ、だけど。」
本当に止めてくれて良かったと、ルテスはユリーシアに心底感謝していた。ラミアなら、本当にやりかねない。いや、実際、一人でするつもりだったのだろう。ルテスはふと二年前のことを思い出した。あの時もラミアは倒れた。それだけ無理をさせた、ということだ。
正直、それほどまでの力をラミアが持っているとは、ルテスは考えたこともなかった。人一人が持つには、大きすぎる力ではないのか。
ルテスは眉間を揉んで、溜息を吐いた。ラミアの事で心配は尽きなかった。
「けど、オレ的には、レルカの方も心配だな。」
「レルカが…?」
ケイルは、そうだと神妙な顔で頷いた。しかしルテスには、その心配の意味が分からず、不思議そうな顔で首を傾げた。
レルカは一日目の儀で、一ノ姫の代わりを務めることになるはずだ。だから、確かに負担は増えるだろう。また、ラミアとルテスが抜けることで、危険度は増すかもしれないが、従来通りなら、それほど心配するほどの事ではないはずだった。
ケイルがそれほどまで、心配気な顔をする理由としては、不十分だった。
しかし、ルテスがそういった事を考えている、というのも分かっているように、ケイルは苦笑いで首を振った。
「オレが心配してるのは、儀のことじゃなくて、あいつがこの事を知らない事だ。」
レルカをはじめ、殆どの楽団員が、この事態を知らず、今まで通り儀を行うだろう。そんな彼らから見れば、ルテスはともかく、一ノ姫たるラミアが儀に出ないのは、不可解極まりない。特に現在、ラミアに対し複雑な思いを持つレルカにとっては、尚更だろう。
「それで、何か暴挙に出なけりゃいいんだが。……オレには、とても危うく見える。」
「ああ……。」
それは、ラミアに何か、危害が及ぶ可能性も含んでいた。
それでも、僕はラミアを守ろう。…あの日の無力さは、もう二度と味わいたくない。
二年前の儀の日、腕に感じたラミアの感触と、無力感をルテスは思い出していた。
夜半。真っ暗な部屋に中に、月明りが落ちる。レルカは、ふっと目を覚まし、もぞもぞとベッドから起き上がった。夜の空気は素肌にはまだ冷たかったが、レルカは布団の中に戻るでもなく、じっと窓の外を見ていた。壁に面している自室と違い、ここは随分と景色がいい。窓辺に寄れば、辺り一帯を見渡せるに違いないが、レルカがこの部屋で、景色をゆっくり楽しむようなことをしたことはなかった。
ちらりと反対側を見ると、自分以外の人間が、安らかな寝息をたてて眠っていた。思えば、寝顔を見たのも初めてかもしれない。
レルカは隣の彼を起こさないように、小さく溜息を吐いて、自分の胎を撫でた。そして、自分を抱くように、両手で自分の腕を握りしめた。
「レルカ…。」
囁くように名を呼ばれたレルカは、ビクッと肩を震わせて、隣の彼を振り返った。
「起こしましたか。……エグゼル様。」
「いや。」
レルカの隣の男、エグゼルは、レルカに倣うように上体を起こした。そして、レルカの肩に手を置いて、彼女を引き寄せた。レルカはエグゼルの胸にもたれながらも、顔を背けた。
「一ノ姫代行の件、引き受ける気になったか?」
「仕方がないでしょう。…納得はしてませんが。」
レルカは溜息を吐きながらそう答え、肩に置かれていたエグゼルの手を外した。
集会の後、一ノ姫の代わりをする、という話でエグゼルに食ってかかったレルカだったが、後で詳しく説明する、という彼の一言で何とかその場はやり過ごした。しかし、夜になり来てみると、結局として、「ラミアに所用ができた」の一言のみで詳しい理由は話してもらえなかった。だが、この話は呪術師庁が絡んでいる。そう言われては、レルカもいつまでも駄々をこねているわけにはいかなかった。
「それとも、理由を説明してくださるのですか。」
「いや。」
エグゼルは、上体をずらして、レルカをベッドの上に組み敷いた。レルカは冷めた表情のまま、されるがままになっている。エグゼルは自分の下にいるレルカの首筋に、唇を近付けた。
「この件に関しては、上から箝口令が敷かれている。」
「……そうですか。」
レルカは、何も言わず命令だけをしてくる呪術師庁への怒りを込めて、エグゼルの肩を掴んで、爪を立てた。
王宮楽団に関わる舞姫の多くは、この楽団長をはじめ、上役とこうした関係を持っている。レルカも、一ノ姫となるために、三年前からエグゼルとこうした関係に陥っていた。
それでも、この人は私を一ノ姫にしなかった……!
レルカはぐっとエグゼルの頭を引き寄せて、彼の首筋に触れて強く吸った。エグゼルが少しでも困ればいい、そう思って。エグゼルは痛かったのか、少し眉根を寄せただけで、余裕の表情を崩さない。それがレルカの苛立ちを加速させることを、この男は知っているだろうに。
それでも、レルカがエグゼルとの関係を止めなかったのは、少しの期待、そして、自分を見ないからだろう。
レルカは指の力を抜いて、エグゼルの胸に触った。
この人は、私を抱きながら、他の女を見ている…。
はじめは気が付かなかったが、すぐに気が付いた。もちろん、うわ言ですら、「好き」も「愛してる」も、その「誰かの名」も、彼は口には出さないが、それでも、「レルカ」を見てはいなかった。
ただ二人が共有するのは、熱くなる身体と高揚感のみ。どちらも、互いを見てはいない。
「―――っ」
静かな夜に衣擦れの音と、微かな吐息だけが響く。