第一部湖のある町
第四楽章ラミアの舞
数日後、ラミアは儀で舞う用意に勤しんでいた。
丹塗りに金縁の鮮やかな飾りを頭につけて、金の軽やかな音を奏でる飾りを、耳や手に次々と通していく。胸元のぴったりとした赤のワンピースを着て、白い羽織を着る。そして、赤い幅広の帯を腰に回し、ラミアは息を吐いた。服自体は一ノ姫も他の舞姫たちも、大して変わりはない。小さい頃から着続けている舞装束など、数分もあればすぐに着られた。
ラミアは近くの椅子に腰を下ろすと、頭の飾りについた長い紐を弄りながら、他の舞姫たちの用意が済むのを待っていた。
数日前にミレースの元を訪れたきり、ルテスとは練習の時に顔を合わせる程度で、個人的に話をしたりはしていなかった。
あの日ミレースは、湖の水が減少したりと言った異変は、山の力の衰えによるもので、止めようがないと言った。しかし、舞姫や楽士の奏でる舞楽には、その流れを緩やかにし、力のあるものが願えば、一時的にでも元の状態に戻す事も可能だ、と言った。
ただ、願いを実現させるには、それ相応の対価、この場合、ラミアの力が必要で、覚悟が必要だとも言われた。
精々、ぶっ倒れる程度だろうて。それで済むなら、休めば治る。
そう言って、ミレースはラミアに、にやりと笑っていた。
ラミアは弄んでいた紐をぎゅっと握ると、きゅっと口を引き結んで立ち上がった。
儀はラドリア湖の中心で行われる。
「通りで、準備に五日もかかったわけだ……。」
湖には、つい昨日まで、何も無かったはずだった。
しかし、今日、突如舞台が出現していた。
ルテスは一足早く着替えてしまい、笛ひとつだけ持って湖に近付いた。
湖岸の数か所に杭がたてられ、そこに縄でつながった板が結わえられて、中央の舞台まで伸びている。ある程度の幅があるので、強風に煽られでもしない限りは、落ちそうには無かったが、どうにもふらふらとして不安定だった。
舞台に上がってしまうと、思いのほか安定感があったが、揺れている事には変わりが無かった。
「この上で舞うのか、ラ……舞姫たちは。大変だな。」
人前で一ノ姫の事を“ラミア”などと、呼ぶ事は許されない。
ルテスは何かを振り払うように頭を振った。
だが、彼には一つ心配な事があった。
妖精の長ミレースに言われた事だった。彼女は精々倒れるくらい、と言っていたが、ルテスはやはり、最悪の事を考えずにはいられなかったのだ。
ルテスは儀の間に自分が座ると決められている場に座ると、小さく溜息を吐いた。
ラミアはどことなく危なっかしい。
小さい頃からフーデリア地方楽団に所属していたルテスだったが、いつまで経っても目が出なかった。その時に見出してくれたラミアの存在はありがたく感じていた。だが、あの時、元々選ばれていた人間の不満は、彼女が一ノ姫でなければどうなっていたか分からない。それから、女の身で真夜中に山に入る、妖精の集落に行くときもついて来るなど、ルテスをはらはらさせてばかりだった。
滅多な事は無いとは思うが、そういう問題ではない。ルテスはもう一度溜息を吐いて、俯いていた顔を上げた。
まだ誰も来ておらず、ここにはまだルテス一人しかいなかった。
ルテスは山を見て、ふっと息を吐くと、手に持っていた笛を構え、吹き始めた。
曲名は『水のうみの天女』。水辺に降り立った美しい女の曲だ。
舞姫たちの準備が終わり、ラミア達が舞台に到着した頃には、楽士たちも調律を済ませ、いつでも始められる状態だった。湖岸にも、人々が儀の様子を見守っている。
舞姫たちも決められた場所に立ち、始める準備をしていた。ラミアもゆっくりと一番前の真ん中という一番目立つ場所にゆったりと歩み寄った。そして、ラミアは山を見上げる。妖精たちも見ているような気がした。
ラミアはひとつ深呼吸をして、目を閉じ、はじまりの音を待った。舞台の全員が動きを止め、風や波の音しかなくなったとき、弦楽の音が優しく流れ始めた。
舞姫や他の楽士達、そしてもちろんラミアも、その音に合わせてゆったりと動き始めた。
楽士たちの奏でる音が空高くへと響き、舞姫たちの動きによって、彼女らの装飾品がしゃらしゃらと音をたてる。その音は湖岸の人間にも不思議とはっきり届いた。彼らは自然と黙って、ほとんど身じろぎもせず見守っていた。
風の流れが変わった……。
ラミアは空の方へと伸ばした指先に何かを感じ、閉じていた目を開いた。
ラミアはくるりとその場で一回転する。
そのとき、舞姫たちの後ろで、一心に笛を奏でるルテスと目が合ったような気がした。ラミアは微かに微笑んで、また前を向いた。
もう曲が終わりに近付いている。弦楽が消えて、管楽の音も消えていく。
そして、ラミア、舞姫たちが手を斜めに伸ばし、足で床を打ち、それと同時に太鼓の音が響いた。
そして、湖岸の人々の拍手が響くはずだった。しかし、音が一瞬消えて、静寂が流れた後、舞台の床の板が軋む音が聞こえた。
「―――ラミア!」
響いたのは、一人の楽士の声と、一ノ姫が床に崩れ落ちる音だった。
舞い終わって、身体から力が抜けて、倒れそうになった時、誰かが受け止めてくれた気がしたけれど、あれは誰だったのかしら……。
ラミアはゆっくりと目を開いた。きょろきょろと首だけで辺りを見渡すと、どうやら自分の部屋らしかった。
「あれからどの位経ったのかな…。」
ラミアはもぞもぞと起き上がった。その時、手に何かが当たったような気がして、その方向を向くと、誰かがラミアの眠っていたベッドの縁に突っ伏して眠っていた。
「ルテス…?」
眠っているルテスの顔は、思っていたよりも幼く見えた。しかし、どことなく疲れのようなものが混じっているような、そんな気がした。ラミアは自然に、手をルテスの頭に乗せて、優しくなでた。柔らかい黒髪は手触りがとても良かった。
ここまで運んでくれたのは、ルテスかな……。
そうしているうちに、さすがにルテスも気が付いたのか、ゆっくりと顔を上げる。ラミアは少し恥ずかしくなって、パッと手を引っ込めた。
「目が覚めたのか…。気分は?」
「大丈夫よ。私、どれくらい寝てた?」
ラミアは照れを隠すように笑った。ルテスは特に気にした様子もなく、立ち上がると、窓にかかっていたカーテンを開けた。
「一日ぐらい。」
窓からは朝のひんやりとした空気と、光が入ってきて、ラミアは眩しそうに外を見た。ルテスはそのまま、窓の外をじっと見ている。ラミアはゆっくりとベッドから降りると、裸足のままルテスの隣に行った。
「湖は…?」
ルテスが何も言わないので、ラミアはルテスの前に言って、窓から外を覗き込んだ。ルテスがラミアの肩に手を置いた。
「……ありがとう。」
ルテスの小さい感謝の声の通り、目の前には、ラミアが前に見た湖よりずっと大きくなった、湖があった。町中を通る川も、ともすれば道に溢れそうなほどの水で満たされている。
「きれいね…。この前より、輝いてる気がする。」
ラミアが目を覚ましてから数日後、王宮楽団の一行が王都へと帰る日が訪れた。
湖の水位も元通りになって、すっかり活気を取り戻したフーデリアの町民総出で、王宮楽団員を見送りに出てきていた。ラミアも一日寝た後はすっかり元通りで、むしろ周りの方がよほど気にしていた。
ここ数日の間に、ルテスとラミアはミレースに会いに、妖精の集落を訪れていたが、初めて行った時に比べて、雰囲気が柔らかくなっていた。集落の前にいたラテンシアは、この前の無礼を謝った後、ミレースの元に二人を案内した。
ミレースは山の力が戻ったと、二人に感謝した。そして、その帰りにミレースはラミアだけを少し引き留めてこう言った。
これから、ラミア、おぬしには困難が降りかかるだろう。だが、何か一つ信ずるところがあれば、必ず道は開ける。これは、助言ではなく、予言…。心せよ。
ラミアは深く考えないようにしながらも、この言葉が心のどこかに残っていた。
ルテスとはあの時以来、帰る準備などでわたわたしていたラミアは会うことが出来ていなかった。
だが、これから話す機会なら沢山あるはずだ。
「―――はっ!?」
突然端の方で、素っ頓狂な声を上げたハウゼンに視線が集まった。彼の前には平然とした様子のエグゼルがいた。
ラミアがしたり顔で二人の方を向くと、エグゼルがにやりと笑いながら頷いた。それを見たラミアも満面の笑みで頷き返すと、見送りの人々の最前列にいる儀で演奏していた楽士たちの方へ近づいた。
「ルテス!」
ラミアがルテスの名前を呼ぶと、周りの誰もがルテスに視線を集めたが、一番驚いた顔をしているのはルテス自身だった。ラミアはルテスの方に近付くと、にっこりと微笑んだ。
「ルテス、あなたを王宮楽団の訓練生に推薦します。」
「は……?」
ラミアは後ろ手に持っていた小さな封書をルテスに差し出す。中には王宮楽団長と一ノ姫の正式な判と署名が書かれた推薦書があった。
「一緒に王都に行くのよ! ご両親と上の許可は得てるから、後はあなたがどうしたいか、だけよ。」
ラミアがルテスに手を差し出す。周りがルテス達に注目する中、ルテスは―――