第一部湖のある町
第三楽章妖精の里
昨夜、結局滞在先へラミアが帰ったのは、遠くの空が心なしか白くなりはじめたころだった。
真夜中に、しかもびしょぬれで帰ってきた息子のルテスと、王宮楽団の舞姫に、彼の両親は驚いてはいたが、快く中へと入れてくれた。そして、服がある程度乾くまで、ラミアはルテスの母親に服を貸してもらい、暖かい飲み物を貰い、彼の家に寄せてもらっていた。
ラミアは、裏口の方からこっそりと建物の中に入り、何とか誰にも見つからず自分の部屋まで戻ることが出来た。
すっかり乾いた、ラミアが元々着ていた服をしまうと、借りて今も着ているルテスの母親の服を脱いで、綺麗に畳んだ。そうこうしている間にも、外はあっという間に明るくなって、朝の練習の時間になった。
ラミアは寝不足で欠伸が出るのを堪えつつも、練習は恙無く終わっていった。
「待って、ルテス。」
顔合わせがあった初日の昼以後、舞姫と楽士は合同で練習をしているため、もちろん、ルテスもいた。練習が終わった後ラミアは、さっさとその場を後にしようとするルテスを呼び止めた。彼の母親に借りた服を返そうと思っていたためだ。
「何?」
「えっと…、あの、どこか行くの? 何だか、急いでるみたい。」
しかし、ラミアはなんとなくルテスの態度に、普段と差異を感じた。
「ん…。まぁ、ちょっと。……確証を得に。」
何か言いづらげにしているルテスの視線は、山の方を向いている気がした。
「私も、…私も、ついて行って、良い?」
ラミアの突然の申し出に、当然ながらルテスは驚いている様だった。しかし、何故かラミアは付いていた方が良いような、そんな予感がしたのだ。
ルテスはしばらく悩んだ後、ラミアの意思が変わらない事を悟ると、不承不承と言った様子で頷いた。
「………分かった。なら早く着替えてきた方が良い。動きやすい格好に。山登りするから。」
やはり、目的の場所は山だったようだが、「山登り」と言うぐらいなので、もっと上の方まで上るのかもしれない。何をしに行くのかは、ようとして知れなかったが、おそらくは、湖のことに違いなかった。
「わかった。―――あ、これ、ありがとう。お母さんによろしくね。」
ラミアは手に持っていた、借りた服をルテスに渡すと、大慌てで部屋を飛び出していった。
「ごめん、おまたせー。」
ルテスは、母の服を置きに一旦家へ寄った後、山へと続く小道の前で、ラミアを待っていた。暫くすると、湖岸の道をラミアが手を振りながら、駆けてくるのが見えるた。
ラミアはルテスの言ったとおりに、しっかりとした靴と、裾がきゅっと束ねられたズボンをはいている。
「行こうか。」
そう言って、ルテスがさっさと行ってしまうので、ラミアは慌てて彼を追いかけた。
「それで、どこへ行くつもりなの?」
山の中腹程にさしかかった頃、黙ってルテスの後を追っていたラミアが、口を開いた。
「山の上にある妖精の住む集落。何か、知ってるんじゃないかと思って。」
「妖精…。」
妖精。それは、大昔には精霊や人間と共に相当数暮らしていた種族だった。しかしその後、妖精は迫害され、精霊の後を追うように山中へと隠れたとされる。今でも各地の山で、小さな集落をつくり、細々と暮らしているらしい。
「山に住む彼等なら、何か知っている可能性があると思って。でも……。」
「妖精たちは、集落に人間が近付くのを嫌がってるから、話を聞いてもらえるか、ってところ?」
ルテスはラミアの言葉に頷いた。
通りで言い辛げにしていたわけだと、ラミアは納得した。人間と同じような姿を持ちながら、その性質は自然の変化に敏感な精霊に近い、そんな妖精たちならば、きっと人間より多くの事に気が付いている可能性が高い。だが妖精たちは、人間に迫害された歴史から、人間に不用意に近付くのを避けていた。人間社会で暮らしている者も、いるにはいるが、極少数だった。
「確かに、難しいかも。…ね、昨日、湖で何か気が付いたことはない?」
「え………。」
突然話題を変えたラミアを訝しみながらも、ルテスは暫く考え込んだ後、思い出したように手を叩いた。
「水が腰まであった…。」
ルテスがラミアを抱え上げた時のことだった。彼が立っていたところは、それほど水深が深くない所で、水位が減少する前ルテスの腰ぐらいまであった。水位が低下し始めたのは、ここ数か月のこと。馴染んだ深さのだったため、逆に違和感を感じなかったのだ。
「私が舞った後に水位が戻った、ってことでしょ? …それから、こんな話は知ってる? 自然の力が落ちることで、災害が起こる、っていう話。」
ラミアは故郷に住んでいた老女からその話を聞いた、と続けた。
ルテスはへぇ、とラミアに返した。初めて聞く話だった。災害は神が起こしている、というのが人間社会では共通の認識で、だからこそ舞楽が重んじられているからだ。
その後しばらくして、妖精の暮らす集落の入り口がちらりと見え始めたとき、突如風を切るような音が聞こえた。
「―――!」
ルテスはラミアの腕を引いて、自分の方へと抱き寄せた。
ラミアが立っていた場所には、一本の矢が刺さっていた。
「ラミア、怪我は?」
「…だ、大丈夫、ありがとう。」
ルテスはラミアを立たせ、彼女を庇うように前に立った。それと同時に、木の上から人影が下りてくる。下りてきた少女は、弓を構え、簡単な防具を見に着けており、集落を守る兵と思われた。
「εονγκ ετρενυαμιη!」
目の前の少女が、さらにもう一本、矢をルテスの足元に打ち込んで、何事かを叫んだ。
「な、何、言ってるの…?」
「『去れ、人間』、かな…。歓迎されてないらしいね。」
「どうして、分かるの?」
「昔、知り合いに教えてもらったから。」
ルテスは、小さい頃に山で会った妖精の少女に、言葉を教えてもらっておいて良かったと、心から思った。
「σουνσομμεσσενυχ! ξευχτεελεμυνσραλρεπκυεαεεττ」
(僕達は危害を加えに来たわけじゃない! 長と話をさせて欲しいだけだ。)
「ζουεσερλνυψιαλτ!」
(黙れ!)
妖精の少女は、もう一本矢をつがえると、ぎゅっと引き絞って、今にも手を放そうとしていた。ルテスは、じりっと後ずさりながらも、ラミアを庇おうと必死だった。彼女に怪我をさせるわけにはいかなかった。
「―――ενυνιφ ρατεννσια」
(―――止めよ、ラテンシア。)
その時、突然別の声が加わった。前にいた少女が、言葉の分からないラミアから見ても激しく動揺して、後ろを振り返った。そこから出てきた人物、つまりは先程声を上げた女性は、大慌てで引き留めようとする少女を制して、弓を下ろさせ、少女の前に出てきた。
「お前たちが、予言に会った“舞い手”と“奏で手”か?」
女性は、ラミアが妖精たちの言葉が分かっていない事を見抜いたのか、ラミアにも分かる言葉で話しかけた。
「おそらくは。楽士のルテスです。」
ルテスはさっと頭を下げる。
「ま、舞姫、ラミアです。」
ルテスのちらりと送られた視線に、慌ててラミアは目の前の女性に名乗り、頭を下げた。
「人間達はそう言うておるのだったな。……失礼、紹介が遅れたが、私はここの長を務めるミレース。これは、守をしておるラテンシアだ。先程の無礼は御許し頂きたい。では、我が邸宅へ参られよ、話はそれからだ。」
ミレースはさっと二人に頭を下げると、当然のように二人を集落の中へ導いて行く。
「αλ αλετετ!」
(お、長!)
そんなミレースを、ラテンシアは慌てて引き留める。人間を簡単にいれてしまうことに、些か不満なのだろう。
「στεεσουχτεεοντκνμσορλνειισκοδ?」
(私の決定に不服か?)
「νον……」
(いえ……。)
冷たい声で言ったミレースに、ラテンシアはしょんぼりと肩を竦める。
しかし、そんな彼女にミレースはふんわりと微笑んで、頭に手をぽんぽんと乗せる。
「ειεψυιντμ σλιτονσσνιφνεφσοφι …εεμμευψλευψεηοσκ δαοκκρδτονσσουχ」
(心配することはない。彼らは無害だ。…仮に何かあっても、お前たちならば大丈夫だと信頼している。)
ミレースの言葉に、ラテンシアは顔を上げると、ぱぁっと嬉しそうに微笑んで、ミレースにこくこくと頷いた。
そして、ラミアとルテスはミレースに導かれて、集落の中へと入って行った。
集落は、水が沢山ひかれていたふもとの街とは違い、木の小さな柵で囲われたこじんまりとした集落だった。水は近くの湖や山に流れる川に汲みに行っているようだ。
集落に暮らす人々は、長のミレースに導かれていく人間達を、家の中から警戒心剥き出しで見ながらも、何もしては来なかった。
「して、何がお聞きになりたい。」
ミレースは自分の屋敷の客間に、ラミアとルテスを入れ、侍女が茶を入れ終わるのを待ってから、ゆったりと口を開いた。
暖かいお茶からは甘い香りが漂っている。ラミアは黙ったままお茶を一口飲んで、ルテスの動向を窺った。
「湖の異変のことはご存知ですね。その理由を御存じないかと思い、参りました。」
ミレースはなるほど、と言いながら湯呑に口をつける。一口飲み下すと、すっと目を細めてルテスを見た。
「何故知っていると思われた? 我らを疑うているのか?」
ルテスは睨むように自分を見るミレースに臆することなく、相手の目をじっと見つめた。
「いいえ。山に通じ、山と共に生きる貴女方なら知っていると、思ったまでです。」
ラミアは緊張した空気が流れる二人を、湯呑を握り締めたまま見守っていた。この土地の者でない彼女が口を挟んではならないと思ったのだ。
二人の間に走るその緊張を破ったのはミレースの笑い声だった。
「―――良い目よ。よろしい。なら、我らが掴んでいる限りの事は、お話ししよう。」
ミレースはそう言って悠然と微笑むと、二人にここで待つように伝え、部屋を出て行った。ラミアとルテスは詰めていた息を吐き出すと、顔を見合わせて笑った。
程無くして戻ってきたミレースの手には、小さな箱があった。ミレースは二人の前に座ると、その箱を開けて、二人の前に出す。
「これは、この山の力が、何劫もの時間を経て結晶化した石だ。故に、山と呼応関係にあり、山に異変があれば、これにも異変が出る。」
箱に収められていた緑色の透明の石は光を取込み、自ら光っているかのように見えた。
「でも中心が、黒く…?」
ラミアがその石を覗き込むように見ると、微かに中心が黒っぽくなっている。
ミレースは静かに頷いた。
「おそらく、山の力自体が衰え始めているのだろう。」
「…どうして?」
ラミアが顔を上げると、ミレースはなんとも言えない憂いの表情で、その石を見つめていた。
「……時代の流れだろう。精霊を見ることのできぬ人間が増え、いずれ精霊は消える。その流れに流されるように、山や川や海も…、ただのものと成り果て、我らも―――」