子どもになった彼女と僕の物語
6
「あ……あぁ……」
声が上手く出せない、手が、足が、震えて動くこともできない。
レーラはどうすることもできず、ただただ男を凝視していた。
「なんだ、感動で声も出ないか? それとも、まだガキのフリでもしてんのか?」
男が立ち上がる。それだけで、レーラの身体はビクリと震える。
逃げなければ、早く――。
理由はいまだに思い出せない。けれど、頭の中で警鐘が激しく鳴り響いていた。だが身体は言うことを聞いてくれず、男はどんどんこちらに近付いてくる。
「や、やだ……。こないで……」
囁くような声で、どうにか抵抗を試みる。だが、当然のごとく聞き入れては貰えない。いや、相手に届いたのかもあやしい。
「は、お前が里でのことをここの奴らにバラしてないか確かめてこいなんて、親父も面倒なことを言いやがる」
男は一人で喋っている。その顔に浮かんだお世辞にも綺麗とは言えない嫌らしい笑みに、レーラはさらに震え上がる。
「言えるわけないってのになぁ、こいつは何も覚えちゃいないってのに。……まあ、役得だけどな」
男がレーラの間近で止まる。そして、こちらに手を伸ばし――
「――いやぁ!!」
レーラは思わずその手を払い除けた。そして、ハッとして男の顔を見上げ、血の気が引いてゆく。
男の顔がドス黒い憤怒の表情に染まっていたからだ。
「お前ごときが、俺に逆らうんじゃねぇ!!」
すかさず飛んできた手はレーラの左頬を捉え、その反動で床に転倒する。その頬に痛みを感じる間もなく、レーラは男に手首を掴まれ、引きずるように立たされる。そして乱暴にソファの上に転がされた。
逃げる間もなく上から覆い被さってくる男は、どこか見覚えがあった。
レーラは零れんばかりに目を見開きながら、ああそうか、と言葉にならない声をもらした。
「…………、」
頬が痛い。手首も。
あの時、助かったのは本当に偶然だった。この男を呼ぶ声が小屋の外から聞こえたからだ。
けれどそんな偶然、きっと二度はない。
でも、男を跳ね除けるような腕力もない。
なんて無力なの。
だからあの時、わたしは無力で――けれど誰からも不可侵でいられるように、「わたし」を封じたのだ。
でもその魔法は解けてしまった。
なら次は一体、「何」を封じればいい?
顎を掴もうとする男の手を、どこか冷めた目で見つめる。
ああ、「封じる」だけではもう足りない。
次わたしがすべきなのは――
その時、突然視界から男が消えた。
頭上から何かの割れるような酷い音がして、思わず起き上がる。
「え……」
視線の先には、上下逆になって壁に背を預け、窓ガラスの破片をかぶった切り傷だらけの男の姿だった。
「――レーラ」
その声にハッとして振り返る。
「…………アラナス」
そこには足を捻ったのか調子を確かめるように床を蹴るアラナスの姿があった。
妙に静かな応接室に胸騒ぎを覚え、ノックもせずに部屋へと突入したアラナスは、気が付くと男の尻を蹴り飛ばしていた。
自分でも驚くほど吹き飛んでいった男は、頭でもぶつけたのか完全に伸びてしまっている。胸が上下しているので、生きてはいるだろう。
「レーラ」
起き上がったはいいが、呆然としている彼女に呼びかけると、金縛りが解けたかのように振り返った。
「……アラナス」
呆けたような表情をしているレーラの顔を見て、アラナスは思わず眉根を寄せる。
「――殴られたんですか」
「あ、えっと……これは…………」
しどろもどろとするレーラは目を盛大に泳がせたあと、観念したようにこくりと頷いた。
アラナスは怒りが一周回った末に、にっこりと笑顔を浮かべる。そして、未だに意識のない男の方へと歩み寄ろうとした。
だがそれを止めたのはレーラだった。服の裾をくいっと引かれて、アラナスは彼女の傍で立ち止まる。
「ま、待って。何をするの?」
アラナスは少し迷って、その場で膝をついて彼女に視線を合わせてから、男を一瞥した。
「もう何発か殴っておこうかと」
「!? ど、どうして!?」
慌てる彼女の手首についた指の形の痣にも気が付いて、アラナスは目を眇めた。
「……やっぱり数十発か」
「そんなにしたら、死んでしまうわ!?」
「レーラがお望みなら」
真面目にそう言うと、彼女は目を見開いて絶句した後、ぶんぶんと首を横に振った。
「望んでませんから!!」
「……そうですか」
彼女の返答を心底残念に思いつつ、それよりも早く彼女を医者に見せねばと考えなおす。
「レーラ、立てますか?」
「あ……えぇと……」
その反応で立てないのだと察する。衣服に乱れはなく、おそらく押し倒されただけ――には見えるが、それだけでも十分な恐怖のはずだ。
「わかりました。では貴女を抱えられそうな女性を呼んできます。なので――」
立ち上がろうとしたアラナスは、袖をぎゅうっと掴むレーラに気付いて口を噤んだ。
「……一人にするの?」
「いえ、さっきの音で誰か来るでしょうから、あの男を縛り上げた後に――」
「アラナスは……! 傍に、いてくれないの」
悲しげな声に胸が詰まるような思いがした。
もちろん、叶うなら彼女の傷が癒えるまで、いつまででも傍にいてやりたかった。けれど。
アラナスはゆるりと首を振る。
「……こわいでしょう」
「え?」
「貴女は……、男を怖がっているでしょう? だから同じ『男』の僕は――」
「違う」
レーラが毅然と言った言葉に、アラナスは虚を突かれて口を閉じた。
「違うの、貴方だけは」
そう言いながら、レーラはふわりと微笑んだ。
その笑顔は、それまでの彼女が浮かべていた無垢な少女のものとは何かが違った。
「レーラ、あなたは――」
「わたしね、知ってたの貴方のこと。遠い昔に夢で見たの。長い間思い出せないでいたけれど、どこかで覚えていたのね……。だから、貴方だけは違って見えていたの。ずっと」
「レーラ……」
「でもね、そんなの関係なく……わたしは貴方が特別だったの。優しくて、いつもわたしを大事にしてくれる貴方が。だから――……」
レーラはそれ以上言葉にならないかのように、俯いてすんと鼻を啜った。
その姿を見て、アラナスはようやく気付く。
医者よりも何よりも、もっと優先してすべきことがあった。
「レーラ、触れてもいいですか」
そっと問いかけると、彼女はこくりと頷く。
アラナスはレーラの乱れた髪をそっと掻き上げて、腫れた頬を見る。それから手首も。
「もっと早くに来れていれば……。他に痛いところは?」
レーラが黙って首を横に振る。
その返答に少しほっとして、彼女の髪を撫でた。
「レーラ……抱きしめても、いいですか」
その問いに返答はなかった。だが、言葉よりも先に彼女の手がアラナスの方へ伸びてくる。
それを認識した瞬間には、アラナスはレーラを強く抱きしめていた。
彼女が己の胸に収まると、次の瞬間にはレーラの目からボロボロと涙が落ちはじめる。
「わたし、あなたに嫌われたのかと思ったのよ……」
第一声が「怖かった」でも「痛かった」でもなく、そんな言葉だったことに、アラナスは胸が詰まった。
「……ごめん、レーラ」
「だからきっと、助けになんて来てくれないって……。もう駄目だって……っ」
「ごめんね……。遅くなって」
「わたし、死んでやるつもりだったのよ……! 汚されるくらいなら、貴方以外の手に落ちるくらいなら、って……!!」
「うん……。ごめん、本当に。生きててくれてありがとう――」
アラナスはわんわんと泣き続けるレーラを、彼女が眠りに落ちるまで抱きしめ続けた。