子どもになった彼女と僕の物語

 レーラが錯乱し気を失った日から、アラナスの日常は一変した。

 殆どの時間を彼女の傍で過ごしていた毎日は消え去り、その役目を信頼できる女性へ、自分が直接伝えなければならないことがある時も、それまでより距離をとってなるべく短時間で済ませるようにした。

「アラナス……」

 レーラが伸ばした手が、自身の服を掴む前に一歩後ずさる。

「それでは、私は用を済ませてきますね」

 アラナスがにこりと微笑んでそう言うと、彼女はほんの少し眉を下げて手を降ろした。

「……うん、いってらっしゃい」

 困ったような――寂しそうな顔で笑うレーラに、アラナスは背を向ける。

 そして、少し歩いて足を止めた。

 振り返ると、すらりと伸びた背に水色の髪が鮮やかな背中が見える。

「……レーラ」

 彼女に聞こえないような声で、そっとその名前を吐息のように落とす。

 向かい合っているとそのことを忘れてしまうが、彼女は美しい「女性」なのだと、その姿を見て思わされる。

 それを自覚すると同時に、そんな彼女をあそこまで取り乱させるようなことをした、顔も知らぬ男の事を酷く憎らしく思えた。

 そして、その憎き男と、所詮は自分も変わらないのではないかと思えて吐き気がする。

「レーラ、僕は……」

 アラナスが彼女の傍を離れることが増えて、数日が経っている。レーラも寂しいと感じてくれているのは、その表情と声とで痛いほどに分かっていた。

 けれどもし、自分が不用意に近付くことで、レーラを万が一にも傷付けてしまったらと思うと、距離を取る以外の方法が思い浮かばなかったのだ。

 アラナスは胸の前で、ぎゅっと拳を握りしめる。

 なんて自分は、臆病なのだろう。

 本当は、またあの痛々しい姿の彼女を見るのが嫌だ。そのきっかけに自分がなってしまうのが酷く怖ろしい。それだけなのだと分かっていた。

 アラナスは未練を引き千切るようにして、彼女の背から視線を外す。

 彼女と真正面から向き合う度胸すらない自分は、その傍にいない方がいいのだ。

 そんな言い訳をしながら、アラナスはレーラとは反対方向へ足を向けた。




 ぎこちないながらも表面的には落ち着いた――、そんな日々壊されたのは、こんな一言からだった。

「レーラに客……?」

 午前中に一度見たきりの彼女の姿を思い返しながら、アラナスは自身の補佐官の言葉に首を傾げた。

「外から訪ねてくるような知り合いが?」

「なんでも同郷の方だとかで」

 同郷――。その言葉にアラナスは書き物をしていた手をピタリと止める。

「名前は」

「は……?」

 空気が一瞬にしてピリついたのを感じたのか、補佐官の男は少し戸惑ったような顔をする。

 だが今のアラナスにはそれすらも、苛立ちを増幅させるものでしかなかった。

「いいから、訪ねてきたのは誰だ!?」

「さ、里長の息子のようで、絶対に伝えねばならぬことがあると――」

 アラナスは彼の言葉が終わらぬうちに、座っていた椅子を蹴倒して立ち上がった。

「どちらへ!?」

「決まってるだろう!!」

 アラナスは猛然と扉の方へ向かい、廊下へ出る。

「レーラ……!」

 そして、応接室のある方へと走り出す。

 里長の息子――その名前は「デトリデュール」。

 あの日、レーラが許しを請うていた男の名だった。

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