子どもになった彼女と僕の物語
2
「ん゛んぅ〜……。……ダメ! やっぱり、わかんない!」
天球を前に呻き声をあげていたレーラは、ばったりと床に転がった。彼女の隣で、その使い方を教えていた指導役の呪術師も困り顔をしている。
「……天球、ってそんなに難しいものなのですか?」
アラナスは隣で同じように彼らの様子を見守っていたユリーシアに、こっそりと問いかけた。
「個人差はあるけれど……」
人間が扱うには才能がものをいう天球だが、妖精たちにとっては精度の差こそあれ、大半が扱えるのだそうだ。
そんな中、レーラが天球の使い方を学びはじめ、早一月ほど。ここまで何も感じ取れないというのは、本当に才能が無いのか――
「過去のことが影響しているのでしょうか……」
子供に返ってしまうほど衝撃的な「何か」。その得体の知れない出来事に思いを馳せる。
ユリーシアも困ったように眉を下げて笑った。
出来ないながらも懸命に取り組む彼女が報われてほしい、という願望なのかもしれない。だが、何故だか彼女に「才能がない」とは思えなかった。
「――レーラ、少し休憩しましょう」
立ち上がったアラナスはうんうん唸るレーラの元へ向かう。
「ほんとっ?」
ぴょいと起き上がった彼女は瞳をキラキラ輝かせている。アラナスは分かりやすい彼女に微笑ましいものを感じながら、その頭をやわく撫でた。
「根を詰めすぎるのも良くないですからね。今日は……天気もいいですし、外にお菓子を用意しましょうか」
上にある天窓から差し込むやわらかな陽の光を見て、アラナスはそう提案する、レーラは、わぁっ、と歓声をもらした。
「ユリーシアさまも、いっしょにいきませんか?」
「お誘いはとっても嬉しいのだけれど……。ごめんなさいね、少し外せない用事があって」
「……そうですか」
断りの返答にしょんぼりしたレーラだったが、気を取り直してアラナスを見る。
「アラナスは? アラナスはいっしょだよね?」
「はいもちろん。お茶の用意をするよう伝えてきますので……」
「さきにいって、まってるね」
アラナスは、ふりふりと手を振るレーラに見送られて、部屋を出て行った。
今日は何を用意しようか。
そんなことを頭の端で考えながら、アラナスは厨房の方へ向けて廊下を歩く。
レーラの身の回りのこと――おやつのメニューも含め――は、全てアラナスの仕事だ。年相応の呪術師長が就任していたならば、仕事に関することのみが、職務だったのかもしれない。だがアラナスは、今の状況を嫌ってはいなかった。
まさか子供の世話をするかのような日々が待ち受けているとは思っていなかったが、彼女の喜ぶ笑顔は見ていて癒される。
心がほっとあたたかくなった時、それに冷水を浴びせるような声が聞こえた。
「――ユマもかわいそうよねぇ」
突然響いたその声に、アラナスは足を止めた。
声は廊下の曲がり角、その向こうから聞こえていた。ユマとは、今レーラに天球の扱いを教えている呪術師の名だ。
「だって、もう何ヶ月も経つのに、ちっとも覚えないんでしょう?」
「私も才能がないって散々言われたけど、一週間もすれば多少は感じるものがあったのに」
「ユマは『頑張ってらっしゃる』なんて、かばってるけど。あの子バカみたいに優しいから」
クスクスと笑いあう女たちは、おそらく呪術師の誰かなのだろう。そして、その話題に挙がっているのは――
「やっぱり、あんな頭のおかしな女が、新しい長なんて無理があるのよ」
「……っ!」
新しい長――、やはりレーラのことだった。
アラナスは感じた激しい怒りに、拳を握りしめる。
口さがない者が彼女を悪く言っているというのは、報告を受けていた。だが実際にこの耳で聞くのとでは、全く印象が違った。
彼女は酷く軽んじられている。
誰とも知れぬ女達が言う「頭のおかしい」というのは、彼女の子供のような振る舞いのことなのだというのも理解はできるが、全く同意はできない。
レーラの明るい笑顔は、辛さを覆い隠すもの。
アラナスはそう見える時がある。彼女本人が自覚しているかは分からないが、辛い何かを忘れるためのものなのだろうというのは、もう分かっていた。
だが、レーラに深く接したことの者は、きっとそこまで見えてはいない。そして、天球を扱えないでいるという現実が、更に彼女の立場を悪くしているのだ。
だが、アラナスには、現状どうすることもできない。
今この廊下の影から飛び出して、彼らを叱責することは簡単だが、それでは解決にならないからだ。
どうするべきか考えあぐねていた時、後ろから声が聞こえることに気付いた。
「アラナス様!」
「どうした?」
レーラを悪しざまに噂をしていた呪術師たちが、こそこそその場を立ち去るのを後ろに聞きながら、アラナスは振り返る。
息せき切って駆け寄って来たのは、現在アラナスの配下につけられている男の一人だ。レーラが一人になる間、傍につけていたはずの。だがその彼が酷く焦っている様子を見て、良くないことが起こったのだろうというのは明らかだった。
そして、傍まで近寄った彼はこう告げる。
「レーラミュリア様が、姿を消されました……!」
「っ!!」
アラナスは返事をすることすら忘れて、その場を走り出した。
アラナスからの指示通り、レーラは庭へと向かっていた。
途中まではユリーシアも一緒だったのだが、用事があると言っていた通り、今は彼女とも別れている。立場上一人きりではないが、アラナスの補佐官が一人ついてきているだけだ。
呪術師たちが仕事をしている建物と、一般の人たちの出入りもある別棟とのあいだに、小さな庭がある。その片隅にあるテラスがレーラの目的地だ。
アラナスが気を使って外で、と言った時はいつもそこに用意がされる。とはいえ、普段の軽食の時間よりは早い時刻のため、まだ誰もいないかもしれないが。
「あれ?」
テラスへと近付いたが、レーラは足を止める。
「あそこ、だれかいるよね?」
後ろの補佐官を振り返りながら、テラスの方を指差す。
「……本当ですね」
そのテラスは、庭の木々によってあまり人目のつかない場所にある。そんな所に人がいるのをレーラははじめて見た。
そこにいた人――、呪術師と事務官らしき二人の男女は、身を寄せあうように座っている。そして、男の手が女の頬に伸び――
「っ……!」
手が震えた。足も。
男が覆いかぶさるようにして、女が視界から消える。
「ああもう、あいつら……」
補佐官のぼやきも遠い。
「い……」
もう誤魔化しようもないほど、ガタガタと身体が震えている。
「……レーラ様?」
「――いやぁっ!!」
レーラは補佐官の手を叩き落とすと、踵を返して走り出す。
「レーラ様! どちらへ!?」
得体の知れない恐怖が、不快感が、胸に湧き上がって止まらない。
後ろから補佐官が追いかけてきていることには気が付いていたが、止まる気にはなれなかった。
「男」が追いかけてくる。そんな状況で、止まれるはずがない。
でも、どうして自分がそう思うのかも、レーラにはよく分からなかった。
「襲われた、とかではないんだな?」
「はい……、突然走っていかれてしまい……」
見失ってしまい申し訳ないと恐縮しきりの補佐官に、アラナスは肩を竦めた。
レーラが姿を消した。
なんでも、向かっていた先である庭の片隅にある東屋で、呪術師の女と文官の男が逢引していたらしい。仕事をしろと言いたいところだが、今の問題はそこではない。
その二人を見たレーラが、叫び声を上げてどこかへ走り去ってしまったのだ。
恥ずかしがっているというには、どこか様子がおかしく、むしろ――
「怯えているようだった、というのが気にかかるな……」
「はい……」
まだ彼女がいなくなってから、そう時間は経っていない。おそらくまだ近くにいるだろう。
「ともかく。周辺を隈なく探そう。……できれば、女性の手を多く借りてきてくれ」
怯え――。レーラは時折、アラナスにも怯えを見せる時があったことを思い出す。同性であるユリーシアには一度もそういった反応を示していないことも。
嫌な予感がするのだ。彼女の抱える大きな傷に、触れてしまったのではないかと。
アラナスは指示に首肯した補佐官に頷き返すと、自身もレーラを探すべく走り出した。