子どもになった彼女と僕の物語

「レーラには、ここ二、三年の記憶しかない……!?」

 思わず大きな声を上げてしまったアラナスは、慌てて自分の口を両手で塞いだ。

 目の前にいるユリーシアは、酷く痛ましげな顔をしている。

 もちろん、話題は先日やってきたばかりのレーラミュリア新呪術師長のことだった。アラナスも、彼女に対して、妙に幼い言動をする娘だと思っていた。年齢の割に話す姿や立ち振る舞いは幼子のそれだったからだ。

 その理由がようやくわかった。

「ある日、突然ああなってしまったらしいの。それまでの記憶が全くなくなった、というわけではないらしいのだけれど、よく思い出せないのですって」

 レーラの状態を心配したユリーシアが、秘密裏に里へ調査をさせていたらしい。その報告が上がってきたと、アラナスは呼び出しを受けたのだ。

「……余程、酷いことがあった――ということですか?」

 大人としての分別ももろともに記憶を失わせるほど、衝撃的な何かがあったと考えるのが妥当だ。それが精神的なことにせよ身体的なことにせよ、何のきっかけもなくそうなるなど考えづらい。

 しかし、ユリーシアは首を横に振った。

「特に、何も。……もっとも、彼らが把握していないだけ、ということはあるでしょうけど」

 彼ら、とはレーラのいた里の人々のことだろう。

 妖精の里は基本的には狭い集落だけで生活が完結している。そこに暮らす者たちは、当然皆知り合いで、家族のようなものだという話だ。それが、里人の誰も彼女の身に何が起こったのか、何も知らないなどあり得るのだろうか。

 まだ調査は完了していないそうなので、続報を待つ他無いようだった。

 その時、ユリーシアが顔を上げた。

「あら、レーラ」

 彼女はアラナスの背後に向かって声をかけている。振り返ると、涼やかな水色の髪を揺らしながら、とてとて、とこちらに駆け寄ってくるレーラの姿が見えた。

「ユリーシアさま。ヴェリスさまがよんでました」

「伝えに来てくれたの? ありがとう」

 おいで、と言うようにユリーシアが手を広げると、彼女はその胸に飛び込んで、幸せそうな顔で頭を撫でられている。

 ひとしきりレーラをよしよしして満足したユリーシアは、アラナスの方へと向き直る。

「レーラはこれからお勉強の時間だったわね?」

「はい、今日は天球の使い方……、ですね」

 レーラの副官、という名の世話係をしているアラナスは、当然彼女の予定も把握している。次に控えている予定を思い出しつつ答えると、ユリーシアは頷いた。

「わかったわ、それなら先に行っておいてくれるかしら? ヴェリスの用が終わったら私も行くわ」

「かしこまりました」

 去っていくユリーシアに手を振るレーラの後ろ姿を、アラナスはじっと見つめる。

 レーラミュリアは呪術師としての技術はない。しかし、彼女の持つある力によって長官に選ばれた。

 ある力――、夢見の力だ。

 彼女の見る予知夢のようなそれは、ほぼ確実に現実のものとなるらしい。

 こちらに来てまだ日が浅いため、その真偽のほどをこの目で見たわけではないが、長官に異例の抜擢をされるほどなのだから、その力は確かなものなのだろう。

「行きましょう、レーラ」

 声をかけると彼女の肩がびくっと跳ねた。

「う、うん」

 にへ、と笑うレーラはいつも通りだ。しかし、時折こうして声をかけたとき、過剰に反応する時がある。

 その理由を聞いても、驚いただけだよと笑うため、あまり気にしないようにしていたのだが――。

 レーラはアラナスの服の裾をきゅっと掴む。

「どうか…した?」

 アラナスは首を横に振った。

「いいえ、なんでも。さあ、行きましょうか」

「うん!」

 上機嫌なレーラは、こちらを引っ張るような勢いで歩きはじめる。

 一体、彼女の過去に何があったのだろう。

 しかしそれはきっと、今の彼女に聞いても意味のないことだ。アラナスは、その疑問を口には出さぬまま、先導するレーラについていった。

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