子どもになった彼女と僕の物語
1
「レーラには、ここ二、三年の記憶しかない……!?」
思わず大きな声を上げてしまったアラナスは、慌てて自分の口を両手で塞いだ。
目の前にいるユリーシアは、酷く痛ましげな顔をしている。
もちろん、話題は先日やってきたばかりのレーラミュリア新呪術師長のことだった。アラナスも、彼女に対して、妙に幼い言動をする娘だと思っていた。年齢の割に話す姿や立ち振る舞いは幼子のそれだったからだ。
その理由がようやくわかった。
「ある日、突然ああなってしまったらしいの。それまでの記憶が全くなくなった、というわけではないらしいのだけれど、よく思い出せないのですって」
レーラの状態を心配したユリーシアが、秘密裏に里へ調査をさせていたらしい。その報告が上がってきたと、アラナスは呼び出しを受けたのだ。
「……余程、酷いことがあった――ということですか?」
大人としての分別ももろともに記憶を失わせるほど、衝撃的な何かがあったと考えるのが妥当だ。それが精神的なことにせよ身体的なことにせよ、何のきっかけもなくそうなるなど考えづらい。
しかし、ユリーシアは首を横に振った。
「特に、何も。……もっとも、彼らが把握していないだけ、ということはあるでしょうけど」
彼ら、とはレーラのいた里の人々のことだろう。
妖精の里は基本的には狭い集落だけで生活が完結している。そこに暮らす者たちは、当然皆知り合いで、家族のようなものだという話だ。それが、里人の誰も彼女の身に何が起こったのか、何も知らないなどあり得るのだろうか。
まだ調査は完了していないそうなので、続報を待つ他無いようだった。
その時、ユリーシアが顔を上げた。
「あら、レーラ」
彼女はアラナスの背後に向かって声をかけている。振り返ると、涼やかな水色の髪を揺らしながら、とてとて、とこちらに駆け寄ってくるレーラの姿が見えた。
「ユリーシアさま。ヴェリスさまがよんでました」
「伝えに来てくれたの? ありがとう」
おいで、と言うようにユリーシアが手を広げると、彼女はその胸に飛び込んで、幸せそうな顔で頭を撫でられている。
ひとしきりレーラをよしよしして満足したユリーシアは、アラナスの方へと向き直る。
「レーラはこれからお勉強の時間だったわね?」
「はい、今日は天球の使い方……、ですね」
レーラの副官、という名の世話係をしているアラナスは、当然彼女の予定も把握している。次に控えている予定を思い出しつつ答えると、ユリーシアは頷いた。
「わかったわ、それなら先に行っておいてくれるかしら? ヴェリスの用が終わったら私も行くわ」
「かしこまりました」
去っていくユリーシアに手を振るレーラの後ろ姿を、アラナスはじっと見つめる。
レーラミュリアは呪術師としての技術はない。しかし、彼女の持つある力によって長官に選ばれた。
ある力――、夢見の力だ。
彼女の見る予知夢のようなそれは、ほぼ確実に現実のものとなるらしい。
こちらに来てまだ日が浅いため、その真偽のほどをこの目で見たわけではないが、長官に異例の抜擢をされるほどなのだから、その力は確かなものなのだろう。
「行きましょう、レーラ」
声をかけると彼女の肩がびくっと跳ねた。
「う、うん」
にへ、と笑うレーラはいつも通りだ。しかし、時折こうして声をかけたとき、過剰に反応する時がある。
その理由を聞いても、驚いただけだよと笑うため、あまり気にしないようにしていたのだが――。
レーラはアラナスの服の裾をきゅっと掴む。
「どうか…した?」
アラナスは首を横に振った。
「いいえ、なんでも。さあ、行きましょうか」
「うん!」
上機嫌なレーラは、こちらを引っ張るような勢いで歩きはじめる。
一体、彼女の過去に何があったのだろう。
しかしそれはきっと、今の彼女に聞いても意味のないことだ。アラナスは、その疑問を口には出さぬまま、先導するレーラについていった。