第四章思いの行方
かずさは薄暗くなった空を見上げながら、小走りで部屋まで戻ろうとしていた。
エイルと別れたのはまだ日が高いころだったのだが、図書館で本を読みふけった結果、辺りは夕焼けを通り越して、暗さが増しはじめていた。しかし、今日はこの城へと訪れて二日目。まだいまいち立地条件を把握しきれていなかったかずさは、絶賛迷子であった。
当たりの景色が、貴族も通るであろう煌びやかなところから、どうも兵たちの訓練場らしき物々しい場所になっていた。
(ここどこよ―――!!)
先ほどから、走り回っているのかずさなのだが、なぜか一向に人に会わなかった。ただの客人が足を踏み入れていい場所とも思えなかったかずさは、いち早くここから出たかったのだが、何分道が分からないため、どうすることもできなかった。
(私このまま、ここでのたれ死ぬんだわ……何て可哀そうな私! オヨヨ……っと―――人の声?)
どこからか人の声が聞こえたような気がしたかずさは、その微かに聞こえる声を頼りに、そろそろと進んでいった。少し歩くと、脇道があり、その奥からの光が見えた。あたりは大分暗くなってきており、その光ははっきりと、闇に差をつけて照らされていた。壁を伝いながら、そっと覗くと、奥は訓練場か何からしい広い空間があった。そこには二人の男がいて、片方はかずさがよく見知ったものだった。
(エイル―――?)
二人の男は何事かを話していたが、かずさの視線に気が付いたのか一斉に振り返った。かずさはなんとなく、出て行ってはまずい気がしたため、ぱっと頭を引っ込めて、壁を背にして、気配を殺した。
(私、何で隠れてるの…。―――でも、もう片方の人、この国の軍服着てた。エイル、こんなところに何の用があるの?)
エイルもかずさと同じく道に迷った、という可能性もあった。しかし、かずさはさっきの二人の反応から、そうではないだろうと結論を下していた。
かずさは耳を頼りに、二人の様子を窺っていた。
「まぁ、そういうこった。エイル、気を付けろよ。」
「……分かってる。あっちは俺が始末する。」
「おう。任せたぜ。」
物騒げな会話の後、エイルがつかつかとかずさの方へと近づいて来ていた。あっちの始末。かずさは直感で自分の事だと感じていた。かずさは身の危険を切に感じ、背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。
逃げるべきか、いっそ出て行くべきか。かずさは、エイルから殺気にも似たものを感じていた。
(出たら、多分斬られる……。大人しくしてよう。)
エイルの足音は刻々と迫っていた。かずさはいち早く行動がとれるようにと、壁を背に動かないまま、視線だけはエイルを捉えようとしていた。
壁の角が死角になってエイルの様子を視認することは不可能だった。
エイルの足音が止まった。目算するに、かずさから死角になっている範囲のギリギリだと思われた。
そして硬直が少し続く。そして、エイルがばっと飛び出してきた。
「お前……。」
「こ、怖い顔して、どうかした、エイル?」
エイルの手は剣の柄に掛けられ、明らかな殺気を放っていた。かずさは逃げ出さないように足を踏ん張りながら、出来る限り平静を装って、エイルに笑いかけた。
「………。やはり、お前か。」
「え―――」
エイルがギリッと歯ぎしりをした。かずさはエイルが何を言っているか分からないまま、気が付くと、激しくかずさを睨むエイルの持つ剣の刃を、喉に押し当てられていた。壁に引っ付いていたかずさを、エイルはさらに覆うような形で、彼女を拘束した。
微かに当たる刃はひんやりとして、かずさは本当に身が凍る思いをした。なぜこんな状況になっているのか理解が出来なかった。
「―――吐け。何処の手先だ。」
「どういう………。」
エイルは恐ろしく低い声でかずさを威圧した。かずさはなぜか自分が殺されかかっているという実感以外、何一つ状況を理解できていなかった。
かずさは混乱した頭で必死に考えを巡らせていた。エイルは今何と言ったか。何処の手先だと、言わなかったか。
「待って、私、そんなんじゃ……。」
「うるさい! 俺の質問に答えろ。」
エイルはかずさの言葉をまともに取り合おうとはせず、さらにぐいっと刃を押し付けた。エイルも余裕がなくなっていくかのように、ますます鋭くかずさを睨んでいた。
かずさは刃が押し当てられた喉に熱さを感じた。どうやら、薄く切れたらしい。しかし、かずさはそれにかまける余裕をもはや失っていた。
(―――――怖い!)
ただただ怖かった。彼がこの剣を一閃させれば、すぐに自分は死んでしまう。かずさは恐怖に慄きながらも、同じ弁明を繰り返すしかなかった。涙が込み上げて、喉が詰まった。
「違う、私、私は……。」
「まだ言わないのか! フルドの手先だろう?!」
エイルは空いていた方の手で、かずさの顎を掴んでむりやり上を向かせた。その拍子に目に溜まっていた涙が、ぽろっと零れ、後は堰を切ったようにぼろぼろと零れ、頬を伝っていた。エイルはそれを見ていられないかのように、顔を歪め、天を仰ぐように上を向いた。そして剣を下げて投げ捨てると、くっと下を向き、そのまま顔を下げ、そのままかずさの唇を奪った。
剣が床の石に跳ね、音が廊下中に反響した。
「―――んっ!」
思いやりに欠ける、激情に流されたようなそのキスに、かずさは抵抗するまもなく、ただエイルの胸にしがみ付いているのが精一杯だった。
長いキスが終わり、エイルの唇が離れると、かずさはへたっと、地面に座り込んだ。かずさは何が起きたか理解しきれず、浅く息を吐いていた。
「お前が、俺を裏切るからだ―――」
エイルはそれだけ言うと、その場を後にした。
翌朝。かずさは部屋に閉じこもったまま過ごしていた。頭からシーツを被ったまま、部屋のベッドで一人座っていた。もう夕方を過ぎ、そろそろ日が落ちる頃だった。
かずさはレウリアやフェリエには体調不良と言っていたので、昼間にはしばしば心配した二人が、部屋の外から声をかけていたが、出て来ることも無く、また、誰も部屋へは入れなかった。
昼間は昨日の出来事が恐ろしく、ショックも大きかった。その為、日中をカーテンの閉められた薄暗い部屋で、鬱々と過ごしていたかずさだったが、半日が過ぎたところで、悲しさの類の感情は薄れ、苛立ちが募りはじめていた。
(だいたい、私が何したってんのよ! 勘違いも良いところじゃない! それに……“フルド”って誰よ―――!!!)
かずさは、ばふばふと枕を殴りながらエイルへの恨みつらみをぶつぶつと言っていた。ふわりとしていた枕がへたってくるまで殴った後、かずさは、はぁと溜息を吐いた。
かずさはエイルに腹が立っていた。しかし、それ以上にかずさが腹を立てていたのは、それでもエイルを嫌いになれない、かずさ自身だった。
かずさはやりきれない思いと自己嫌悪のようなもので、いっぱいになっていた。しかし、枕に気が済むまで八つ当たりしたことで、少しは冷静さが戻っていた。
(でも、“フルド”って、なーんか聞き覚えあんのよね……。)
かずさはゆっくりと、自分の知っている名前を片っ端からあげていった。レウリアをはじめとする親しい人間にはいなかった。ならば―――
「あっ……! ―――あいつ……!」
かずさはまさに、怒髪天を衝く勢いでブチ切れて、部屋を飛び出していった。
フルド―――十年前に
一方、その頃のエイルは、昨日の自分の行動を激しく後悔していた。
自分が昨日、あの場から、かずさをほったらかしににて立ち去った後の、かずさの動揺ぶりを、あの場にいたもう一人の男から、自分が投げ捨てた剣を届けてもらったときに、エイルは聞いていたのだった。さらに、今日は今日で、かずさは自室にこもったきり、出てこなかった。レウリア達には体調不良と言っていたようだが、昨日のエイルの行動が原因なのは明らかで、エイルはさらに自責の念に苛まれていた。
(もし、フルドの手先だとしたら、
エイルは頭を抱えたまま、大きなため息を吐いた。
今になって冷静に考えれば、ありえない推測だったことが容易にわかるエイルだったが、あの時はその理性が吹き飛んでいた。
かずさが自分を裏切ったと思うと、許せなくて、激情に駆られてかずさを傷付けてやりたい、とまでエイルは思っていた。エイル自身、あそこでかずさが平然としていれば、殺してしまっていたかもしれない、と考えていた。
(裏切った…ね。そもそも、そんな信頼関係があったのかも、怪しいのに……。)
エイルは元から、
それならば、なぜあそこまで感情に任せて、当たってしまったのか。エイルはその答えが出ていたけれども、見ないようにしていた。
(もう二度と、顔を見たくないと言われても、仕方な―――足音?)
エイルは思考の海から現実へと引き戻された。誰かが、廊下を猛スピードで駆けてくる音。そしてその音はエイルの部屋の前で止まり、バンッと扉が開いた。
そこに現れた人物は、今エイルが最も会いたく、かつ、会えないと思っていた人物だった。エイルは目を見開いて、彼女を見つめた。
彼女は肩ではあはあと息を吐いてから、キッと顔を上げて怒鳴った。
「私が、フルドの手先って……どういうことよ!!!」
かずさはイライラと、呆けた顔のエイルを睨んでいた。フルドは
フルドはもう
なぜその事がエイルの口から出たのかという、根本的な疑問は、怒り狂うかずさの前では些末な問題で、頭に浮かばなかったらしい。かずさは、驚愕の表情のままで何も言わないエイルにつかつかと近寄ると、彼の胸ぐらをつかんだ。
「ちょっと……! 聞いてんの?!」
エイルはその声にはっとしたように、かずさを見た。怒りで高揚した顔は、堪らなく色っぽく見えた。エイルがすっと手を伸ばすと、びくっとかずさは震えたが、逃げようとはしなかった。
かずさの目元が赤かった。エイルはその理由を思い出し、辛そうに眉をひそめた。ウィルはそこを優しく親指でなぞった。
「泣いた?」
「だ、誰のせいよ……。」
「悪かった。」
かずさはエイルがこんなにあっさりと謝って来るとは、思っていなかったので、少し拍子抜けしていた。しかし、それとは別に、昨日とはうって変わって、優しいエイルの手に、かずさは頬に熱が集まるのを感じていた。
エイルの手がかずさの頬をすべって、首筋をなぞった。
「ちょっ……。」
かずさは恥ずかしくなって、エイルから逃れようとした。しかし、エイルはそれを許さず、腕をとって引き寄せた。
かずさに、昨日のような恐怖は無かった。かずさは身をよじるだけで、ムリに逃げることが出来なかった。
かずさがちらりとエイルを見ると、かずさの瞳は、エイルの銀の双眸とぶつかった。
目が離せない。
エイルの開いている方の手が、かずさの頭に伸びて、ゆっくりと引き寄せられる。
二人の唇が重なった。
かずさは拒むことなく、エイルに寄り添って、その口付けを受け入れた。
昨日とは全く違う、優しいキス。かずさはエイルの服をきゅっと掴んで、目を閉じた。
「あ……。」
唇が離れ、かずさが目を開けると、エイルの銀の瞳が、本当に近くまであり、頬が一層赤くなった。
エイルはその頬に軽くキスをして、かずさを抱きしめた。
「もう部屋に帰った方が良い。悪かった。」
エイルはそう言うと、かずさを解放して、扉の外まで送った。かずさは黙ったまま、それに従って、エイルの顔をもう一度見上げた後、ふらふらと自室へと帰って行った。
かずさは部屋に入り扉を閉めると、そのままずるずると座り込んで一人、さっきのエイルの部屋での事を考えていた。
頬はまだ熱く、感触も生々しく残っていた。
(でも……私、嫌じゃなかった。)
かずさはつっと自分の唇に触れた。
かずさは目を閉じて、昨日の事も再び思い出していた。昨日のキスも含めて、嫌ではなかったのだと、悟った。
なぜ嫌ではなかったのか。昨日あんなに怖かったのに、どうして会う事を躊躇わなかったのか。かずさは膝に顔を埋めて、はぁと息を吐いた。
「私……エイルの事―――」
あれのどこがいいのだろう。かずさは自分で自分の気持ちが分からなかった。自分に優しくもない男を好きになるなんて、かずさは惨めな気持ちになっていた。この思いが成就することはないと思っていた。
かずさは唇を噛んだ。今日のキスも、自分を慰めるためのものに決まっている、そうかずさは思っていたのだった。
かずさはまた昨日とは違う意味で、外に出たくないと思った。どういう顔をして会えばよいのだろう。
かずさの心配をよそに、その日以降エイルとは、まるであの二日のことが無かったかのように、当たり障りのない会話をしていた。滞在期間はあっと言う間にすぎ、もう一行は帰途を辿っていた。
レウリアはかずさの体調不良を頭から信じていた様で、大丈夫だと出てきた後も、度々かずさを気遣うような素振りを見せていた。
しかし、フェリエはそうでもなかったらしい。
「ねえ、かずささん。本当は体調不良じゃなくて、何かあったんじゃないですか? エイルさんと。」
「え? な、何でそう思うの?」
かずさはびっくりして、フェリエを見返した。かずさは、何でもないフリをしていたつもりだったし、エイルとも普通に会話するようにと努めていた。そして、それはエイルも同じで、傍から見てさしておかしな所など無かったはずだと、かずさは思っていたのだった。
「いえ、何となく…なんですけど。かずささんが体調不良で部屋にいるとき、エイルさんの様子が、ちょっと…おかしかったかな、って。」
「そ、そうなの……?」
かずさは驚いて、ぱっとエイルの方を向いた。エイルは今の話を聞いていなかったようで、暫くしてから、かずさの視線に気が付き、かずさの方を向いた。
かずさは何でもないとエイルに首を振って、フェリエの方へと向き直った。エイルが様子が変わる程、自分に対して何か思うところがあったなど、かずさは予想もしていなかったのだった。
「まあ、私の気のせいかもしれませんし。―――あ、そろそろ着きますよ。」
かずさが外を覗くと、城へと入る坂にさしかかっているところだった。
その夜は、エドウィンと離れた事で元気のなかったレウリアの為に、帰国祝いのような名目でパーティーが催されていた。それは王家の人間と首都にいる貴族のみの、ささやかな立食パーティーのようなものだった。とはいっても庶民には十分豪華なのだが。今夜は王宮勤めの兵たちも参加可能にしていたため、非番の兵も多く出入りしていた。
かずさはいささかこじんまりとした、メイン会場の隅をウロウロしながら、遠目ながらレウリアから目を離さないようにしていた。誰が出入りしているか分からないこんな日は、何かあるかもしれない。
かずさはレウリアの予言の事を改めて思い出していた。今回のことも、きっとエドウィンを見納めるつもりで、行ったのだろうということは、かずさも何となく分かっていた。
ふっと横を見ると、エイルも遠巻きに、レウリアを見ているのをかずさは見つけた。かずさは少し寂しいような、それでいて居心地の悪い、黒い感情が心の中に浮かび上がるのを感じた。エイルは護衛対象を見ているに過ぎないと分かっていても、この感情が溢れ出るのを止められそうになかった。
かずさは頭を振って、その気持ちを追い出した。そんな思いを抱いても、何にもならなかった。かずさがはぁと溜息を吐いて、再びレウリアに視線を戻した時だった。
突然広間の扉が開いた。
「!」
その扉の向こうには、扉を固めていたはずの兵が倒れているのが見えた。
ただ事ではなかった。それに同じく気が付いた、客人たちはパニックに陥る。また、何人かいる兵たちは、ぱっと動いて、レウリアの前に飛び出した。かずさも急いでそちらへ向かおうとした。そのとき、開いた扉から、黒い人型のものが現れた。
(人……。違う―――
黒い人影は人型をくずし、あっという間に大きな塊となって、レウリアに迫っていた。
かずさは全速力で向かっていた。しかし、パニックに陥った人々を押し退けて進むのは容易ではなかった。
「姫様!」
レウリアが黒い影に飲み込まれる。そして、レウリアを飲み込んだ影は、あっという間に遠ざかって行った。かずさは必死になって叫んだ。
「姫様―――!」
レウリアを飲み込んだ影は、猛スピードで廊下を進んでいた。そして、ある人物の前でぴたっと止まり、意識を失ったレウリアを横たえた。
「ご苦労……。」
影はすっと、地面に吸い込まれるように消え失せた。それを睨むような目つきで見つめていた男は、レウリアが息をしているのを確認すると、彼女を抱えて歩き出した。
「―――――待って!」
男がその声に振り返ると、そこには全力で影を追いかけてきたのか、ぜいぜいと肩で息をするかずさだった。
かずさは遠くからながら、レウリアを飲み込んだ影が男の足元で止まり、レウリアを下ろすのを見ていた。間違いなく、レウリアの誘拐犯だと確信していた。
かずさはギッと男を睨んだ。しかし、男の顔を見た瞬間、その厳しい表情は驚愕の表情へと塗り替えられた。男の銀の双眸が冷たく光った。
「な、なんで………。エイル―――――」
エイルは悲しげな目を一瞬して、しかし何も言わないまま、レウリアを抱えたまま、踵を返そうとした。しかし、かずさはそのまま行かせることが出来なかった。レウリアを返してもらわなければ。でも、それ以上にエイルのこの行いが許せなかった。
「待ちなさい!」
エイルは再び足を止めて、かずさを見た。
「姫様を返して。」
「それは出来ない。」
かずさはにべもない彼の返答に、少なからずショックを受けていた。かずさは嘘でもいいから、誘拐しているのではない、と言ってほしかったのだ。かずさはエイルに裏切られた気持ちでいっぱいで、涙の浮かぶ目で、エイルを睨んでいた。
「もう一度、言うわ。―――姫様を返して!」
かずさは、エイルの顔を見ているのが辛かった。かずさはエイルの事を見ていられなくて、思わず俯いた。
エイルは何も言わなかった。それが一層かずさは悔しくて、泣かないでいるのが精一杯だった。
気配が動き、気が付くとかずさの視界に、自分のものではない足が映っていた。驚いて上を向くと、悲しい目をしたエイルが間近に立っていた。しかし、それをかずさが視認した瞬間、下腹部に重い衝撃が来た。
「俺を信じてくれ……、かずさ。」
エイルは、立っていられなくなり、崩れ落ちるかずさを受け止めた。その顔はかずさからは、影になって見えなかったが、ギリッと歯ぎしりのような音が聞こえた。
かずさは自分よりも、はるかにエイルの方が苦しそうだと感じた。
かずさの記憶はこのエイルの言葉を最後に途絶えた。