五章氷解

 セレンはロウェルの眠る部屋の窓辺に立って、その先に広がる風景を眺めていた。

 生まれ育った城の窓から見えていた整備された庭とは違い、自然のままに近い草原が続いている。

 不思議だな、と思う。

 ここはあまりに穏やかで、平和で――。つい数日までのことが、全て夢だったのではないかとさえ、考えてしまいそうな。そんな気持ちになる。

 だが忘れることなど出来るはずもなく……、セレンは細く息を吐く。

 その時ふと気配を感じて振り返れば、いつ起きたのかロウェルがじっとこちらに視線を向けていた。

「気分はどう?」

「まあ、そこそこかな」

 彼が起き上がろうとするのを、セレンは首を左右に振って止める。

 あの日、ロウェルが脇腹に受けた「掠り傷」は、見た目通りかなり深いものだった。もう少し処置が遅れていれば、失血しすぎて命も危うかったほどだ。

 実際、馬車の中でレオが応急処置をする頃には、ギリギリ意識を保っているような朦朧とした状態で、この場所についてからも殆どの時間を彼は眠って過ごしている。

「ここは?」

「……リーティエ公女の屋敷」

 短い問いに答えるが、彼に驚いた様子はなかった。元々ここが目的地だったのだろう。

 何故、という疑問は湧く。何故、リーティエ公女――アレイストの母の元に、自分を連れてきたのか。

 だが最早、セレンにロウェルを疑う気持ちなどはなく、ただ純粋に不思議だった。

「わたしをここまで連れてきたのは、公女と会わせるため?」

 彼は少し迷うように目を伏せたあと、頷いて答える。

「おそらく、アレイストは俺たちを追ってくる。どこまでも。それを止めさせられるのは……公女殿下だけだ」

 セレンは初めて対面したリーティエのことを思い出す。

 やわらかな雰囲気の、どこか少女のような人だった。

 アレイストは、この純粋で純朴な女性を守るために、父からの召喚に応じたのだろう。そうと悟るには十分だった。

 ふとロウェルから視線を外して、セレンは窓の向こうを見る。

「ここは、本当にいいところね」

「ああ……」

 時間も穏やかに流れて、空気はあたたかい。

 この空気そのままのような彼女だけが、アレイストを変えることができる。

 なんとなく、理解できる気がした。




 ここ暫くのセレンが、一体何を考えているのか。

 穏やかに微笑むようになった彼女を見て、ロウェルは時折、言い知れぬ不安に駆られる。

 アレイストの生家に到着して以降、セレンの周囲はただ凪いでいる。

「セレン」

 まだベッドから出ることを許してもらえないロウェルは、その傍らで刺繍に勤しむ彼女に声をかけた。

 その手付きは若干危うげだが、リーティエ公女に教えてもらったのだと、微笑みながら言っていたのを思い出す。

「どうしたの?」

 頭を上げたセレンが、こてりと首を傾げた。やはりその表情は酷く穏やかで――、胸がざわざわと落ち着かなくなる。

「……最近、夜は眠れてるか?」

 唐突にそう尋ねたロウェルに、彼女は不思議そうな顔で目を瞬かせた。

「なぜそんなことを?」

「いや……、その、前はあまり眠れなかっただろ。今はどうなのか、って」

 ロウェルの返答に、セレンはおかしそうに笑った。

「あなたがそれを聞くの? ……に一服盛っていたのはお前だろうに」

 さらりと告げられた言葉に、息を飲む。

「気付いて……」

「あの変に甘い茶だろう。あれを飲んだ後は決まって頭がぼんやりしたから」

 こちらを責めるでもなく、穏やかに微笑んだまま淡々と発せられる声に、ロウェルは二の句が継げずに黙ってしまう。

「あれはどういうものなの?」

「……判断力を鈍らせ、思考力を低下させる効果があった」

「なんだ。じゃあ、母様のことは関係なかったのね。抜けきってないのかなって、ちょっとだけ期待してたのに」

「あれにそんな持続性は――……、今も母親の声が聞こえるのか……?」

 愕然として問いかけた言葉に、セレンは笑った。

「もちろん。今もここにいるわ」

 そう言って、彼女は何もない虚空を指差す。

 当然といった顔をするセレンに、ロウェルは胸が潰れそうになった。

 自分は、想像していたよりもずっと――罪深いことをしたのかもしれない。

「セレン……、こっちへ来てくれないか」

 腕を広げると、彼女は作りかけの刺繍を置いて、言われた通りに傍までやってきた。

 その細い身体をぎゅっと抱き締める。

 アキュイラにいた頃よりも、随分と痩せた。そんなことを今更のように思い知らされる。

「辛くはないか?」

 彼女の長い髪を撫で、じっと返答を待った。

 長い沈黙の後、セレンはぽつりと呟く。

「……これは、私に与えられた罰だ」

「『罰』?」

「そう。目を閉じ、耳を塞ぎ、自分で考えることを怠った愚か者への罰だ。だから、辛くなどない」

 そう言い切った彼女は、ふとロウェルの方を見上げて、微笑みを浮かべた。

「それにきっと、近い内に終わるわ。ね?」

 ロウェルはぎゅっと強くその身体を抱き寄せる。

 母の幻聴がセレンへの罰だと言うのなら、きっとロウェルへの罰はこの状況そのものなのだろうと思った。

 まるで二人の人間がそこにいるかのように、ちぐはぐな喋り方をするようになったセレン。

 心が、壊れかけているのかもしれない。そう思ったのは今日がはじめてではなかった。

 それを引き起こしたのが自分だという現実を見つめ続けること。

 きっとそれが、ロウェルに課された罰なのだ――。




 昼間は落ち着いている気持ちも、夜になればざわめきだす。

 耳元で聞こえる母の声は、一層大きく。無為に時間が流れるままになっている罪悪感もまた、セレンを苛む。

 眠れない。

 明け方近くに、気絶するようにして少しばかりの睡眠をとる。それだけの生活が繰り返されていた。

 ほんのひとときの安らぎすら、自身には許されないかのように。

 その日も同じようにただ目を瞑って――、夜の闇に耐えていた。

 酷く長い時間を、空が白みだすまでじっと息を潜め続ける。

 しかし今夜は、色が明るさを取り戻すより早く変化があった。

 カタン、と小さく物音がする。静かな闇の中では、その音がやけに大きく聞こえた。

 外の空気が入ってくる気配がして、窓が開いたのだと分かる。

 それでもセレンは閉じた目蓋を動かそうとはせず、ただじっとしていた。

 ギシッとベッドの軋む音がして、誰かが体重をかけたのを感じる。

 微かに息遣いが聞こえた。すぐそばに体温も。

 そして、首元に冷たい金属が触れる。

「――抵抗しないんですか」

 こちらが起きていることを、疑いもしない問いだった。

 セレンはゆっくりと目を明けて、そこに想像通りの人物がいるのを確認する。

「アレイスト……」

 真夜中に、闇の中に――沈むように存在する男を見上げた。

 非常識な訪問だと責める気にも、勘違いされると窘める気にもならなかった。

 こんな夜が来ることを、どこかで知っていたような気さえした。

 首筋に当てられた刃にも、恐怖を感じない。

 だって、これはセレンが望んでいたことだったから。

「『抵抗』? なぜ、しなければならないの? やっと、解放されるのに」

 アレイストの瞳が微かに揺れてみえる。

 刃が更に強く押し当てられて、薄く皮が裂けた。チリッと痛みが走ると共に、淡く血の匂いが漂う。

「――ッ、貴女は!」

 彼は奥歯をギリッと噛み締めた。

「貴女は、いつだって私のほしかったものを持っているのに! 何故、いつも……、いつも! 私から奪うんだっ!!」

 思いがけない言葉に、セレンは目を瞬かせる。

「欲しかったものを持っているのは、あなただわ、アレイスト……」

「そんなことない! 父の関心も、心から貴女を案じてくれる人も、自由も! 貴女は持っていたじゃないか……」

 そのように見えていたのか、とセレンは驚きながら聞いていた。でも、そんなもの、本当にわたしにあっただろうかと空虚に響く。

「父は……、愛する女の影を追っていただけ。心から案じてくれる人なんていない。母が毎夜『王になれ』と囁く日々に、『自由』なんてあるはずないじゃないの。わたしは……、父から期待されるあなたが、ずっと羨ましかった。それに、あなたは母親から一身に愛されてるのに」

 視界があっという間に滲んで、目尻からあふれた雫が伝っていった。

 わたしは、愛されたかった。

 優しく抱きしめてほしかった。

 それだけだったのに。

 声もなくぽろぽろと涙を零していると、アレイストは視線を逸らして唇を噛んだ。

 そして、首元に添えていた刃をスッと離した。

「アレイスト……」

「……私は、貴女を苦しめたくて来たんです。でも、貴女は死にたいらしい。なら、この行為に意味はない」

 そう言って、離れていこうとする。

 はじめ、セレンは彼の言葉が理解できなかった。

 だが、その声で、横顔で、こちらへの敵意が失われたと悟る。

 それに追い縋るようにセレンは跳ね起きて、その腕を掴んだ。

「……嫌」

 驚いたように、アレイストが振り返る。

「嫌、いやよ! わたしはもう、こんな世界で生きていられない」

 掴んだ服をぎゅうときつく握り締める。目からは大粒の涙が頬を滑り落ちて、シーツをぼたぼたと濡らしていた。

「わたしは、あなたが、終わらせてくれると思えたから耐えられた! そうでなければ……、もう、むり、なの。いかないで……。おねがい。わたしを、殺して! 殺してよぉ……!!」

 セレンは耐えきれずに声を上げて泣いた。

 もう抗うのが辛かった。

 毎日毎秒、出来損ないと罵る母の声に耳を塞ぐのも。この屋敷で流れるあまりに優しい日々に、それを享受して幼少期を過ごしたであろうアレイストに、羨望で胸を掻き毟りたくなるのも。結局、ひとりぼっちなのだと痛感する夜を越えるのも。

 もう、耐えられないのだ。

 わんわん泣きじゃくるセレンに、アレイストは暫く何も言わなかった。

 だが、セレンの泣く声が少し落ち着いた時、ぽつと消えてしまいそうな声で呟く。

「……なら、」

 彼の手が、涙で濡れたセレンの頬をすべった。頭を上げさせられて、視線が交錯する。

「一緒に、死にましょうか」

「え……」

 どこか慈愛さえ感じる微笑みを、アレイストが向けていた。

 こんなに間近で彼の顔を見たのは、はじめてかもしれない。そんなことをぼんやり思った。

 その近かった距離が更に近付いていく。

 吐息を唇に感じた。

 そして、あとほんの少しで触れてしまいそうなほどになった時――、

「――セレン!!」

 突然響いたロウェルの声で、ハッと我に返る。

 腕を半ば強引に引かれ、アレイストと距離を取らされた。

 背後からセレンを抱きしめるロウェルは、厳しい眼差しをアレイストに向ける。

 だが、彼らの間に言葉が交わされることはない。ただ黙って、お互いを見つめている。

 その均衡を破ったのは、細い女の声だった。

「アレイスト」

 廊下から姿を表したリーティエは、酷く悲しげな視線を息子に向けていた。

 冷たささえ感じたアレイストの表情が歪む。

「おいで」

 その一言で金縛りが解けたように、アレイストはふらとベッドを降りて歩き出した。杖がないためか覚束ない足取りを、リーティエが支える。それから彼女は、セレンに申し訳なさげに微笑むと、息子と二人でその場を後にした。

 母に支えられ慈しまれる姿が――、羨ましくて、仕方がなかった。

 彼らが見えなくなった後、ロウェルがハッとしたようにセレンの顔を覗き込む。

「セレン……、大丈夫――なわけないよな。少し座ろう」

 ベッドの縁に並んで腰掛けて、背中を優しく撫でられた。

「いつから聞いてたの」

 ロウェルは答えなかったが、その表情から察するに粗方聞こえていたのだろうと思う。

 セレンはされるがままになったまま、ぽつりと言った。

「あなたの望み通りになったのね」

 彼の手がぴたりと止まる。

「俺の、望み?」

「アレイストに『姉殺し』をさせないこと。……違う?」

 単なる勘ではあるが、もうアレイストが自分を殺しに来ることはきっとない。

 それはセレンの地獄がまだ続くことを意味している。

「あなたは、アレイストが『姉を殺す』ことを阻止しようとして、わたしを助けたのでしょう? 思い出したの。あなたの『贖罪』すべき相手は、きっとアレイストなんじゃない?」

 彼と出会って間もない頃。月夜の晩に酒で忘れたいことを「贖罪と過去の罪」だと、この男は言った。そして、山小屋でもアレイストのことを「友人『だった』」と話していた。

 予想に過ぎなかったが、ロウェルから何の反応もないことが、肯定にも等しく思える。

 セレンは諦念と共に目を閉じた。

 わたしは、いつも何かの代替品。

 母にとっては、自身の正当性を顕示するための駒。

 父にとっては、愛した女の面影を追う道具。

 ロウェルにとっては――、

 その答えが出る前に、ロウェルの両手がセレンの頬を包んだ。驚いて目を開くと、額にキスが落ちる。

「……そういう側面がなかった、とは言わない。でも」

 ロウェルはセレンの額に、こつんと自分のそれをぶつけて続けた。

「でも、今はそれだけじゃないよ、セレン。君のことがとても大事なんだ。……生きてて、ほしいよ」

「……そんなの」

 つい反射で口から飛び出す反論に、ロウェルは頷く。

「わかってる。こんな言葉だけじゃ、信じてもらえないことなんて。でも、本心なんだ。だから……、それを確かめるまで傍で見ててくれ」

「……もし、嘘だったら?」

「君が『信じられない』と判断したなら――、俺が君を殺す」

 その言葉に、セレンはハッと息を飲んだ。

「俺のために地獄に留まってもらうんだ。責任は果たすさ。だから、俺以外の誰にも殺されないでくれ。君自分にも、……アレイストにも」

「――っ、ふふ」

 セレンは真剣な誓いに笑ってしまった。

 こんな馬鹿げたことを言ってくれるのは、きっと世界でもこの男だけ。

 これで、自殺を試みることすらできなくなってしまった。どうしてくれるのか。

 くすくすと笑いながら、セレンは自身の目からまた涙が零れていることに気付く。

「――その言葉、忘れないで」

 その誓いが履行されている限り、ロウェルは決して傍を離れないはずだ。

 ならば、もう少しだけ生きてみるのもいいかもしれない。

「ねぇ、ロウェル」

 彼に対するこの気持ちは、一体何と形容すればいいのだろう。

 好きも、愛してるも、違う気がした。

 ただ、セレンの中でこの男は唯一替えの利かない「特別」になってしまったことだけは間違いない。

 そんな男に裏切られたとすれば、自分はどれほどの絶望を感じるだろう。

 それでも、この命が尽きるその時まで、きっと彼は傍にいる。

「やっぱり……、なんでもないわ」

 ならそれは――、とても幸福なことなのかもしれない。

 そんなことを思った。

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