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優しい父と母だった。
王宮で騎士として仕官をする父と、それを支える母。そして娘のわたしは、王都の少し外れの場所で穏やかに暮らしていたのだ。
二人のことが大好きで、毎日が幸せで。これからもそんな日常が続く――。そう、思っていた。
「――おい、立て!!」
浅い眠りが怒鳴り声で散らされて、アミラは億劫に感じながらも目を開く。
冷たく固い石造りの地面から起き上がろうとついた腕は、骨が浮いて見えるほど細くなっていた。
「さっさとしろ! 客を待たせるんじゃないっ!」
二の腕を痛いほどの力で掴まれて、無理やり立ち上がらされる。
あんたの事情なんて知らないわよ――。
口から出かけた文句を噛み殺す。下手に逆らって、また鞭で打たれるの嫌だった。
――そんな考えが浮かんでしまうほど、アミラはこの生活に慣れてしまっていた。
手首に嵌められる手枷を見つめながら考える。
あれはどのくらい前のことなのだろうか。一年は経っていないと思うが、日差しの届かない地下室に閉じ込められていることも多いため、日にちの感覚が遠くなって久しい。
けれど、まだあたたかい春の陽気が漂う季節だったことは覚えている。
当時、テレイス王国の都に父母と暮らしていたアミラは、二人と共に母方の叔母が住む領地へ出かけようとしていた。母の双子の妹である彼女のことはアミラも大好きで、また久し振りに顔を合わせることになる従兄弟たちとの再会も、とても楽しみにしていたのだ。
しかしその途中――、アミラは人攫いに遭った。
手足を縛られ古びた荷馬車に詰められて、たった十四歳の少女による抵抗など荒事に慣れた男たちに敵うはずもなく……。気が付いた頃には、アミラは「商品」になっていた。
幸いなのは、商品価値が下がるという理由で不必要に痛めつけられはしなかったことだろうか。
だが反抗をすれば背中への鞭打ちは容赦がなく、次第に逃げ出そうという気力も尽きていった。
両親が探してくれているはずだ――。それだけが希望だが、日に日に信じる心が薄れつつある。
春めいた陽気は、現在アミラの周囲にはない。朝晩は身の竦むような冷気が地面から這い上ってくる。季節が変わったのか、それほど遠い所に来たのか。判断は付かなかったが、どちらにせよ行方知れずの子供一人を探し当てるのがどれほど難しいか。それが分からない歳でもなかった。
アミラは奴隷商の男に引き摺られるように歩く。冷たい石の床がやわらかな絨毯に変わるが、もう殆ど顔も上げずにただ足を動かすだけだ。
男は「客を待たせるな」と言っていた。つまり、アミラを買い上げようとしている相手がこの先にいるのだ。
ゾッと背筋に上る恐怖を感じないように、きつく目を閉じる。
このまま牢の中にいても、いずれは衰弱して死んでしまうかもしれない。だが、これから向かう所にいるであろう人物に気に入られたとて、所詮は人を買おうなどという考えの人間だ。どんな扱いをされることか。
「お待たせ致しました」
奴隷商の男が、聞いたこともないような猫撫で声を発しながら扉を開ける。余程の上客なのだろうか。であればなおのこと、どんな目に遭わされるか分からない。
アミラは足が竦んでしまうが、自身を引っ立てる男は容赦なく手枷を引いた。
「こちらがご所望の娘にございます」
「……ああ、間違いない」
声音が思っていたよりも若い。恐ろしくて俯いていた頭を、ほんの少しだけ上げた。
その瞬間、顎をやわく掴まれて声の主と視線が合う。
「っ……」
美しい男だった。
くすんだ長い金髪に、端正な顔には深い緑色の双眸が嵌っていた。労働を知らない滑らかな指に、庶民がそうそう見ることすら叶わないほど上等な衣服まで纏っている。
貴族だ。
アミラは緊張のあまり、ごくりと生唾を飲み込んだ。
奴隷商の男が気色の悪い振る舞いをするはずである。彼らにとってアミラたち平民は、吹けば飛ぶような存在だ。機嫌を損ねれば、それだけで命を脅かされかねない。
だが目の前にいる彼は、アミラをじっくりと眺めて、そのままそっと手を離した。
「言い値で買おう。ただし、他言無用で頼む」
「ありがとうございます!」
喜色を隠せない奴隷商の男が契約を進めるのを、アミラはどこか遠くに感じていた。
何か、嫌な予感がする。
触れた手はおかしなほど優しかった。
なのに、奴隷を人とも思わない人間や、好色な変態に買われるよりも、余程まずいことになったような、そんな予感だ。
アミラは自身の所有者となった男を見上げる。
視線の合った彼は、何を考えているのかよく分からない目で、そっと微笑んだ。