初稿置き場
カテゴリ「夢見る少年と未羽化の蝶 二章」
小説・BL2026/02/03 00:10:59
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 13
レンたちは研究所の奥へ奥へと向かうエルジュの後をひたすら追っていた。
初日の案内では訪れなかった区画で、薬品のような何かの臭いがする。
渡されたマスクと髪を覆う帽子とを身に付け、そこに白衣を纏ったエルジュについて、ようやく解剖室へと辿り着く。
「戻りました」
そう声をかけて入室したエルジュに続き、レンはそろりと中へ足を踏み入れる。
「っ……」
マスク越しにも感じた臭気に息を飲む。腐臭にような、それでいて微かに甘みのある――嗅いだことのない臭いだった。
「これ……」
「羽化に失敗した繭の、中身の臭いです」
エルジュが囁き声で説明をする。彼に、こちらへと促されて、部屋の中央へと足を向けた。
そこには人ひとりが乗りそうな台と、それを囲むように三人の所員がいた。
「……? 他のみんなは……」
レンの疑問に所員の一人が首を振った。どうやら、立ち合いをせずに帰ったようだ。
だが、台に乗せられた人物を見た時、レンは彼らの選択が正しい、と思ってしまった。
「――っ!」
思わず口元を手で覆って、飛び出しかけた悲鳴を飲み込んだ。
頭と、胴体は、確かに人のそれだ。そこだけ見れば眠っているだけのようにも見える。
しかし、その手足は――、途中で溶けて消えてしまったかのように無くなっている。右腕は肘まであるが、その先は筋肉と骨が剥き出しで、手首から先がない。左腕は肩の付け根から存在せず、右足は膝まであるものの、中の骨や肉が未形成なのか、重力に従って半液状のように広がっている。左足は足首から先が無かった。
「繭の中では、生命維持器官以外が溶ます。そして、再び肉体が形成される際は、脳や内臓といった場所から再構築されるんです」
「ああ、だから手足が……」
人間の肉体にとって重要な器官から再構成され、その後に四肢が形成される。だから、その過程で死んでしまった蝶の民は、このような状態になるのだろう。
「――では、はじめましょうか」
所員の一人が口を開き、黙祷をはじめる。レンもそれに続いて、目を閉じた。
暫しの沈黙が過ぎレンが目を開くと、台の傍にいた人々もぱらぱらと動きはじめていた。
手術で使うようなメスと鉗子、それからハサミのようなものが主な道具のようだ。
レンは邪魔をしないように一歩離れて、解剖の様子を見守る。
体表の状態などの記録を取った後は、メスが胸部や頭蓋を通り、中身が露出していく。所員はそれらを観察し、何かの長さを測ったり、細々と何かを書き付けていた。
レンはもちろん、通常の人間の解剖も見たことはないので、どこが違っていて、どこが同じなのかもよく分からない。だが、ふと疑問を覚えて隣でついていてくれるエルジュに、声を潜めて問いかけた。
「あの……、骨とかってどうなってるんです?」
ただの小さな薄い刃物でしかないメスが頭蓋骨を割き、小さなハサミが肋骨を切断する様子は、素人目にも異様だ。
切れ味がすごくいい魔導具? いや、というよりも――
「なんか、すごく柔らかそうに見える、というか」
レンがそう言うと、エルジュが頷いて答える。
「その通りです。羽化前の肉体は、平常時より脆く壊れやすい。骨も羽化寸前まで、殆ど強度がないんですよ」
「へぇ……」
蝶の民はあらためて不思議な生態をしているな、と思う。
彼らの羽化を「生まれなおし」などとも表現することはあるが、母体の胎内で行われる肉体の形成とは、まるで違うもののようだ。
その時、鉗子の一本が所員の手から滑り落ち、カシャンッと耳障りな音を立てて床にぶつかった。
「っ!?」
その音と同時に、後ろから手を掴まれて、レンはビクッと肩を跳ねさせた。
「いっ、……ファル?」
強い力で掴まれ、小さく呻きながら背後を振り返る。
俯いた彼の顔を覗き込む。
「ファル……?」
顔色が先程よりも悪い。瞳孔が開いていて、焦点が合っていなかった。
なのに、手を掴む力だけは強く、まるで……助けを求めているようだと感じてしまう。
レンはきゅっと唇を噛むと、顔を上げた。
「すみません。俺たち、少し外の空気を吸ってきます」
ファルの手を引いて、部屋を出る。
どうしてここにファルを連れてきてしまったんだろう。
そんな後悔をしながら。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 13
レンたちは研究所の奥へ奥へと向かうエルジュの後をひたすら追っていた。
初日の案内では訪れなかった区画で、薬品のような何かの臭いがする。
渡されたマスクと髪を覆う帽子とを身に付け、そこに白衣を纏ったエルジュについて、ようやく解剖室へと辿り着く。
「戻りました」
そう声をかけて入室したエルジュに続き、レンはそろりと中へ足を踏み入れる。
「っ……」
マスク越しにも感じた臭気に息を飲む。腐臭にような、それでいて微かに甘みのある――嗅いだことのない臭いだった。
「これ……」
「羽化に失敗した繭の、中身の臭いです」
エルジュが囁き声で説明をする。彼に、こちらへと促されて、部屋の中央へと足を向けた。
そこには人ひとりが乗りそうな台と、それを囲むように三人の所員がいた。
「……? 他のみんなは……」
レンの疑問に所員の一人が首を振った。どうやら、立ち合いをせずに帰ったようだ。
だが、台に乗せられた人物を見た時、レンは彼らの選択が正しい、と思ってしまった。
「――っ!」
思わず口元を手で覆って、飛び出しかけた悲鳴を飲み込んだ。
頭と、胴体は、確かに人のそれだ。そこだけ見れば眠っているだけのようにも見える。
しかし、その手足は――、途中で溶けて消えてしまったかのように無くなっている。右腕は肘まであるが、その先は筋肉と骨が剥き出しで、手首から先がない。左腕は肩の付け根から存在せず、右足は膝まであるものの、中の骨や肉が未形成なのか、重力に従って半液状のように広がっている。左足は足首から先が無かった。
「繭の中では、生命維持器官以外が溶ます。そして、再び肉体が形成される際は、脳や内臓といった場所から再構築されるんです」
「ああ、だから手足が……」
人間の肉体にとって重要な器官から再構成され、その後に四肢が形成される。だから、その過程で死んでしまった蝶の民は、このような状態になるのだろう。
「――では、はじめましょうか」
所員の一人が口を開き、黙祷をはじめる。レンもそれに続いて、目を閉じた。
暫しの沈黙が過ぎレンが目を開くと、台の傍にいた人々もぱらぱらと動きはじめていた。
手術で使うようなメスと鉗子、それからハサミのようなものが主な道具のようだ。
レンは邪魔をしないように一歩離れて、解剖の様子を見守る。
体表の状態などの記録を取った後は、メスが胸部や頭蓋を通り、中身が露出していく。所員はそれらを観察し、何かの長さを測ったり、細々と何かを書き付けていた。
レンはもちろん、通常の人間の解剖も見たことはないので、どこが違っていて、どこが同じなのかもよく分からない。だが、ふと疑問を覚えて隣でついていてくれるエルジュに、声を潜めて問いかけた。
「あの……、骨とかってどうなってるんです?」
ただの小さな薄い刃物でしかないメスが頭蓋骨を割き、小さなハサミが肋骨を切断する様子は、素人目にも異様だ。
切れ味がすごくいい魔導具? いや、というよりも――
「なんか、すごく柔らかそうに見える、というか」
レンがそう言うと、エルジュが頷いて答える。
「その通りです。羽化前の肉体は、平常時より脆く壊れやすい。骨も羽化寸前まで、殆ど強度がないんですよ」
「へぇ……」
蝶の民はあらためて不思議な生態をしているな、と思う。
彼らの羽化を「生まれなおし」などとも表現することはあるが、母体の胎内で行われる肉体の形成とは、まるで違うもののようだ。
その時、鉗子の一本が所員の手から滑り落ち、カシャンッと耳障りな音を立てて床にぶつかった。
「っ!?」
その音と同時に、後ろから手を掴まれて、レンはビクッと肩を跳ねさせた。
「いっ、……ファル?」
強い力で掴まれ、小さく呻きながら背後を振り返る。
俯いた彼の顔を覗き込む。
「ファル……?」
顔色が先程よりも悪い。瞳孔が開いていて、焦点が合っていなかった。
なのに、手を掴む力だけは強く、まるで……助けを求めているようだと感じてしまう。
レンはきゅっと唇を噛むと、顔を上げた。
「すみません。俺たち、少し外の空気を吸ってきます」
ファルの手を引いて、部屋を出る。
どうしてここにファルを連れてきてしまったんだろう。
そんな後悔をしながら。
2026/02/03 00:09:37
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 12
レンたちは羽化した少年を医師へと引き継いだ後、ようやく外へと出た。
一時は生存も危ぶまれた少年だったが、今のところ大きな問題もないようだった。正確なところはこれからはっきりするだろが、エルジュによると、身体に機能面の障害が発生しているならば、既に分かる形で出ていることが多いらしい。
つまり、ひとまずは安心して良いとのことで、レンもファルもほっとしていた。
少年の家を出たあと、エルジュがすぐに通信用の魔導具で研究所と連絡を取りはじめた。小型の通信装置はまだまだ高価なものなのだが、こういった不測の事態に備えて、外回りの際には携帯を義務化されているようだった。
「――ええ、はい。彼は無事……、はい。はい……、え?」
エルジュの視線がこちらを向き、レンとファルは顔を見合わせる。
程なくして通信を終わらせたエルジュに、レンが問いかけた。
「あの、何かありましたか?」
「ええ……。……先程、研究所にてお預かりしていた繭が一人、亡くなられました」
「――っ!」
蝶の民にも、遺伝病のようなものと言えばいいのか、家系的に羽化時に問題が発生しやすい血筋の者がいるらしい。そういった人々の中には生存率を上げるために研究所内での経過観察を望む場合があるという。そんな幾人かの内の一人が亡くなった、という報告だった。
レンたちが言葉を失っていると、エルジュが静かに口を開いた。
「魔素の影響なのか……、こういった異常が同時に発生することは稀にあります。先程の彼は助けられましたが――、手を尽くしても力が及ばないこともあるのが現実です」
エルジュは通信の魔導具を鞄にしまってから、レンたちを順に見た。
「これから、死亡した被験者の解剖が行われます」
隣でファルがひゅっと息を飲んだ。
「レン、貴方は入所を希望していましたね?」
「は、はい」
「所長が体験入所者の立ち合いを許可しています。今後、貴方が研究者の道を進むのならば、見ておくべきかと」
「――はい」
羽化できずに死んでしまった被験者を見る――。そのことに、恐怖を感じないわけではなかった。
だが、エルジュの言う通りだ。目を逸らすべきではない。
レンがしっかりと頷くと、エルジュが頷き返してから、今度はファルの方を見た。
「ファル」
「…………はい」
彼は見るからに青褪めていて、顔色が悪かった。
「これは、体験入所のプログラムには含まれていません。立ち合いを希望しないのであれば、ここで帰っても何も問題ありませんよ。……どうしますか」
「ファル……」
レンの名を呼ぶ声も聞こえていないのか、ファルは青い顔のままエルジュを見ていた。
このまま帰った方がいいのではないか。
レンはそう思ったが、ファルは不意にぎゅっと目を閉じて息をはくと、再び顔を上げた。
「……行きます」
エルジュの目が少しだけ見開かれる。彼もレンと同じく、帰宅を選択すると予測していたのだろう。
だが、ファルの覚悟をした目を見て、二度は聞かなかった。
「わかりました。では二人とも、戻りましょう」
足早に研究所への道を戻るエルジュの後を追う。
レンはファルに何も声をかけられぬまま、無言で歩を進めるのだった。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 12
レンたちは羽化した少年を医師へと引き継いだ後、ようやく外へと出た。
一時は生存も危ぶまれた少年だったが、今のところ大きな問題もないようだった。正確なところはこれからはっきりするだろが、エルジュによると、身体に機能面の障害が発生しているならば、既に分かる形で出ていることが多いらしい。
つまり、ひとまずは安心して良いとのことで、レンもファルもほっとしていた。
少年の家を出たあと、エルジュがすぐに通信用の魔導具で研究所と連絡を取りはじめた。小型の通信装置はまだまだ高価なものなのだが、こういった不測の事態に備えて、外回りの際には携帯を義務化されているようだった。
「――ええ、はい。彼は無事……、はい。はい……、え?」
エルジュの視線がこちらを向き、レンとファルは顔を見合わせる。
程なくして通信を終わらせたエルジュに、レンが問いかけた。
「あの、何かありましたか?」
「ええ……。……先程、研究所にてお預かりしていた繭が一人、亡くなられました」
「――っ!」
蝶の民にも、遺伝病のようなものと言えばいいのか、家系的に羽化時に問題が発生しやすい血筋の者がいるらしい。そういった人々の中には生存率を上げるために研究所内での経過観察を望む場合があるという。そんな幾人かの内の一人が亡くなった、という報告だった。
レンたちが言葉を失っていると、エルジュが静かに口を開いた。
「魔素の影響なのか……、こういった異常が同時に発生することは稀にあります。先程の彼は助けられましたが――、手を尽くしても力が及ばないこともあるのが現実です」
エルジュは通信の魔導具を鞄にしまってから、レンたちを順に見た。
「これから、死亡した被験者の解剖が行われます」
隣でファルがひゅっと息を飲んだ。
「レン、貴方は入所を希望していましたね?」
「は、はい」
「所長が体験入所者の立ち合いを許可しています。今後、貴方が研究者の道を進むのならば、見ておくべきかと」
「――はい」
羽化できずに死んでしまった被験者を見る――。そのことに、恐怖を感じないわけではなかった。
だが、エルジュの言う通りだ。目を逸らすべきではない。
レンがしっかりと頷くと、エルジュが頷き返してから、今度はファルの方を見た。
「ファル」
「…………はい」
彼は見るからに青褪めていて、顔色が悪かった。
「これは、体験入所のプログラムには含まれていません。立ち合いを希望しないのであれば、ここで帰っても何も問題ありませんよ。……どうしますか」
「ファル……」
レンの名を呼ぶ声も聞こえていないのか、ファルは青い顔のままエルジュを見ていた。
このまま帰った方がいいのではないか。
レンはそう思ったが、ファルは不意にぎゅっと目を閉じて息をはくと、再び顔を上げた。
「……行きます」
エルジュの目が少しだけ見開かれる。彼もレンと同じく、帰宅を選択すると予測していたのだろう。
だが、ファルの覚悟をした目を見て、二度は聞かなかった。
「わかりました。では二人とも、戻りましょう」
足早に研究所への道を戻るエルジュの後を追う。
レンはファルに何も声をかけられぬまま、無言で歩を進めるのだった。
2026/02/03 00:08:19
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 11
あの後、ファルと再び込み入った話をする間もないまま、夜が明ける。
この日も、前日とは別の被験者の元へ行くことになっており、ファルと二人エルジュの後を追って、現場へと向かった。
昨日はかなり安定している被験者だったが、今日訪ねるのは経過観察に注意を払わねばならない対象だそうだった。
とはいっても、研究所の所員でもない部外者を連れていけるくらいなので、差し迫った何かは無い――と、聞かされていた。
しかし。
被験者宅に辿り着いた時、エルジュがドアベルを押すよりも早く、その扉が内側から開いた。
「――エルジュさん! 丁度良かった、今研究所に連絡しようと……!」
開け放たれた玄関から現れた男性は、エルジュの姿に余程安堵したのか、涙目になっている。
そんな男の様子に、表情を引き締めたのはエルジュだ。
「何がありました」
「繭が……、息子の繭が、黒く――!」
息を飲んだエルジュは、慌てて家の中へと駆けていく。
レンたちも逡巡したものの、玄関先に突っ立っていても仕方がないと、彼の後を追った。
廊下を幾度か曲がり、部屋へ入る。
そこには、立ち竦むエルジュと――繭があった。
だが、昨日見たものとはまるで違う。
輝くほど真っ白だった繭とは似ても似つかぬほど、そこにあるのは、ダークグレーに黒ずんでいる。心なしか表面もごわついて見えた。
「こんな、急に……」
呆然とエルジュが呟く。
「――っ、レン、ファル」
振り向いたエルジュが、レンたちの名を呼んだ。
「貴方たち、魔法は?」
「つ、使えます」
レンが答え、ファルも隣で頷いている。
「ならば魔素の操作もできますね。来てください、彼を羽化させます」
「えっ!?」
思わず声を上げたのはレンだけだったが、ファルも驚愕に目を見開いていた。
「で、でも、外から強制的に羽化させるなんて……」
繭に近付くエルジュの背に問いかけると、彼は立ち止まって振り返る。そして、シャツのカフスボタンを外し、袖を捲った。
「やらねば、彼がそのまま死ぬだけです」
それだけ言うと、またレンたちに背を向けて、繭の方へ向かった。
蛹期の蝶の民は非常に繊細――。それを承知の上で外圧をかけるなど、普通ならあり得ない。
だがエルジュが言うのだから、このまま放置しても中の人間が死んでしまうだけなのだろう。
それを分かっていても、足が竦んで動かない。
その時、隣からぽんと肩に手が乗せられる。
「……ファル」
「やろう。僕たちしかいないんだ」
そんなことを言うファルの手は、小刻みに震えていた。
当然だ。彼は助けるためでない繭へ手を加える様を、間近で見ている。
自分よりも余程、怖いはずだ。
「――そうだな。俺たちがやらなきゃな」
レンはファルの震える手に、自分のそれを重ねて笑った。
「何をすればいいですか!」
二人で繭に近付きながら、エルジュに問いかける。
彼は少しほっとしたように表情を緩めて、繭を指差した。
「まず、揺らさないように手を当てて。それから、魔法を使う時の要領で、中に魔素を流してください」
頷いて指示に従い、黒ずんだ繭に手を当てる。
やはり、昨日のものよりごわごわとしていて、生気が薄い気がした。
「――その後はどうすれば?」
おそるおそる魔素を流しはじめながら問いかける。
「暫くそのままで。これは蛹期の経過を強制的に早める行為です。一定程度魔素を吸収すれば羽化が――、はじまりましたね」
エルジュが手を離したのに合わせて、レンとファルも繭から手を離す。
程なくして、パリパリという小さな音と共に、繭にヒビが入る。そして、繭が裂けはじめると同時に、天井に張り付いていた糸が少しずつ剥がれて繭が床にゆっくり着地する。
そこまで見届けたエルジュは、安堵の息をついてレンたちに手を振った。
「もう大丈夫です。少し離れてあげて」
「は、はい」
繭の裂け目が大きくなる。
そして、中からのそりと一人の青年が身体を起こした。
彼が不思議そうに目を瞬かせると、エルジュがゆっくりと近付いて片膝をついた。
「羽化おめでとう。身体の調子はいかがですか?」
「……えっと」
ポツポツと青年がエルジュの質問に答えるのを横目に、レンは隣に立つファルの様子を窺った。
「――ファル」
「あ……」
青白い顔をした彼の手を、暖めるように両手で握りしめる。
「もう終わった。あの子も元気だよ」
「…………うん」
ファルは力が抜けたように、レンの肩に頭を預けて息をついた。
そんな彼の頭をよしよしと撫でて、レンもようやく一息ついたのだった。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 11
あの後、ファルと再び込み入った話をする間もないまま、夜が明ける。
この日も、前日とは別の被験者の元へ行くことになっており、ファルと二人エルジュの後を追って、現場へと向かった。
昨日はかなり安定している被験者だったが、今日訪ねるのは経過観察に注意を払わねばならない対象だそうだった。
とはいっても、研究所の所員でもない部外者を連れていけるくらいなので、差し迫った何かは無い――と、聞かされていた。
しかし。
被験者宅に辿り着いた時、エルジュがドアベルを押すよりも早く、その扉が内側から開いた。
「――エルジュさん! 丁度良かった、今研究所に連絡しようと……!」
開け放たれた玄関から現れた男性は、エルジュの姿に余程安堵したのか、涙目になっている。
そんな男の様子に、表情を引き締めたのはエルジュだ。
「何がありました」
「繭が……、息子の繭が、黒く――!」
息を飲んだエルジュは、慌てて家の中へと駆けていく。
レンたちも逡巡したものの、玄関先に突っ立っていても仕方がないと、彼の後を追った。
廊下を幾度か曲がり、部屋へ入る。
そこには、立ち竦むエルジュと――繭があった。
だが、昨日見たものとはまるで違う。
輝くほど真っ白だった繭とは似ても似つかぬほど、そこにあるのは、ダークグレーに黒ずんでいる。心なしか表面もごわついて見えた。
「こんな、急に……」
呆然とエルジュが呟く。
「――っ、レン、ファル」
振り向いたエルジュが、レンたちの名を呼んだ。
「貴方たち、魔法は?」
「つ、使えます」
レンが答え、ファルも隣で頷いている。
「ならば魔素の操作もできますね。来てください、彼を羽化させます」
「えっ!?」
思わず声を上げたのはレンだけだったが、ファルも驚愕に目を見開いていた。
「で、でも、外から強制的に羽化させるなんて……」
繭に近付くエルジュの背に問いかけると、彼は立ち止まって振り返る。そして、シャツのカフスボタンを外し、袖を捲った。
「やらねば、彼がそのまま死ぬだけです」
それだけ言うと、またレンたちに背を向けて、繭の方へ向かった。
蛹期の蝶の民は非常に繊細――。それを承知の上で外圧をかけるなど、普通ならあり得ない。
だがエルジュが言うのだから、このまま放置しても中の人間が死んでしまうだけなのだろう。
それを分かっていても、足が竦んで動かない。
その時、隣からぽんと肩に手が乗せられる。
「……ファル」
「やろう。僕たちしかいないんだ」
そんなことを言うファルの手は、小刻みに震えていた。
当然だ。彼は助けるためでない繭へ手を加える様を、間近で見ている。
自分よりも余程、怖いはずだ。
「――そうだな。俺たちがやらなきゃな」
レンはファルの震える手に、自分のそれを重ねて笑った。
「何をすればいいですか!」
二人で繭に近付きながら、エルジュに問いかける。
彼は少しほっとしたように表情を緩めて、繭を指差した。
「まず、揺らさないように手を当てて。それから、魔法を使う時の要領で、中に魔素を流してください」
頷いて指示に従い、黒ずんだ繭に手を当てる。
やはり、昨日のものよりごわごわとしていて、生気が薄い気がした。
「――その後はどうすれば?」
おそるおそる魔素を流しはじめながら問いかける。
「暫くそのままで。これは蛹期の経過を強制的に早める行為です。一定程度魔素を吸収すれば羽化が――、はじまりましたね」
エルジュが手を離したのに合わせて、レンとファルも繭から手を離す。
程なくして、パリパリという小さな音と共に、繭にヒビが入る。そして、繭が裂けはじめると同時に、天井に張り付いていた糸が少しずつ剥がれて繭が床にゆっくり着地する。
そこまで見届けたエルジュは、安堵の息をついてレンたちに手を振った。
「もう大丈夫です。少し離れてあげて」
「は、はい」
繭の裂け目が大きくなる。
そして、中からのそりと一人の青年が身体を起こした。
彼が不思議そうに目を瞬かせると、エルジュがゆっくりと近付いて片膝をついた。
「羽化おめでとう。身体の調子はいかがですか?」
「……えっと」
ポツポツと青年がエルジュの質問に答えるのを横目に、レンは隣に立つファルの様子を窺った。
「――ファル」
「あ……」
青白い顔をした彼の手を、暖めるように両手で握りしめる。
「もう終わった。あの子も元気だよ」
「…………うん」
ファルは力が抜けたように、レンの肩に頭を預けて息をついた。
そんな彼の頭をよしよしと撫でて、レンもようやく一息ついたのだった。
2026/02/01 14:53:15
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 10
研究所に戻ったレンとファルは、他の参加者の戻りを待ちながら、体験入所の日報を纏めていた。
「やばい、紙足りないんだけど」
「ぶふっ……」
次第に狭くなっていく自由記述欄にレンが呟くと、ファルが吹き出して肩を震わせる。
「わ、笑うなよぉ……」
「いいじゃないか。『以下、別紙』で続き書けば」
半笑いのままの提案に、「それしかないか」と考えつつ、手元は止まったままのファルの様子を窺う。
「……な、やっぱキツかった?」
主語のない問いに、ファルがこてと首を傾げた。だが、暫くして何についての問いなのか理解したらしく、一転して呆れ顔を浮かべた。
「そういうんじゃない、って言っただろ」
「でも」
「本当に違うから。ただ――」
ファルは一度言葉を切ると、周囲を気にするように視線を巡らせて、レン以外誰もいないのを確認すると、声を潜めて続けた。
「『普通の繭』はあんなに綺麗なんだな、っていうのと――。あと、僕は『普通』じゃないからな……。本当に羽化できるのか、って」
「ファル……」
レンは何と返してよいか分からず、思わず黙ってしまう。
彼が見てきたのであろう「普通ではない繭」とは、一体どんなものだったのだろうか。そして、それらを間近で見ていざるを得なかった幼少期のファルはどれほど――。
軽々しく慰めを口にすることもできずにいると、俄に部屋の外が騒がしくなった。
「みんな戻ってきたみたいだな」
「……だな」
何事もなかったかのように言うファルに、レンはぎこちない笑みを返す。
これ以上の話をここでするわけにはいかない。
日報に目を落としたファルに倣うように、レンも手元を見る。
だが、集中などできるはずもなく、ペンを持つ手は一向に動いてくれなかった。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 10
研究所に戻ったレンとファルは、他の参加者の戻りを待ちながら、体験入所の日報を纏めていた。
「やばい、紙足りないんだけど」
「ぶふっ……」
次第に狭くなっていく自由記述欄にレンが呟くと、ファルが吹き出して肩を震わせる。
「わ、笑うなよぉ……」
「いいじゃないか。『以下、別紙』で続き書けば」
半笑いのままの提案に、「それしかないか」と考えつつ、手元は止まったままのファルの様子を窺う。
「……な、やっぱキツかった?」
主語のない問いに、ファルがこてと首を傾げた。だが、暫くして何についての問いなのか理解したらしく、一転して呆れ顔を浮かべた。
「そういうんじゃない、って言っただろ」
「でも」
「本当に違うから。ただ――」
ファルは一度言葉を切ると、周囲を気にするように視線を巡らせて、レン以外誰もいないのを確認すると、声を潜めて続けた。
「『普通の繭』はあんなに綺麗なんだな、っていうのと――。あと、僕は『普通』じゃないからな……。本当に羽化できるのか、って」
「ファル……」
レンは何と返してよいか分からず、思わず黙ってしまう。
彼が見てきたのであろう「普通ではない繭」とは、一体どんなものだったのだろうか。そして、それらを間近で見ていざるを得なかった幼少期のファルはどれほど――。
軽々しく慰めを口にすることもできずにいると、俄に部屋の外が騒がしくなった。
「みんな戻ってきたみたいだな」
「……だな」
何事もなかったかのように言うファルに、レンはぎこちない笑みを返す。
これ以上の話をここでするわけにはいかない。
日報に目を落としたファルに倣うように、レンも手元を見る。
だが、集中などできるはずもなく、ペンを持つ手は一向に動いてくれなかった。
2026/02/01 14:51:46
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 9
被験者宅での実習が終わり、レンたちは研究所への帰途についていた。
主にはエルジュの作業を見守っていただけではあるが、レンは上機嫌のままるんるんと歩く。
蛹化した蝶の民は非常に繊細ゆえに、外部から中の状況を知る方法も限られている。
主には繭の表面を微量に採取して、薬品と反応させることで、羽化までの期間が順調か判別している。
今回エルジュに見せてもらったものもそれで、繭の破片を入れた蒸留水に、試薬を入れると鮮やかな菫色に変わったのには感動した。
基本的には蛹期の初期は青、羽化直前には赤へと変わるらしい。
今回現れた菫色は、この時期としては一般的な色であり、順調に羽化への道のりを辿っているという証だ。
「――けど、ほんと不思議だよなぁ。繭表面から、中の状況が分かるなんて」
レンはファルと並んで歩きながら、半ば独り言のように呟いた。
それに反応したのは意外にもエルジュで、半歩前を歩いていた彼は、ちらと振り返って口を開く。
「そうでもないですよ。あの繭自体も、蝶の民が生み出したものですから。繭を含めた全てが、一つの生命と考えることもできます」
「なるほど……。でも繭って、羽化後は肉体に再度取り込まれませんよね?」
羽化後に不要となるものが「生命の一部」なのか、と疑問を返すと、エルジュは難しい顔をしながらも頷いた。
「もちろん考え方はそれぞれですし、諸説あります。ですが、人体でも同じことは言えますよ」
彼はレンの頭を指差した。
「例えば髪。生え変わり、抜け落ちた後の人毛を『生命』とは思えずとも、肉体の一部となっている今はどうですか?」
「…………。たしかに!!」
新たな知見にハッとして声を上げる。エルジュが微笑ましいものを見るような目で、ほんの少しだけ目を細めた。
「ファル、貴方はどうでしたか。口数が少なかったように思いますが」
問われたファルは、どこかぼんやりとした様子で顔を上げた。その姿に、レンも今更ながら心配になる。
目の前のことに集中しすぎて、ファルの存在がすっかり意識の外に追いやられていたことを反省しながら、彼の顔を覗き込んだ。
「なんかごめん、俺ばっか楽しんじゃって」
「……いや、そういうんじゃなくて」
ファルは言葉に迷うように、二度、三度と口を開け閉めしたあと、続きを呟いた。
「僕はまだ……、二十三にもなって蛹になる気配もないから、その……、今日の彼のように…本当になれるのか、と……」
ファルの言う通り、二十歳を超えていまだに蛹化の兆しがないのは、かなり遅い部類だ。
だがエルジュは事も無げに肩を竦めた。
「確かに平均よりは遅い、と言わざるを得ませんが。それでも個人差があります。三十代になって羽化した例もありますからね。気にしすぎないことです」
「…………はい」
ファルは、慰めの言葉に薄く笑みを浮かべた。
だがそこに、拭いきれない不安を見て、レンは落ち着かない気持ちになっていた。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 9
被験者宅での実習が終わり、レンたちは研究所への帰途についていた。
主にはエルジュの作業を見守っていただけではあるが、レンは上機嫌のままるんるんと歩く。
蛹化した蝶の民は非常に繊細ゆえに、外部から中の状況を知る方法も限られている。
主には繭の表面を微量に採取して、薬品と反応させることで、羽化までの期間が順調か判別している。
今回エルジュに見せてもらったものもそれで、繭の破片を入れた蒸留水に、試薬を入れると鮮やかな菫色に変わったのには感動した。
基本的には蛹期の初期は青、羽化直前には赤へと変わるらしい。
今回現れた菫色は、この時期としては一般的な色であり、順調に羽化への道のりを辿っているという証だ。
「――けど、ほんと不思議だよなぁ。繭表面から、中の状況が分かるなんて」
レンはファルと並んで歩きながら、半ば独り言のように呟いた。
それに反応したのは意外にもエルジュで、半歩前を歩いていた彼は、ちらと振り返って口を開く。
「そうでもないですよ。あの繭自体も、蝶の民が生み出したものですから。繭を含めた全てが、一つの生命と考えることもできます」
「なるほど……。でも繭って、羽化後は肉体に再度取り込まれませんよね?」
羽化後に不要となるものが「生命の一部」なのか、と疑問を返すと、エルジュは難しい顔をしながらも頷いた。
「もちろん考え方はそれぞれですし、諸説あります。ですが、人体でも同じことは言えますよ」
彼はレンの頭を指差した。
「例えば髪。生え変わり、抜け落ちた後の人毛を『生命』とは思えずとも、肉体の一部となっている今はどうですか?」
「…………。たしかに!!」
新たな知見にハッとして声を上げる。エルジュが微笑ましいものを見るような目で、ほんの少しだけ目を細めた。
「ファル、貴方はどうでしたか。口数が少なかったように思いますが」
問われたファルは、どこかぼんやりとした様子で顔を上げた。その姿に、レンも今更ながら心配になる。
目の前のことに集中しすぎて、ファルの存在がすっかり意識の外に追いやられていたことを反省しながら、彼の顔を覗き込んだ。
「なんかごめん、俺ばっか楽しんじゃって」
「……いや、そういうんじゃなくて」
ファルは言葉に迷うように、二度、三度と口を開け閉めしたあと、続きを呟いた。
「僕はまだ……、二十三にもなって蛹になる気配もないから、その……、今日の彼のように…本当になれるのか、と……」
ファルの言う通り、二十歳を超えていまだに蛹化の兆しがないのは、かなり遅い部類だ。
だがエルジュは事も無げに肩を竦めた。
「確かに平均よりは遅い、と言わざるを得ませんが。それでも個人差があります。三十代になって羽化した例もありますからね。気にしすぎないことです」
「…………はい」
ファルは、慰めの言葉に薄く笑みを浮かべた。
だがそこに、拭いきれない不安を見て、レンは落ち着かない気持ちになっていた。
2026/02/01 14:50:49
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 8
「わぁ……」
レンは目の前の光景に感嘆の声を漏らした。
そこには、輝くような白い色をした大きな繭がある。
部屋の一角に、粘性の糸で天井と床が繋がれ、宙に浮くようにそれがあった。
家族全員、ただの人――蝶の民ではないレンは、繭を見ること自体初めてだ。
「すっげぇ、綺麗……」
本に載っている写真でしか見たことのなかったそれは、実際に見てみると迫力がまるで違う。
人一人が入っているのだから当然だが、繭は思っていたよりも大きく、表面には艶めくような輝きがある。
同級生たちが蛹期に入り、羽化して戻ってくるのを見るたび、その煌めきを纏うような変化に目を奪われたものだ。この繭があの変貌をもたらすのは、どこか納得だった。
中にいるのは、今年十六になる少年だそうだ。蛹化してから約二ヶ月。肉体は溶けており、再構築がはじまるよりは前の、まさに生まれ変わる途中の時期である。
つい手を伸ばしたくなって、ハッとして引っ込める。だが我慢できずに、背後で様子を見守る少年の母を見る。
「あ、あの、あの! さわっちゃ……、だめ、ですよね……?」
彼女はぱちりと目を瞬かせると、エルジュの方を向いた。
その視線を受けて、鞄から筆記具を取り出していたエルジュは、はあ、と大きな溜息をついた。
「絶対に、揺らさないなら……問題はないですよ」
レンは彼の返答にぱあっと顔を輝かせて、もう一度少年の母を見る。
彼女も苦笑して頷くのを確認すると、ぐっと拳を握った。
「ありがとうございます!!」
深々と頭を下げたレンは、さっそく――と繭に向き直る。
そおっと指を近付けて、指先で触れる。
表面はサラサラとしていて、細い糸が幾重にも重なっているためか、遠目で見るよりもデコボコしている。
少し緊張が解けて、今度は手の平を当てた。
「…………あったかい……」
人の体温より少し低いが、同じ場所にずっと手の平を当てていると、じんわりとぬくもりが伝わってくる。
本当に生きてるんだな、と改めて実感しながらそっと繭を撫でる。
「……ありがとな。元気に出てくるんだぞ」
今彼が聞こえているのかは分からないが、少年に礼を言うと、レンはそっと手を離して、ゆっくりと数歩後退した。
ふと視線を感じて顔を上げると、エルジュがこちらを見ている。
「なんですか?」
「……いえ」
ふるりと首を振った彼は、眼鏡を押し上げて繭に向き直る。
その口元がうっすらと弧を描いていたが、レンはますます不思議に思って首を傾げるのだった。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 8
「わぁ……」
レンは目の前の光景に感嘆の声を漏らした。
そこには、輝くような白い色をした大きな繭がある。
部屋の一角に、粘性の糸で天井と床が繋がれ、宙に浮くようにそれがあった。
家族全員、ただの人――蝶の民ではないレンは、繭を見ること自体初めてだ。
「すっげぇ、綺麗……」
本に載っている写真でしか見たことのなかったそれは、実際に見てみると迫力がまるで違う。
人一人が入っているのだから当然だが、繭は思っていたよりも大きく、表面には艶めくような輝きがある。
同級生たちが蛹期に入り、羽化して戻ってくるのを見るたび、その煌めきを纏うような変化に目を奪われたものだ。この繭があの変貌をもたらすのは、どこか納得だった。
中にいるのは、今年十六になる少年だそうだ。蛹化してから約二ヶ月。肉体は溶けており、再構築がはじまるよりは前の、まさに生まれ変わる途中の時期である。
つい手を伸ばしたくなって、ハッとして引っ込める。だが我慢できずに、背後で様子を見守る少年の母を見る。
「あ、あの、あの! さわっちゃ……、だめ、ですよね……?」
彼女はぱちりと目を瞬かせると、エルジュの方を向いた。
その視線を受けて、鞄から筆記具を取り出していたエルジュは、はあ、と大きな溜息をついた。
「絶対に、揺らさないなら……問題はないですよ」
レンは彼の返答にぱあっと顔を輝かせて、もう一度少年の母を見る。
彼女も苦笑して頷くのを確認すると、ぐっと拳を握った。
「ありがとうございます!!」
深々と頭を下げたレンは、さっそく――と繭に向き直る。
そおっと指を近付けて、指先で触れる。
表面はサラサラとしていて、細い糸が幾重にも重なっているためか、遠目で見るよりもデコボコしている。
少し緊張が解けて、今度は手の平を当てた。
「…………あったかい……」
人の体温より少し低いが、同じ場所にずっと手の平を当てていると、じんわりとぬくもりが伝わってくる。
本当に生きてるんだな、と改めて実感しながらそっと繭を撫でる。
「……ありがとな。元気に出てくるんだぞ」
今彼が聞こえているのかは分からないが、少年に礼を言うと、レンはそっと手を離して、ゆっくりと数歩後退した。
ふと視線を感じて顔を上げると、エルジュがこちらを見ている。
「なんですか?」
「……いえ」
ふるりと首を振った彼は、眼鏡を押し上げて繭に向き直る。
その口元がうっすらと弧を描いていたが、レンはますます不思議に思って首を傾げるのだった。
2026/02/01 14:49:51
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 7
座学の日程はあっという間に過ぎていき――、三日後。
レンとファルを含む参加者たちは、研究所の前に集められていた。
「では、これから被験者の方の元へ向かいます」
エルジュの言葉に、緊張と不安で顔が強張っている者も多い中、レンは内心「やっとこの日が来た!」とガッツポーズをしていた。
三日間の講義が終了し、今日はいよいよ研究の被験者たちの元へ行くことになっている。
現在蛹期に入っている協力者たちの経過観察に同行させてもらう形だ。
蝶の民たちは蛹化すると、まず髪が一瞬で脱色する。それを合図に安全な場所を探したあと、そこで繭を形成するのだ。その繭に包まれている期間が蛹期と呼ばれ、約三ヶ月から半年間を繭の中で過ごす。
繭の中では、一度肉体が重要な生命維持器官を残して液状に溶け、その後身体が再構築されることで、羽化をする。
一般的に羽化した蝶の民は、髪色が変化し、容姿が整う。まさに、芋虫が蝶に変化するかのごとく、だ。
また、魔法の才に目覚めたり、運動能力が向上したり、とこちらは個人差が大きいものの、総じて身体機能の改善が発生しやすい。
ともかく、蛹期の蝶の民は、かなりデリケートなのだ。下手な刺激は中の人間を殺しかねないため、研究は細心の注意を払われている。
他国での非人道的な研究は、蝶の民に起こる肉体の再構築を人為的に行い、より望む肉体へと変化することを目的としている――らしい。
レンから言わせれば、自身の肉体強化ごときのために、この美しい生態を持つ蝶の民たちを殺したのかと、全く理解に苦しむ話だった。
一方、蝶の国での研究は、むしろ医療行為に近いものがある。
自然界での蝶の羽化が失敗することもあるように、蝶の民も羽化に失敗して死んでしまうことが稀にある。蝶の民研究は、そういった羽化の失敗率を下げ、より安全に、より健やかに、蝶の民が生きていくことを目的としていた。
今回同行する被験者の定期観察も、そういった羽化の失敗を回避するためのものだ。
被験者は、事前に本人の許可を得て観察させてもらっている対象も多いが、中には蛹期の序盤に異変が起こり、家族から助けを求められて、という場合もあるのだそうだ。
ちなみに今回向かうのは、前者の被験者だ。
五人いる体験入所者を三組に分け、それぞれ被験者の元へ向かう研究員についていくことになる。
レンはファルと二人、エルジュの組に入ることとなった。
他二班が出発し、レンたちも目的地へ足を向ける――が、その前に、エルジュがこちらを振り返った。
「レン、貴方はくれぐれも出先で、はしゃがないように」
そう釘を刺すと、彼は踵を返してしまう。
ぽかんとしたままのレンは、その背中をしばし見つめて、次いで同じく呆気に取られるファルの方を見た。
「……なんで、俺だけぇ?」
まあ、ファルは基本大人しいので、分からないでもないのだが……。
レンはどこか納得いかない顔で首を捻りながらも、慌ててエルジュの後を追ったのだった。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 7
座学の日程はあっという間に過ぎていき――、三日後。
レンとファルを含む参加者たちは、研究所の前に集められていた。
「では、これから被験者の方の元へ向かいます」
エルジュの言葉に、緊張と不安で顔が強張っている者も多い中、レンは内心「やっとこの日が来た!」とガッツポーズをしていた。
三日間の講義が終了し、今日はいよいよ研究の被験者たちの元へ行くことになっている。
現在蛹期に入っている協力者たちの経過観察に同行させてもらう形だ。
蝶の民たちは蛹化すると、まず髪が一瞬で脱色する。それを合図に安全な場所を探したあと、そこで繭を形成するのだ。その繭に包まれている期間が蛹期と呼ばれ、約三ヶ月から半年間を繭の中で過ごす。
繭の中では、一度肉体が重要な生命維持器官を残して液状に溶け、その後身体が再構築されることで、羽化をする。
一般的に羽化した蝶の民は、髪色が変化し、容姿が整う。まさに、芋虫が蝶に変化するかのごとく、だ。
また、魔法の才に目覚めたり、運動能力が向上したり、とこちらは個人差が大きいものの、総じて身体機能の改善が発生しやすい。
ともかく、蛹期の蝶の民は、かなりデリケートなのだ。下手な刺激は中の人間を殺しかねないため、研究は細心の注意を払われている。
他国での非人道的な研究は、蝶の民に起こる肉体の再構築を人為的に行い、より望む肉体へと変化することを目的としている――らしい。
レンから言わせれば、自身の肉体強化ごときのために、この美しい生態を持つ蝶の民たちを殺したのかと、全く理解に苦しむ話だった。
一方、蝶の国での研究は、むしろ医療行為に近いものがある。
自然界での蝶の羽化が失敗することもあるように、蝶の民も羽化に失敗して死んでしまうことが稀にある。蝶の民研究は、そういった羽化の失敗率を下げ、より安全に、より健やかに、蝶の民が生きていくことを目的としていた。
今回同行する被験者の定期観察も、そういった羽化の失敗を回避するためのものだ。
被験者は、事前に本人の許可を得て観察させてもらっている対象も多いが、中には蛹期の序盤に異変が起こり、家族から助けを求められて、という場合もあるのだそうだ。
ちなみに今回向かうのは、前者の被験者だ。
五人いる体験入所者を三組に分け、それぞれ被験者の元へ向かう研究員についていくことになる。
レンはファルと二人、エルジュの組に入ることとなった。
他二班が出発し、レンたちも目的地へ足を向ける――が、その前に、エルジュがこちらを振り返った。
「レン、貴方はくれぐれも出先で、はしゃがないように」
そう釘を刺すと、彼は踵を返してしまう。
ぽかんとしたままのレンは、その背中をしばし見つめて、次いで同じく呆気に取られるファルの方を見た。
「……なんで、俺だけぇ?」
まあ、ファルは基本大人しいので、分からないでもないのだが……。
レンはどこか納得いかない顔で首を捻りながらも、慌ててエルジュの後を追ったのだった。
2025/09/20 00:00:00
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 6
「どうだった?」
体験入所の初日。
夕刻になって解散となった後、ファルはレンと共に街の食堂で夕食をと取っていた。
選んだ定食を半分ほど食べた頃、投げかけられた問いに、ファルはカトラリーを持つ手を止めた。
「そう、だな……。意外と普通――、平気だった」
今日はそれほど深い部分に立ち入っていない、というのもあるだろうが、本当に想像していたよりもずっと平気だった。
素直に感想を告げると、レンはにぱっと笑って、フォークに刺したエビフライを口に入れる。
「そっかそっか、よかった。明日から来ないー、とか言われたらどうしようかと」
冗談めかして言われた言葉に、ふと笑ってレンに問い返す。
「そういうお前は? 実際行ってみて……、まあ、聞くまでもないか」
が、彼の顔を見れば一目瞭然だった。
レンは目を丸くして、自身の顔を両手で挟んだ
「え、そんなに顔に出てる?」
「誰が見ても」
肩を竦めて呆れたように言うと、レンはテレテレと頬を掻く。
「いや、でもほんと楽しかった! アカデミーの授業じゃ、あそこまで専門的なことは教えてくれねぇし、教授に聞きに行くにも限度があるだろ?」
レンは食事そっちのけで、昼間のことを思い出してかうっとりと目を閉じる。
「いやぁ、ほんとさぁ……。俺もあの一員になりてぇ~……、ってより思った!」
「ほんと、レンはブレないな」
出会ったときから、全く変わらない一途さに改めて驚かされる。自分にはそこまで熱量を込めてやりたいと思うことがないから、なおさらだった。
「本当に行ってよかったよ!」
好きなものに一直線に向かうレンが、とても眩しい。
いつか自分も、こんな風に思えるものに出逢うのだろうか――。
その光景が上手く描けずに、ファルはそのもやもやとしたものを飲み下すように、スプーンに乗ったオムライスを飲み込んだ。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 6
「どうだった?」
体験入所の初日。
夕刻になって解散となった後、ファルはレンと共に街の食堂で夕食をと取っていた。
選んだ定食を半分ほど食べた頃、投げかけられた問いに、ファルはカトラリーを持つ手を止めた。
「そう、だな……。意外と普通――、平気だった」
今日はそれほど深い部分に立ち入っていない、というのもあるだろうが、本当に想像していたよりもずっと平気だった。
素直に感想を告げると、レンはにぱっと笑って、フォークに刺したエビフライを口に入れる。
「そっかそっか、よかった。明日から来ないー、とか言われたらどうしようかと」
冗談めかして言われた言葉に、ふと笑ってレンに問い返す。
「そういうお前は? 実際行ってみて……、まあ、聞くまでもないか」
が、彼の顔を見れば一目瞭然だった。
レンは目を丸くして、自身の顔を両手で挟んだ
「え、そんなに顔に出てる?」
「誰が見ても」
肩を竦めて呆れたように言うと、レンはテレテレと頬を掻く。
「いや、でもほんと楽しかった! アカデミーの授業じゃ、あそこまで専門的なことは教えてくれねぇし、教授に聞きに行くにも限度があるだろ?」
レンは食事そっちのけで、昼間のことを思い出してかうっとりと目を閉じる。
「いやぁ、ほんとさぁ……。俺もあの一員になりてぇ~……、ってより思った!」
「ほんと、レンはブレないな」
出会ったときから、全く変わらない一途さに改めて驚かされる。自分にはそこまで熱量を込めてやりたいと思うことがないから、なおさらだった。
「本当に行ってよかったよ!」
好きなものに一直線に向かうレンが、とても眩しい。
いつか自分も、こんな風に思えるものに出逢うのだろうか――。
その光景が上手く描けずに、ファルはそのもやもやとしたものを飲み下すように、スプーンに乗ったオムライスを飲み込んだ。
2025/09/13 00:00:00
#夢見る少年と未羽化の蝶
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 5
「初めまして。今回、貴方がたの担当をさせていただく、エルジュと申します」
受付に指示された部屋で待つこと、暫く。
その部屋に現れた白衣の男は、そう言ってレンたちに頭を下げた。
ダークブルーの髪をきちんと撫で付けた、真面目そうな風情の彼は、頭を上げると眼鏡をカチャリと上げた。
エルジュに促され端から順に、名前と専攻を言うだけの簡単な自己紹介をしていく。
今回の体験入所の参加者は五人。元からの知り合い同士なのは、レンとファルだけらしい。後の三人は、蝶の民らしき男女が一人ずつと、レンと同じ只人の女が一人。地域的に同じアカデミーの同学年だと思われるが、誰とも面識はなかった。
「ありがとうございます。ではまず、研究所内の案内からはじめましょうか――」
自己紹介が終わった後は、所内の見学が行われた。
基本的にはエルジュの後ろをついて歩くだけだ。とはいっても、一般に公開しても問題のない範囲ばかりなのだろう。門前で「アカデミーと大して変わらない」と言ったが、本当にあまり変わらない。
それでも、蝶の民に関して真剣に議論する所員の姿を垣間見て、レンの心は浮き立っていた。
一通り案内が終了すると、昼休みを挟み、数日間は講義の予定だ。
研究へ協力してくれている被験者たちの元への同行も体験の中に含まれているため、心構えなども含めた基礎知識を授けてくれるようだ。
講義資料を受け取り、レンはわくわくが抑えきれないうきうき顔で、その資料のページを開く。
これからどんな事を知れるんだろう……!
そんな興奮の中、体験入所の幕は上がったのだった。
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 5
「初めまして。今回、貴方がたの担当をさせていただく、エルジュと申します」
受付に指示された部屋で待つこと、暫く。
その部屋に現れた白衣の男は、そう言ってレンたちに頭を下げた。
ダークブルーの髪をきちんと撫で付けた、真面目そうな風情の彼は、頭を上げると眼鏡をカチャリと上げた。
エルジュに促され端から順に、名前と専攻を言うだけの簡単な自己紹介をしていく。
今回の体験入所の参加者は五人。元からの知り合い同士なのは、レンとファルだけらしい。後の三人は、蝶の民らしき男女が一人ずつと、レンと同じ只人の女が一人。地域的に同じアカデミーの同学年だと思われるが、誰とも面識はなかった。
「ありがとうございます。ではまず、研究所内の案内からはじめましょうか――」
自己紹介が終わった後は、所内の見学が行われた。
基本的にはエルジュの後ろをついて歩くだけだ。とはいっても、一般に公開しても問題のない範囲ばかりなのだろう。門前で「アカデミーと大して変わらない」と言ったが、本当にあまり変わらない。
それでも、蝶の民に関して真剣に議論する所員の姿を垣間見て、レンの心は浮き立っていた。
一通り案内が終了すると、昼休みを挟み、数日間は講義の予定だ。
研究へ協力してくれている被験者たちの元への同行も体験の中に含まれているため、心構えなども含めた基礎知識を授けてくれるようだ。
講義資料を受け取り、レンはわくわくが抑えきれないうきうき顔で、その資料のページを開く。
これからどんな事を知れるんだろう……!
そんな興奮の中、体験入所の幕は上がったのだった。
2025/09/11 00:00:00
作品一覧
改稿版更新中
玉座の憧憬 本編:小説・男女恋愛
初稿更新終了
ツンデレ王子様の結婚事情:漫画(字コンテ)・BL
玉座の憧憬 アレイスト×セレンIF:小説・男女恋愛・バッドエンド・R18・本編読了後推奨
玉座の憧憬 ロウェル×アレイストIF:小説・BL・R18・本編読了後推奨
玉座の憧憬 アレイスト×セレンIF:小説・男女恋愛・バッドエンド・R18・本編読了後推奨
玉座の憧憬 ロウェル×アレイストIF:小説・BL・R18・本編読了後推奨
初稿更新中
改稿版完結
#夢見る少年と未羽化の蝶_二章 14
建物の外に出たレンは、座れる場所を探して視線を巡らせた。
丁度、裏手の方にベンチを発見して、ファルを座らせると自分も隣に座る。
黙って俯いたままのファルの背を、空いた手でそっと撫でる。
そうしていると、少しずつ握り締める力が緩んでくるのが分かった。
「……大丈夫か?」
そっと声をかけると、ようやく彼の顔がゆっくりと上げられて、こちらを向く。先程の虚ろな目で派なくなっていることにほっとしながら、レンは背を撫で続けた。
ファルはレンの言葉には答えず、すっと遠くの空を見る。
「――同じ、牢にいたおじさんだった」
唐突に話しはじめたファルの言葉を、レンは黙ったまま頷いて続きを促す。
「名前は知らない。あそこじゃ、番号で呼ばれるのが普通で……八十六って呼ばれてた人だった」
「……うん」
「優しい人でさ。僕も、大好きだった。でもある日、帰ってこなくなった」
ファルは坦々と続ける。
「一週間経って、二週間経って……。きっと殺されてしまったんだ、って諦めた。急に人が消えるのも、普通のことだったから」
言葉を切ったファルは、上げていた顔を伏せて続けた。
「その日、連れていかれた部屋で……、あの臭いがしたんだ」
レンは、背を撫でる手を思わず止めてしまった。
「そこには筋肉と骨が露出した『何か』があった。かろうじて大人の人間なのはわかったけど、表皮は全部溶けてて、誰かなんて分かったもんじゃない。――分からない方が、よかった……っ」
握られた手に、再度力が籠る。
レンはかける言葉が見つからないまま、ファルの叫びを聞くしかなかった。
「あの『肉塊』を、奴らは八十六番って呼んだんだ……!!」
指の骨が砕けるんじゃないか、と思うほど強い力で手が握り締められる。
痛かった。けれど、ファルの心を襲っているであろう痛みに比べれば、どれほどのものだろうかとも思う。
「……ファル」
背に回した手で彼の肩を引き寄せ抱きしめる。
「ごめんな」
軽い気持ちで彼の傷を抉るような場所に誘ってしまったことへの謝罪だった。
自身の肩に彼の頭を引き寄せて、そのまま髪を撫でる。
今できることが、これくらいしか思い浮かばなかったからだ。
ファルは空いた手をレンの背に回して、ぎゅっと縋りつくように服を掴んだ。
そして、ぽつりと言う。
「レンが謝ることじゃないだろ……」
「……そーだな」
それでも握り締められた手も、抱擁も、解かれることはなかった。