第一話エピローグ

 ユウリスは失意の底にいた。

 それを象徴するような暗い部屋で、ユウリスは昏々と眠るティリスの手を握っていた。


 あの日、目の前で散った赤は、ユウリスのものではなかった。

 振り返り、剣を掲げるラッセルとの間に、小柄な影が割って入った。それが何なのか、それが自身の胸に倒れてきて、それを支えきれずに尻餅をつく、その時までユウリスには分からなかった。

「………ティリス。」

 ユウリスは自身の呆然とする声で、ようやく、そこにいるのが、ティリスであることを理解した。

 ユウリスは彼女を抱きとめたまま、ただ彼女の背中に深く刻まれた傷から、血が溢れるのを見つめていた。

 なんだ、これは……

 脳が理解する事を拒否する。

 緩慢な動きで、彼女に触れ、その髪を梳き、そして溢れ出すその血が手に纏わりついた。

 生暖かいそれと、彼女の徐々に消えていく体温の対比が、急激にユウリスを現実に引き戻した。

 視界が明滅する。全身の血が沸騰するような、そんな気がして、だが、思考は何故だが凪のように静かだった。

 激しい怒りもそこにはない。

 ただ。

 ユウリスはティリスを優しく横たえ、そして、ふらりと立ち上がった。

 そして、目の前で兵に拘束されながら、高笑いをする男を視界にとらえた。

 奴を、殺さなければ。

 それは純然たる殺意だった。

 激しさも何もなく、ただ義務のように、ユウリスはその男に手を伸ばした。

 その手の平に、その殺意が渦巻いて、収束していく。

 そしてそれはあと一歩のところで、押しとどめられた。

 男に伸ばしたユウリスのその手に、華奢な女の手が重なる。渦巻いていた殺意が霧散した。

 その指を、手を、ユウリスは視線で辿った。

 そして、彼女の笑顔に焦点が定まる。

「てぃり、す……」

 ようやく我に返ったユウリスに安心するように、ティリスは微笑むと、ふらりとユウリスの胸に倒れこんだ。

「っ、ティリス!」

 今度はしっかりと彼女を抱きとめる。抱きとめられたティリスは、うっすらと目を開くと、ゆっくりその手を伸ばして、ユウリスの頬に触れた。

「だい、じょうぶ…ですよ。だって……、まだ、ユウリス様に、つたえたいこと…いっぱいあるん、です。だから…ね?」

 ユウリスはティリスが伸ばした手を握る。ティリスはそれに安心したように目を閉じた。

 その表情は、痛みなど感じているようには見えない、安心しきった顔だった。


 それから三日。

 ユウリスの施した治癒魔法により、一命をとりとめたティリスだったが、未だに彼女は目覚めようとしなかった。

 治癒魔法は、人の自己治癒力を高め、怪我などを素早く治す魔法だ。その為、大きな怪我を治せば、それだけ自然の理を歪める事となり、身体への反動も大きい。

 それ故の睡眠。

 それはユウリスも分かっているのだが、目覚めない日が続くごとに、不安は募ってゆく。

 このまま二度と、目を覚まさないのではないか、と。

「ティリス……。」

 三日間眠り続けるティリスとは対照的に、ユウリスはこの三日殆ど眠っていない。

 いや、眠る事が出来なかった。

 少しでも目を離せば、彼女が手の届かないところへと行ってしまうのではないかと、ユウリスはそんな恐怖に駆られて、まともに眠る事さえできない。暫しの間眠っても、すぐに飛び起きて彼女の呼吸を確認しなければ、気が済まなくなっていた。

 ユウリスはティリスの手を握ったまま、それを額につけ目を閉じた。

 はやく、目を覚ましてくれ。

「貴女がいなければ、もう私は生きてはゆけない……。」

 はやくその目を開けて、はやくその声で名前を呼んで―――

 そんな祈りにも似た気持ちが、天に届いたのだろうか。

 じっと目を閉じていたユウリスは、その両手から伝わった、彼女の指の微かな震えに、顔を撥ね上げた。

「ゆうりすさま……?」

 些かぼんやりとしているティリスは、ふわりと微笑んで、ユウリスの名前を呼んだ。その声に、ユウリスの視界は次第に滲んでいく。

 するとティリスは、気を失う前にしたように、その手をユウリスの頬に滑らせる。

「どうして、泣いてるんですか?」

 困ったように笑うティリスを見て、ついに堪えきれなくなった涙がユウリスの頬を伝った。

「ユウリスさま?」

 どうしたのと、こてんと首を傾げるティリスに、ユウリスは堪らなくなる。そしてユウリスは、ティリスの方へと手を伸ばすと、そっと抱き上げて、きつく抱きしめた。

「貴女が生きていて、よかった……」

 ティリスは思わぬ激しい抱擁に驚き、一瞬固まっていたが、その腕のぬくもりにほっと安心するように顔を緩めると、ユウリスの背に同じように腕をまわした。

 二人は互いの無事を確かめあうように、その腕を緩める事はなかった。




 そうしてティリスが目覚めた後、ようやく普段の生活に戻っていたユウリス達は、ラッセルが引き起こした様々な事件の後始末に追われていた。

 それも一段落した頃。

「お久しぶりですね。」

 ティリスのいた貴人牢とは違い、暗く陰気なその場所、その一角。独房の鍵が開けられ、その中へと足を踏み入れたロゼルは、その中にもう一枚ある鉄格子の向こうにいる人物に話しかけた。

「―――兄上。」

 乾いた声。

 ロゼルの口から、自身でも驚くほど無感情な声が出る。

 だが、目の前の兄はそんな事に気が付く様子もなく、ロゼルを見ると勢いよく立ち上がった。そして、すぐさまロゼルに近寄り、彼は鉄格子をがしゃんと握った。

「やっと来たのか、我が弟よ!!」

 たった数日で、みすぼらしいほどに痩せた男の目は、異様なほどギラついている。

「やっと?」

「そうだ! 私をここから出しに来たのだろう!」

 どうすればそんな風に思えるのか、ロゼルは心底不思議だった。王族とはいえ、王に叛意を向ければ重罪になる。そんな事、子供でも知っているのに。

「何故、そうお思いに?」

「何故? 何故だと? そんな事決まっている! あの女が死んだのだろう?!」

 至極愉快そうに騒ぐ彼は、狂ったように笑う。

「そうなのだろう! これで、ようやく私は王になる! あの偽りの女王を殺し、私が真の王に!!」

 笑い続ける兄を見つめ、ロゼルはその目が最早、現実を見ていない事を悟った。

 きっと、彼の中でこの暗い独房は、煌びやかな王宮。そして、その右手には王印が見えるのだろう。

 ロゼルはふいと視線を逸らし、彼に背を向けた。そして、そのままその独房を出ようとする。

「待て! どこへ行くのだ、弟よ! 私は王だ! ここから出さぬか!! そうすれば、お前を私の御代では高官にしてやるぞ! どうだ、嬉しかろう!」

 独房から出る直前、ロゼルはぴたりと足を止めた。そして、兄を振り返る。

「………さようなら、兄上。もう二度と、会う事も無いでしょう。」

 それだけ言うと、ロゼルは二度と振り返ることなく、その場を後にした。


 陰気な牢屋を抜け、外へ出る。薄暗い場所に慣れてしまった目には、外の光は眩しかった。

 ロゼルは小さく溜息を吐いた。

 兄は、あんなにも可哀相な人、だっただろうか……。

 ロゼルは決して兄の事が好きだったわけではない。権力などより、自由を愛するロゼルには、彼がどうしてあそこまで、王座に執着できるのか、終ぞ分からなかった。

 きっと、それは兄からロゼルに対しても思っている事ではあるだろうが。

 嫌いなわけではなかった。しかし、特段好きでもない。

 言わば、無関心。

 それが、ロゼルが兄に抱いていた思いだ。王宮を離れ、滅多と顔を合わせる事が無くなっても、今何をしているのかなど、ロゼルは気になったことすらない。

 それでも、彼は兄の性格を分かっていた。

 だから、いずれこうなる事を、ロゼルは予測していた。

 そうなった時、自分がどう思うのか。

 ロゼルとて考えた事が無かったわけではない。

 そしてその時きっと自分は、何も思わない。

 そうロゼルは思っていた。

 だが。

 ロゼルは、胸のあたりをぎゅっと握った。

「……意外と、平気じゃないものだね。」

 周囲には誰もいない。その言葉は、ロゼル以外の誰が聞くこともなく、空気に溶けていった。




 ロゼルが兄に会いに行った日の夜。アルノールは一人、屋敷でロゼルからの手紙を読んでいた。

 内容は勿論、ラッセルの事についてだ。

 ロゼルから手紙など、貰ったことのなかったアルノールは、手紙を読みはじめるまで、少々うきうきしていた事は否定できない。だが、読み進めるごとに、彼の表情は消えていった。

 全て読み終わった後アルノールは、ソファに深く身を沈めて、長い溜息を吐いた。

 ロゼルはすでにもう、ティリス達からの依頼である、肖像画の制作を終了させている。

 だが、御披露目はまだだから、と王宮に居座っていたのは、ラッセルについての情報を、アルノールに一早く届ける為だったらしい。

 こういう所はまめだな、とアルノールは、手紙を閉じながら思った。

 ラッセルの処遇は現在、宙に浮いた状態になっている。

 処刑か、それとも生涯幽閉か。

 議会も意見が真っ二つに割れ、そう簡単には判断がつけられなかった。その上、もう幾日もしないうちに、ティリスの即位五周年の祝賀行事があるため、どちらにせよ、今処刑はできないと、議論は止まっている。

 だがいずれにせよ、暫くラッセルは生かされるだろうと、アルノールは予想していた。

 リンデの件で割り出ださねばならない事があるからだ。

 追加派遣された魔導師達が無事リンデに到着し、現在順調に復興が進むリンデ地方。

 だが、一つ問題が残っている。

 彼の地から通信魔法を使った魔導師について、だ。

 失踪した魔導師達が、ラッセル所有の離宮から発見された事により、今回の騒動の主犯がラッセルであると判明した。故に、リンデに現れた魔導師も、おそらくはラッセルの手の者だろうとされている。

 もっとも、ロゼルが見た通り、現在ラッセルからまともな聴取が取れないため、調査は難航しているのだが。

 その魔導師の行方が掴めぬうちは、ラッセルもきっと無事だ。

 だが、もし見つかれば……。

 アルノールはソファに身体を預け、ぼんやりとしながら思考を巡らせる。

 もしその魔導師が見つかったとすれば、ラッセルの処刑は、きっと免れることが出来ないものだろう。アルノールはそう思っていた。

 ここからはアルノールの想像であるが、それは、その前にあった毒針の件が絡む。

 アルノールは、毒針を飛ばした魔導師と、リンデに現れた魔導師とは、同一人物だと考えていた。

 リンデに現れた、自称登録魔導師。結局その後の調べで、登録魔導師ですらない事が判明した。その魔導師の語った名前は、全くの別人のものだったのだ。

 魔法省に所属するでも、登録魔導師でもない、高位魔導師。もしそれが、ラッセル個人に雇われているならば、おかしな事ではない。そして、数の少ない高位魔導師が、ラッセルの周囲に二人もいるとは思えなかった。

 魔導師としての安定を考えるなら、わざわざ王位の簒奪を企む人物の傍にいる必要などないからだ。

 現在、その魔導師の行方を、王宮は総出で探している。だがそれでも、足取りさえ追えていない。

 アルノールは、すでに国外逃亡している事だろうと、当たりをつけている。そのため件の魔導師は、そう簡単には見つからないだろうとも。

 だがもし、その魔導師が捕まり、毒針の件も証言したならば。その時は、王と聖魔導師の命を狙ったと、ラッセルも極刑は免れない。

「トリシア……、君なら、どうする。」

 アルノールは遠く離れた場所にいるであろう妻を、想った。




 時の流れは速い。

 目を覚ました後のティリスは、あっという間に回復し、仕事に復帰した。そうしている間にも、ロゼルは仕事を完遂させ、ティリスの即位五周年の祝賀行事に向けた準備も着々と進んでいく。

 そして、あっという間にその日を迎えた。

 昼のパレードも終わり、夜は貴族達が集められ、盛大なパーティを。その中で、画家ロゼルの描いた、当代の王と聖魔導師の肖像がお披露目された。

 そうしている間にも夜は更け、騒ぎも一段落。

 ティリスとユウリスは二人、会場の隅の人気のないバルコニーで、グラスを合わせた。

「お疲れさまでした、ユウリス様。」

「ええ、お疲れ様です。ティリス。」

 カラランとぶつかったグラスが音を立て、二人はそれにそれぞれ口を付ける。少し甘めの程好いアルコールが、今日一日で溜まった疲れを、少し感じなくさせた。

「身体は大丈夫ですか?」

 二人での乾杯の後、間髪入れずティリスの身体を案じるユウリスに、ティリスは思わず笑った。

「ユウリス様ったら…、毎日聞きますね、それ。」

 というのも、ティリスが目を覚まして以降、殊更過保護になったユウリスは、顔を合わせるごとに、身体は大丈夫か、傷は痛まないか、とティリスに聞いていた。

 はじめは真剣に大丈夫です、と答えていたティリスだったが、仕事に復帰して十日を過ぎた辺りからは、呆れを通り越して笑ってしまうようになっていた。

「大丈夫ですよ。もう元気ですし、怪我だって…、ユウリス様が魔法で治してくださったから、目が覚めた時にはもう、痛みなんてなかったですよ?」

 毎日ティリスは、こうして言い聞かせているのだが、ユウリスは一向に納得した気配がない。怪我も治って痛みもなく、ティリス自身も気にしていない。だから、彼も忘れればよいのに、と思うティリスだが、そう簡単にはいかないらしかった。

 特に今日は、より酷いかも……。

 その原因を知っているティリスは、肩を竦めた。

 ユウリスが見つめるのは、ティリスの背中。

 ティリスは今日、意識して背中の開いたドレスばかり用意してもらった。だから、ティリスの白い肌が、よく見えた。

 そして、そこに刻まれた、大きな傷も。

 ユウリスが、この傷を見るたび、顔をわずかに歪ませるのを知っていて、ティリスはあえて今日、この服を選んだ。

 だが、ユウリスはそれを見て、悲しい顔をするばかりだ。

「痛みは消せても…、貴女の背には一生消えない傷が、残ってしまった……。」

 そう言って、ユウリスは苦しそうな顔をするのだ。ユウリスは、この傷がついてしまったのは、自分のせいだと、ずっと自分を責めている。

 だが、ティリス自身は、この傷をそこまで大事だとは思っていなかった。確かに、一般的な世の女性達にとって、普段は服で見えない背中と言えど、大きな傷がつくのは耐え難いものなのかもしれない、とティリスも思う。

 だが、ティリスにとって、この傷はそうではない。

「ユウリス様。私、この傷の事、とっても誇らしいのですよ。」

「え……?」

 驚くユウリスを見て、ティリスはふふっと笑った。

 そうだ。ティリスにとって、この傷は勲章なのだ。

「だってこれは、ユウリス様、貴方を守れた証ですもの!」

 それを愛おしく思わず、どう思うと言うのだろうか。

 だからティリスは、今日、この大勢の人々に見られる日に、背中の開いたドレスを着た。

 ティリスにとってこの傷は、隠したいものどころか、自慢してまわりたいくらいのものなのだと、そうユウリスに気付いてほしくて。

 はじめは呆気にとられた様子のユウリスだったが、ふっと表情が緩んだ。それを見て、ティリスも安堵する。

 今すぐは無理でも、きっと笑ってこの傷について話せる時が来る。

 ティリスはそう、確信した。

 もう、大丈夫。

「ユウリス様。」

 ティリスはユウリスに向き直り、彼ににっこり微笑む。そして彼の手をぎゅっと握った。

 色々ありすぎて、ずっと先延ばしになってしまった。本当は、牢を出たらすぐに言おうと思っていたのに。

「えっと…、ユウリス様に、ずっと言いたいことがあったんです。」

 だが、口にしようとした時、少しだけ弱気になる。

 もう逃げない、そう決めたはずなのに、ふと不安になる。

 目を瞬かせるユウリスは、目を泳がせて言葉を探すティリスを辛抱強く待った。

「―――っ」

 その時ふとティリスの目に、今日お披露目されたばかりの、二人の肖像画が入った。

 ロゼルの画は真実を映し出す。本人が知っている以上に、その人物の真実を描き出す。

 その肖像は二人が優しい表情で見つめ合うもの。

 その想定外の構図に、ティリス達は気恥ずかしさから慌てたが、他の人々は、それに魅入っているようだった。そして、ティリスはその後で誰かに言われたのだ。「あんな優しい顔のユウリス殿、見たことありませんよ。」と。

 ティリスは、それに首を傾げた。

 あの肖像のユウリスは、いつもティリスが見るユウリスだったからだ。

「………そっか。」

「ティリス?」

 ティリスは突然ストンと腑に落ちた。皆が特別な表情と感じて、ティリス一人がそれを感じなかった理由。それは―――

「ユウリス様、あの日頂いた手紙の、最後の言葉……。覚えていますか?」

 牢にいたティリスが受け取った、あの手紙。

 それまで落ち着いた綺麗な文字だったのに、その一行だけ、乱れていたその一文。

 そこに抑えきれぬ思いが詰まっていたのかもしれない、そう思うのはティリスの思い上がりだろうか。

 ユウリスはティリスの問いに、ほんの少し頬を染めて、視線を逸らす。そして、観念するように頷いた。ティリスもつられて照れくさそうに笑う、

「「早くあなたに会いたい。」」

 声が重なる。あの時の二人の気持ちを如実に表す言葉だ。

「その言葉を見た時から、貴方に言いたい事があったんです。それは―――」

 二人は見つめ合って笑った。

 それは、あの肖像画と同じように、互いを愛おしげに見つめ合う、一対の男女だった。

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