第一話第五章

 怒りで目の前が真っ赤になる。

 これは、決して比喩などではなかったのだな、とユウリスは微かに頭の端に残った理性的な部分で思った。

「ユウリス殿……」

 ユウリスは血が滲まんばかりに、かたく手を握りしめる。思わず目の前の男に掴みかかりそうになって、彼に当たっても仕方がないと、なんとかその衝動を抑えた。決して、彼に怒りを覚えているわけではない。

 だが、ユウリスのその憤懣やる方ない感情は、嫌でも感じるのだろう。男は心配げに、ユウリスを見ている。

 ユウリスは大きく深呼吸をして、その男、ティリスの護衛を務めていたはずの男に言った。

「大丈夫…、大丈夫だ……。だから、もう一度、言ってくれないか。」

 彼は、ユウリスのその言葉に、意を決するようにごくりと唾を嚥下して、口を開いた。

「はい。……先日、ティリス女王陛下が、ラッセル殿下により…、拘束、されました。」

 何度聞いても、その事実が変わる事はなかった。

 ユウリスはちょうど前方に見える、王宮を睨むように見据えた。

 ユウリスがこの男に呼び止められたのは、つい先ほど、王都へ入ってすぐの事だ。

 リンデを出て、消えた魔導師達の行方を探ってはいたものの、ある町と町の間で突然姿を消した、それ以外掴めぬまま、後は捜索隊の方に任せようと、ユウリスは王都へ帰途を急いだのだった。

 だが、やっと戻ってこれた、と王都へと入ってみれば、ユウリスはこの理解できない話を突然聞かされる羽目となった。

 これが怒らずにいられるだろうか。

「拘束理由は。」

「それが…、自分が正統な王位継承者だ、と。ティリス陛下は簒奪者だ、という主張をしているようでして……。」

 まだそんな馬鹿げた事を言っているのか、と怒りがさらに加速する。だが、そんな馬鹿らしい主張を正当化するため、ティリスが反逆者として捕らえられ、王宮にある貴人専用の牢である幽閉塔に押し込まれている事は、紛れもない事実だった。

「それで、お前は何故ここに。」

 お前は王の護衛だったはずだろう、とユウリスが言外に言うと、彼はビクッと姿勢を正して、身体が二つ折れになる程、頭を下げた。

「も、申し訳ありません!! 私、その日はお休みを頂戴しておりまして……。事態を知り、慌てて城へ向かった所、門兵に『貴様など知らん』と追い返され、今に至ります……。」

 普段のユウリスならば、非番だったのなら仕方がない、と言う所。だが、冷静さを失いつつあるユウリスは、それに対しても理不尽な怒りが込み上げた。

「他の者との連絡は。」

「は、はい! 陛下付、聖魔導師付の護衛、侍女などの者とは、一部の拘束されている者を除き、殆どと連絡が取れております。」

 どうにか、城内とも細々とながら、連絡が取りあえている状態で、現在のティリスの様子などは、そこを経由した情報だと男は言った。

 ユウリスは、そうか、と頷きながら考えた。

 今すぐにでも王宮へと乗り込み、ティリスを救い出したい。それがユウリスの本音だった。だがそれをすれば、無用な混乱を招き、ティリスまでも危険に晒してしまうかもしれない。だから、ユウリスは後一歩の所で、踏み止まった。

 ならば、どうすれば彼女を安全に救い出せるのか。

 考えて、ユウリスはひとまずこれしかない、と結論付けた。

「―――先王陛下に、助力を頼む。」

 それを言ったユウリスに、目を見開いて引き留めたのは、護衛の男だ。

「ユ、ユウリス殿、それは……」

 さすがに不敬罪にあたる、と口を噤んだが、彼が何を言いたかったのかくらい、ユウリスにも分かった。

 先王は、信用できるのか。

 それだろうと、ユウリスは思う。先王アルノールは、ラッセルの父親。ここ最近は、ティリスに何かと文句をつけるラッセルに苦言を呈してきたアルノールだが、それは息子を思うが故なのは、誰の目にも明白だった。

 だからもし、彼が親子の情を優先させれば、そこに飛び込んできたユウリスがどうなるかなど、火を見るよりも明らかだろう。

 だが、ユウリスは無用の心配だと首を振った。

「あの方は、個人の情で判断を誤る方ではない。」

 だから大丈夫。ユウリスは確信を持っていた。

 だが、それでも不安なら、自分に付いてくる必要はない。不安げな顔を崩さぬ彼を見て、ユウリスは彼に背を向ける。

 今は一刻も早く、ティリスを助ける事、ユウリスはそれを考えねばならなかった。

 だが、その場に残るかとユウリスが予想した男は、当然のようにユウリスの後を付いて来た。

「………来るのか?」

 強制するつもりはない、とユウリスは伝える。だが、彼は首を振って笑った。

「御供いたします。―――陛下の御為に。」

 彼の覚悟が揺るぎない事を悟ったユウリスは、それ以上問い返す事無く頷いた。

「わかった。ついてこい、オーウェン。」

「はっ!」

 そうして、二人はその場を後にした。




 目が覚めると、ティリスは寝台の上にいた。

 なんだか、とても身体が重い。それに、不気味な夢を見ていた気がする。執務室の扉を開けると、そこにラッセルがいて、それから。

 ティリスははっと息を飲んで、飛び起きた。

 飛び起きた、つもりだった。

「っ、う………」

 頭を起こすと、ぐわんと視界が揺れて、起きていられなかった。

 ティリスの頭はそのまま枕にぽすんと音を立てて沈む。頭の中がかき回されているような、そんな気持ち悪さがティリスを襲った。

 ぎゅっと目を瞑って、その気持ち悪さをやり過ごし、ティリスはそろりと目を開けた。

「こ、こは……?」

 呟いても、答える声はなく、石の壁に吸収されて消える。

 なるべく動かないようにしながら、ティリスは辺りを確認した。無機質な石の壁に、似付かわしくない豪奢な調度品が設えてある。今ティリスが身を横たえているベッドも、ティリスの部屋にあったものほどではないにせよ、ふかふかの良い品だ。

 だが、そんなこの部屋には窓もなく、いや、あるにはあるが、手の届かないような天井近くに、細く開けられた穴。そこには鉄格子のようなものが嵌められていて、ここがただの部屋ではないと、主張している。

 それだけではない。この部屋の唯一の出入り口、と思しき扉は、ちょっとやそっとの攻撃では、びくともしなさそうな鉄の扉。そこにも小さな窓はあったが、同じように鉄の棒が渡されていた。

 これだけご丁寧に、普通の部屋ではない証拠を見せられると、さすがのティリスもここがどこであるのか、当たりがついた。

 幽閉塔、か……。

 今まで使われているところなど、見たことがなかったが。

 ただ、ティリスが想像していたより何倍も、生活しやすそうな部屋であった。文句があるとすれば、外が見えない事くらいだ。

 それよりもティリスにとって問題なのは、この言う事を聞いてくれない身体の方だ。前の毒よりも酷い。

 最近、こんなのばっかり、とティリスは若干うんざりしていた。

 気を失う直前に、ラッセルに何かよく分からないものをかけられた。顔の皮膚には特に異常を感じない事と、ラッセルが口元を覆っていた事から考えて、吸い込んではいけない薬だったのだろう、とティリスは考える。

 気を失ってからどの位経ったのかは分からないティリスだったが、短時間という事はないだろうと思った。

 だというのに、このだるさ。死にはしないが、強い薬だったに違いない。

 今、何が起きているのだろう。

 ティリスが幽閉塔にいる、という時点で全く良い予感はしないが、その上、現状が分からない、という事が酷く不安だった。

 もっとも、薬が抜けるまで、ティリスにはどうすることもできない。

 ティリスはのろのろと、自分の右腕を動かして、その手の甲にある印を確認する。

「ユウリス様……。」

 彼はまだ生きている。それだけが、今のティリスにとって、唯一の救いだった。零れそうになる涙を、歯を食いしばって堪える。それでも溜まらず、手で顔を覆った。

 もう何日、彼の顔を見ていないだろう。

 今まで必死に誤魔化し続けてきた、どうしようもない寂しさが、後から後から込み上げてくる。

 どうして、こんな事になったの。

「あい、たい…。」

 大丈夫ですよと、そう言って微笑んでほしかった。




「まったく、難儀だね……。」

 アルノールは気を失ったユウリスを見下ろして嘆息した。ひとまず部屋に彼を運ばせるように指示をしたアルノールは、ユウリスに付いてアルノールの元へと訪れたものの、アルノールのあまりの早業に小さくなっている男に向き直った。

「あ、あの、陛下……。」

 何が起こったのか分からない様子の彼に、アルノールは微笑む。

「君…、オーウェン君だっけ? 心配しなくていいよ、寝かせただけだから。」

「は、はあ……。」

 首を傾げているオーウェンにアルノールは肩を竦めた。アルノールとて、ユウリスを理由無く沈めたわけではない。というのも、ユウリスが屋敷に来て早々、言い放った言葉に、問題があったからだ。

 ユウリスはこう言ったのだ。

 ティリスを助けに行く。だから、兵を貸してください。

 アルノールはそれを聞いた瞬間、駄目だこれは、と思った。

 といっても、決して兵を貸す事が駄目、なのではない。ユウリスから冷静さが消え失せてしまっている事が駄目、だと思ったのだ。

 だから、アルノールはユウリスの頭を冷やさせようと思った。そして、魔法で眠らせようか、と一瞬考えて、やめた。

 そして、ユウリスの鳩尾に思い切り拳を叩き込んだ。少々手荒な事をした方が、今のユウリスには効くのではないか、と思ったが故の行動だった。

 ある程度武術の心得のあるアルノールと、魔導師として魔法一辺倒のユウリスとでは、勝負になるわけもなく、ユウリスは意識を飛ばした。

 これで少しは、頭が回るようになれば良いのだけれど。

 運ばれていくユウリスを見て、アルノールは思った。

「あの、陛下。ユウリス殿を、何故……?」

 事情が飲み込めぬ様子のオーウェンに、とりあえず座るように言ったアルノールは、自身も彼の前に座った。先王を前に、ガチガチに緊張しているオーウェンだったが、アルノールはそれも仕方がないか、と口を開いた。

「君、ユウリスをあのまま放っておいたら、どうなったと思う?」

 質問の意味が分からず、首を捻るばかりのオーウェンに、アルノールは先んじて答えを教えてやる。

「考えられる結果は色々あるが……。一例としては、激情にまかせて、敵を殺していきかねない、というのがある。」

 場合によってはどうしても敵の命を奪うという事は、ないとは言えない。

 アルノールもそれを否定したいわけではなかった。彼が問題視しているのは、「激情にまかせて」という部分だ。

 ティリスを助け出す、という目的のみを見れば、あのままアルノールの私兵を使い城に乗り込んでいっても、きっと目的は達成できるだろう。だが、その目的に達するまでの間に、どうなるかが分からない。無暗に殺戮していくような真似はしない、とはアルノールも思うものの、万が一ティリスに何かあれば、それさえどうなるか。

 このままユウリスを送り出したとして、明日に王宮一帯が廃墟と化していても、アルノールは驚かない。そもそも今王宮が無事なのは、ティリスが現在どうなっているか分からず、下手に手出しできないとユウリスが思ったから、に過ぎないであろうことなど、アルノールはお見通しだった。

 そういったアルノールの抱く危惧を、オーウェンに掻い摘んで伝えると、彼はぞっと青ざめた。

「それで陛下…、我々も城内の様子を探ってはいるのですが、ティリス陛下の詳しい御様子は、中々知る事が出来ていません。何か、御存知の事はありませんか?」

 オーウェンの切実な声に、何とか答えてやりたいアルノールだが、彼自身が掴んでいる情報と、オーウェン達が掴んでいる情報に、大きな差異はない。

 そもそもアルノール自身が、どうにも身動きが取れなかった。

 アルノールはラッセルの父親だ。もちろん、王宮へ出向いて追い返される事など、ありはしないだろう。だが、ティリスが王位を継いでからというものの、殆ど交流を持って来なかったアルノールが突然王宮に出向けば、ラッセルの行動を先王も認めている、と取られかねない危険性があった。それはアルノールとしても、困ったことになる。その為、不用意に動くことが出来ていなかったのだ。

 今、ティリスに接触出来るとすれば……。

 それはきっと一人しかいない。

 アルノールは、とりあえず彼を呼んでみるか、と決めて、オーウェンに向き直った。

「とりあえず、君は連絡が取れている仲間を集めておいてほしい。ティリスの事は、こちらで探ってみよう。」

「はい!」

 オーウェンは、ぺこりと頭を下げて、意気揚々と屋敷から出ていった。

 さて、あれは上手くやっているだろうか……。

 アルノールの予想が正しければ、もう動き始めているはずだ。




 はたして、アルノールの言う、あれ、はまさしく行動を開始していた。

「やあ。」

 ティリスは、言葉を発することも出来ぬまま、そう言って当たり前のように入って来た彼に目を見開いた。

「ロゼル様……?」

 牢で目を覚ましてから丸一日。何とか身体を起こしても眩暈が起こらない程度に回復したティリスは、一瞬、ここがどこだか分からなくなるような錯覚を覚えた。

「元気そう…ではないねぇ、さすがに。」

 ティリスのいる寝台の傍に、小さな机と椅子を引き寄せ、彼はそこに当然のように座った。それはこうなる前、ティリスが仕事をしていた時と、何ら変わった様子はなく、彼は机の上に絵を描くための道具を広げていく。

「あ、あの…、何故ここに……。」

 今ティリスのいるこの牢は、立ち入りが厳しく制限されているらしい事は、ティリスにもすぐに分かっていた。

 ティリスが目覚めてから食事を運んでくるのは、彼女とあまり面識のない少女。侍女見習いをしていた子で、細々とした雑用をしていたようにティリスは記憶していたが、直接言葉を交わしたことはなかった。その為、見ていて可哀想になる程に緊張しており、ティリスも話しかけてはみたものの、まともな返答は返ってこなかった。

 もしかすると、会話を禁止されているのかもしれない。ティリスはそう思い、会話を断念した。

 また、彼女の出入りの時にちらと見えたため、ティリスも知る事ができたのだが、部屋の前には兵士が立っていた。だが彼も、無闇に喋る事は許されていないのか、ティリスがいつ見ても同じ所にじっと立ち尽くしているのだった。

 ティリスがここに来て見たのは、この二人のみ。勿論、訪問客などいるはずもなかった。状況から考えて、この場所にティリスがいる事を、ラッセル達は出来得る限り隠したいのだろう、そうティリスは考えていた。

 そんな中、本来なら当然、誰かが訪ねてくるはずもない。

 それが扉の向こうどころか、入ってくる事ができるなど何が起こっているのか。どうやって許可を取ったのかと、ティリスには不思議を通り越して、怪しくさえ思えた。

 だがロゼルは、きょとんとして目を瞬かせた後、不思議そうに返した

「何故ここに、って…。忘れちゃった? 君が依頼してきたんでしょう?」

 そう言って、ロゼルは紙を指でトントンと叩く。つまり、依頼を遂行しにここまで来た、と彼は言いたいようだった。

「それは覚えてます、けど……。そうじゃなくて……」

「僕ね、これでも依頼は、途中放棄した事は無いんだよ。だからその意地にかけて、お願いしたら、案外すんなりだったよ。」

 扉の前に立っていた彼が、何らかの方法でロゼルに言い包められた、という事のようだった。

 いつもの表情を崩さず、ロゼルは何でもない事のように言うが、俄かには信じがたい話だ。だがティリスは、追及をやめた。彼が常識に縛られない人である事は、今更であった。

 ティリスが呆れ顔で彼の動向を見守っていると、ロゼルはそうだった、と言って、持ってきた鞄を漁りはじめる。

 暫くロゼルはがさごそとしていたが、ようやく目当てのものが見つかったらしく、ふふんと得意げに笑ってそれを取り出した。

「はい、これ。」

 ロゼルはそれを、そのままティリスに差し出した。ティリスが思わず受け取ると、それは小さな、手の平に乗る程度の小瓶だった。

 きっちりと栓のされた細身のそれの中には、何かの液体が入っている。軽く揺らしてみるが、水のようにさらさらだった。

「これは?」

 ただの水とは思えない。一体なんだろう、とティリスは首を傾げる。ロゼルはさっそく絵を描き始めていたが、その手を止めて、にんまりと笑った。そして、ああ、それね、と中身を告げた。

「解毒剤。」

 ティリスは驚きのあまり、思わずそれを取り落としそうになって、慌ててしっかりと握った。もう一度、瓶の中身を見つめる。やはり、見た目はただの水にしか見えなかった。

 ティリスの驚きの表情に、満足そうに頷いたロゼルは作業を再開し、手を動かしながら、何でもないように続けた。

「身体、だるいでしょ? それである程度、治まるよ。」

 確かにティリスの身体からは、まだまだ身体のだるさは抜けきっていなかった。だが、何故ロゼルは、薬が使われた事を知っているのだろうか。

 思わずティリスが抱いてしまった不信をロゼルは感じたのか、彼は再び手を止めて、ティリスの方に向き直った。

「君の執務室の前。暫く経っても、まだあの甘い香りがしてた。あれは少量でも効果覿面なのに、相当嗅がされたんだな、って。………とはいえ、僕もあれの身内だからね。信じられないなら、飲まないで。放っておいても死にはしないから。」

 だがその言葉を聞いて、ティリスは自分が間違っていた事を悟った。色々とロゼルに不思議な所があるのは事実だが、彼は無闇に人を傷つける人ではない。それをこの数ヶ月で、ティリスはもう知っていたはずなのに。

 ティリスは、持っていた瓶の栓を抜いた。そして、躊躇する事もなく、その中身を口に流し込んだ。決して美味しいものではなかったが、ティリスの胸に不安はもうなっかった。

「いいの?」

 ロゼルは顔を上げぬまま尋ねる。

「はい。ありがとうございます。ロゼル様。」

 紙面に顔を伏せているロゼルが、ふっと口角を上げたような。ティリスはそんな気がした。




「………っ」

 夜半、ユウリスは暗い部屋で一人、うっすらと瞼を開いた。のっそりと身を起こし、辺りを見渡した。

 ここは?

 そう言いかけて、その瞬間ユウリスはそれまでの事を思い出した。鳩尾付近を撫でて、ユウリスは眉根を寄せる。

 何も殴らなくても。

 寝起きゆえか上手く頭が回らず、ユウリスはぼんやりしていた。すると、突然光が差し込んで、その眩しさに彼は目を眇めた。部屋の戸が開いたのだと、そうユウリスが理解するまでに、数拍を要した。

「おや、起きたかい?」

 そう言って部屋に入って来たのは、ユウリスを殴りつけた男だ。

「アルノー………」

「久しぶりだね、その呼び方。」

 ユウリスがアルノールに仕えるようになってから、久しく聞かなかった呼び方に、アルノールは肩眉を上げる。アルノールは部屋の明かりをつけ、ユウリスの傍に椅子を持ってきて座った。

「ちょっとは冷静になったかと期待してたんだけど。……駄目そうだね。」

 アルノールがそう言って首を振るのを見て、ユウリスはムッとする。

 少々頭に血が上っていたのは認めるが、そこまで言われるほどではない。

 そのようにユウリスは反論しようとして、口を開く。だが、声を発する前に、アルノールの静かな目とかち合い、ユウリスは二の句がつげなくなった。

 それでもユウリスには、アルノールがこのような強硬手段を取れねばならぬほど、自身が平静でない事を理解できない。

 私はこんな事をしている場合ではない。早く、早くティリスを助けに行かなければ。

 ユウリスのそんな焦りが、彼を突き動かしていた。

「アルノー。私はすぐにでも、ティリスを助けに行かねばならない。それなのに―――」

「あのねぇ……」

 捲し立てるユウリスに、呆れたようにアルノールは溜息を吐いた。

「そういう発言、してる時点でいつもの君じゃないだろ。そんな事にも気が付いてないんだ。駄目って言われて、当然だろう?」

 いつもの君らしくない。

 ユウリスはアルノールの言葉がよく分からなかった。

 ユウリスは一時は確かに冷静さを失っていた事を自覚していた。だが、もういつもの自分だと、そうユウリスは思っていた。

 それなのに、どうしてこんな事を言われねばならない。

 どうして―――

「ならアルノー。お前の言う、いつもの私、とは何なんだ……。」

「ユウリス……」

 もう、どうしたらいいのか分からない。ユウリスは頭をぐしゃりと掻いた。髪が乱れる事など微塵も気にならない。

 私は貴女がいなければ、立っていることさえできない。

 ユウリスは両手で顔を覆った。

「ティリス……」

 もう何日、貴女と会っていない?

 貴女の姿が一目見たい、声を聞きたい、もう絶えられない……

 こんなにも苦しく、胸が潰れそうな、そんな気持ちになるのは、初めての事だった。

 その時。

「父上ー。」

 緊張感のない声が割って入った。

「ああ、ロゼル。やっと来たか……。」

 その声にほっとしたのはアルノールで、息子の登場に安堵の笑みを浮かべる。ロゼルは、父と一瞬目を合わせたが、すぐにその先にいるユウリスに気が付いて、肩を竦めた。

「やあ、ユウリス。」

 直接声をかけられては、さすがのユウリスも無視できずにのろのろと顔を上げた。虚ろな目でロゼルを一瞥するだけのユウリスに、ロゼルは気を悪くした風もなく、ふっふっふと笑って、持っていた鞄の中から一通の手紙を出した。

「人生に絶望してそうなユウリス。君に良い物をあげよう!」

 大袈裟な身振りでユウリスにその手紙を渡す。封筒には差出人の名はなく、小さく「ユウリスへ」と書かれているだけ。

 だが、そのやわらかい字は、誰が書いたものかなど、ユウリスには聞かなくても分かる。ユウリスははっとして、その手紙とそれを差し出すロゼルを交互に見る。

「読みなよ。君宛だからさ。」

 ロゼルが優しく言うと、ユウリスは震える手でそれを受け取る。そして、ゆっくり、ゆっくりと中から数枚の手紙を取り出したのだった。

 それは、ティリスからの手紙だった。




親愛なるユウリス様へ


 最後に貴方と直接お会いしたのは、いつの事だったでしょうか。もう、かなり前の事のような気がします。この数ヶ月、鏡越しには何度もお話ししましたね。ただ、それも貴方がリンデを出る前まで。

 今、貴方は何をなさっているのでしょうか。もう王都にはお着きになった、とは伺いましたが、怪我などなさっていませんか。道中、大変なことなどはなかったでしょうか。

 つい最近まで殆ど外に出た事のなかった私と違い、私よりも遥かに旅慣れていらっしゃる貴方ですから、きっと大丈夫。そう思ってはいても、やはり不安は尽きませんね。

 城に戻ってこられた貴方を、一番はじめにお迎えするのだ、と意気込んでおりましたが、残念ながら、また外へ出られぬ生活を送る事となってしまいました。ただ、それほど不便を感じる事もなく、せいぜい困り事と言えば、退屈だなぁと思う程度の事です。

 きっと優しい貴方の事ですから、私の事を少なからず心配して下さっている事と思います。

 ですが、貴方の心配なさっているような事は、今の所ありませんので、どうか安心して下さいね。

 それよりも心配なのは、他の者達です。私が捕らえられた後、皆がどうしているのか、辛い目にあっていないか、とても心配です。外に出られない以外、衣食住が保証されている私とは、きっと状況も違うでしょう。

 もし、貴方が現状を変えようとなさっているのなら、私よりも先に、彼らの安全を確保してほしく思います。

 とは言いますが、きっとユウリス様は、私の考える事などお見通しでしょうから、こんな事を言うのは今更、かもしれませんね。

 でも、時折、貴方はご自分を顧みない時がありますよね。私はそれが貴方について唯一、本当に心配している点です。

 私は貴方が城を出る前に、「一滴の血も流す事無く、混乱を収めて見せなさい。」そう言いました。でもそれは、貴方が怪我をしても、意味がなくなるのです。

 忘れないで下さいね。


 私は今、殆ど何も出来ない状況、そう言ってもいいと思います。ですが、何か出来る事があるのならば、遠慮なく言って下さい。

 本当は、貴方一人に全てをさせている事、とっても嫌なんですよ。

 私も貴方と共にありたいのです。

 あの日見た、お二人のように。

 ですから、どうか無理だけはしないで。

 次に会った時も、またいつものように優しく微笑んで、迎えてほしいから。


ティリス




 ユウリスがそれを読み終わる頃には、視界が霞んで殆ど読めなくなっていた。

 ユウリスは、最後の彼女の署名を親指でそっとなぞった。その手に、ぱたりと雫が落ちる。

 ユウリスはその手紙を元の通り折りたたんで、封筒にしまいなおすと、それをぎゅっと抱きしめる。

「アルノー……。」

「ん?」

 ユウリスが手紙を読み終わるのを、黙って見ていたアルノールは、どうした、とユウリスの言葉を促す。

「彼女にとっての、いつもの私、とは。いつも……、いつも、優しく微笑んでいるんだそうだ。」

 ユウリスはそれを読んで、ようやく理解した。

 彼女の拘束を聞いてからの自分は、決して彼女の前に出られるような状態ではなかった、その事に。

 きっとあのまま彼女を助けに行っても、彼女は拒みはしなかっただろう。

 それでも、ユウリスは思った。きっとティリスは、そんなユウリスを見てこんな顔をするのだ。

 ひどく、悲しそうな、そんな顔を。

「お前の言う通りだった。いつもの私、ではなかったよ。」

 ユウリスは、吹っ切れたように笑った。

 それは王都に戻って以来、彼がはじめて見せた笑顔だった。




 夜が明ける。

 窓から朝日が差し込むころには、ユウリスは既に部屋にはいなかった。部屋の続きにある洗面所で盥に水を張り、顔を洗う。

「………。」

 目の前にあった鏡に映る自身の顔を見つめて、ユウリスは苦笑を漏らした。

 目の下にうっすらと隈が残り、少しやつれている。

 まだティリスの話を聞いて一日しか経っていないはずなのだが、随分と疲れているらしい顔がそこにはあった。

 ティリスに会うまでに、元に戻しておかないと。

 彼女を心配させてしまうな、とユウリスはふっと微笑み、乱れた髪を整える。

 ティリスからの手紙を読んでからというものの、もちろん彼女を早く助けたいという気持ちは消えなかったが、ユウリスの中から無用な焦りが消えた。焦りが消えて、彼はそれまでどれほど視界が狭まっていたかがよく分かった。

 考えなしに王宮へ乗り込んでも、ティリスを助ける事は出来ない。

 いや、今彼女を幽閉塔から出す、という事は出来るだろう。だが、それだけでは意味がない。こうなってしまった以上は、もっと慎重に動いた上で、主犯であるラッセルをどうにかせねばならなかった。そうしなければ、きっとまた同じことが起こる。

 それを防がねば、真にティリスを助けた事にはならないのだ。

 髪を整えた後、ユウリスは部屋に戻り着替えをする。ゆったりとした寝間着から着替えると、気持ちが引き締まった。

 着替えも終わり、一息ついているとコンコンと扉が叩かれる。ユウリスが返事をすると、入って来たのはアルノールだった。

「ユウリス、起きてるかい?」

 アルノールはユウリスの姿をまじまじと観察して、彼が元気そうなのを見て取ると、うんうんと満足そうに頷いた。

「陛下。」

「おや、もう『アルノー』と呼んではくれないのかい?」

 ぐ、っとユウリスは言葉に詰まる。

 昨夜ユウリスは取り乱した末に、十年以上ぶりにアルノールの事を名前で呼んだ。あんなふうにユウリスがアルノールに対し最後に喋ったのは、彼との間に主従関係がなかった位の若い頃の事だ。

 アルノールとただの友人関係だけでなくなった日から、ユウリスはあえて彼との間に線引きをしていた。それにアルノールも当然気が付いており、昨日の事を指摘する彼の口元は、にやにやとしている。

「き、昨日の事は忘れてください。」

 どう見てもからかい混じりのアルノールに、ユウリスは少しむっとして、ぷいとそっぽを向く。だがアルノールは、一層楽しそうに笑った。

「そう? 私は懐かしくて…、嬉しかったけど?」

「嬉しい?」

 アルノールは、当然のように部屋の椅子に腰を下ろし、足を組んだ。何か用があって来たらしいと悟ったユウリスは、そう聞きながら、お茶の用意をする。棚に茶葉があるのを確認すると、その傍にあったポットも取り出して、その用意を盆に乗せ、ユウリスはアルノールの対面に座った。

「そりゃあ、嬉しいでしょ。」

 ユウリスが着々と準備を進めている所を見ながら、アルノールは笑った。今度はからかうようなにやにやした顔ではなく、心底楽しそうな顔だ。

「君の覚悟だろうな、と思ったから何も言わなかったけど。急に態度が変わって、寂しくない、って言ったら…ね。」

 寂しく思って当然だろう、とアルノールが困ったように笑うのを見て、戸惑ったのはユウリスだった。

 ユウリスがアルノールの事を名前で呼ばなくなったのは、ユウリスが正式に王宮へ仕官に上がった頃からだ。聖魔導師となる以前から、魔導師として高い才覚を現していたユウリスは、魔法省に任官され、あっという間に魔導師として王であったアルノールの傍へと上がっていった。

 ユウリスが官人として位階を上げていっても、二人が友人関係である事は変わらなかったが、ユウリスはアルノールに対しで、決して敬語を崩さず、名前を呼ぼうとはしなかった。

 それは、二人きりの時も、だ。

「ユウリス。」

「……はい。」

 ユウリスが突然態度を変えても、アルノールは何も言わなかった。だから、アルノールはその理由を理解していて、だから、彼は何とも思っていないだろう、と。そうユウリスは思っていたのだ。

 だからまさか、寂しい、なんてそんな気持ちを持っていただなんて、ユウリスは露程も考えたことがなかった。

 それは、年上の彼に、ユウリスが無意識に抱いていた、無条件の甘え。それをこんな歳になるまで、それも本人から指摘されるまで、ユウリスは考えすらもしなかった。

 ユウリスは、その事に戸惑っていた。

「もういいんじゃないの?」

「………何がですか?」

 ユウリスは出来た紅茶をカップに注いで、アルノールの前に置いた。アルノールはそれを手に取り、一口飲んで、また置いた。

「だって、もう君は決めたんだろう?」

 生涯の主を。

 ユウリスはアルノールと同じように、自分の前に置いた紅茶を飲んだ。カップを置いて、ふぅと息を吐く。

 アルノールの言う通りだった。ユウリスは、ただ一人を決めた。だから、もういいのかもしれない。

 アルノールと、ただの友人に戻っても。

 ユウリスが顔を上げると、アルノールと目が合った。すると、どちらからともなく、二人はぷっと噴出して、笑った。

「どうだい、ユウリス。」

「確かに、もういいか、な。―――アルノー。」

 二人は暫くけらけらと笑い続けた。




「それで、何の用だったんだ?」

 暫くの間笑い転げていた二人は、ようやく本題を思い出していた。ユウリスはぬるまった紅茶を、カップをトンと指で叩いて温めなおし、アルノールに向き直った。

「いや、君の様子を見に来ただけ、といえばそれだけだけれど。……まあ、随分すっきりした顔をしているから、そろそろ今後の展望でも決まったんだろう、と思ってね。」

 昨日はそんなに酷い顔をしていたのか、と少し恥ずかしく思いつつ、ユウリスはアルノールの言う、今後の展望、というものを考えていた。

 そもそも、何故今まで気が付かなかったのかという点で、ユウリスがどれだけ取り乱していたか、という事が分かるが、それはリンデ地方の話に戻る。

 今回のティリスの拘束、何故こうも簡単に成功してしまったか、という一因に、ユウリスの不在がある。あの場にユウリスがいれば、こう易々と事は運ばなかったはずだ。

 そしてこの、ユウリスを不在にさせた要因はリンデ地方の混乱にある。災害の類はさすがに偶然だろうが、魔導師の失踪と、たまたまリンデに訪れた登録魔導師の虚偽報告、それが偶然というには、出来過ぎている。

 特に、登録魔導師の件については、おかしな事しかない。魔導師の失踪については、何か不測の事態に巻き込まれた、という線がなくはない。

 だが、リンデからの報告で、民衆が暴動を起こしている、という嘘を吐いて誰が得をするというのか。

 だから、登録魔導師という身分が判明しているにすぎない人間の言う事ではあったものの、それが虚偽ではないか、という懸念を誰も持たなかった。

 その結果、誰もがその言葉に踊らされ、ユウリスが事態の収拾を図るべく、現地へと跳ぶことになった。

 そうしてリンデへとユウリスが着いた頃には、連絡を寄越してから、そう時間は経っていないにも関わらず、既にその魔導師の姿はなく、行方知れずだった。

 追及を恐れて逃げたとしか思えない。つまり、その虚偽の報告は故意だったという証拠に他ならないだろう。

 その魔導師がラッセルと繋がっている可能性は非常に高い、ユウリスはそう見ていた。

「出来れば、リンデの件を報告した登録魔導師を探したい。何か聞いていないか?」

 現在王宮は、その魔導師の行方も追っているはず、なのだが、何せ今は、城がラッセルに押さえられている。その為、その命令が遂行されているのかは、疑問が残る。

 アルノールも渋い顔で首を振った。

 魔法省に保管されている記録が手掛かりではあるものの、今ユウリスは、おいそれと城に近付く訳には行かない。その上、仮にその記録を見ることが出来たところで、名前とその人物の魔法の力量程度の事しか書かれていないため、現在の居場所など、直接手掛かりとなり得るものではなかった。

 今のユウリスには動かせる手勢も、情報も少ない為、そちらはどうにも出来そうになかった。

「そういえば、失踪した魔導師達の方は、どうなったんだい?」

 うーんとユウリスが首を捻っていると、アルノールが思い出したように尋ねた。

 ユウリスはリンデからの帰りに、少しでも手掛かりはないか、と彼らの情報を集めつつ王都に戻っていた。

 王都に戻ってから聞かされた、ティリスの話で全て吹っ飛んでいたが、問われたユウリスは、頭の片隅に押し込められていた、それらの情報を引っ張り出す。

「たしか……、ローレイまでは話を聞かず、アマドアに入ると、彼らの話を聞いたから、その間で何かあったんだろうと、思ったんだが……」

 王都からリンデの町までの間には、いくつか町が存在する。そのうちの二つがアマドアとローレイだ。

 王都よりリンデに近い位置にある両都市は、小さな山を挟んで隣にある都市である。リンデからの帰り、そのローレイまでの間、ユウリスは派遣された魔導師の話を一切聞かなかった。だが、山を越え、アマドアに入ると、突然、魔導師がこの道を通って行った、という話が聞こえてきたのだ。そのアマドアから王都までの間は、同じように、魔導師達の足跡を辿る事が出来た。

 そうなると、そのアマドアとローレイとの間で何かあったのは明白だった。

 だが、もちろんユウリスも帰り道、その山を通ったのだが、特に何の変哲もない山だった。あんなところで、何が起こるというのか。

 首を捻るユウリスだったが、ふと顔を上げてアルノールの方を見ると、アルノールは口をぽかんと開けて、ユウリスを凝視している。ユウリスがその視線にたじろいでいると、アルノールは呆然としたように言った。

「君……、実はまだ、本調子じゃないだろ?」

「は?」

 何を言っているのか分からない。ユウリスは怪訝な顔でアルノールを見返すと、アルノールは、もしかして知らない? と首を傾げた後、こう言った。

「アマドアとローレイの間の山、それほど急でもないし、明るくて迷い辛い、高山でもないから気候も良くて、過ごしやすい山でもあるんだよね。だから、五代前の王が、あそこに別邸を建てて、離宮にしてたんだよ。」

 それについてはユウリスも知っていた。

 あの山一帯は、通行路を除いて、王家の所有物となっている為、無闇に入ってはいけない場所だ。山の中腹辺りに離宮があるのも有名で、その王の時代は、時折、鹿や野兎を放って、狩猟も楽しまれていた。

 一体、それがどうした。

 そう言いかけて、ユウリスは何かが引っ掛かり口を噤んだ。その離宮は、五代前の王が崩御して後も、王家によって管理されている。

 今、一体、誰の所有になっていただろう。

 そしてそれに思い至ったユウリスは、はっと息を飲んだ。その反応でユウリスが思い出した事を理解したアルノールは、溜息混じりに、首をふるりと振った。

「そう。……あそこは今、ラッセルの所有なんだ。」




「なんだか、毎日いらしてません……?」

「そう?」

 勝手知ったる、と言わんばかりに、当然のように牢へと入ってくるロゼルを、ティリスは少々呆れ顔で迎えた。

 ロゼルから解毒剤をもらって数日。すっかり体調も戻り、元気になったティリスだったが、未だにこの牢から出られそうにはなかった。ここへティリスを閉じ込めたはずのラッセルやその関係者からの接触もなく、会うのはといえば、食事の上げ下げに来る少女、それから扉の前で見張りを務める男の後ろ姿だけ。

 ユウリス宛の手紙に書いた通り、危害を加えられることもないが、ティリスは暇で仕方がなかった。そんな中で、ロゼルの訪いは、唯一気が紛れる時間の為、ティリスとしては嬉しいもの。だが、こんなにも訪ねて来て大丈夫なのか、という疑問は当然残った。

 だが、聞いても仕方がないことと、ティリスはそれについては聞いたことがなかった。

 今日も当然、話題は別の事だ。

「それで、あの…、ユウリス様は……。」

「今朝方出発したよ。」

 問題なく王都を出た、というロゼルの言葉に、ティリスはほっと胸を撫で下ろした。

 この数日毎日訪れるロゼルにより、ティリスはある程度、外の情報を掴むことが出来ていた。特に心配していた、ユウリスの動向を知ることが出来る、というのはティリスにとってもありがたいことだ。

 今ユウリスは、アマドアとローレイの間にある、ラッセル所有の離宮へと向かっている。リンデにいた登録魔導師の行方が追えないため、失踪した魔導師達の足取りを追う事にしたのだ。

 特に、ラッセル所有の離宮がある山で失踪した魔導師達、今回の事と無関係とはティリスも思えなかった。

 その上魔導師達は、リンデの件が報告されるまで、定時連絡をしていた。何者かが魔導師達を、脅したのか、それとも彼ら自身の意思でかは不明だが、何らかの理由で協力させ、彼らがリンデに到着していない事を、王宮が気が付くのを遅らせた。

 そして、いつまで経っても到着しない魔導師と、にもかかわらず何もしない王宮、それらに不満を持った民衆が、何かを起こしてもおかしくない、そういう状況を作った。

 そしてまんまと、ティリスとユウリスを離す事に成功した、という訳だ。

 全部繋がっているという可能性に気が付いた時、ティリスは頭が痛くなった。

「せめて、上手くいくとよいのですが……。」

 これで失踪したはずの魔導師達が、ラッセルの離宮から見つかれば、それだけでも問題に出来る。いや、上手くいかなければ、言い逃れの余地を与えてしまいかねない。

 なぜなら現在、ティリスは王宮から姿を消した、という事になっているからだ。

 もっとも、城に仕える者たち、特にティリスに近しい人々は、事情を分かってはいるものの、その大半が拘束されるか、入城出来ないか、だ。そうでないごく一部は、ティリスの命をちらつかせ身動きが取れないように、それ以外はこの「ティリスは王宮から姿を消した」という話を信じている。

 その為、不在の王の代わりをしていた、と言われる可能性があった。

 逃げ道は潰せるだけ潰しておきたい。

 ティリスは深刻な顔で考え込むが、ロゼルはあっけらかんとしている。

「そんな顔しなくても、大丈夫だよ。多分、いるでしょ。」

「どうして、言いきれるんですか?」

 ロゼルは部屋の様子を描いている。数日前、こんな部屋を描いて面白いのか、と尋ねるティリスに、滅多に来れない所だから、と言った彼は少し目が輝いて見えた。

 まだ描いているとは、よほど気に入ったのか。

 ティリスは机に肘をついて、その様子を見ながら聞いた。ロゼルも手を止める気はなさそうだ。

「どうして、って…、そもそも、君がここにいること自体、悪い偶然が重なっただけでしょう?」

「え?」

 どういう事、とティリスは目を瞬かせた。悪い偶然も何も、彼らの策が上手くいったから、こうなっているのだ。偶然ではない。

 そう、ティリスは思うが、ロゼルには違って見えるらしかった。

「だってこれ……、多分だけど、全部たまたまだと思うよ。」

「たまたま……?」

 ロゼル曰く、まず魔導師の失踪は、ティリスへの嫌がらせで、足止め程度のつもりだったが、意外と上手くいってしまった。次いで、リンデの民衆蜂起は、魔導師の失踪が意外と不満に繋がっているのを知り、蜂起すればティリスが困るだろうとけしかけてみたが、いまいち振るわず、嘘を流すことにした。そうしてみると、これは一大事、と思った王宮がユウリスを派遣した。なので、これ幸い、とティリスを襲ってみた所、とっても上手くいってしまった。と言った程度だろう、との事だった。

「………さすがに、それはないのでは?」

 さすがにそんな偶然の連続によって、こんな事態になっているなどと言うのは信じがたい。おそるおそる否定してみるティリスだったが、ロゼルは何故か確信を持っているらしく、きっぱりと首を振った。

「だってねぇ…、思い出してごらんよ。あの馬鹿兄の今までの言動。」

 そう言われてティリスが思い出したのは、あのユウリスの実家で行われた快気祝いの際の彼の言動。あんなにあっさりと墓穴を掘る彼は、確かに知能犯は出来そうもない。

 だが、だからと言って、と思う。思うのだが、ロゼルの言が、妙に信憑性を帯びてくるのを、ティリスは否定できなかった。

「それだけじゃないよ。君達、兄上から呪いの手紙をもらってたでしょう?」

 そういえば、とティリスも言われて思い出した。ここ暫く御無沙汰の、呪い入りの白い手紙。

「あんな分かりやすい事、普通しないよね。」

 その件については完全同意のティリスは、口を噤む。

 実の所、あの手紙はほぼ毎日、どこかしらから混入している。それを排除して届けられている、はずなのだが、こぼれた数通が、数日置きにティリスの元へとやってくるのだ。あんな明らかに新品同様の怪しい手紙を、未だに効き目があると思って送ってくるのだから、ある意味すごい。

「偶然、ですか……。」

 ロゼルの言う事が、あながち間違いではないのではないかと思え、遠い目をするティリスだった。




「こうしてると、昔に戻ったみたいだね。」

「そうだな……、って、何でいるんだ、アルノー。」

 ユウリスは王都を出て数日、彼は無事にアマドアの町まで辿り着いていた。その町の宿に泊まる事にしたユウリスは、その対面に座るアルノールを見て、溜息を吐いた。

「え、今更じゃない? 王都から仲良く二人旅だったのに!」

「………。」

 ユウリスは、痛む頭を押さえる。確かに、王都を出てから二人旅だったので、それについてはユウリスも何も言い返せない。

 だが、何度でも言いたい。

 何故、アルノールまで付いてきているのか。

 本来、ここまでユウリスは一人で来るつもりだった。何とか魔導師の捜索隊の人物と連絡が取りあえたユウリスは、現地で彼らと合流するつもりだったのだ。

 王都では何が起こるか分からない。その為、オーウェンをはじめとした、現在城に入れず、また拘束を免れている者たちには、ユウリスが不在の間に、その何かが起きた時の対処要因として、置いておきたかったからだ。

 だが、王都を出てみれば。何故かそこに、アルノールがいた。

 私も一緒に行くよ!

 と、眩しい笑顔で言われたユウリスは、結局来ないように言い聞かせる事も、撒くことも出来ず、今に至る。

 何故、王座にまでいた人が、ここに……。

 何かあったらどうする気なんだ、とユウリスは頭が痛い。

 ユウリス達が選んだ宿は、決して安宿ではない。むしろ平民が泊まるには高い部類の店。食事など評判も良いため選んだ場所だ。

 とはいえ、王族が泊まるか、と問われれば確実に否だ。

 だというのに、何故か馴染んでいる彼を見て、ユウリスは半眼になった。自分も大貴族の息子である事は、黙殺した。

 身分を自覚しろ、という説教は、帰ってからにするか……。

 うきうきしているアルノールに、ユウリスはひとまず小言を脇に置くことにした。

「それで、これからどうするんだい?」

 食堂のようになっている場所で、一つの卓を囲んだ二人は、さっそく食事を開始する。運ばれてきた料理を前に、麦酒のジョッキをカランと打ちあわせる。

「まず、明日に捜索隊の人間と合流する予定だ。アルノーもついてくるのか?」

 王都の晩餐会で出てくるような、御上品な料理とはまた違う。

 適度にざわついた店内も、普段味わえないものだ。粗野だと顔をしかめる者も上流階級の者には多いが、ユウリスは存外この空気が好きだった。

 おそらくアルノールもそうなのだろうとユウリスは、若い頃王宮を抜け出しては町に遊びに出ていた悪友を見る。

「もちろん。むしろ連れてかない理由が分からないよ。」

「というと?」

 肉を頬張って、それを酒で流し込む。小煩い規則の無い食事は気が楽だ。アルノールも麦酒を煽って答える。

「あのね、僕はあの子の父親だよ? 息子の離宮を訪ねて、何が悪い! …って言えるじゃない。」

 まあ、たしかに。

 ユウリスもその言葉には頷く。実際、理由もなく王族所有の宮を調べるのは難しい。その方法なら、比較的穏便に済みそう、ではある。

 実際、アルノールがついてくると知る前ユウリスは、最終手段として聖魔導師の名前を使おうかと考えていた。一応、聖魔導師の権限は王に次ぐため、ただの王族では、そうそう歯向かえないのだ。

 とはいえ、元の身分が貴族のユウリスがそれを使うと、いらぬ反発を呼ぶのは必至のため、出来れば使いたくなかった、というのが本音だった。

 そのためアルノールの提案は、ありがたいというのも事実だった。

「まあ…、私が何を言っても来るんだろう?」

 アルノールは、当然、と言わんばかりにふふんと笑ったのだった。


 それから一通り食事が終わり、人の少なくなった店内で、二人は酒と少しのつまみを肴に、昔話をぽつぽつとしていた。こうして市井で二人になるのは、二人が十代か二十代のはじめになるか、くらいの頃以来。もう十年以上前の話で、二人ともが三十代になってからは初めての事だ。

 自然、話はその若かりし頃の話になる。

「最後に二人で町に出たのって、いつだったけ?」

 アルノールは葡萄酒をちびちびと飲みながら、ユウリスに聞いた。とたん、ユウリスの表情が険しくなった。

 いや、分かってる。アルノーも悪気があって聞いたのではない。

 ユウリスも自身にそう言い聞かせるが、眉間の皺は消えてくれなかった。

「………アイゼリーヌ様の御結婚が決まった時だよ。」

 ユウリスの地を這うような声に、アルノールはきょとんとした後、その時の事を思い出したのか、ぶはっと笑い出す。

「そうだ、思い出した! イゼルの結婚で、君の自棄酒に付き合った時だ!」

「……………。」

 一人笑い転げるアルノールとは対照的に、ユウリスはぶすっとしたまま、アルノールを睨んでいる。

 アイゼリーヌ。彼女はアルノールの双子の妹で、十六年前に隣国へと嫁いだ女性だ。

 当時十七歳で、まだまだ純真だったユウリス少年が、密かに恋心を抱いていた女性でもある。

 好いた女性が結婚、というだけでも少年の心には衝撃をもたらしたが、その上その嫁ぎ先は隣国。もう殆ど会う事は叶わなくなってしまう場所だ。

 それがさらに少年の心を傷つけた事は、想像に難くない。

 ユウリスがアイゼリーヌに想いを寄せていた事を唯一知っていたアルノールは、城下の知り合いの誰もいない所で、独り酒を煽る彼を見つけ出し、既に酔っぱらっていた彼の愚痴を聞き、潰れた後は王宮まで運んで帰って介抱した。

 よりにもよって、それが最後。

 ユウリスがアルノールを睨むのは、殆ど照れ隠しだ。アルノールもそれを分かっているので、ますます笑った。

「ていうか、覚えてたんだね。」

「………まあ。」

 ユウリスは未だ不機嫌な声で、そう答えると、ぷいとそっぽを向いた。

 忘れられるのならば忘れたい記憶ではあるが、そういうものこそ忘れさせてはくれないものだ。どんなことを話したかまでは、さすがにユウリスも覚えていない部分が多い。だが、何度も何度も同じ話をする自分を、ずっと辛抱強く聞いては励ましてくれたアルノールの姿は、ユウリスもよく覚えていた。

 感謝していないわけではない。あの日、思いっきり愚痴を言わせてくれて、泣かせてくれたから、あれほど早く立ち直れたのだと、ユウリスは思っている。

 旅立つ彼女を笑顔で送る事ができたのは、間違いなくアルノールのおかげだ。

 ようやく笑いの発作から、アルノールが立ち直ったのを感じ、ユウリスはようやく彼の方へ視線を向けた。

「アルノー……。」

「ごめん、ごめん。…でも、本当に人生って、何があるか分からないね。」

 アルノールの視線はユウリスの左手にある。ユウリスもふっと表情をゆるめ、そこにある印を見た。

「本当に。貴方達以上に大切な人が出来るなんて……、私も思わなかった。」

 ユウリスは、この印で繋がる彼女を思い出し、口元を緩ませた。




 ユウリスとアルノールが、そうして昔を懐かしんでいた夜から数日。

 ティリスの元に、ユウリスからの結果が書きしたためられた手紙が届いていた。ロゼルから渡されたそれをティリスは、何度か読み返した後、ふぅと息を吐いて、それを置いた。

「承知いたしました、とユウリス様にお伝えいただけますか、ロゼル様?」

「ん。…それだけで良いの?」

 そろそろ部屋の様子を描くことに飽きてきたのか、今度はティリスを描いていたロゼルは、手を止めて彼女を見た。

 ティリスはユウリスからの手紙を撫でて、頷いた。

「はい。」

 もちろん、ティリスも言いたいことは沢山あった。伝えたいことも。返事を書こうかとも思ったティリスだったが、やはりそれは違うな、と思いやめたのだ。

 伝えたいことは、会って伝えたい。だからいいのだ。

「そう、分かった。明日の事については、どのくらい書いてあった?」

 ユウリスからの手紙は、始終ティリスを案じる文面で、伝えたい事が簡潔に書かれた内容だった。

 明日、ユウリスは王宮へと乗り込む。手紙はその事に関するものだ。

「大方は。魔導師の方々が見つかったようで、よかったです……。」

 離宮へと捜索に向かったユウリス達は、無事魔導師達を発見する事に成功していた。

 予想通り、ラッセルの離宮に捕らわれていた魔導師達は、現れたユウリスを見た瞬間、咽び泣いて助けを喜んだ。やはり脅されて、留まらざるを得なかったのだ。

 定時連絡を入れていた魔導師も、ラッセルの命に逆らうことが出来ず、泣く泣く行っていたようだが、どうにか非常事態を伝えようと試みてはいた。だが結局、それを受け取っていた誰も気が付かず、その魔導師は、誰も真面目に聞いていない、とひどく憤慨していた。

「後は、ユウリス様がお怪我無く、終わってくれれば良いのですけれどね。」

 明日は決して戦争をしに行くわけではない。状況から鑑みるに、危険がありそうな、と言えば、ラッセルと直面するであろうユウリスくらいだ。だからこそ、ティリスはユウリスが怪我をしないか、それがとても心配だった。

「君は、本当にユウリスの事ばかりだねぇ……」

 呆れ混じりのロゼルの指摘に、ティリスはほんのり頬を染める。

「そ、そうですか……?」

 無意識だったが言われてみればそんな気もすると、大きく頷くロゼルにちょっぴり照れくさいティリスは、ぽりと頬を掻いた。

「ああそうだ、ユウリスで思い出したけれど。聞きたいことがあったんだ。」

 そういうと、ロゼルは持っていたペンを置いて、手を組みティリスを真っすぐと見つめる。その視線にティリスがたじろぎつつ、何ですか、と尋ねると、ロゼルはティリスが思いもよらない事を口にしたのだった。

 ロゼルが、ふふんと口角を上げた。

「王配、決められた?」

「……………は?」

 目を点にしてティリスは間の抜けた声を出す。

 そうして次第に状況整理が出来てくると、ティリスの頬はぶわっと熱くなった。そして、彼女は思わず立ち上がり、椅子がガタッと大きな音をたてた。

「し、しって、らっしゃったのですか……?!」

 ロゼルは黙ってにっこりしていたが、どう見ても初めから分かっていたという顔だ。見透かされていた恥ずかしさから、ティリスは頬を押さえて、う゛ぅ、と呻いた。そして、力が抜けたようにストンと椅子に腰を下ろした。

 というか、色々ありすぎて、ティリス自身忘れかけていたのだ。ロゼルを王宮へと呼んだ、本来の目的を。

 それなのに、どうして彼が知っているのか。ティリスは顔を覆って、赤い顔を隠しながら聞いた。

「どうして、知ってらっしゃるんです……?」

「そうだね…、時期とか状況を考えて、そうかなーって。」

 その答えを聞いて、不自然ではないように、彼を王宮へ招こうとしたのは無駄だったのでは、とティリスは気が遠くなった。

 だが考えていても仕方がない。ロゼルが来た後も、見合いの肖像画は減らなかったのだがら、ロゼルだけが気が付いたのだろうと思い込むことにして、ティリスは思考を切り替える。

 今考えるべきは、王配の件だろう。

 ティリスは顔を覆った手の指の隙間から、ちらりとロゼルを見た。特段、答えを待ち構えている、という様子ではなかったが、再びペンを握ろうとはしない。

 ティリスは、何も考えていませんでした、とも言えず、改めて考える。

 はじめの目的であった、ロゼルの人となりを知る、という点については達成できた、ようにティリスは思っていた。

 だが、決められたのか、と問われると、答えは否だ。

 仕方なく、ティリスはそのまま口に出した。

「………まだ、決められて…いません。」

 ティリスがそう言うと、ロゼルは意外そうに眉を上げる。

「そう? 本当は決まってて、彼に遠慮して言えない。それだけじゃないの?」

「そ、そんな事は……」

 ない、と言いかけて、ティリスは口を噤む。本当にそうだろうか。

 私は、生涯を共に歩むなら誰が良いのかなんて、もう……。

 だが、ティリスはぷるぷると首を振った。

「ティリス、君はもう少し、わがままになってもいいと思うよ?」

 ティリスはふるりと首を振る。

「私は、十分にわがままですよ……。」

 この五年ティリスが、のらりくらりと結婚問題を交わしてきたのは、相手を決めかねていたから、だけではない。

 怖かったのだ。

 その話を具体的にしていく事で、彼との関係が変わってしまう事、それが。

 今のままの心地良い関係で、ずっと一緒にいられたら。

 そう思っていただけ。

 それだけの理由でティリスは、相手すらはっきりさせなかった。そうすれば彼は、彼が選ばれる可能性を残っている以上、別の誰かと歩んでいく選択をしない。

 それが、分かっていたから。

 ずっと、何も言わぬ彼の優しさに、ティリスは甘えていた。

「今なら分かります。私が……、いえ、女王が選ぶべきは聖魔導師。」

 ラッセルが事を起こした今、よりその重要性が増した。血筋より、印を重んじる、その必要性が。

 王配に王族を選べば、印によって選ばれた聖魔導師より、戦乙女の血を引く王族を重視する、という意思表示になってしまう。それは今後、ラッセルのように先王の子だから、という理由で王位を狙う者を育てる、温床となってしまう。

 そんな事は出来ない。ティリスもその事に、心のどこかで気が付いていた。

 気が付いて、それでも、ティリスは決断する事が出来なかった。

 これをわがままと言わずに、なんと言うのだろう。

「私にとって、あの人は特別なんです。ずっと…。」

 初めて会った時から、特別。

 だがもう、今はそれだけではなかった。

 気持ちを認めてしまえば、全てが変わってしまう気がした。

 だからずっと心の奥に封じ込めてきた。

 それでも、その気持ちは、確かに育って、もう、無視できない。

 彼からの手紙の最後の一行が、ティリスのその気持ちを、無視できなくした。

「だから、伝えるんです。次に会ったら……。もう、きっと黙ってはいられないから。」

 変わる恐怖より、ずっと大きくなっていたこの気持ちに、気が付いたから。




 その日、ティリスは恋をした。

 彼女を、狭い、狭い、鳥籠から連れ出してくれた、その人に。


 その日は朝から騒がしかった。とはいえ、騒がしいのは母屋の方で、ティリスのいる離れは、その喧騒からも遠いものだった。

 だがもし、騒ぎがこの離れで起きていたところで、ティリスの耳には届いていなかったかもしれない。

 それよりもティリスは、考えるだけでも恐ろしい事が、彼女の胸を埋め尽くしていた。だからきっと、外の喧騒など、一つも彼女の耳には届かなかった事だろう。

 数日前から、それほどまでにティリスを支配する恐怖。それを、彼女は誰に相談することも出来なかった。

 こんな時、実の母が生きていたなら、話すことが出来たのだろうか、そんな途方もない事をついティリスは考えてしまう。

「どうして、私が……」

 部屋の隅で小さくなったティリスの声を聞く者はいない。

 当然だ。ティリスは、自身の姿を隠すように、この数日を部屋に閉じこもって過ごしていたのだから。

 姿を隠し、誰にも見られぬように。

 この右手を。

 そこに刻まれた、それを。

 この、印、を―――

 ティリスは恐怖で震える身体を抱きしめる。

 幸い、ティリスが部屋に閉じ籠っていようと、様子を見に来るような人は、この屋敷にはいない。だから見つからずに過ごせているが、それも時間の問題であることを、ティリスとて分かっていた。

 このまま次の王は自分だと、誰も名乗りを上げなければ、いずれ父はティリスの右手を確認しに来るだろう。

 そうなれば、ティリスは二度と、自由を夢見る事さえ出来なくなってしまう。この印がティリスの右手にある事、それを彼女の父が知れば、それは。

 父の傀儡として、死ぬまで、玉座に座り続ける自身の姿。それを想像し、ティリスは身震いした。

 ティリスの父は彼女を憎んでいる。それでも、彼はティリスを使う。ティリスはそれを断言出来た。

 彼は兄王に酷い劣等感を抱いていた。何をやっても勝てない兄。そしてついに、玉座まで手に入れた兄。ティリスの父は、そんな兄王に勝てるかもしれない機会を、決して逃しはしないだろう。

 ティリスを王座につけ、彼はそれを裏で操る。

 そこにティリスの意思は存在しない。

 それが、ティリスは怖いと思った。

 そうなれば、きっと誰も助けてはくれない。どんどんと侵食され、消えていく「自分」。ティリスはそれに恐怖した。

 だから彼女は隠した。些細な時間稼ぎにしかならない事に、気が付きながら。

 それでも、「自分」を手放せなかった。

「………っ」

 ティリスは零れそうになる涙を拭う。

 産みの母は、ティリスが産まれると同時にこの世を去った。

 父は、愛する女を殺した娘を憎んだ。

 父の本妻は、流れた息子の代わりに同日に産まれた娘を偏愛した。

 異母兄達は、母の愛を奪った異母妹を憎んだ。

 この屋敷にいる家族と呼ばれた人達は、誰も「ティリス」を愛さない。見もしない。

 それでもあの日、あの人が、味方だと言った「自分」。

 それだけは、守りたかった………

 その時、キィと音がした。

 ティリスは蹲りながらも、それが扉の開いた音だと分かった。

 ついに、知られてしまったのか。

 ティリスは、自分を守るように、一層身体を縮こまらせる。

 だが、扉は確かに開いたはずなのに、ティリスが予想したような怒号は、いつまで経っても降ってこない。

「―――、姫。」

 今、の声は―――?

 ティリスは息が止まるかと、思った。

 父ではない、そんな事は彼女もすぐに分かった。

 なら今の声は、一体、誰。

 ティリスは、そろりと顔を上げた。やはり、父なのではないか。そんな恐怖と戦いながら。

 扉の方へ視線を向ける。

 出入り口の所に立っている彼の顔を確認するには、もっと顔を上げる必要があった。

 そろり、そろりと、視線を上げていく。

「―――っ」

 目が合う。

 どうして。

 いや、本当は、声で分かっていた。

 あの日から、忘れる事の出来なかったその声。

 ティリスの目からぼろぼろと、大粒の涙が零れ落ちた。

 もう、その胸に恐怖はなかった。

 あるのは、安堵。それから―――

「ユウリス・プランタールさま……」

 泣きじゃくりはじめたティリスに焦るユウリスは、慌ててティリスに駆け寄ると、そっとその背を撫ぜた。

「ティリス姫……?」

 ユウリスは困ったような表情で、ぼとぼとと涙を零すティリスの顔を覗き込んだ。そんな彼に、大丈夫と小さく首を振る。

 涙は止まらなかったが、ティリスは笑った。笑って、ユウリスの差し出した手を取った。


 そうしてティリスは、鳥籠を出ていった。

 胸に安堵と、そして、どうしようもない恋心を抱いて。




 遠くで爆発音のようなものが聞こえた。

 牢の中でじっと座っていたティリスは、その音にビクッと肩を揺らして、その音がした方向を思わず振り返る。もちろん、ティリスの目には壁に阻まれて何も見えはしない。だが、方角的に城門の方だとティリスは思った。

「………、一筋縄では、いかない、か。」

 外で何が起こっているのかは分からないが、十中八九、ユウリス達だろうとティリスは当たりをつけた。

 ユウリスの手紙が届けられた明くる日。

 今日は、ユウリスがリンデから戻って来た、という体で、王宮へ乗り込む決行日だ。

 本来なら、リンデから戻って来たユウリスが、失踪したはずの魔導師達を引き連れて帰ってきたならば、歓迎されこそすれ、入城を拒まれることはない。

 けど、きっと上手くいかなかったのだわ……。

 ティリスは頬杖をついて、ふうと息を吐いた。

 先程の爆発音は、おそらくラッセルの命を受けた門番と口論になって、城門か何かを魔法で吹き飛ばした音だろうとティリスは思っていた。

 もっとも、ユウリスが短気を起こしたわけではない。そこそこの魔法では傷一つつけられないはずの城門や城壁を破壊する事で、それを見ていた人々の意識を逸らし、ついで、敵わないと思わせ、無駄な戦闘を避けるために、大袈裟にして見せただけだ。

 きっと今頃、その混乱に乗じて、ユウリスはラッセルの元へと向かっているはずだ。

 私は、ここにいるままでいいの?

 ティリスはふと、そんな事を思った。

 昨日の手紙には、何も心配しなくていい、そのような事が書かれていた。だから、ティリスは自分の出番が訪れるまで、大人しくこの場所で待っている、そのつもりだった。

 だが、それで本当に良いのだろうか。

「……もう、五年前とは違う、のに?」

 ここからは出られない、そう言ってただただ諦めていた少女は、もういないはずなのに。

 ティリスはすくっと立ち上がる。そして、この牢唯一の出入り口である扉の傍に近寄った。その小さな小窓から外を覗く。

「誰も、いない?」

 ティリスは、どうせここからは出られない、とここにいた牢番の動きになど、気を留めてこなかった。だがよくよく思い出してみれば、いつもこの場所に立っていたのは同じ人物だったようにティリスは思った。

 出来うる限り、この場所にティリスがいる事を知られたくなかったが故だろうが、一人ならば、休憩や眠る時間にこの場所にいないのは当然だ。

 休憩も取らず、眠りもせず、ここに立ち続ける事など、人間ならば不可能なのだから。

 これを逃せば、もうこんな機会はない。そして、ユウリスの行動により、城内が混乱している、それもあって、今はこれ以上ない好機だった。

 ここには鍵がかかっていて、この部屋も牢なのだから、魔法は使えなくなっている。

 ティリスはそう思っていた。いやきっと、それは正しい。だが、ティリスは出ようと試みる事すらしなかった事に、今更気が付いた。

 ここに入れられたのだから仕方ない。そう言って、監禁生活を甘んじて受け入れていた。だがティリスは、本当に出られないのか、など試していない。

「私はもう、あの頃の非力な少女じゃない。」

 ティリスは扉の取っ手を握り、押したり引いたりしてみる。当然、鍵がかかったその扉は開かなかった。だが、その鍵さえ何とか出来れば。

 ティリスは目を瞑って集中する。やはりこの場所は魔法の効きが悪い。並の魔導師なら使う事は出来ないだろう。だが、ティリスは並の魔導師ではなかった。もちろんユウリス程ではない、しかし、通信魔法を事もなげに使いこなせるほどの術者ではあるのだ。

「威力は半減以下…、だけど。使えない事は、ない。」

 ティリスは、目を瞑ったまま、扉の向こう側にあるはずの鍵を意識して、魔力を込める。

 すると、バキンッと音がして、次に何かがガランガランと床に落ちる音がした。ティリスはパッと目を開いて、扉を押してみる。

 するとそれは、何の抵抗もなく、静かに開いた。

「や、やった……。」

 床には、先程の魔法で破壊されたらしき、鍵の残骸が転がっていた。それを見て、ティリスは暫し考えた。この残骸を放置しておくとした時、どうなるかを。

 私の不在が、すぐに分かってしまう……。

 ティリスは一つ頷くと、牢から出て扉を閉め、その鍵だったものを拾い集めた。そしてそれを、元あった場所の近くまで持ち上げ、魔法をかけた。

 すると、その金属達は宙に浮いて、くるくると回転しながら、元の形に戻っていく。

 そしてそれは、あっという間に、再び扉の鍵として機能しはじめた。

「これでよし。」

 ティリスはにっこり笑うと、今度は自身の身体に魔法をかけた。それは気配が遮断され、人から見つかりにくくなるものだ。ティリスはそれを念入りにかけると、満足したように頷いた。

 もう、貴方を待っているだけの私じゃない。

 そして、何の未練もなく、ティリスは小走りでその場を後にした。




 ティリスの予想通り、城門を派手過ぎるほどに破壊して、王宮へと乗り込んだユウリスは、意外なほど、いや、ラッセルの行いを考えればそれほど意外でもないが、ともかく簡単にラッセルの居場所まで来ることが出来ていた。

 ティリスが拘束されてから既に一月が経たんとしているが、ラッセルは人心掌握に、見事に失敗していた。

 突然失踪した、という事になっているティリスに代わり、我が物顔で王を気取っているラッセルに、不満を持つ者は多く、それが横暴ともなれば、当然その数は増える。

 またティリスに何があったか知らない人々も、聖魔導師までもが、リンデから予定を大幅に遅れて帰ってこない、ともなれば、何かあったのだろうと推測するのは容易かった。

 また、王付き、聖魔導師付きの侍女や護衛が、突然城に来なくなり、ティリスやユウリスについて、ラッセル及びその周辺に尋ねた者も、解雇されたり、拘束されたりと同じ運命を辿った。

 これで、ラッセルの言を疑うな、という方が難しい。

 これでこの国に、印という王位継承制度がなければ、二人の死亡説まで囁かれていた事だろうとユウリスは思った。幸いにして、印の次の継承者が現れない事で、それはないだろうと、皆思っていたようだが。

 ともかく、そういった訳で、早々に情報を売られたラッセルは、一部の取り巻きと共に、玉座のある謁見の間にいる事が判明したのだった。

 ユウリスは扉を開けようとして、手を止める。ちらりと後ろを確認すると、皆ユウリスと同じ、呆れたような顔をしていた。

 扉の外まで、ラッセルの焦った怒鳴り声が聞こえる。何を言っているのか、まではさすがに聞こえなかったが、その口調だけで、余裕の無さがありありと感じられた。

 が、このままでいるわけにもいかない。ユウリスは、はあと大きな溜息を吐いて、その扉を開けた。

「どういう事だ! 先程の話と違うではないか!!」

「も、申し訳ありません!」

 扉を開けたユウリスが見たのは、見事に混乱している現場だった。怒鳴るラッセルに、その前でへこへこと頭を下げる兵士と、その周りで恐々としている十数人はいる兵士達。

 その中、ラッセルの隣にいながら、冷めた目で彼を見ている青年とユウリスは目が合った。彼は、示し合わせたようにその視線を受けて、ラッセルを呼んだ。

「殿下。」

「なんっ……、―――!!」

 何の用だ、と隣の男に怒鳴ろうとしたらしく、顔を上げたラッセルが、ようやくユウリス達の存在に気が付いて、息を飲んだ。

「き、貴様、何故ここに!!」

 狼狽するラッセルを見て、ユウリスは呆れ果てたように溜息を吐く。

「何故、とはまた異な事を……。私は聖魔導師。いて、不思議ですか? ……それに、私より余程、その場に相応しくない者がいるでしょう。」

 そこで言葉を切ったユウリスは呆れたような表情を一転させ、ギッとラッセルを睨みつける。

「貴様こそ、その玉座で何をしている。」

 冷たい底冷えするようなその声に、それを向けられていないはずの者まで身震いする。周りでさえそれなら、それを直に向けられたラッセルの恐怖は、量りしえない。

 普段なら間髪入れず怒鳴り返すはずのラッセルが、口を開けて数秒間静止していた。

 だがそこはラッセルというべきか、すぐにはっとして我に返ると。思い出したように怒りを再燃させる。

「何を、だと?! 見て分からんのか?!」

 その言葉にユウリスの眼光の鋭さが増し、彼を取り巻く空気も幾分冷えたのだが、ラッセルがそれに気が付く様子はない。ラッセルは愉悦に浸るように、にやりと口角を上げた。

「私はついにやったのだ!! あの忌々しい、王位を奪った女を出し抜き、この城を我が物とした!」

 周囲の想像を上回る、誤魔化しようのない女王への侮辱に、もはや一同は呆れ顔だった。

 だが、最後の一言がいけなかった。

「これからは、―――私がこの国の王だ!!」

 ブチリと堪忍袋の緒が切れるのを、その場の何人もが聞いた。

 そして、ラッセルの傍にいた兵士達は、すすと彼から距離を取り、怒りが振り切れ、逆に笑顔になったユウリスを、恐々としながら見守っていた。

「本当に、貴方は王族にしておくのも、もったいないですよ……。」

 ユウリスのその言葉をどうとったのか、ラッセルはふんと満足そうに胸を張る。

「そうだ。私はただの王族に収まる器ではない。陰気なあの女より、私の方が王に―――ぐっ……!」

 しかしその言葉は、不自然に途切れた。何事かと一同がラッセルに目を向けると、彼は、自身の喉元を手で掻いて、苦しそうに顔を歪ませていた。この状況で、変わらず笑顔を浮かべるのは、ユウリスただ一人だった。

「ティリスに感謝しなさい。」

「き、きさ……。」

 喉に纏わりつく、見えない手を引きはがそうとするように、ラッセルは手を動かす。だが何もつかめない。当然だ。それは魔法で、実体などない。

 呼吸が出来るギリギリまで絞られた喉からは、ひゅーひゅーという苦し気な呼吸音しか聞こえない。それをしているはずのユウリスは、眉一つ動かさず笑った。

「貴様のような人間であろうと、彼女は死んでほしくないと思っている。だから、殺しはしません。」

 ユウリスは言い終わると、ラッセルの喉からその魔法を消した。そしてついでとばかりに、彼を玉座から引きずり出して、床に落とした。もちろん全て魔法で。傍目には一人でにそれが起きたように見えた。

 喉を絞められていたラッセルは、受け身を取る事も出来ず、そのまま床に倒れ伏して、大きく咳き込んでいる。だが、彼を助け起こそうとする者はいなかった。

「さて。ティリス女王陛下への数々の侮辱、聞き届けましたね。」

 茫然と成り行きを見守っていた周囲は、その声にはっとしてユウリスを見た。

「さあ、逆賊ラッセルを、拘束しなさい。」

 これでようやく一息つける。ユウリスは、そう安堵して、ふうと息を吐いた。

 ユウリスだけではない。その場の誰もが気を緩めていた。

 だから、誰もそれを止められなかった。

 ほんの少しの隙を突いた男が、腰に帯びていた剣を抜いた。

 はっと息を飲む気配に、彼が気付いて振り返った時には、もう遅かった。

 男の振りかぶる剣先が視界に飛び込んでくる。

 そして、鮮血の赤が舞った。

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