涕涙の章
その事に気が付いたときには、もう全てが…、全てが終わっていた。
俺は久方ぶりの王城を見上げた。
「リアーナ…。」
この城に住まう、孤独な幼馴染み。幼い頃は、祖父の友人の孫娘である彼女とよく遊んだものだが。あれから、あまりにも長い時がたってしまったような気がする。
彼女は変わってしまったのだろうか。昔と変わらぬ笑顔に会いたい。だが、俺はその気持ちと反する事を始めようとしている。俺はどちらを望んでいるのかわからなかった。
だが、俺はこんなにも変わってしまった。彼女に変わらぬ事を望めるはずもない…。
彼女と会いたい、でも会いたくなかった。俺はどうやって彼女と向き合えば良いのだろう。
彼女は、リアーナは………。
月日はあまりにも無情に過ぎ去った。俺は…
王城は昔と何も変わらなかった。まるで、時そのものが止まってしまっているようにさえ感じるほどに。
実際止まっているのかもしれない。昔からあまり会ったことの無い王は、それでも分かるほど、娘であるリアーナを忌んでいたが、その様子も呆れるほど昔と変わっていなかった。
挨拶ぐらいはしなければ、と訪れてはみたものの、あいも変わらずただ不快になるだけの男だった。
「それでは、失礼します。」
それだけ言うと、素っ気なく扉を閉め、少し息を吐いてから、俺は歩き出した。
リアーナに会う前に、城を出てしまおう。
その事ばかり考えていて、前から走ってくる小柄な影に気付くのが遅れた。
「きゃっ―――ご、ごめんなさ…」
少し下方から聞こえてくる声に思考が打ち切られ、声の主が誰かわからなかった。
「―――シアン!」
俺の名を呼ぶ声に、ようやく彼女の顔に焦点が合う。
まさか……
「リアーナ…?」
美しい。
俺は自然と思った。昔よりも遥かに美しく、そして、儚くなった…。
「いつ戻ってきたの?」
そう無邪気に尋ねる彼女の笑顔は昔と何も変わらなかった。
俺はその笑顔にこんなにも焦がれていたのかと思った。
「ついこの間。やっと落ち着いたから、今上陛下に挨拶に来て…。リアーナは?」
内心、ものすごく動揺していた俺だがその事を隠し、努めて冷静に話した。
「私? あ…お父様に呼び出されてて……今から行くところだったの。」
一瞬、寂しげな表情が浮かんだ気がした。でもそれは、幻の様に消えて、リアーナは明るく微笑んでいた。
「なら…早く行った方が良いな。俺も、もう行くよ。」
早くリアーナを父親の元に行かせなければ、というのも勿論あった。だがそれ以上に、彼女の笑顔が俺には堪えられなかった。
どんどん自分の行動に自信が持てなくなっていく。だが、もう引き返す事なんて……。
帰ろうとは思っていた。
しかし、俺は気が付くと王の部屋の前でリアーナが出てくるのを、今か今かと待っていた。
今頃酷く罵倒されているに違いない。そう思うと、どうしても体が動かなかった。先ほど一瞬だけ浮かんだ、寂しげな表情が脳裏にこびりついていた。
暫くすると扉が開き、沈んだ顔のリアーナが出てきた。そのまま泣いてしまうのではないかと思うほど、悲愴な顔。
「リアーナ。」
俺はその表情が見てられなくて、堪らず声をかけた。
「シアン…? どうしたの?」
リアーナは俺の存在に気付いていなかった様で、一瞬驚いたような顔をすると、笑顔を浮かべて俺を見た。
でも、この笑顔は…
「まったく……、嘘が下手だな、昔から。陛下に何言われた?」
いつもとっさに嘘をつくときは、この表情になる彼女に半ば呆れながら、溜息を吐きながら、俺は近付いた。
そして、昔いつもしていたようにリアーナの頭を軽く叩いた。
そうするとリアーナは嬉しそうに微笑んでから、何でもないふうに続けた。
「結婚することになったらしいの。」
初めは聞いたことの理解ができなかった。そして、認めたくなくて、思わず彼女に聞いた。
「…………誰が?」
「私。」
それを聞いてもやっぱり理解ができなかった。
認めたくなかった。
ただただ、彼女の婚約者となった男に腹がたった。そんな結婚をさせる王にも。
リアーナは平然とした顔をしようとして、失敗したような、泣きそうな顔をしていた。
「“おめでとう”………って言わなくちゃ駄目か?」
俺は苦々しい気持ちを抱いたまま呟いた。
言いたくなんかない。絶対に。リアーナを悲しませる奴は許せなかった。リアーナは俺が……。
「言わないで。シアンだけは……。」
まるで今すぐ消えてしまいそうだ…。
俺はなぜかそう思った。
「ドルー。調子はどうだ?」
「シアンか、悪くはねぇよ。」
俺は王都の境近くにある村の、とある一軒家へと赴いていた。
リアーナと会ってから一週間、俺は城へは度々訪れていたが、リアーナとは顔を会わせないようにしていた。
「城の様子は?」
大勢いる同士の一人であるドルーは、何気無く聞いてきた。
「ああ、そうだな…、人が減ってきてるよ。特に王女の周りから。あー、だが、王贔屓、王太子贔屓の連中は、奴等に心酔してるからな。国を引っくり返そうとしている奴等がいるなんて、信じられないんだろう。逃げる気配もないよ。」
そう、俺達は計画があった。王への反逆という。王位が欲しいわけでは無い。ただ俺は、この城下を離れていた数年間で、国の惨憺たる状況を知った。辺境の村々は、困窮に喘ぎ、飢えて道端で倒れ行く人々が大勢いた。王はそんな状況を顧みず豪遊三昧。いや、そんな生活があるという事を知りもしないし、知ろうともしていないのだろう。
ドルーは、共に革命を起こす仲間の一人だった。
「ふぅん、でもそれなら王女は異変に気が付かないか?」
「………さぁ、どうだろうな。」
リアーナが気付くかもしれない? ―――そんなこと、考えてもみなかった…。
もし、気が付けば彼女は逃げるかもしれない。いや、普通の神経の持ち主なら逃げるだろう。―――――そうなれば。そうなれば、彼女を殺さずに済むかもしれない…。
民衆は、それを許さないかもしれない。だが、俺は……。
「シアン? それで、決行はいつにする気だ?」
ドルーの声に思考が打ち切られる。俺は、少しぼんやりとしながら答えた。
「…二週間後、だ。その前後は軍が毎年ある、国境警備の演習だとかで、城は割かし手薄になるからな。その日の朝方、城の門兵である、同士の一人が手引きする手はずになっている。………前に言ったと思うが?」
「あ? え、そうだっけ。おいー、そんな、にらむなよ。もう、忘れねーからさ!」
「……、わかったよ。」
俺には大切な仲間がいる。彼らを裏切るわけにはいかない。
だから、脳裏にちらつくあの笑顔を、頭から消し去った。
「俺は……、何をしてるんだ。」
明日は、計画実行の日。俺がこんな所にいるのは、あまりにも不自然だった。
俺の目の前には、扉がある。そして、この先にはリアーナがいる。ここは、リアーナの自室前だった。
「リアーナ…? シアンだけど。入って良い?」
俺は、意を決して声をかけた。
何を言う気なんだ。俺は…。自分でも分からない。
「シアン? どうしたの? 珍しいわね。さぁ、入ってちょうだい。」
リアーナは何も知らないようで、笑顔で俺を出迎えた。その笑顔が心に突き刺さる。
リアーナの部屋は、少しの本とちょっとの家具しかなく、殺風景な部屋だった。まるで誰も住んでいないかのように。
リアーナに促されるままソファに座った。リアーナは隣に座って、俺が何かを言うのを待っている様だった。
「今日城を出ようと思って、挨拶に来た。」
俺は、何とも言えず、苦し紛れにそう呟いた。事実そうなのだから、嘘はついていない。俺はそう言い訳をした。
それを聞いたリアーナは、少しだけ寂しがるような口調だった。
「…そうなの、寂しくなるわね。」
ふと、リアーナの方を見ると、リアーナは少し俯いていた。
俺はその姿に既視感を覚えた。そうだ、これはいつもリアーナが泣くのを我慢するときと同じ。
「リアーナ? ……泣いてる?」
リアーナはその言葉に驚いたようで、素早く顔を上げた。しかし、その反動で目尻にたまっていた、涙が頬を伝った。
「え? あ、ご、ごめん。そんなつもりじゃ………。」
そう言って、涙を拭うリアーナはあまりに小さく見えて、俺は堪らなくなって、リアーナを抱き寄せた。そして、頭をなでる。昔もよく、父親に酷く当たられて泣くリアーナを、こうやって慰めたものだった。
嗚咽を漏らすリアーナは、痛々しくて、俺はどうすれば良いのか分からなかった。
暫くすると、落ち着いてきたらしいリアーナは、恥ずかしそうに顔を隠そうとした。
「ごめん。でも、泣かせるつもりは無かったんだ。」
そう言いながら、まるでそうするのが自然な事であるかのように、唇で目元に触れ、涙を拭った。
「わかってる。ごめんね。」
リアーナの頬は熱かった。俺も熱で浮かされた様に、頬を辿り、そのまま唇を攫った。
俺は甘い感触に酔いしれて、もう何も考えられなかった。ただ、気が付くとリアーナは俺の下にいて、はじめに感じた涙の味は、甘さの中に消えていった。
目が覚めると、まだ辺りは暗く星が輝いていた。まだ夜が明けていなかったことに少しだけ安堵して、俺は隣に眠るリアーナに視線を移した。
本当に俺は何をしているんだ………。
だが、今まで経験したことも無いほど満たされた時間だった。リアーナは乱れ咲く花を思わせた。美しい天上の女神を地上の闇に引きずりおろす愚かな人間。そんな絵が浮かぶほどに。
俺は薄いシーツを彼女の身体にかけてから立ち上がった。もう行かなくては。
「シアン。」
彼女を起こさぬように静かに用意していたが、彼女は物音に気付いてしまったようだった。
できることなら、彼女が起きてしまわぬうちに行ってしまいたかったのだが。
「リアーナ……。俺―――」
俺は、何も言えなくて、口ごもった。
「わかってるわ。もう行くんでしょ?」
何を分かっているというのだろう。俺がここから去れば二度と会う事はないだろう。だが、彼女はそんなことは知らない。きっと、またいつか会えると思っているだろう。
胸が痛かった。
「ねぇ、最後に………キスして。」
何を思ったのか、彼女はそんなことを言った。
断るべきなのかもしれなかった。だけど、これが最後なんだ。そんな思いが、俺を駆り立てた。
少しだけ触れて、直ぐ立ち去るつもりだったのに。
俺は気が付くと彼女をきつく抱きしめ、唇を貪っていた。
息が切れてきて、思わず唇を離す。俺はそれで我に返り、急いで身を離した。
「元気でね。」
リアーナは笑顔を向ける。俺は、もう彼女の顔が見れなかった。
「あぁ、………お前も。」
彼女の末路は分かっていた。だから、そう言うのは胸が引き裂かれそうなほど、辛かった。
「――― 幸せに、生きて。」
俺は答えることができなかった。
仲間の元へ合流し、夜明けとともに城に攻め込む。
王と王太子は激しく抵抗した。だが、多勢に無勢だった。それに引き替え、王女は抵抗をしなかったらしい。それどころか、協力的な態度だったとさえ聞いた。
城は一日で落ち、民衆は歓喜した。
その熱狂を、俺は虚ろな目で眺めていた。
日々は俺の与り知らぬところで過ぎていっていたらしい。俺は気が付くと、髪の短くなったリアーナの登場を眺めていた。
「リアーナ……。」
久しぶりに見た彼女は、痩せこけ、そして美しかった。
「何か、言い残すことは?」
リアーナを引き摺ってきた男が、彼女に問いかける。
彼女はその時ふと前を向いた。そして、俺と目があった。
俺は無性に怖くなった。彼女は俺を恨んでいるに違いない。彼女は憎しみの目で俺を見るだろう。彼女は――――
「―――――ないわ。」
彼女の目は、とても静かだった。俺を見たとたんに、もうこの世に未練はないとでも言いたげな表情になった。
どうして。どうして、こんなに静かなんだ。俺はこんなにも………。
彼女の手首が固定された。もう今にも彼女は―――
リアーナが少し上を向いて、俺を見た。そして、少しだけ微笑んで、唇を動かした。その形は――――
「「あ」、「い」、「し」、「て」、「る」…………。」
そして、次の瞬間には。
「リアーナ、リアーナ………。俺は、俺―――。」
俺は、何て愚かだったのだろう。今更になって気付くのだろう。
「俺も、愛して、る……。リアーナ―――――!」
俺は国を離れた。誰にも言わず。忽然と。
みんなきっと探すだろうけれど、もう、あそこにはいられなかった。
自分の罪に喰い殺されそうで、死ぬほど辛かった。でも、死ねなかった。
彼女の「幸せに生きて」その言葉が、頭から離れなかったんだ。