紅涙の章
私の願いは、貴方の願い。
貴方が私の死を望むなら、私は喜んで黄泉への旅路をゆきましょう。
「リアーナ様。陛下がお呼びです。」
部屋で一人ぼんやりと、目の前の本を見るともなく見ていた私は、侍女の声で我に返った。
「い、今行きます、ってお父様にお伝えしてくれる?」
「かしこまりました。」
突然声が掛けられたのと、「陛下」の単語で、完全に裏返った声に気を留める事も無く、侍女は淡々とその場を離れた。侍女が歩き去る音を聞きながら、私は急いで本を片づけ、サッと身繕いをする。
「お父様がお呼びだなんて、きっとロクなことじゃないわね……。」
先王から王位を継ぎこの国の王となった父が、横暴な暴君として名を馳せ、臣下の評判を落としていったのは、十年弱前の事だ。そして、その横暴な態度は家族―――いや、私には当たりが強く、普段は私の事など目にも入らないのに目についた時には、殴られこそしないものの、酷い言葉を浴びせられることもしばしばある。私への分の愛情も、全て兄である長子の元へ行っているようで、兄への溺愛ぶりは誰の目にも明らかだった。そんな兄は、今、実しやかに囁かれる民たちの暴動の気配にも気付かない、ボンクラな父とよく似ていて、権力の笠を着、甘やかされまくった人間だった。
どうしてあんなのが、私の父と兄なのかと思う事もあるが…。
そんなわけで、此度の父からの呼び出しなどロクでもないものに決まっている。
「はぁ…、結婚相手はこれだ、とでも言われたらどうしようかな………。」
私も十代後半で、結婚適齢期。そんな話が合っても不思議ではないもの。
私の部屋のある離れから中庭を抜ける。私は、ここで春に咲かせる花々を見るのが好きだ。夏に鳥の囀ずりを聞き、秋には落ち葉を踏みしめる。今は冬だからそのどれも無いけれど、雪がつくる白銀の世界はとても美しいし、冬の晴れ間に見る空は青く、何処までも澄んでいる。
そんな景色に気を取られ、私は前方の人影に、ぶつかるまで気が付かなかった。
「きゃっ―――ご、ごめんなさ…」
目の前に佇む男は、私よりも頭一つ分は背が高く、謝りつつも視線を上げる、顔の所まできたところで、私は驚きのあまり、目を見開いた。
「―――シアン!」
それは、よく見知った顔。長い間、会うこともなかった幼馴染み。私は思わずその名を叫んだ。
「リアーナ…?」
シアンは、昔より少し背が伸びたような気がした。少年から一人の男性になった彼は、時の止まったようなこの城で生きる私にはそれが、昔にはなかった隔たりに感じた。
「いつ戻ってきたの?」
幼い頃は城下に住み、先王である私の祖父と、彼の祖父の仲が良かったこともあり、よく城に訪れていたシアンだったが、ここ数年は、父親と共に遠方にいた為、何年も会っていなかった。
「ついこの間。やっと落ち着いたから、今上陛下に挨拶に来て…。リアーナは?」
シアンはあまり表情をかえずそう言った。まるで、私なんか目に入ってないみたい。私は、会わなかったこの数年を思い、彼は変わってしまったのだ、と少し悲しく思った。
「私? あ…お父様に呼び出されてて……今から行くところだったの。」
「なら…早く行った方が良いな。俺も、もう行くよ。」
それだけ言うと、シアンはさっさと行ってしまい、私はその後ろ姿を見やった。
会えて嬉しいのは、私だけなのね…。
私も、父の所へ急ぐことにした。
「失礼します、お父様。遅くなって申し訳ございません。」
怒鳴られると思いつつ、父の部屋に入った私は、珍しく笑顔の父に面を食らった。
いつもなら、「遅すぎる! この薄鈍めが! お前なぞ、
「そのような事は構わぬ。さぁ、少し此方へおいで」
「………はい。」
もう少しお父様に優しくされたら、と思っていたのに、これはこれで気味が悪い。
「お前は今年、幾つになったんだった? 十九…いや、二十だったかな。」
父は自分の机の引き出しを探りながら、嬉々として聞いてきた。
「もうすぐ、十八になります。」
私は淡々と返しながらも、父がどれだけ私に興味が無いかを痛感した。私がまだ、誕生日を迎えていない事も知らないし、私の歳も覚えていない。
「あぁ、そうだったな。だがどちらにせよ、もうお前ぐらいの歳の娘は皆、嫁に行き、母となっている。お前も、そろそろ嫁に行くべきだろう。」
そう言って父は一枚の肖像画を引っ張り出し、机の上に置いた。
「この者を、お前の夫として選んだ。」
そこに描かれている、パッとしない男は、確か今、父の一番の寵臣である貴族の次男坊。
大方、その貴族は自分の息子がいかに夫として適しているかという、嘘八百――――いや…、少し誇張した表現に乗せられたというところだろう。王位継承権第二位の娘が欲しかったのだろう。兄にはもう婚約者がいるし。
「…わかりました。輿入れはいつ頃ですか。」
諦めたように私は呟いた。
こんな男の妻にならなければならないなんて、吐き気さえするが、私に拒否権は無い。大人しくしておく方が身のため、か。
「彼方の要望で、春頃だ。」
春。春までは自由でいれる…。
結婚なんてしたくない。でも、私にはどうする事もできなかった。
「失礼しました。」
叫び出したいような、大声で泣きたいような、そんな気分を押し込めて、私は父の部屋から出た。
早く部屋に戻ろう。このままじゃ、泣いてしまう…。
「リアーナ。」
だが、思わぬところから声がかかった。驚いて振り返るとそこには、柱に寄りかかってこちらを見るシアンの姿があった。
「シアン…? どうしたの?」
でも私は、シアンに内心を悟られたくなくて、無理に笑顔をつくって聞いた。そんな私を見てシアンは溜息を吐き、起き上がって、私に近付いて来た。
「まったく……、嘘が下手だな、昔から。陛下に何言われた?」
そう言いながら、シアンは昔と同じように、私の頭を軽くたたく。私は、行ってしまった過去が少しだけ戻ってきたようで嬉しくなった。だからちょっとだけ微笑んで言った。
「結婚することになったらしいの。」
あえて、他人事のように言ってみる。それを聞いたシアンは盛大に固まって、暫く私の顔を見たまま黙っていた。
「…………誰が?」
「私。」
それでも、彼は聞いたことが受け入れられない、とでもいった顔をしたままだった。
私は諦める様ににっこり微笑んで、シアンの顔を見上げた。
「ねぇ、何でこんな時に帰ってきたのかな……。あなたに、私の晴れ姿なんか…、見せたくないのに。」
小さい頃は、愚かにも彼との結婚を夢見たものだった―――― いや、今でも。
彼は、意表を突かれたような、傷ついたような―――そんな表情を浮かべている。でも、彼の心の奥底はまだ、隠されていてよく見えない。
彼は、私の事をどう思っていたのだろう。何にせよ、今知ったところでどうにもならない。ただ、つらい。何度もこういう事態になることは想定していた。それなのに、恋した相手に結婚を伝えるのは、こんなにもつらい。
家族から忌まれた私を唯一見てくれた貴方。本当は貴方と共に在りたかったのに―――
「“おめでとう”………って言わなくちゃ駄目か?」
黙っていたシアンがついに口を開いた。どうして、私の言ってほしい事がこんなにも分かってしまうんだろう。
「言わないで。シアンだけは……。」
家柄や政治利用、お金の事を考えずに、この結婚を見てくれるのはシアンだけ。
でもこれ以上、甘える事は許されないね―――
シアンと会った日から三週間が過ぎた。外に積もっていた雪は溶けてきて、春に向けて草が芽吹きだす。
あれ以来、私とシアンが会うことは無く、精々、遠くからその姿を見る程度だった。
「当たり前ね…。シアンは、忙しいもの。」
誰も居ないから、思わず内心が口について出る。
そう、彼は忙しい。
民たちの反乱の気運がよりいっそう高まって、注意して聞かなくても、首謀者と、城に攻め入る決行の日時を知ることができるほどだった。―――随分、迂闊だとも思うけど…。
日時は明日の明け方。
首謀者は“シアン・ファイスト”
そう、彼は忙しい。
忙しいに決まってる。
「まさか彼が――――― だけど、ねぇ。」
残念ながら、いたるところの噂話で聞いたので、おそらく本当だろう。
「でも、お父様と、お兄様。気付いて無いんだろうなぁ………。」
気付いてたら普通、逃げる。私はもう何日も前から知っていたけど。
私がまだここに居るのは、ただひとえに――――
ノックの音がした。
びっくりして扉に目をやると、扉の外から人の声がした。
「リアーナ…? シアンだけど。入って良い?」
「シアン?」
こんな時に来るなんて。何をしてるんだろう、彼は。
外はもう夕方で、空は赤く染まっている。
もうとっくに城を出て、準備にでもかかってるのかと思ってたのに。
疑問は尽きないが、とりあえず笑顔で出迎えた。
「どうしたの? 珍しいわね。さぁ、入ってちょうだい。」
シアンは何かを思いつめたような顔。
何を言うつもり?
部屋の客間にあるソファーに案内して、私もその横に座った。
お茶の一つでも出したかったが、何分、火も水も手元にないし、世話を焼いてくれていた侍女たちは皆、反乱に巻き込まれたくないようで、辞表を出して田舎に引っ込んでしまった。それからというものの、王贔屓、王太子贔屓の侍女たちは、その父や兄と同じく私を嫌い、呼んでもめったに来ないのだから、仕方がない。
「今日城を出ようと思って、挨拶に来た。」
座ってから暫くして、シアンはそう言った。
「…そうなの、寂しくなるわね。」
行かないで。一緒に連れて行って。そう言いたい気持ちをぐっと堪え、少し顔を伏せてそう言った。
そんなこと言っても、彼はきっと困るだけだろう。
シアンの顔を見たら泣いてしまいそうで、私は唇を噛んだ。血の味さえする。
「リアーナ? ……泣いてる?」
顔を思わず上げると、目尻に溜まっていた涙が、頬を伝った。
「え? あ、ご、ごめん。そんなつもりじゃ………。」
でも、一度流れ出した涙は止まることを知らなくて、涙を拭っているうちに、見かねたらしいシアンは、私を抱きしめ頭を優しくなでてくれた。
でも、その手は私の涙腺をさらに緩める結果となり、嗚咽も漏れる。
暫く経つと、泣いているのが恥ずかしくなってきて、顔を隠そうとした。でも、その前にシアンの手が、私の頬に伸びて、優しく指で涙を拭う。
「ごめん。でも、泣かせるつもりは無かったんだ。」
そう言うシアンの唇は、私の目尻に向かい、涙を丁寧に攫っていった。
「わかってる。ごめんね。」
頬が熱い。私はずっとこうして触れて欲しかった。
涙の筋を辿ったシアンの唇は、当然のように私の方へと降ってくる。自然と目を閉じ、その暖かな感触に浸る。
熱っぽく触れる唇。もう言葉さえも必要としなかった。
後に残るのは、二人の吐息だけ…。
溺れて交わしたキスは、涙の味だった。
私は微かな物音に目を覚ました。そっと上を見上げると、シアンが出て行く用意をしていた。
「シアン。」
静かに私が呼び掛けると、シアンはビクッと肩を震わせて振り返った。
「リアーナ……。俺―――」
「わかってるわ。もう行くんでしょ?」
暗い夜。でも不思議とシアンの顔は、はっきり見えた。でも、感情は隠れていて見えない。
嬉しいのか、悲しいのか、それとも…
シアンは何も言わず作業を続けていた。黙々と続けられる作業。私達は何も言わず、ただ衣擦れの音だけが響く。
仲間の人達が、ヤキモキして貴方を待っているでしょうに。どうして、こんな真夜中まで、彼は居たのだろう。さぁ、笑顔で送ってあげなければ。着替えの終わったシアンに私は向き直った。
「ねぇ、最後に………キスして。」
でも、私の最後のわがまま。これ位なら、許されるよね……
シアンは、立ったまま身を屈めて、私の唇に触れた。最初は優しい感触だったそれも、次第に熱を帯びて、貪欲に相手を求めていた。息が切れて、唇を離すとシアンは、はっと我に返ったように身を離した。
私は少し寂しかったが、感謝の意を込めて、彼に笑顔を向けた。
「元気でね。」
「あぁ、………お前も。」
シアンは顔を伏せて、早足で部屋を去ろうとした。扉に手をやり、ノブを回す。私はその背中に向かって、私の唯一の願いを言った。
「――― 幸せに、生きて。」
シアンは頷いた。でも、何も言わず、そして振り返ることも無く、去っていった。
窓辺に近付いて下を見ると、馬に乗って駆けていくシアンが見えた。
貴方は、私のことどう思った?婚前の身で、貴方と夜を過ごした私を、貴方は「何て女だ」と思っている事でしょうね。
でも私は、あの時間が人生で、一番幸せだった、と自信を持って言える。
貴方は去ってゆく。城から。そして、私の人生から。
でも、構わなかった。城を去る最後に、私の所に来てくれた。それだけで。
私は、今日、明日にでも、民衆の前で処刑される事だろう。でも、それは貴方が望んだこと。だから私は、私にできる唯一の方法で、貴方を助けたかった。死ぬ意味も無いから、生きているだけだった私の、唯一の希望。私の命を差し出すことで貴方が喜ぶのなら、私は喜んでその首を差し出す。
全ては貴方の為。
国が攻め落とされ陥落したのは、その日の日が沈み始めたころだった。
晴れ渡る空。日が陰りだした午後三時の少し前。髪を短く切ったので、少し軽くなった髪に、薄い服。というか、少し汚れた服。手が縛られてて、少し痛い。
私の部屋に大勢の兵士たちが、なだれ込んできたのは、一昨日の事。外が騒がしくなってから、随分経っていたから、待ち草臥れはじめたころだった。父と兄は案の定、何も気付いていなかったらしく、相当抵抗したらしい。だから私が、「遅い。いつまで待たせるつもりなの? まったく、さあ、さっさと連れてきなさい。」と、イライラしながら言った時は、兵士たち総出で、かなり間抜けな顔をしていた。
久しぶりの外で日差しが眩しかったが、漸く目が慣れてきた。熱狂した民衆の声は、私の登場でさらに高まる。 まるで見世物ね。サーカス団の犬、といったところかしら。そして転がすのは、丸いボールならぬ、丸い頭か。
私を引き摺る様に連れてきた男は、私を断頭台の前に立たせ言った。
「何か、言い残すことは?」
言い残す事…。
私は不意に前を向いたとき、私が最も会いたかった人がいた。
「―――――ないわ。」
もう、本当に未練はない。
目の前にいるシアンは、今まで見た事が無いほど厳しい顔をしていた。
恐い…いいえ、つらい顔。とても、つらそうな顔。
どうして、そんな顔をしているの? やっと望みが叶うのに。
断頭台に手首が固定され、ほぼ身動きが取れなくなった。もう、幾分も時間は残っていない。
私は堪らなくなって、少し無理をしてシアンを見た。そして、私はシアンに最も言いたかったことを、唇だけにのせて紡いだ。
「愛してる。」
それは、声にはならなかった。でも良い。貴方はこれで、幸せになれるんでしょう?
それへの彼の反応は分からない。その時にはもう、何も分からなかった。
王女は処刑された。日を置いて、王太子、国王、と次々と処刑されていった。
人民の反乱、後に言う「革命」は終わりを告げ、国は民主化へと突き進んでいった。
しかしそこに、人民解放の英雄、「シアン・ファイスト」の名は無い。
王女リアーナの処刑後、彼は忽然と姿を消し、それ以後、彼の姿を見たものは誰一人としていない。