第三部晴れ渡る国
第七楽章来たりし恵と
その歌は、今はもう妖精の里でしか歌い継がれていないものだった。
一人の女を愛した男。それを奪われ、怒り、男は神になった――。
世界の気象が乱れるのは、その怒りが未だ冷めやらぬからであると、歌は語る。
妖精語で歌われるそれは、この場にいる殆どの人間にとって意味の分からない音の羅列に過ぎないだろう。
だが、ユチルの歌声に魅せられるように、人々はじっとその声を聞いてた。
それは、舞を続けるラミアも同じ。
その優しく、美しい歌声に聞き惚れるように目を閉じる。
視覚を閉ざし、聞こえる歌に意識を集中させる。
その時ふと、いつかの――、ルテスと二人きりの大風の儀を思い出した。
あの時も、歌が。同じような優しく、美しい――
ラミアはぱちと目を開けた。
「……まさか」
だが、浮かんだその考えが形を成す前に、ラミアの鼻先に何かが当たる。
はっとして上を向くと、そこには黒い雲、そして――
「――雨」
ラミアの元に落ちてきた一粒を皮切りに、人々が待ち望んだそれらが二粒、三粒と降りはじめた。
ユリーシアは、三人で儀をこなさねばならないと言っていた。
それが正しかったのだと知る。
これで、この国は救われる――
国を救うために舞をしようと思ったわけではない。ただ、自分は骨の髄まで「舞姫」なのだと思い知っただけだ。
それでも――。
周囲に目を向ければ、人々が歓喜に沸いている。嬉しそうに、雨の雫を手に受けている。
それを見れば、よかった、と心から思えた。
ユチルの歌、その最後の一小節が終わり、すぅと美しい歌声が消えてく。ルテスもそれに合わせて笛から口を離し、ラミアもまた動きを止めた。
辺りが静まりかえった。
響くのは雨の音ばかり。
しかし、それはほんの一瞬の出来事だった。
「――っ!」
瞬きをした次の瞬間には、目映い光で目を焼かれた。続く爆発音のような酷い音。
雷だった。
その稲妻はラミアの目の前――、そう丁度、ユチルのいた辺りに。
「――――ユチルッ!!」
どうして? 雷は背の高いものの上に落ちるものだ。いくら開けた広場の中央といっても、その周囲には無数に建物が並んでいる。
ラミアは早く視界よ戻れと念じながら、目をこする。
次第に前がうっすらと見えてきたとき、後ろから肩に手が置かれてラミアはそれに縋った。それがルテスの手であることは見えずとも分かったからだ。
「ルテス……、ユチルが……!」
ルテスの手に力が籠もる。
視界が完全に戻るまで、酷く長い時間がかかったような気がした。
そして、目が元の通り見えるようになると、ラミアは息をのんだ。
「――ユチル!!」
そこには、呆然と立ち竦むユチルの姿があった。
ラミアはまろぶように彼女の元へと駆け寄る。
「ユチル! 怪我……怪我は……!?」
呆然と虚空を見つめていた彼女は、ラミアの声にゆっくりと振り返る。
「ラミア……」
ユチルは目から流れ落ちていた雫を拭うと、困ったように笑った。
「ねぇ、信じられる? 彼は本当に怒っていたの。そして、まだ探していたのよ」
「なにを……?」
彼女の意味が分からない言葉に、ラミアは首を傾げるが、ユチルはそれ以上に何かを語ることはなかった。
だが、後に彼女が話してくれたことによると、あの雷の中でユチルは一人の見慣れぬ男と再会したらしい。そしてその男は、かつて奪われた愛しい女を何百年、何千年も探し続けていたのだそうだ。
三人の織りなす舞、楽、歌。
それらによってもたらされた雨は、絶え間なく空から降り注ぐ。
雨に沸く民衆と、彼らが囲む三人を静かに見つめていた女は、傍らに立つ少年に目を向けた。
「――さて、そろそろ行きましょうか」
眼前の光景を――いや、美しい舞を披露した舞姫をじっと見つめていた少年は、女の声に顔を上げた。
「……僕、」
見上げてくる彼の顔は、いつになく引き締まっていて、ついに覚悟を決めたらしいと女は悟る。
「なんですか?」
「僕、決めました。あなたについて行きます」
「……後悔はしませんか」
少年はこくりと頷く。その決意が揺らがないのを見てとった女は、少年の頭を撫でると、今度は壇上の舞姫に視線を移した。
「よく、頑張りましたね、ラミア」
彼女自身にこの言葉が聞こえることはないだろう。実際、舞姫がこちらに気付く様子もない。
それでも女は彼女の成長を目の当たりにし、この上なく嬉しかった。
「――さあ、行きましょう」
舞姫から視線を外した女は、少年の手を握る。
「はい、テンシア」
女はもう振り返らない。だが、少年はほんの一瞬だけ、背後に視線を向けた。
「僕はきっと、いずれ貴女のようになります。……姉様」
二人はそのまま人混みの中に消えていった。