第二部風の吹く都

第四楽章風纏いし姫と歌

 夜が明けきり、日が上の方まで上ってくるころには、街はすっかりいつもの風景に戻っていた。王都に住む人々にとって大風は、毎年のことなので、当日は風の音を恐ろしく聞いていても、次の日まで引きずる事は無い。

 夕方にもなれば、前日が大風の日だったことさえ、忘れているものも少なくはなかった。

 しかし、ラミアとルテス、そして一部の上層部の人間は、まだ大風の恐怖と戦っている最中だった。

「これで、忘れ物は無いかな。」

 ラミアは何度も荷物の中身を検めた後、漸く口を縛って持ち上げた。

 夕方頃に起きて、そこから用意をしはじめた為、もう辺りは暗くなりはじめていた。

 今日は一度目の大風を退けた楽団員たちは皆、前日の睡眠を取り戻すように眠り、殆ど起きているものはおらず、人の気配もまばらだった。そんなわけで、大風の儀に使用される装束を着ていても、見咎める者は殆どいないと思われたが、ラミアとルテスは念のため、細かい装飾を付けるのは現地ですることに決めていた。そんなわけで、持って行かなければならない荷物が、思いの外嵩張り、詰め込むのに時間がかかってしまったわけだ。

「ルテス、待ってるよね。急がないと……。」

 ラミアは大慌てで部屋を飛び出した。

 それにしても。ラミアは小走りで先を急ぎながら思った。

 私、いつ寝たんだろう…。

 先ほどまでは、荷造りに追われ、考える暇がなかったのだが、よくよく考えてみれば、寝る前に荷物整理をしようと考えていたのを、ラミアは思い出していた。

 いや、寝るときの記憶だけでなく、その前の記憶から、靄がかかったように朧げで、ルテスに何を話したのか、よく覚えていなかった。

 それほど飲んだ記憶も無いのだが、どうやら思いの外酔ってしまっていたようだ。

 ラミアは少し自己嫌悪を感じ溜息を吐いた。ルテスに変な事を言っていなければ良いのだけれど。

 そして、小走りのまま廊下を曲がった時、その先に人影があることに気が付き、ラミアは当たらぬように、慌てて身を翻そうとして、重い荷物によってバランスを崩した。

「きゃっ……。」

 しかし、ラミアが倒れきる前に、目の前にいた人物がラミアの腕を引いて、彼女を抱きとめた。

「すまない。―――ラミア……?」

 抱きしめられていることにも気が付かない様子で、なんとか自分の足で立ちなおしたラミアは、頭上から聞こえてきた声に、驚いて顔を上げた。

「ルテス! ………あ、ごめんね! ありがとう。」

 もうとっくに待ち合わせ場所に着いていると予想していたルテスが、そこにはいた。

 ラミアは、ルテスの顔を、まじまじと確認した後、ようやく抱きしめられている現状に気が付いて、慌てて彼から一歩飛び退いた。

「ラミア……。昨日はよく寝た?」

「えっ、あー…、うん。ていうか、私いつから寝たのか覚えてないんだよね……。」

 やはり何度思い出しても、ラミアの昨日の記憶は食堂でルテスといたところで切れており、あとは全て曖昧だった。

「昨日は…、大風が吹いた後、部屋の前まで送った。覚えてないか?」

 そう言われても、ラミアは首を捻るばかりだった。

「うーん…、まぁ、いいかな。…醜態を晒さなかったかが、心配だったの。」

 そしてラミアは、行こう、と言って先に歩き始めた。

 ルテスとしては、自分の前で泣いたり、抱きついてきたりした事を覚えているのかが、気になるところだったのだが、暫くラミアの背を見つめた後、結局何も言わずに、ラミアを追いかけて行った。




 夜の森は、光も差し込み辛く、とても暗い。獰猛な獣も人もいないと分かっているこの森でなければ、とても足を踏み入れられる暗さではなかった。

 まだ明るさはあったため、二人ははぐれぬように手を繋いで、明かりを持たぬまま、予定の場所まで登っていった。

 そこに着いた頃には、もうすっかり暗くなって、この場所から見える、街の光が目に眩しく映った。

 二人はそれぞれ持ってきた、装飾品の類を身に着ける。衣装に気を使わなければならないような観客がいる状態ではないが、二人なりのけじめだった。

「こうやって、誰もいないところで、なんて…、はじめてかも。」

 ラミアは、着け慣れない装飾をようやく結び終わり漸くほっとできたルテスを振り返った。勿論、練習の時は幾度となく一人でしているが、こうやって本番であるこの場に、観客がいないという状況は、あまり無い。

 大風の儀も、今回の一度目のように、観光資源であるし、有事の際の舞楽は、人々の拠り所となり、縋るような思いで人々は舞楽の奉納を見守る。

 人々には知られない形で奉じるのは、本当に特例で、ラミアはこれまでに経験した事が無かった。

「そうだな…言われてみれば、僕も無い。」

 ラミアは、ふふっと笑うと、立ち上がって、ルテスに近付いた。

「曲がってる。」

 ラミアはルテスの胸元のリボンを、さっと解いて、綺麗に結び直した。

 誰も見ていない。きっと結んでも強風で解けてしまう。それでも、ラミアは完璧を求めた。ラミアはおまじないをするように、リボンの端に口付けを落として、ルテスを見上げた。

「一番の御客様は、見てるから。―――さぁ、始めましょう。」

 リボンをするりと放してルテスに背を向け、ラミアは暗い夜空を見上げた。一番の御客様、神のおわすその場所を、ラミアは見ることができるかのように、真っ直ぐと。

 長い夜がはじまる―――――




 山の峰から太陽が顔を出して、その位置から影になっているこの場所にも、光がようやく差し込んできた。真っ暗でお互いの顔さえ見えない夜を越えて、ようやく彼女の顔を確認できることに、ルテスは少しほっとした。

 ラミアが舞う気配は途切れることが無かったので、倒れているとは思えなかったが、心配を完全に拭うことはできない。

 笛を鳴らす手と息を止めぬまま、ルテスはそろりと前方を確認した。ラミアはルテスの方からは逆光になり、確認できないほどでは無いにせよ、彼女は暗く見えた。しかし、その分周りの明るさが際立って、ルテスの目にはラミア自身が輝いているように見えた。

 朝が来て、もう間も無く大風が吹き荒れると思われた。まだ、空気は穏やかなものだが、いつ昨日のような風が来るかは分からない。

 ルテスはラミアの足元を見て、少しだけ眉を顰めた。地面の所々に赤黒い血が滲んでいた。石か何かで足の裏を切ったのかも知れない。楽団員が舞楽を奉じる際は、素足が基本だ。しかし、通常ならば舞台が作られ、地面の上で舞うことはほぼ無い。ルテスも同じく素足ではあったが、笛を奏でるのに、足の動きは必要が無かった。

 しかし舞姫、ラミアは違う。舞姫は舞い、足で地面を叩くその音さえも、神を癒す力がある。ラミアの舞は揺るぎなく、痛いであろうに、その怪我にさえ気が付いていないかのようだった。

 ルテスも手を止めることなく、だが、ラミアを一心に見ていた。しかしその時、ふと感じた。

 空気が変わった……!

 ラミアも感じたのか、彼女の微かな動きをルテスは感じた。

 そして、風が吹いた。

「………!」

 ルテスは思わず笛を取り落としそうになるのを堪え、なんとか吹き続ける。

 目には見えない厳しい風が二人の間を縫い、打つような風を頬に感じた。

 しばらくは風に煽られそうになりながらも、変わらず舞っていたラミアに、突然異変が生じた。

 赤が舞った。

「!!」

 大風の儀の装束は白を基調とした、明るい色合いのものだ。しかし、ラミアのその装束は次々と赤黒いそれで、染まっていく。風がラミアの?を掠めた。すると、そこに赤い線が走る。

 鮮血が地面に飛び散った。

 ルテスは反射的にラミアに駆け寄りそうになるのを、なんとか堪えた。ラミアは痛みからか眉を顰めつつも、まだ舞を続けていたからだ。

 しかし、そうしているうちに、さらなる変化が起きた。

 無色だったはずの風が、うっすらと白みだした。はじめは水に白の絵の具を少し垂らしただけのようだったそれは、ラミアの周りを取り囲むように吹いた。そして、その白は次第に濃くなっていった。

 しかし、舞い続けているラミアを見ると、ルテスは笛を止めて、飛び出す事ができなかった。

 しかし、それも次の瞬間には吹き飛んでいた。

 濃くなった白がラミアを取り囲み、もう彼女を全て隠してしまおうとしていた。その時、ラミアはくっと後ろを振り返って、ルテスと目が合った。

 ラミアはその瞳に、不安を湛えていた。理由はそれだけで十分だ。

「―――――ラミア!」

 ルテスは持っていた笛を放り投げると、白い塊に向かって走っていった。




 視界が真っ白になって何も見えない。身体中のいたるところが痛く熱い。時折見える自分の肢体から、赤い血が飛んでいるので、きっと全て傷口だろうと、ラミアは結論付けた。一ノ姫になってから三年、楽団員時代も含めると、ラミアはすでに大風を迎えるのは5度目だった。

 しかし、こんな事は初めてだった。

 強風で飛ばされた何かに傷つけられる事はあったが、風自体が彼女らを傷つけるなど、今まで見た事はおろか、聞いた事すらない。その上、視界は真っ白に染まって何も見えない。この謎の白い風に囲まれる直前に見えた中で、ルテスには被害が及んでいなさそうだったのが、ラミアにとっては幸いだった。

 だが、何も見えない、というのはこんなに恐ろしいのかと、ラミアは思った。首を廻らせ、手を伸ばしても、痛みが増えるだけで、何も掴めず、この風を掻き分けることもできない。

 まるで、どこか別の場所へ転移でもさせられたみたいだ。ラミアは無駄と知りつつ風を掻き分けながら思った。一面の白。手応えがなく、地面もいつの間にか無くなっていて、足に土の感触が無い。同じ場所にいるとは、にわかには信じ難かった。

 早く出ないと……!

 ラミアは焦った。周りが見えず、今どうなっているのか何も分からない。大風が王都に吹き込む前に鎮めなければ、きっと民は混乱するだろう。そして、何よりルテスがどうなったのか、自分と同じか、それともまだ外にいるのか。ラミアはルテスの動向が心配だった。無理をして怪我をしたら、もし―――

 その時に、ラミアの顎、首にするりと何かが当たった。形のないそれは、次第に人の手のような形になって、ラミアの顎を上に持ち上げる。

「いっ…。」

 何かも分からない色の無いそれから逃れようと、ラミアは必死にもがいた。しかし、抵抗も虚しく、その手はラミアを離さない。

 そして、どこからともなく、声が響いた。

『なぜ…、なぜ私を置いて行ったのだ、我が姫よ……!』

「だ、だれ……?」

 ラミアを掴む手に一層力が籠り、プルプルと震えている。ラミアは息苦しさを覚え、その手を掴もうとした。しかし、ラミアの手はその白い手を掴むことなく、すり抜ける。

 実体が無い。それにも関わらず、その手は確かにラミアを掴んでいた。

(われ)が分からぬというのか!』

 音が反響して、その声はどこから響いているのか分からない。いや、もしかすると、この空間全てから発せられているのかもしれない。

 その声は怒り、そして、耐え難いような悲しみで満たされているように感じた。

 彼はいったい誰のことを言っているの……?

 ラミアはぜいぜいと苦しげに息をしながら、声の主を探そうと必死にあたりを見渡した。しかし、視界は真っ白で何も見えるはずがなく、ただ、首に感じる手だけが、何かの存在を示していた。

 ラミアは、ともかく手を放してもらわねば、と見えない誰かに話しかける決意をした。

「貴方は誰を探しているの…? 私は、貴方の姫じゃない、私は―――」

 ラミアは思わず言葉を途切れさせた。

 歌……?

 風のうねりの中、その歌は、どこからともなく、だがしっかりとラミアの、そしてこの何かの元まで届いた。歌詞の無い歌が風を縫って聞こえる。

 その歌をこの白も聞いていたのだろうか。いつの間にか、首の感触から力が緩み、少しだけ呼吸が楽になる。依然としてラミアの身体を切りつけていた風の勢いも、心なしか緩やかになっていた。

 そうしてラミアがひとまず息を吐いた時、また別の声が聞こえた。

「―――――ラミア!」

 ラミアはピクッと身体を震わせて、バッと後ろを振り返った。もっとも、首の手は、まだ外れていないのて、少しでも、と必死に後ろを向こうとしていた。

『「ラミア」……。』

 ひとりごちるように謎の声は呟き、すっと風の勢いが消え、辺りが見えるようになっていく。

 ルテスはようやくラミアの姿を見つけ、彼女の方へと駆け寄った。

『私の姫の名では………。』

 謎の声はそう言い残すと、今度こそラミアの首から手を離し、周りを囲んでいた白と共に、すぅと消えていった。

 ラミアがあの白い空間で地面を感じなかったのは、やはり正しく、ラミアは突如宙に放り出される格好となった。

「ラミア!」

 しかし、ラミアが地面に尻餅をつく前に、ルテスが彼女を抱きとめる。そして、ルテスはラミアの無事を確認するように、ぎゅっと抱きしめた。

 ラミアの全身は、あの風によって、服も身体自体も切り傷で埋め尽くされ、滲んだ血がルテスの衣装も染めていった。ルテス自身も、あの白い塊に飛び込もうとしたせいなのか、所々怪我をしており、二人とも満身創痍といった様子だった。

「ルテス、助けてくれてありがとう。」

 ラミアは痛み出した傷を見ないようにしながら、ルテスににっこりと微笑みかけた。怪我をさせ、巻き込んでしまったことを謝りたい気持ちはあったが、その前に感謝の念が先立った。あの歌と、そしてルテスが名を呼んでくれねば、自分はまだ、あの中で切り刻まれていたかもしれない。

「僕はなにもしてない。」

 ルテスはふるふると首を振っていたが、ラミアもそれに首を振った。そして、ラミアもルテスを抱きしめ返した。

「一人だったら、乗り切れなかったと思うから。」

 半月前のあの日、ラミアは、一ノ姫として舞台で命を散らすならそれでいい、そう思っていた。しかし今、こうやってルテスと無事を確かめ合えるのが、とても嬉しかった。

 ラミアはルテスの鼓動の音を聞きながら、健やかな寝息をたてはじめた。




「……ユリーシア様。」

 二度目の大風の日の昼。大風を乗り切ったラミアとルテスが呪術師庁舎に現れたのは、午後になる少し前の事で、山から裏手を通って、人目につかぬように辿り着いたらしい。

 しかし、傷だらけの二人を手当てするまでは良かったのだが、そこからが大変で、ルテスはラミアの側から離れようとせず、寝かしつけるのに随分と苦労した。

 なんとか宥めすかし、最終的には気絶させることで、ようやくルテスに休眠を取らせることに成功したヴェリスは、やれやれとルテスの部屋から外へと出たところだった。

 そこには、ラミアについていたはずのユリーシアの姿があった。ラミアは元から眠っていたので、それほど労することはなかったはずだ。

「ヴェリス、ルテスくんは寝てくれました?」

「ええ。半ば強制的に、ではありますが。……彼には休息が必要ですから。」

 ルテスも傷だらけになりながら儀を終え、それだけでなくラミアを担いで山を降りた。体力を消耗していないはずがなかった。それでも、眠ることを、ラミアの側から離れることを拒み続けたのは、ひとえに彼の強い想いによるものだ。

 ヴェリスはユリーシアの顔を見た。ここ暫くゆっくりと休めていなかった彼女のその顔には、やはり疲労の色が色濃く現れている。ヴェリスは少し眉を寄せて、ユリーシアの頬に触れた。

 ルテスの気持ちは、ヴェリスには痛いほど感じられた。

 自分も同じだったからだ。

「もうこれで…、心配事も無くなりましたね。今日はゆっくり休んでください。」

 突然ヴェリスに頬を触られたユリーシアは、暫く驚いた表情で、ヴェリスを見つめていたが、彼にそう言われると、悲しげに目を伏せて、彼の手を自分の両手で包むように添えた。

「分かってる…。でも、ラミアちゃんが心配、だから……。」

 ラミアの目が覚めるまで、ユリーシアは起きているつもりなのだろうか。

 ヴェリスは、疲労が溜まっているようなユリーシアを辛そうに見ると、いつかのように、だが今回はそっとユリーシアを抱き寄せた。

「前にも言いましたね。休んでください、と。……お忘れですか。」

 儀が始まる前のことを、ヴェリスに言われてようやく思い出したらしいユリーシアから、はっと息を飲む気配がした。しかし、今回は前の時とは違い、大人しく首を縦に振ろうとはしなかった。

「でも、今回は…、ヴェリスには迷惑、かけないから……。」

「そういう問題じゃない。」

 ヴェリスはユリーシアの肩を掴んでいた手に、力を込める。自分を顧みずに他人の事を考えるユリーシアのその性格は、愛すべきものだったが、ヴェリスにはひどく痛々しく見えた。

 ユリーシアは大風の儀が無事終わった今でも、いや、終わった今だからこそ、ラミアやルテスを危険に晒し、そして深くはないとはいえ、傷を負わせてしまった事に対しての、自責の念に駆られている。そして、もしまた、同じ状況になった時も、同じ方法を取るだろう自分を責めている。

 今選べる手段の中では、この選択が正しかった、そんな事は、ヴェリスも、そしてユリーシア自身も分かっていた。

 だが、だからこそ、ユリーシアは自分を責めているのだろう。力の無い自分を。

「ラミアやルテス、彼らを労しく思うのは良いのです。ですが私は……は! 貴女の辛い顔はもう見たくない―――」

 ヴェリスはそこで少しだけ言葉を切った。しかし、もう何年もの間心の奥底に封じ込めてきたはずの想いが、溢れてもう、止める事など出来なかった。

「―――好きなんです。…ユリーシア、貴女の事が。もう、無理をする貴女を見たくはない。だから……。」

 ヴェリスは小さく息を吐いた。

 呪術師庁に入った頃見たユリーシアの姿を、ヴェリスは忘れたことはなかった。ヴェリスはその姿をまた見るために、その隣に立つ為に、ここまで来た。

 しかしヴェリスには、彼女に想いを告げる気は無かった。拒絶が怖かった。それなら、仕事の仲間として、隣にいる事が出来る、それだけで良かった。

 だが、言ってしまった今、ヴェリスの胸には、不思議と後悔は無かった。たとえこれで拒絶され、職を辞す事になっても、ヴェリスはきっと後悔しないだろう。

「ユリーシ―――」

「へぁっ! はいっ!!」

 だが、いつまでたっても何も言わないユリーシアにヴェリスが呼びかけると、彼女は顔を真っ赤にして、ヴェリスを見上げ、落ち着かなげに手を動かしていた。

 そして、ヴェリスの顔を見ているのも恥ずかしいのか、ユリーシアは目をあらゆるところに泳がせた後、しばらく黙って、それからようやく口を開いた。

「あ、あの……ありがとう。その、あの、でもね。私―――」

 ここまで言われヴェリスは、やはり断られるか、と思い、ユリーシアに負担をかけぬようにと口を挟んだ。

「ユリーシア。御不快ならば、冗談と思って聞き流して頂いて―――」

「違う!」

 今度声を上げたのは、ユリーシアの方だった。俯き加減で、もごもご喋っていた先程とは違い、ヴェリスの目をまっすぐと見る。

「貴方が嫌なわけじゃないの。…私、こういう事、言われたの初めて。だから…、どうしたら良いのか分からなかったの。……それにね。私、貴方の事、他の人も含めてかもしれないけれど。こういうこと、考えた事が無かったの……。ごめんなさい。だから、少しだけ、時間が欲しいの。考える時間が…。」

 ヴェリスは少なからず驚いていた。

 まさか、こんなにも前向きな返答が返ってくるとは、夢にも思った事が無かったからだ。副長として、長官たるユリーシアの隣に立つ事は出来ても、やはり彼女はどこか一線を画する存在なような、そんな気がしていた。

 その上、彼女は妖精。ヴェリスは気にした事がない上、法的にも問題は無かったが、精霊や妖精と人間とが共に暮らす、それが常識ではなくなってから随分時が流れた今、種族の差は大きな壁となる事も多い。たとえヴェリスが気にせずとも、ユリーシアもそうかは分からない。呪術師長官を辞めた後、ユリーシアが生まれた集落へ戻るつもりならば、人間の伴侶は大きな障害になるだろうことは、想像に難くなかった。

「……考えて、頂けるんですか?」

 ヴェリスがぼんやりとそう聞くと、ユリーシアは困ったように笑って、まだ赤みの残る顔でヴェリスを見上げた。

「当たり前じゃないの。真剣な気持ちには、こちらも真剣に返すものよ。」

 ユリーシアはそう言って笑った。そして、まだぼんやりとしているヴェリスに肩を竦める。

「少しだけ、眠ります。ラミアちゃんが起きたら、起こしてくださいね。」

 ユリーシアはそう言うと、すっかり力の抜けたヴェリスの腕から、するりと抜け出して、一つ微笑みを残すと、その場を去っていった。




 柔らかい月の光が真っ暗な部屋に差し込む。夜半の事、ルテスはふと目を覚まし、のろのろと起き上がると、目を擦りながら周りを見渡した。

 一瞬、ここが何処かも、何をしていたのかも分からなかったが、腕に走る微かな痛みで、漸く頭がはっきりとした。

「どのくらい寝てた……?」

 周りを見渡せど誰もいないため、もちろん返事は返ってこない。ルテスはベッドから滑り降りると、窓辺に近寄った。

 ラミアはどうしたのだろう。ヴェリスにここまで引きずられて来てからの記憶がなく、どうも判然としない。

 ルテスは窓ガラスに手を添え、外を見た。ここから見える限りでは、風も穏やかで、いつもの穏やかな夜だった。腕や指に巻かれた無数の傷を隠す包帯が無ければ、大風の事など、夢だったのではと錯覚してしまうほどだった。

 ルテスはそっと窓から指を離すと、くるりと身体を翻して部屋を出た。

 そして暫く歩いた後、ある部屋の前で立ち止まった。

 もちろん、ラミアの部屋だ。

 ルテスは、もしまだラミアが寝ているならばと、起こさない程度の音で扉を叩いた。予想通り返事は返ってこず、どうしようかと少し迷った後、ルテスは意を決して、扉をそっと開けた。

 部屋には人の気配もなく、明かりもないその部屋は、暗く視界も悪かった。楽団員に割り振られている部屋の間取りが、どこも大体同じである事を頼りに、ルテスは手探りでラミアがいるはずのベットまで近付いた。

 カーテンを少しだけ開けて光を入れると、ラミアの白い顔が浮かび上がるように見えた。

 見た所、あちこちに見え隠れする包帯が痛々しくはあったが、苦しげな表情もなく、呼吸も穏やかで、ルテスは一先ずほっとして、端の方から椅子を引き寄せてベットの側に置くと、それに腰を下ろした。

 ルテスは掛布の上にあった彼女の手を握って、ラミアの顔を見つめた。手が冷たい。ただ規則正しい息遣いが、ラミアが生きているのだと、実感させてくれた。

 彼女の額にかかった髪を、そっと払いのけて、そのまま彼女の頬に触れる。

 今握っているこの手も、触れている首も、なんと華奢で繊細なのだろう。触れれば壊してしまいそうで、ルテスはそっと彼女の頬から指を離した。

 しかし、手を離す事は出来なかった。離せば、消えてしまうのではないかと思った。

「ラミア……。」

 ルテスは握っている彼女の手を、口元まで持っていき、そして、口付けを落とした。

 その時、ラミアの指がぴくっと動いた。

 ルテスは、はっとしてラミアの方を見ると、ラミアがうっすらと目を開けていた。まだ焦点が定まっていないらしく、ぼんやりとしてはいたが、暫くすると、自分の手を握る、ルテスに気が付いたらしかった。

「おはよう、ラミア。」




 誰かに名前を呼ばれた気がした。

 ラミアは優しいその声で、ふっと目を覚ました。身体は冷えて少し寒い。しかし、左手だけ、ぽかぽかと暖かかった。その暖かい左手の方から、人の気配がした。独りじゃない、その事が、涙が出そうになるほど、ラミアをほっとさせた。

 次第にぼんやりとした頭も冴え、ようやく、自分の左手を誰かが包み込んでくれているのだと分かった。その手を辿るように視線を上げる。

「おはよう、ラミア。」

 そこには、今まで見た事も無いほど、優しい表情のルテスが、いた。

「ルテス……。今って、「おはよう」の時間なの?」

 ラミアはくすっと笑いながら、上体を起こした。辺りは暗く、月の光が無ければ、ルテスの顔も見えない程だろう。無論、今の時間は夜だった。

 ルテスもラミアが本気で聞いているのではないと分かっていたので、笑って流すと、ラミアの腕や首、服から出ている包帯を見た。

「傷は?」

「大丈夫、ちょっと痛いけど。ルテスこそ…、痛いんじゃない?」

 ラミアは空いている方の右手を、ルテスの手の方へ持って行くと、彼の腕に巻かれた包帯にそっと触れた。

「どうってことない。」

 ルテスはぽんとラミアの頭に手をのせて、宥めるように軽く叩いた。

「ん…。ルテス、ありがとう……まだ、言ってなかったよね。」

 得体の知れない何かに、臆することもなく助けに来てくれたこと、ラミアは本当に嬉しかったのだ。ルテスはかまわない、というように、小さく首を振った。お互いに生きている、それだけで十分だ、とそう聞こえた気がした。

「風はどう?」

「見た所、いつもと変わらない。……もう大丈夫だ。」

 ラミアはぱっと顔を輝かせると、掛布を払いのけて、そっとベッドを降りた。ルテスは心配気な顔をしたものの、止めようとはせず、そっとラミアの腰に手を添えた。

 ラミアはルテスに伴われ窓辺によると、カーテンをさっと開けて、窓も開けた。優しい風が吹き込んで、風が気持ち良かった。二人を傷つけるような強い風はもう無く、夜の涼しい空気で満たされていた。

「私達、成功…したんだね。」

「ああ。」

 ルテスがラミアの肩に手を回し、頭に手を乗せた。ラミアもルテスの背に手を回して彼の方に身体を預ける。人肌の温かさを、服越しでも感じた。あの白い風の中で感じた手には温度が無く、それにも恐怖を感じていたのだと改めて思い知った。

 ラミアがそろっとルテスの顔を見上げると、じっと外を見ていたルテスは、ラミアの視線に気が付いたのか、ラミアの方を向いた。優しい表情のルテスにラミアが微笑むと、ルテスもふと笑顔を返した。そして、ルテスは空いていた方の手で、そっとラミアの頬を撫で、頬に口付けた。カッと頬に熱が集中する。

「あ、ルテ…ス……?」

 ラミアは恥ずかしさから、彼から一歩離れようとした。しかし間近に見えた、彼のすっと細められた眼を見ると、足を止めた。いや、動くことすら出来なくなった。

 ルテスが少しだけ躊躇するように離れる。しかし、ラミアの頬に触れる手を離す事には成功しなかった。

 暫く二人は見つめあった。

 どちらからだろう。ただ、気がつくと、二人は黙ったまま、ルテスは少しだけ身を屈め、ラミアの踵は地面から離れていた―――――

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