主従間恋模様
その日、初めて彼女を見た気がした。
「前任、クルド・ラーガンに変わりまして、第三小隊長に任ぜられました、シェリジェ・アザリスです。」
フェリエンの王太子であるイリア・フェリエンはそう言って頭を垂れる、銀髪の美女をまじまじと見つめた。
シェリジェ・アザリス。若干二十歳、下級貴族出身の女性ながら、剣豪として名高かったクルドの後継者と目され、あらゆる面で注目されている人物だ。イリアも直接言葉を交わしたことこそなかったが、当然知らない相手ではない。人に厳しく、また自分にも厳しい実直な人柄。隊内では「鬼のシェリジェ」と恐れられながらも、それ以上の尊敬を集めている。年の近さから、いずれは自分の治世を支える一柱になるであろうと、イリアも目に留めていた。
だが――、
「どうです、殿下。とても剣を振るうようには見えませんでしょう」
呆けているイリアに、傍に立っていたクルドは朗らかに笑った。幼い頃イリアの剣術指南役でもあった彼は、その弟子が今何を考えているかなど、お見通しなのだろう。その目には揶揄うような色が乗っているが、それには気付かぬふりをしてシェリジェに向き直る。
老齢に差し掛かったクルドの後任となった、彼女は実に……
「ああ、どこの貴婦人かと思った」
彼女の整った容姿は然ることながら、身のこなしや、その見た目にはそぐわぬ使い込まれた武人の手。そういったものの全てが、イリアの目には非常に美しく思えた。
「これからよろしく頼むよ」
膝をついたシェリジェが、一瞬だけこちらを見上げる。
「……誠心誠意、お仕えいたします」
すぐに俯いたその表情に、イリアはほんの少し目を瞠った。
気のせいか……?
美しい彼女の双眸に、隠しきれないほどの怒りを感じたような気がした。
「――ぬああぁにが、『どこの貴婦人かと思った』よおおぉぉっ!!」
軍の訓練施設である練武場に、雄叫びのような声が木霊する。
シェリジェが剣をすさまじい勢いで振り下ろし、キィンという甲高い金属音が鳴り響いた。だがそれを受け止めた相手――シェリジェと共に繰上りで隊の副長となったウィリスによってその剣戟をいなされる。
いきり立つ上官に、ウィリスは何とも言えない表情を浮かべた。
「ええ、本当に。『貴婦人』は剣を振りませんし、振ったとしても相手の手を痺れさせるほどの威力を出したりしませんからね」
「そういうこと言ってんじゃないの!」
シェリジェの鋭い一撃にダメージを受けた手を、ウィリスは「いたた」と振りながら、肩を竦める。
「わかってますよ、冗談です。兄上も、ほんとバカなことを……」
憤懣やる方無しな様子のシェリジェの相手をしつつ、ウィリスは彼女の苛立ちの元凶となった兄イリアのことを思い浮かべた。
シェリジェは王都からは遠い地方の男爵令嬢だった。そこへ彼女の父と懇意だったクルドによって剣の才を引き出され今に至っている。
だが、この国において剣を握る女性はまだまだ少ないこと。また、出自や剣豪と名高いクルドに目をかけてもらっていること。そういった諸々の要因で、ウィリスの聞き及ぶ範囲ですら様々な面で苦労をしたと聞いている。特に、やっかみ半分で言われる「女だから」「女のくせに」という侮蔑の言葉を、彼女は人一倍嫌悪していた。
そんな相手に「貴婦人かと思った」などと口にするとは。
ウィリスははじめにその事を聞いたときは、自身こそ貴婦人のように卒倒するかと思った。
シェリジェの突きを右に避け、左に避け――としながら、ウィリスは溜息をつく。
「……弁明するわけじゃないですけど、兄上も隊長を馬鹿にして言ったわけでは、ないと思いますよ」
そう言った瞬間、シェリジェの猛攻がピタリと止まった。
おや、と思いつつ彼女を見ると、剣を突き出した状態のまま、何故だかその動きを止めている。
「隊長?」
「分かってるわ、それくらい」
深い溜息をついたシェリジェは、剣を下ろすとそのまま鞘に仕舞う。
「殿下の言葉に、嘲るような響きはなかった。それくらい私にも分かってる。――――けど、」
シェリジェが鋭い眼光で、ウィリスをギロリと見た。
「腹が立つものは腹が立つのよ!」
彼女はそう言い放つと、くるりと踵を返し目についた新人へ檄を飛ばす。
「…………おっかねぇ」
射殺せそうな彼女の眼差しに怖気を感じつつ、兄の命運を神へ祈りたい気分になった。
第三小隊、というのは基本的に国王以外の王族の警護に当たっている部隊だ。
これまでのシェリジェは王妃をはじめとした、女性王族の守りを主に担当しており、それ以外の面々とは顔見知り程度。当然イリアもその中に含まれ、この前の顔合わせがしっかりと言葉を交わした初めての場だった。
人柄、采配、知性……、クルドは彼のことを、いずれ国を率いていくものとして認めていたし、シェリジェもそこに異論はない。
が。
「改めて、本日よりよろしくお願い致します」
「やあ。この間振りだね、シェリジェ」
「…………」
個人的な好悪の情は別問題である。
頭を下げたシェリジェに、彼は執務室の机に寄りかかって立ちながら、かるーい調子で言葉を返す。その様子にどうにも苛立ちを覚えて仕方がない。しかし、シェリジェはなんとかそれを飲み込んで、引き攣った笑顔を浮かべた。
「アザリス卿とお呼びください、殿下」
「いやだよ。これから仲良くしたいじゃないか」
「……殿下」
「それに、クルドのことも名前で呼んでいたし」
「…………、御意に」
前任者のことを出されては、シェリジェも反論できず口を噤む。
これからイリアの護衛につく際は、基本的に部屋の中に立っていることになるのだが……。はじめからこんな調子では先が思いやられると、シェリジェは溜息をつきたい気持ちを堪えた。
その時、不意にドアが叩かれて、一人のメイドが入ってくる。
「お茶をお持ちいたしました」
「――……そう」
茶の用意がされるのを、イリアがじっと見つめている。
シェリジェはどことなく緊張感を感じ取りながらも、それを不思議に思いつつ、黙ったままの彼の様子を伺った。
メイドは新人なのか、手が小刻みに震えている。だが、特にこれといった粗相もなく、茶の準備を終えると一礼して踵を返した。
イリアがカップを手に取り、香りをかぐように顔の前でそのカップを薫らせ、チラリとシェリジェの方へ視線を走らせる。
そして、溜息を一つ。
「シェリジェ、そのメイドを部屋から出さないで」
「は?」
「まだ分からない?
息を飲んだのは、シェリジェか、それともメイドの方だったのか。
シェリジェがぼんやりしている間に、メイド――のフリをした暗殺者が、くるりと身体を反転させて、イリアに躍りかかっていた。
間に合わない……!
一歩踏み出した時にはそれを分かっていたが、シェリジェは身を挺してでもイリアを守らねばならない。
どうにか急所だけは外させなければ、そんなことを考えていた時、キンッと高い音がしてメイドの姿が消える。
「え……」
シェリジェが思わず足を止める。
目の前には、どこをどうやったのかメイドの上体に馬乗りになって、首に手をかけるイリアの姿があった。彼の手は、あと少し力を込めれば、その喉を潰せる位置に添えられている。
「これからは、よろしく頼んだよ、シェリジェ」
「っ、はい……」
シェリジェが頷くと、目の前を何かが下方に通過していく。顔面すれすれのところを通過したそれは、先ほどイリアによって蹴り上げたナイフだった。
本来ならシェリジェは、あのメイドが入室した時点で止めなければならなかった。
そのことに気付いたのは、事後処理が全て終わった後だ。メイド――いや、メイドの格好をしただけの暗殺者は、下級使用人の制服を着ていた。だがイリアつまり王族の元に直接茶を持ってくることができるのは上級使用人。一目見ただけで気付かねばならなかったのだ。
完全に自身の手落ちである。しかし良いのか悪いのか、イリアからあれ以上の叱責はなく、また処罰もなかった。
そのことがシェリジェを余計に気鬱にさせている。
普段と変わらぬ様子に戻ったイリアに、彼にとってこれが日常なのだと、生きる世界が違うのだとまざまざと見せつけられた気分だった。
そして、これからは自身の職務の傍らにその世界が存在しているのだと、あらためて自覚しておかなければならないのだ。
シェリジェは斜め前に座るイリアの背中に、ちらりと視線を向ける。
彼の前にはウィリスと、彼の婚約者であるシェラーナ・ロメール伯爵令嬢がおり、その三人でティーテーブルを囲んでいた。
ウィリスとイリアの間に、王位継承争いは存在しない。
それをどちらとも関わりのあるシェリジェはよく分かっていたが、周囲の人間たちの目には中々そうは映らないらしい。
優秀な王太子ながら、婚約者という名の高位貴族の後ろ盾が無いイリア。
後継者指名こそされていないものの、軍部での覚えがめでたく、伯爵家の後ろ盾があるウィリス。
どちらにつくのが利か――、そういう駆け引きが水面下でなされていた。
特に、イリアに心酔している気のある彼の側近たちは、ウィリスを敵視しているようで、今朝もこの茶会の存在を聞き「罠だ」とかなんとか、騒ぎ立てていた。
罠だも何も今回の茶会は、兄弟間に親交があると知らしめるためにイリア自身が手を回したものなのだが――。
騒ぎ立てる側近たちにそれを知らされている様子はなく、またうんざりした目でそれ見ていたイリアの態度から察するに、彼らは既に見切りをつけられているようだ。
それでもすぐに遠ざけるなどが出来ないあたり、貴族のしがらみはなんとも面倒なものだとシェリジェは思った。
穏やかな、とても穏やかな午後の昼下がり。
護衛として静かに控えているシェリジェの前では、何ということもない他愛もない会話が交わされている。彼ら三人の仲は、考えていたよりもずっと気心の知れたもののようだった。
「――そういえば、護衛の方が変わられたのですね」
シェラーナの柔らかな声に、シェリジェはパチリと目を瞬かせた。口を挟んでよいのか、と一瞬だけイリアの方を見て、彼が頷くのを確認してから彼女に向き直る。
「お初お目にかかります。シェリジェ・アザリスと申します」
胸に手を当てて軽く礼をすると、今度はシェラーナが驚いた顔をする。
「まあ、あなたが!」
シェリジェが首を傾げると、彼女は顔を綻ばせる。
「お噂はウィリス殿下より、伺っております」
「シ、シェラ!」
彼女の発言に声を上げたウィリスに、一体何を言ったのやらとシェリジェは半眼になるが、シェラーナは楽しそうに笑う。
「とてもお強くて、格好良い方だと。お聞きしていた通りの方で驚いてしまいましたの」
コロコロと笑う彼女の横でホッとした顔をしているどこぞの副官は後で締めるとして――、シェリジェも褒められて悪い気はしない。
「令嬢のご期待に沿えるよう、精進いたします」
「あら、名前で呼んでくださいな、シェリジェ様。あなたとはこれから顔を合わす機会も多いでしょうから、仲良くなりたいわ」
邪気のない笑顔に、シェリジェも肩の力が抜ける。
「わかりました、シェラーナ様」
和やかな空気が流れるが、それに一人へそを曲げる男がいた。
「シェラーナには『アザリス卿とお呼びください』とは言わないんだね、シェリジェ」
「殿下……」
口を尖らせてぷいっとそっぽを向かれても、まったく可愛くない。呆れ混じりに、シェリジェは一応、念のため反論しておく。なんとなく、後が面倒そうだからだ。
「シェラーナ様と殿下とではお立場が違います。それに、私が殿下のお傍にいるのは職務です」
「なんて冷たいことを言うんだい、シェリジェ。私は職務を超えて仲を深めてくれても一向に構わないんだが?」
イリアがシェリジェの手を取り、その指先にキスを落とす。
「まあ……」
シェラーナが頬を赤らめ、キラキラとした目でこちらを見ているのにシェリジェは頭痛を覚えた。
これは絶対に、あらぬ誤解を受けている。
「お戯れはおやめください」
シェリジェは軽く手を振り払い、護衛としての立ち位置に戻る。
イリアもそれ以上は何をするでもなく、肩を竦めてシェラーナに向き直った。
「ねえ、シェラーナ。一女性として意見を聞きたいのだけれど、頑なな女性を振り向かせるにはどうしたら――」
「殿下っ!」
これ以上誤解を生んでくれるなと、シェリジェはたまらず口を挟むが時すでに遅し。
シェラーナの「身分差の恋に苦しんでらっしゃるのね」とでも言いたげな表情と、その横のウィリスが浮かべるあり得ないものを見たような顔に、シェリジェは頭を抱えたくなった。
茶会がお開きとなり、シェリジェは執務へと戻るイリアの背を追いかけていた。
妙に上機嫌な彼の後ろ姿をギリギリと睨みながら、シェラーナたちのことを思い返す。
彼女も年頃の娘らしく恋の話はお好きなようで、「ぜひお話をお聞かせくださいね」と、次の休暇に会う約束まで取り付けられてしまった。
お話も何も、彼女が期待するようなものは何も無いのだが……。
「やだなぁ、シェリジェ。そんなに見つめられたら穴が空いてしまう」
誰のせいだ、誰の。
と怒鳴りたい気持ちをどうにか静めて、努めて冷静に口を開いた。
「どうしてあのような戯れ事を仰ったのです」
「あのような、って?」
振り返った彼の目には、こちらを揶揄うような色が乗っている。
分かってて聞いてるな、とシェリジェは苛立ちを覚えた。
「その……、我々が――こ、恋仲であるかのような誤解を招く発言です」
「誤解じゃなくても良いんだけれど」
どこまでもふざけるつもりらしい彼に、シェリジェも怒りが高まりジロリと睨む。
「……殿下」
怒りを押し殺した低い声に、イリアは肩を竦めた。
「わかったよ。嘘は言ってないつもりだけど、その方が都合がいいんだ」
「都合……?」
首を傾げるシェリジェに、イリアは黙って微笑む。
腹の内が何も見えない。シェリジェは彼の深淵を垣間見てしまったような気分に、少し身震いした。
「――下級貴族の娘に入れあげる次期国王。端からはどう見えるかな」
「それは……」
「ああ、誤解しないでほしいけど、君の力を侮ってるわけじゃないよ」
それは、分かっているつもりだ。
イリアは所構わずシェリジェに粉をかけているわけではない。ほんの戯れ程度のことなら日常茶飯事だが、今日のような事は――。
シェリジェはそこまで考えて、ハッと顔をあげた。
「まさか、疑っておられる……?」
ウィリス、自身の弟を。
シェリジェはそれを口にはしなかったが、彼には正しく伝わったようだ。
イリアは曖昧な笑みを浮かべて、どこか遠くを見るような顔をする。
「心の内は誰にも分からない、だろう?」
シェリジェは返す言葉もなく、ただ彼を見つめるしかできなかった。
なんて、寂しい目をするのだろう。
そう思いながら。
「――それで、いつシェラーナの所に行くつもり?」
イリアは先程までの雰囲気を霧散させ、シェリジェに問いかける。
「え、あ……と、次の休日ですので三日後ですね」
「そう……」
返答に窮していたのだろう。話題が変わったことにほっとしたような様子の彼女を見て、もう少し困らせてみたくなった。
「シェリジェ」
「は……」
一歩、彼女に近付いて、長い銀糸の髪を一房掬い上げる。
「行かないでほしいな、と言ったらどうする?」
「それは――」
「ああ、命令じゃない。ただ、私がそうしてほしいだけ」
触れた髪に口付けを落とすと、シェリジェの頬がほんの少し朱に染まる。必死に平常心を保とうとしているらしいが、そんな様子さえ可愛らしく見えた。
他の女たちとは、どこもかしこも違う。ハッとするほど整った容姿をしているのに、それを媚に使うわけでもない。むしろ「女性」として扱われるのを不得手としていることに、イリアは既に気が付いていた。
ぐっと近寄れば、爽やかなそれでいて色を誘うようなあえやかな匂いがする。
これまでイリアの周りにいた女たちが纏っていた、甘ったるい香水の臭いとはまるで違った。
「ちょ、殿下――」
後ずさるシェリジェを、壁と自身の腕とで囲うように閉じ込めた。
「私は君が思うより、ずっと本気だよ」
「っ――」
必死に胸を押し返そうとしていた彼女の手が、少しだけ緩む。
その隙をつくようにシェリジェの唇に己のそれを寄せ――、重なる寸前で身を引いた。
彼女の拘束を解くと同時に、その姿が消える。
次の瞬間には、キンッという高い金属音、剣戟、そして何かを斬り裂く音と、呻き声。
イリアが背後を確認した時には、全て終わっていた。
「殿下、お怪我は?」
「無いよ」
頬の返り血を拳で拭うシェリジェに、イリアは肩を竦める。
「まあ、いいところで逃げられて傷心ではあるけれど?」
「殿下っ!」
おどけて言うと、シェリジェが耐えきれなくなったのか真っ赤になって怒鳴った。
イリアはそんな彼女に笑いながら、その後ろに倒れる暗殺者と思しき男を見下ろす。
「随分と雑な手の暗殺者が多いね。裏稼業も人手不足かな?」
暗殺者は毒で自害したらしく、既に事切れている。
「申し訳ありません、殿下」
「いいよ。口の中に仕込まれてたらどうしようもない。それより……」
イリアは暗殺者の持つ短剣の柄に目を留めた。そこには家紋らしきものが彫られている。
「どこの家のものでしょうか……?」
シェリジェの問いに、イリアは思わず溜息をつきたくなった。
別に彼女の無知を咎めたいわけではない。むしろ、これだけを見てパッと分かる方が少数だろう。
「……これは、エルデ子爵家のものだ」
「エルデ子爵家……?」
案の定、シェリジェはピンと来ていないらしく、イリアは渋々付け足した。
「ロメール伯爵家の麾下にいる家の一つだ」
シェリジェは「ロメール伯爵家」と呟いた後、暫くしてイリアが憂鬱になった理由と繋がったらしい。
「シェラーナ様の……、つまり――」
ウィリスと関係があるのか、と目で問うてくる。
イリアは無言で首を横に振った。
「これだけでは、なんとも。私にそう思わせたいがために、わざと家紋を付けている、という可能性もある」
ただ、疑惑と不信感が強まるであろうことは確定した。
「シェリジェ、やはり……」
シェラーナを訪ねるのはやめないか。
そう言おうとしたが、シェリジェが手で制してその言葉を止めた。
「余計に行く必要が出てきた。ですよね?」
「…………わかった」
こうなれば、無理に止めても行くだろう。
イリアは仕方なく彼女の言う通りにすることにして、その顔にまだ残っていた血に目を留める。
「怪我無く帰って来なさい。これは命令だ」
そして、ポケットからハンカチを取り出すと、その血を丁寧に拭ってやった。
シェラーナとの約束の日。
迎えの馬車から降りたシェリジェは、思わずあげかけた感嘆の声を慌てて飲み込んだ。
ロメール伯爵邸、噂には聞いていたがとても大きな屋敷が目の前に鎮座している。しがない男爵家の娘であった自身にとって、王都のタウンハウスの規模としては規格外のものだった。
「シェリジェ様!」
待ちきれなかったのか、玄関ポーチから飛び出してきたシェラーナは、満面の笑みでこちらに駆け寄ってくる。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
礼をすると、彼女はふふと笑いを漏らした。何か無作法があっただろうかと怪訝に思っていると、シェラーナはぷるぷると首を振る。
「ごめんなさい。今日はドレスを着ていらっしゃるのに、騎士の挨拶があまりにも似合ってらっしゃったから」
「あっ……、申し訳ありません」
令嬢の挨拶はカーテシー、スカートの裾を持ち上げるものだ。最近は殆どそういった格好をする機会がなかったためうっかりしていた。
慌ててやり直すと、シェラーナは優しく目を細めた。
「お気になさることないのに。それに、堅苦しいのはやめましょう? これから楽しいお話を聞かせてもらうつもりなのですから。さあ、こちらへどうぞ」
にこにこと上機嫌な彼女に先導され、中庭のテラスへと案内される。そこには色とりどりの小さな花が咲き誇り、素朴ながらもかわいらしさのある光景が広がっていた。
「――すてきなお庭ですね」
「あら、本当ですか? 実はこの一角、私が管理していますの」
「シェラーナ様、みずからですか?」
「ええ。土いじりで手が荒れてしまうから、ほどほどにしろと父には言われているのですけれどね」
貴族の令嬢がやる趣味としては珍しい部類だろう。しかも趣味とは名ばかりでほぼほぼ庭師がやっている、という風でもないようなので、なおのこと珍しい。
「ウィリス――殿下もご存知で?」
「ふふ、たまに草むしりを手伝って下さいますよ」
「そうなのですか……」
前回の茶会の際も思ったが、ウィリスとシェラーナは考えていたよりもずっと仲睦まじいらしい。並んで草を抜いていく様子を想像して、シェリジェは頬を緩めた。
「お二人は本当に仲がよろしいのですね」
「そう、思ってくださいます……?」
照れているのかぽっと頬を赤らめ、その頬を手で押さえるシェラーナは、まさに恋する乙女といった風情だ。
「殿下は、私にはもったいないくらいの方です」
そう言った彼女は、先程までとは一転して表情を曇らせた。
「シェラーナ様……?」
「殿下は……、ウィリス殿下は、王位継承権を放棄されるおつもりです」
シェリジェは息を飲んだ。
「兄君であらせられるイリア殿下にご婚約者様がいらっしゃらない状態で、私と婚約したことを、殿下は常々気にかけていらっしゃいました。私の生家が強力な後ろ盾となりうる家だというのも、その苦悩の一端なのです」
シェラーナは目にうっすらと涙を浮かべて続ける。
「私自身は何の力も能力もない女です。それに、父も誰も、王権に介入しようなどとは考えておりませんが、そうは思わない人も多いのです」
顔を上げた彼女は、こちらを真っ直ぐに見た。
「シェリジェ様、あなたがお知りになりたいこと、これでお答えになりましたでしょうか」
「……気付いて」
「これでも大貴族の娘です」
シェラーナの浮かべる泣き笑いのような表情は、とても痛々しく見えた。シェリジェは彼女の気持ち、それから内心を語ってくれた勇気に応えるように、その手を握る。
「殿下もあなた方のことを、頭から疑っていらっしゃるわけではありません。きっと良い方向に向かいますよ」
「……そうですね、きっと」
零れかけていた涙を拭ったシェラーナは、その顔に笑みを浮かべた。
「仕切りなおしをしましょう、シェリジェ様。我が家の料理人はスイーツ作りも上手いのですよ」
「ええ、ご相伴にあずかります」
シェリジェはシェラーナと顔を見合わせて笑った。
日中、美しい青空を見せていた空には、夕暮れと共に分厚い雲がかかっていく。
そして少し目を離した隙に、その雲は雨を落としはじめていた。
イリアは持っていたペンを手から放し、グッと伸びをする。
「そろそろ終わりにするから、今日は戻っていいよ」
一日休みを取っているシェリジェの代わりに控えていた護衛の男にそう声をかけると、彼は一礼して去っていく。後は夜番の者がつくが、部屋まで入ってくることはない。
シェリジェは雨に降られなかっただろうか。
弟の婚約者に会いに向かった彼女も、そろそろ戻る頃だろう。丸一日その姿を見なかったのは随分久し振りな気がして、今すぐそこの扉から彼女が現れてくれたらいいのに、なんて馬鹿なことを考えてみる。
「阿呆か、私は」
イリアは立ち上がって、散らかった机を整理する。なんとなく、そのために人を呼ぶのが煩わしかった。
その時、控えめに扉を叩く音がする。
誰かが忘れ物でもしたか、とイリアは肩を竦め返答した。
「入れ」
「失礼いたします」
聞こえたの声にイリアは目を丸くして、扉の方をパッと振り返る。
「ただいま戻りました、殿下」
いつもと変わらぬ様子のシェリジェがそこにいた。
「今日はお休みをいただき、ありがとうございました。一日お変わりはありませんでしたか?」
「…………あ、ああ」
ぽかんとしていると、シェリジェが怪訝そうに眉をひそめる。
「殿下?」
「……その、驚いた。今日は来ないと……」
「そのつもりだったのですが、一応。殿下もお気にされていたでしょう」
「まあ……」
よく見ると、シェリジェの髪に点々と水滴がついている。
「濡れてるな……。それに制服――、わざわざ着替えてまで」
イリアは彼女に近寄って、その雨粒を手で払った。
「大したことでは……」
「それに冷えたんじゃないか? ちょっとそこで座って待ってて」
「へ?」
イリアはソファを指し示してから、続き部屋へ向かうとそこで湯を沸かす。ササッと二人分の茶を淹れるとそれを持ってシェリジェのもとへ戻った。
所在なさげにソファの端っこに座る彼女に、カップの一方を渡す。
「侍女が淹れるのに味は落ちると思うが……、まあ、冷えた手を温めるくらいの役には立つだろう」
「え、あ、ありがとう…ございます……」
イリアはシェリジェの対面に座って、戸惑う彼女を見る。いつも毅然とした態度を崩さないが、今日はどうも調子がくるっているようだ。
「それで……楽しかったか?」
「あ……、はい、とても」
どこかほっとしたような微笑みを浮かべた。ぽつぽつと、こんな話をしたという事を彼女は語り、イリアは相槌を打ちつつその話を聞き続ける。
どうやら本当に楽しかったらしく、文通の約束までしてきたらしい。これまでの環境も生き方も何もかも違う二人が、互いにどこを気に入ったのかとても不思議な話だ。しかし、年頃の少女らしく話すシェリジェの姿が嬉しくもあった。
それと同時に、この表情を自分では引き出せないという、微かな嫉妬も感じていたが。
「……妬けるな」
「は……?」
「いや、なんでも」
ここで不用意に距離を詰めれば、また彼女は逃げてしまう。もう少し、この穏やかな時間が続いてほしかった。
「それじゃあ、君の見立てとして、彼女は白かな」
「あ……、と」
問いかけにシェリジェの顔が少し強張る。だが、どちらかというと困っているような様子だ。
「シェリジェ?」
「私の口から言っていいのか……」
「無理やり言わされたことにしても構わないよ」
暫くシェリジェは逡巡していたが、心を決めたのか口を開いた。
「あくまでシェラーナ様いわく、ではあるのですが。ウィリス殿下が、王位継承権の放棄を考えている、と」
イリアは息を飲んだ。
言われたことに驚いたわけではない。もし弟が真実潔白であるならば、いずれはその結論に達するだろうと踏んでいた。だが――
「……そうか、もうそこまで来ているのか」
彼がそうまで考えねばならないほど、周囲の動きが危ういのかもしれない。
「――……殿下?」
イリアは立ち上がって、シェリジェの傍で膝をついた。
「殿下っ!?」
慌てて立ち上がろうとする彼女を制して、代わりにその手を取る。そして、まるで祈りを捧げるかのように、指先に額に触れさせた。
「…………、――いや、これは卑怯だな」
言いたかった言葉を飲み込んで、イリアは立ち上がった。
「シェリジェ」
ソファの背もたれに手をかけて、困惑を浮かべる彼女を見下ろした。空いた手で彼女の前髪を撫でると、その額に掠めるようなキスを落とす。
「っ……!?」
驚きで身体を跳ねさせるシェリジェの手を引いて立ち上がらせる。
「さて、報告ありがとう。そろそろ戻りなさい」
「え、あっ、ちょっと……」
イリアは何か言いたげな彼女の背を押しながら扉を開けると、部屋の外へと押し出してその扉を閉ざした。
「ん゛ー……」
シェリジェは手元の未決済書類にサインをしつつ、唸り声を上げては溜息をついていた。
今日は昼過ぎから、自身がイリアの護衛に、ウィリスが半休を取るので長が不在となる予定だ。そのため、やっておかねばならない仕事がまだいくつかあるのだが、どこか集中しきれなかった。
「失礼します、隊長。自分はそろそろ……」
部屋に入ってきたウィリスは退勤を伝えに来たようで、シェリジェはもうそんな時間かと時計を確認した。
「……やっぱりもう少し残って手伝いましょうか?」
ウィリスが積まれた書類に目を落としながら言うが、シェリジェは肩を竦めて首を横に振る。
「結構よ。恋人たちの逢瀬を邪魔するほど野暮じゃないから」
シェラーナとの文通から、今日のウィリスがこの後どこへ向かうのかは把握済みだ。彼女が婚約者の来訪を楽しみにしているのも。
「ですが」
「いいの。私は一応城内にはいるし、何かあれば連絡がつくわ」
「……わかりました。でも珍しいですね、こんなに残ってるの。何かありました?」
シェリジェはその問いに、眉間の皺を深めた。
「隊長?」
首を傾げるウィリスを、シェリジェはじぃっと見つめる。こちらが何も言わずに見ているので、彼は次第に慌てだした。
「え、俺、まさか何かやりましたか?」
「あー……、ちがうちがう。なんていうか……」
今自身が抱える悩みに、ウィリスは特に関係がない。シェリジェは手を振るが、それ以上何と言って良いのか言葉を詰まらせる。
最近、イリアと距離ができた気がする――、なんて。
「その、あなたのお兄さん、ちょっと様子が変じゃない?」
「そうなんですか?」
「なんていうかな……、この頃距離を感じるというか……」
そう、丁度あの雨の日に、額にキスをされた次の日から、彼はあの冗談めかした口説き文句を一切やめてしまった。
続けてほしかったわけではない。断じて、そういうわけではないが、壁のようなものを感じるのだ。
シェリジェはあの日のことを思い出して、ついと額に触れた。
あれはなんだったのだろうか、と。
物思いに沈んでいたシェリジェは、ハッとしてウィリスの方を見た。彼はあきれ顔を浮かべている。
「何? その顔……」
「兄と上司の痴話喧嘩の話なら聞きたくないなー、の顔ですが」
「は!? 痴話喧嘩!?」
「違うんですか?」
「何言ってんのよ……。そもそも殿下とは、主君と臣下の関係で――……」
ただの主従。そう言い切ってしまうことに、寂しさを覚える。そんな自分に気付いてしまった。
黙りこくるシェリジェに、ウィリスが溜息をついた。
「それじゃ、俺そろそろ行きますね。シェラには『隊長が二人きりで相談したいことがあるって言ってた』と伝えておきますよ」
「え、あ……」
今の悩みをシェラーナに言ってみたらいい、という遠回しな助言だと気付く。
「その、ありがとう」
「いえいえ」
ニヤリと笑って去っていく彼は、明らかに面白がっている。
シェリジェはそれを否定することもできず、熱い顔を両手で覆った。
「失礼します」
護衛官交代の時間となりやってきたシェリジェに、イリアは目を瞬かせた。
「……顔が赤くないか? 体調が悪いなら――」
「い、いえ。お気になさらず……」
これまでなら「自分に会えて照れてるのか」などと、彼女を揶揄っていたところだが、イリアは苦笑を漏らすに留めた。
「そうか。無理はしないように」
「……はい」
きっとシェリジェも違和感を感じているのだろう。こういう場面で怪訝な顔をすることが増えた。
だが、あの数ヶ月のような日々は、おそらくもう二度とこない。
イリアは感傷に蓋をするように、ぎゅっと目を閉じ瞑目して、それから机の端に置かれた数枚の書類に視線を移した。
仕舞っておくのを忘れたなと思いつつ、今更それに手を伸ばせばシェリジェの興味を引いてしまうかもしれない。彼女にその中身を知られるのは、今はどうしても避けたかった。イリアはあえて、まるで何も気が付かなかったかのように、そのままにしておく。
これがただの自己満足なのも、いずれ知られてしまうことなのも、どちらも分かっていた。それでもつい、先延ばしにしてしまう。
彼女には知られたくなかったのだ。ついに婚約者を決めようとしている、なんてことは。
イリアを悩ませるその書類は、高位貴族の中で結婚適齢期の娘の調査書だ。
心を通わせられる人と、これからを共にしたい。
そんな些細な、けれど次期国王としてはあるまじき我儘のせいで、イリアにはこれまで婚約者がいなかった。
だがそれは、周囲に憶測と疑念を呼び、当事者の望まない王位継承争いが巻き起ころうとしている。
もう潮時だ。
シェラーナ以上の身分を持つ娘と結婚し、誰からも文句のつけようのない地位を確立する。ようやく決心がついた。
遅すぎたくらいかもしれない。
イリアは小さく、シェリジェに気付かれないように溜息をついて、目の前の書類に視線を戻す。誰も喋らず、誰が訪ねてくるわけでもない。沈黙の中に、ペン先が紙面を掻く音だけがする。
珍しいほどの静寂だった。
ふとシェリジェの横顔を見れば、窓から差し込む夕日で彼女の銀髪が美しく輝いていた。
触れられたら良いのに。
性懲りもなくそんな風に思う思考に蓋をする。
「……何か?」
見られていることに気付いたシェリジェから、視線を逸らす。
「いや――」
なんでもない、とそう言おうとして、イリアはふと窓の外に目を留めた。
立ち上がって窓辺に寄る。
「……あれはどこだ?」
シェリジェにも分かるように指差した先には、黒煙が上がっていた。煙の元は、王城に近い場所のようだ。市街はもっと向こう側にある。つまり、煙は貴族街から――。
何故か何も答えないシェリジェの方を見やると、彼女は顔を青褪めさせていた。
「まさか……、でも……」
「シェリジェ、あれは――」
その時、外が俄かに騒がしくなる。
何か嫌な予感がした。
これまでの均衡が、平穏が、崩れてしまうような――
「殿下っ!」
伝令が部屋に駆け込んで来る。
「何事だ」
「ロメール伯爵家が襲撃されました……!」
息を飲んだのはシェリジェか、それとも自分か。
これほど、夢であってほしいと願ったことはない。
ロメール伯爵邸襲撃。
シェリジェはその報を聞いた時、ウィリスの顔が浮かんだ。彼はシェラーナに会うために、午後はそこにいたはずなのだ。
どうか、どうか、居合わせてくれていたら――。
だが、その願いは届かなかったらしい。
既に戻ってきていたウィリスは、報告を受けて単身屋敷へと向かったと聞いた。
そしてシェリジェはイリアの命もあり、すぐに彼の後を追う。
途中で降りはじめた雨は、黒煙の元を消火してくれたようだ。到着したロメール伯爵邸は、一見すると以前のままの姿を保っていた。だが、隠しようもないほど、そこは物々しい雰囲気に包まれている。王都治安維持隊、それから王城と関連する要人の警護にあたる第二小隊が厳めしい顔で歩き回り、ロメール家の使用人達も怯え、困惑した表情を浮かべていた。
その混乱を縫うようにエントランスへ足を踏み入れると、微かな血の臭いがする。それを辿って、シェリジェは二階へと上がった。そのまま歩を進めれば、次第にすすり泣くような嗚咽と、それを宥める声が聞こえた。おそらく、伯爵夫妻だろう。
「シェラーナは……」
血の臭いが強くなっていく。
ああ、どうか。
どうか、この予感は当たらないで。
シェリジェは、ぎゅっと拳を握りしめて歩く。
そして、ある部屋の前に人々が集まっているのが見えた。何故か、誰一人としてそこに入ろうとはしない。
近寄りがたい何かを感じながらも、シェリジェは彼らの隙間を縫い、部屋の前へと出た。
「――――っ!!」
上げかけた悲鳴を飲み込むように口を手で押さえる。
強い血の臭い、床に広がる赤い水溜まり。
そのどれもが貴族の邸宅で見るはずのものではなかった。だが――
「…………ウィリス」
シェリジェは、きっと死ぬまでこの光景を忘れられはしないだろうと思った。
血の海に座り込み、動かぬ恋人の骸を抱きしめる男の姿を。
「シェラーナは……」
ゆっくりとウィリスがこちらを向いた。
両目から流れる涙を拭うこともなく、その目はどこにも焦点があっていない。
それだけで、惨状の結末を語っているようだった。
シェラーナが死んだ日降り出した雨は、止むことを忘れてしまったかのように続いている。
「殿下!! 我々は、貴方のためを思って――!」
イリアの前で跪かされてなお暴れる三人の男を、シェリジェはイリアの後ろで見下ろしていた。
彼の側近……だったはずの男達だ。
「うるさい、言い訳は聞きたくない。もう連れて行け」
「殿下!!」
ロメール伯爵邸襲撃を指示したとして、捕らえられた彼らは尋問の後沙汰を下されることだろう。
被害者はシェラーナただ一人。また、直接手にかけたわけではないこと。それらと計画の身勝手さ。そういったものが考慮された上で、もし仮に極刑を免れたとしても、二度と表舞台に上がることはないはずだ。
「……はぁ」
男達が連れ出され静かになった部屋で、疲れ切った顔のイリアが椅子に身を沈めて溜息をついた。
「殿下、少しお休みになっては……」
彼はあの事件以降二日が経過した今まで、ほぼ不眠不休で働いていた。シェリジェも、そんなイリアを放っておけないのが半分、どうせ眠れるような精神状態ではないと分かっているのが半分で、彼と行動を共にしている。
今回の事件は元側近達による、イリアのためにウィリスを排除しようと――彼の後ろ盾である婚約者を消す、という杜撰であまりにも短絡的なものだった。
だが、ひとまず犯人は捕まり、解決を見たと言って良いはずだ。取り調べだなんだと、まだ課題は山積しているが、少しは休んでも誰も文句は言わないだろう。
しかし、イリアは腕で目を覆い天を仰いだまま、首を横に振った。
「……いや。まだやることがある」
「やること?」
「ああ……、……通常業務も溜まっているし……」
「そんなの、後でも……」
イリアが身を起こして、シェリジェを見た。
「わかってる。今日は早めに休むさ。ただ、後回しに出来ないものもあるからな、と思っただけだよ」
見たことないほどに穏やかな、けれどどこか寂しさを感じる笑顔に、何故か心がざわざわする。
「殿――」
「さあ、そういうことだから。シェリジェももう上がっていい。君もここ数日休めてないだろう」
「で、ですが……」
「私も休む。だから、君もしっかり休むこと。明日も一日休んでいいから」
「……わ、かりました」
そうしている内に、シェリジェはイリアの部屋を追い出された。
「殿下……」
前にもこうして有無を言わせず追い出され、その後から彼の態度が明確に変わった。
本当にこのまま下がって良いのだろうか。
シェリジェは固く閉ざされた扉に手を添えて目蓋を伏せる。
「シェラーナ……、私、どうしたらいいかな」
もう二度と会えない彼女の笑顔が浮かんで、シェリジェは静かに涙を流した。
誰もが寝静まった深夜。
イリアは夜陰に紛れ、馬を駆っていた。
おざなりにかぶった外套が、吸い込んだ雨粒で水を滴らせるようになった頃、ようやく馬を止める。
王都の外れにある廃教会。誰からも忘れられたその場所の、酷く傷んだ扉を開けて中に入った。
「……ここだと思ったよ、アルフ」
どこかに落ちた雷が、教会の中を照らした。
そこには、祭壇に腰掛け片手でナイフを弄ぶ男がいる。
「これはこれは、王子殿下。僕の名前などとうの昔にお忘れかと」
黒い短髪に暗い紅色の瞳は記憶の中にあるものと変わらない。だが擦り切れた服と、何より頬に刻まれた見覚えのない刀傷のような傷痕が、今の彼が歩んできた時間を物語っているようだった。
「忘れるわけがないだろう。たった一人の乳兄弟を」
過ぎ去った遠い日々が、どうしても浮かんでしまう。イリアは感傷を消すように、唇を噛んだ。
だがアルフは馬鹿にしたように、溜息をつきながら肩を竦める。
「自分を殺そうとした女の息子を――、の間違いじゃないのか、イリア?」
「っ……」
アルフの母――つまりイリアの乳母は、まだ十歳にも満たなかった年齢のイリアを毒殺未遂を起こした。
本当に、ある日突然のことだった。
誰かの指示だったのか、何かの思惑か――、当時の人々は様々な憶測をたてた。イリア自身、それまでに彼女の愛を疑ったことなどなかったのだ。だからきっと、あれを見ていなければ、誰かに指示されやむなく……と思っていたことだろう。
毒による高熱にうなされる最中見た、乳母の憎悪に歪む顔を――見てさえいなければ。
彼女は何かに対する復讐をしたのだ。
幼いながらそれを察し――、イリアはこれまで信じていたものが崩壊するのを感じた。
アルフがどこまで、何を知っているのかは知らない。だが彼の母親は罪を犯し、どれほどの尋問を受けても理由を語ることすらなかった。
王族の殺害未遂。本来なら息子であるアルフも連座していたところだろうが、年齢を考慮され平民落ちと放逐に留まった。
もっとも、王族の乳兄弟として生きてきた少年が、その後まともに生きられるはずもない。その実、処刑と変わらない罰だった。
だが、この男は生き延びた。
生き延びてしまった、というべきなのかもしれない。
「何故、今更こんなことを」
「何の話かな?」
「っ――、しらばっくれるな! シェラーナの殺害を指示したのはお前だろう!?」
思わず叫ぶが、アルフは余裕を崩さない。
「証拠は?」
「無い……が、お前は私にだけは分かると……知っていただろう……」
強硬に及んだ側近たちは、暗殺者の手配を仲介した男がいると証言している。その仲介者は顔を隠していなかったため容貌はすぐに知れた。黒髪はどこにでもいるが、瞳の色は特徴的だ。それを隠そうともしなかった時点で、こちらに存在を知らせようとしているとしか思えなかった。
それでも、イリアの中でアルフは既に死んだと思っていた人間だ。瞳の色だけで確信はできない。
決定打は、証拠品として上がってきた仲介者との手紙だ。そういったものを残すとまずい、ということにすら想像が至らないと計算の上で残された足跡。
末尾に書かれたサインは、かつて二人で「大人になったら使おう」などと言って遊びで考えたものだった。
イリア以外には何の意味もない、けれどアルフが生きていると確信させるに十分なものだった。
「私なら気付く……分かっていて、ここで待ってたんだろう?」
イリアの毒殺未遂は、高位貴族には公然の事実だったが、対外的には公にされていない。当時唯一だった嫡子が殺されかけたなど、国民に発表できるはずもなかったからだ。
その結果、乳母は秘密裏に処刑され、打ち捨てるわけにもいかない遺体はこの廃教会に埋葬されている。
「……ほんと、頭が良すぎて嫌になるよ。気付いてくれなければ、それで終わりにしようかとも思ってたのに」
その言葉は、関与を肯定しているのと同義だった。
「もう一度聞く。何故こんなことを」
「そんなの簡単じゃないか」
アルフはひょいと祭壇から飛び降りて、イリアの方へ近付いてくる。
「お前のせいで他人が犠牲になる――。その方が『効く』だろ?」
「っ!!」
イリアは懐から抜いた短剣を、アルフに向かって振った。だがそれは、難なく受け止められる。
「それだけの、ためにか!!」
「そうだよ。けれど、流石になーんにも知らない女の子をただ殺すのは忍びなかったから、警告はしただろ?」
「……あのメイドか」
「御名答」
シェリジェがついて間もなくの頃、毒入りの茶を持ってきたメイドを思い返す。
そうだ、どうしてあの時思い出さなかったのだろう。見知らぬメイドが淹れる茶、乳母の手口そのままだったというのに。
ギリギリと鍔迫り合いをしながら、イリアは歯噛みする。
「私に何の恨みがある……!」
「はっ、分かってるくせに!!」
アルフがナイフを跳ね上げ、イリアの手から握っていた短剣が離れる。
「っ……」
手が痺れる。鍔迫り合いのせいだけではない。ここに来るまでの雨が、思っていたよりもずっと体力を奪っていたのだ。
昂っていた気持ちが急速に冷えていく。
「……乳母を、見殺しにしたこと、か」
「分かってるじゃないか!」
アルフが燃えるような目で睨むのを見て、イリアは胸に悲しみが広がるのを感じた。
たしかに、イリアが一言、たった一言「乳母は悪くない」と言っていれば、何か違ったのかもしれない。たとえ結果は変わらずとも、アルフと共に彼女の死を悼む、そんな未来もあったかもしれない。
けれど、イリアは首を小さく横に振った。
処刑の直前、一度だけイリアは乳母と対面していた。あの憎悪の目は、毒が見せた幻だったのでは――、そう期待して。
だがそこで見た彼女は、自身の知っている「乳母」ではなかった。
己を優しく導き育んでくれていた姿こそが偽りだったのだと、その目が語っていた。
結局、イリアは彼女と一言も話すことはなく、それが乳母の姿を見た最後となった。
「……信じられたら、どんなによかったか」
「それは、母さんが死んで当然だという意味か!?」
そうじゃない。でも、それを問答しても何の意味もない。
だから、あえて挑発するように口端を歪める。
「さあ、そうかも知れないな」
「お前……!!」
激高したアルフの動きは随分と読みやすい。イリアはナイフを持つアルフの手を蹴り、獲物を放させる。
「あっ……」
手から離れたナイフを奪い取り、彼の前に突きつける。アルフは負傷した手をかばいながら、距離を取って後ろに下がった。
イリアは彼からピタリと目を離さぬまま問う。
「あと何人殺すつもりだ」
「さて、お前はあまり親しい人間を作っていないようだからね。でも……、最近は『唯一』が出来たらしい」
ニヤリと嗤うアルフに、イリアはカッとなる。
「シェリジェに何を……!!」
「まだ何もしちゃいないよ。けど……そうだな。彼女の場合は――ただ殺すより良い方法がありそうだ」
「どういう……」
「分かるだろ? 女の尊厳を壊す方法なんて、一つしかない」
「――っ!!」
アルフの言わんとしている事を理解する。
彼女は強い。そうそう彼女を害することなど出来ないだろう。だが――、相手が複数人なら? 押さえつけられ、望まぬ形で事がなされたなら?
イリアはナイフを握る手にぎゅっと力が籠もるのを感じた。そして、どうしようもない憤怒の感情も。
「やめてくれ、と懇願しても……聞いてはくれないんだろうな」
「止める方法は一つだ。僕を殺すこと。――今ここで」
イリアは地面を蹴った。
今まではどこか手加減をしてしまっていたのだと気付く。本気で対峙しているつもりでも、遠い昔に道を違えたとしても、大切な「友」に剣を向けたくはなかった。
だが、ここでアルフを逃がせば、必ずこの男は今言った通りのことをするだろう。それだけは、許すことができなかった。
この先、たとえ傍にいられなくても、と覚悟はした。けれどそれは、彼女がどこかで幸せに生きていることが前提なのだ。
イリアはナイフを構えた。
どこを刺せば人が死ぬのかは知ってる。
躊躇いがなかったわけじゃない。
それでも、あまりにもあっさりと――ナイフの刀身がアルフの身体に吸い込まれていった。
「アルフ……」
何も抵抗がなかった。まるで、こうなるために彼がここまで来たのかのように。
イリアは思わず握りしめていた柄を手放す。
「はは、駄目じゃないか。手を離しちゃ……」
そう言いながらアルフは自らそのナイフを抜き、手の届かないところまで放り投げた。
途端に流血量が増え、彼の服を夥しい赤が染めていく。
もう助かる量じゃない。
アルフは真っ赤な腹部を撫で、その手が血で染まる。
「なーにその顔。僕が黙って刺されたのがそんなに不思議?」
にぃっと笑った男は、触れ合いそうなほど近くへと歩み寄る。
「僕はその顔が見たかったんだよ。『大事な友達を自分の手で殺してしまった』顔をね」
血塗れの手をアルフは持ち上げて、すっとイリアの頬を撫でる。真っ赤な指の跡に、彼は満足げに笑うとイリアの横を通り過ぎた。
「アルフ……!」
イリアは衝動的に彼の名を呼んだ。
呼び止めて、どうしようというのか。
分からない。けれど、呼ばずにはいられなかった。
その声にアルフは足を止める。だが、振り返ることはなく手をひらりと振って、また歩き出した。
「死に場所くらい選ばせなよ。心配しなくても、この血と雨……、今度こそ――死ねるさ」
イリアは息を飲む。
最後の一言が、これまでこの男が歩んできた人生の苦悩を凝縮しているように感じた。
もう一度呼び止めたい衝動に駆られる。けれど、もう何を言っても届きはしないだろう。
さよなら、なのだ。今度こそ。
イリアは黙って、アルフが扉の外、雨の中に消えるのを見送った。
「…………戻らなくてはな」
どのくらい、もう見えない友の背中を見つめていたのか。時間にすればほんの少しの間だったのかもしれないが、とても長い時間が経ったように思える。
イリアは黙って抜け出した城へと戻るべく、一歩足を踏み出した。
だが、その足に力が入らず、前のめりに転びそうになる。
「殿下――!」
床に強か身体を打ち付けるかと思ったところで、聞き馴染みのある声と共に、身体を支えられた。
「…………シェリジェ?」
触れる体温がなければ、幻覚だと思ったことだろう。
「ご様子がおかしかったので、後をつけました」
彼女の表情から察するに、教会の外で全ての会話を聞いていたようだ。
「……尾行に気付かないなんて、してやられたよ。雨の中外で待ってたの?」
「私が入っていい会話ではなかったでしょう」
「たしかに」
イリアはくすくすと笑って、ふっと表情を消した。
本当に、どうしてこう心地の良い距離感でいてくれるのだろう。
彼女は何も聞かないでいてくれる。きっとこのまま何もなかったことにして、日常に戻ることもできる。
けど――
「――……どこから聞いてた?」
「……ほぼ最初から」
「そっか……」
転びそうになった膝をついたままの状態で、シェリジェの顔を見上げた。
「シェリジェ」
「はい」
「愛してる」
彼女はぽかんとした後、顔を一気に赤くして硬直する。
「……本当は言うつもりじゃなかった。言いたくなかった。でも――」
今日起こったことを、一人では処理しきれる気がしなかった。
自分はなんて卑怯なんだろう。彼女はきっと断れない。それを分かっていながら。
「シェリジェ、名前を呼んで。私のなまえを……」
彼女は痛ましげに目を眇める。そして、アルフの触れた指の感触を上書きするように頬に触れて、イリアの目尻に口付けた。
「ええ、――イリア。何度だって呼んであげる」
顔を離したシェリジェの唇は、血で汚れていた。
「シェリジェ」
「……なあに、イリア」
「シェリジェ……」
その血を拭うように唇を重ねる。
外は酷い雷鳴が続いていた。
全ては雨音に消えて、微かな衣擦れの音もしめやかな声も、誰にも届くことはない。
風の吹き抜ける廃教会で一晩を過ごし、シェリジェは王城へと戻った。
イリアとは一言も交わさぬまま宿舎に戻り、まるで何事もなかったかのように身支度を整え――、ともすれば、全て夢だったのではないかと錯覚してしまいそうになる。
だが、寝不足と初めて経験する重だるさと、それらは依然としてそこにあり、シェリジェはその現実に出来るだけ目を背けて仕事に向かった。
微かな記憶を辿るに、今日は休んでいいと言われたのに甘え、この数日で溜まった書類を捌くことに専念する。
完全に休みたいという気持ちが無いではなかった。だが、ウィリスは精神的ショックから部屋に籠もりきりだという。そんな時に自分まで仕事を投げ出すわけにはいかない。それに、一人で何もしない時間を作ってしまえば、考えたくないことを考えてしまいそうだった。
動かない頭でのろのろと文字に目を通していると、扉を叩く音がする。入室の許可を出したシェリジェは、現れた人物に瞠目した。
「ウィリス……。もう出てきて平気なの?」
「……そう休んでもいられませんから。むしろ疲れているのは隊長達の方では? 殆ど休まず動いていたと聞きました」
「…………大したことじゃないわ」
シェリジェは目を伏せる。
言葉にして一層、自分が何も出来ていないと気付く。やったことと言えばイリアを追いかけ回し、身体で慰めただけ。
昨夜など、一度でもシェラーナのことを自分は思い出しただろうか。
彼女はもう二度と、愛する人に触れることは叶わないというのに。
「労いの言葉は他の皆に言ってちょうだい。私はただ、イリアの――殿下の後ろをついて歩いていただけよ」
「隊長……――」
ウィリスは一瞬怪訝な顔をして、ハッとした顔でこちらを見る。そしてツカツカと近寄ってくると、シェリジェの胸元に向かって手を伸ばした。
「ウィリス!? 何を――」
シャツを掴んだ彼の手がグイッと引かれて、留まっていたボタンが千切れ飛んでいく。
「あっ……」
露わになった胸元には、点々と昨夜の余韻が残されていた。それを見たウィリスは顔を青褪めさせて、力が抜けたように手を放す。
「……すみません。でも、これは」
シェリジェはシャツを手繰り寄せ、俯いた。そして、自嘲するように言う。
「多分、貴方の想像通りよ」
「兄上の側近が捕らえられたのが、昨日……ですよね」
はいともいいえとも答えられず、シェリジェはウィリスに苦笑を返した。それだけが理由じゃない。けれどそれを、彼には言うべきではないと思ったからだ。
ウィリスはその表情をどう受け取ったのか、ぎゅっと何かを堪えるような顔をした。
そして、ぽつりと疲れたきった声で呟く。
「……同情、ですか」
その問いは、シェリジェに胸をぎゅっと絞られるような痛みを感じさせた。
「――っ、それだけなら、どんなによかったか」
泣いてはいけない。
本当に泣きたいのは、シェラーナを喪ったウィリスなのだ。
だが、堪えきれない涙が、一筋だけ頬を伝っていく。
「あの人の優しさを、こんなに憎いと思ったことはないわ」
シェリジェは流れた涙を袖で拭う。
それから無理やり笑顔を浮かべ、あえて違うことを言った。
「良い機会だから伝えておくわ。私、今回の事が落ち着いたら退団して田舎に戻ろうと思うの」
「な……」
「私の後は貴方にお願いするから、そのつもりで」
「なんで」
どうしてそんなことを聞くのだろう。理由なんて決まりきっているのに。
「――あの人が好きだから。他の人といる所を傍で見守るなんて、私には出来ない」
「……っ!」
ウィリスは顔を歪めて、突然部屋を出て行った。
「まったく、扉くらい閉めなさいよ」
シェリジェは立ち上がって感じた、引き攣るような痛みに苦笑する。
これが消える頃には笑って許せるようになるだろうか。
愛していると言ったその口で、その言葉を「言いたくなかった」と言った身勝手な男を。
気持ちをぶつけるだけぶつけて、私の気持ちを言うことさえ出来なくした、あの男のことを。
「兄上!!」
イリアは突然訪ねてきた弟の姿に目を丸くした。
「ウィリス……、もう出てきて良いのか?」
顔色は万全――とは言い難いが、多少は持ち直したように見えて安堵する。だが気になるのはその表情だ。
どういうわけか、酷く怒りを感じているらしかった。
シェラーナの事件に関連してとは思えない。自身の側近が関与していたことについて腹を立てているなら、今突然というのが腑に落ちない。また、彼らの処遇についても、ウィリスの意向を聞いてからと思っていたため確定しておらず――。
いくつか仮説を立ててみるが、どれもしっくり来ず当惑していると、ウィリスは呆れるような更に苛立ったような顔した。
「あんたら、同じこと言うんだな……」
「は?」
「まあいいです。――兄上」
「なんだ?」
「俺は貴方に決闘を申し込みます。手袋は無いので、これで」
ウィリスは首元のタイを引き抜くと、それを地面に放り捨てた。
白い布がひらりと床に落ちる。
手袋の代わりということは、それを拾えば決闘を受けるという証になるのだろう。
彼の本気を見て、イリアはその場から動かぬまま静かに問いかけた。
「……理由は」
「俺が勝てば言います」
頑として口を割る気配の無い弟に、小さく溜息をつく。
「わかった。一つ確認だが、シェラーナのことは――」
「関係ないです」
イリアはその返答に頷くと、床に落ちるタイを拾い上げた。
決闘は練武場の隅、
命の取り合いが目的ではないので、剣が手を離れた時点で負けということにする。
いまだ止まぬ雨の中、外に出たがる粋狂は少ない。二人がそこにいることに気付くものすらいなかった。
「お前と手合わせするのは、いつぶりだろうな」
ウィリスが軍部に入ったのは何年も前のことだ。少し年の離れた弟の練習に付き合ったのが最後。
おそらく、今の実力は比べるまでもないだろう。
イリアは剣を構えた。それに呼応するようにウィリスも静かに構える。
「……行きます」
空気がピリつくと同時に、イリアの手に重い衝撃が加わる。
「っ……」
どうにか受け止められたが、そう何度も出来ることではないと痛感した。
弟の成長を肌で感じ、それが嬉しいと同時に虚しくも思う。
一体いつから、己の時間は止まっているのか、と。
「考え事ですか? 余裕ですね」
「そういうわけじゃ――、ないさっ」
なんとか押し返して距離を取る。痺れる手は、昨日とは比べ物にもならない。雨で滑るのもあって、次は防げるかどうか。
おそらく勝てはしないし、何がなんでも勝たねばならないというわけでもない。
だが、思うところあって「決闘」という手段に出たウィリスに、中途半端な対応はできないと剣を握り直した。
そして、今度はこちらから攻勢に出る。
「それでお前は、わざわざ決闘をしてまで私に何が言いたい?」
打ち合いをしつつ、ウィリスに問いかける。彼はギリッと歯を食いしばり、吠えた。
「あんたの曖昧な態度についてだよ!!」
今までで一番強い力で振り抜かれた剣は、イリアの持っていたそれを軽々と跳ね飛ばす。後方へ大きく跳んだ剣は、そのまま地面に刺さった。
肩で息をするウィリスは、持っていた剣をすっとイリアに突きつける。
「隊長は退団すると仰いました。貴方のせいです、兄上」
「……そう、か」
それ以上の言葉が何も浮かばない。
昨夜の後悔なのだろうか。夜明け以降何も喋らなくなった彼女の背中が浮かぶ。
黙ってしまったイリアを、ウィリスは睨むように見た。
「勘違いしないでください。隊長は自身の力で身を立てることに誇りを持ってた。なのに、それを捨ててまで田舎に戻ると言ったのは、並大抵の理由じゃない。その理由を本当は分かっているんでしょう、兄上!」
「それは……」
ウィリスの言う通りだ。
本当は多分、わかっていたのだ。でもそれを認めるのは、酷く怖ろしくて。
俯いたイリアに、ウィリスは溜息をついて剣を納めた。
「それと、俺たちのことを理由にするのも止めて下さい。シェラは貴方たちの幸せを望んでた。……これは、貴方にも言っています、隊長」
イリアが顔を上げると、そこにシェリジェの姿があった。その手にタオルが握られているのを見るに、雨の中何をやっているのかと心配して来てくれたのだろうと思う。
「……俺だって、二人が不幸になるのを見たいわけじゃない」
それだけ言うと、ウィリスは一人でその場を去っていく。イリアもシェリジェも、その背中を追いかけることは、とても出来なかった。
「……シェリジェ」
「何をしていたの……?」
彼女の問いに肩を竦めて苦笑した。
「さあ……。弟が、情けない兄を叩きのめしてくれた、かな」
イリアはシェリジェの手を取って、その手のひらに口付けを落とした。
「――それで、本当に軍を辞めてくれるの?」
「仕方がないでしょ!? 今でも大変なのに王妃教育が本格的にはじまったら死んじゃうわよ!!」
「んー……。まあ、君が納得してるなら良いけど」
ウィリスとの決闘から早数ヶ月。
元側近たちの処刑、シェラーナの葬儀、そういった諸々がようやく終わり、イリアとシェリジェは正式に婚約を結んだ。
もっとも、シェラーナの喪が明けていないという感覚なので、婚約は書類上のものであり、式などはしていない。
だがやっと、大っぴらに彼女を抱きしめられる立場を得られて、イリアは大満足だった。
とはいえ、王子妃としての詰め込み教育と、軍部での調整やらなんやらで毎日忙しいシェリジェは、殆どイリアの傍にはいない。今日は珍しく時間が空いたようだが、それでも読まねばならない本があるとかで全く相手をしてくれないのが現状だ。
ソファの上でシェリジェを後ろから抱え込むようにして座り、腕は腰に、顔は肩口に乗せているが、さっぱり気に留めた様子はなかった。
「ねぇ、なんだか重いんだけど」
「そりゃ体重かけてるからね」
「本が読みづらい」
背中からべとっとへばりついていると、ようやく反応が得られたが、やっぱり素っ気ない。
少しは構え、という意思表示を込めて首筋に唇を寄せると、予想外にその身体が跳ねる。
おや、と思って彼女の顔を覗き込むと、顔を真っ赤にしたシェリジェに睨まれた。
「……意外と期待してた?」
「う、うるさい! もう、離れて! 集中できない!!」
「またまた〜」
よく見ればさっきから本のページも殆ど進んでいない。それに気を良くしたイリアは彼女からその本を取り上げると、シェリジェの身体を器用に回転させてソファに押し倒した。
「ち、ちょっと……」
「いいから」
ニヤリと笑ってキスをすれば、彼女の手は背中に回って応えてくれる。
そもそもあっさり押し倒されている時点で、本気で嫌がってはいないのだ。本当に駄目な時は、まず近寄らせてすらくれない。
「ん……」
息も絶え絶えになるほど長いキスをする。すっかり抵抗が消えたのを感じ、イリアはシェリジェの背と膝裏に腕を滑り込ませて、その身体を持ち上げた。
「……ここでも良いのに」
ぽつりと零れた言葉に、イリアは首を左右に振った。
「だーめ」
これでも気にしてるのだ。初めての日、硬い床で夜を明かさせてしまったこと。
だが、それは言わずにイリアはシェリジェの耳元に唇を寄せた。
「誰にも見せたくないの。君の女性らしいところをね」
ぴくりと震えた身体を抱きしめて、イリアは彼女の赤い頬に口付けた。
「愛してるよ、私のリジー」
「……私も愛してるわ、イリア」
全てが解決したわけじゃない。生涯消えないであろう傷も残っている。
けれど、彼女となら涙さえも共にしていける。
そう思えるのだ。
fin.